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2024/05/02 22:02 |
[Review] ソーシャル・ネットワーク
ソーシャル・ネットワーク友達にしたら確実にメンドクサイと思われる人、と言われたら、確実に挙がる人だろうなぁ、というのが第一印象の作品。凡人にしたら絶対に分からない、分かるはずのないその卓越した頭脳は、まるで北野武監督を彷彿させます。得てして、『天才』と呼ばれる人はそうなのだと言わんばかり。
加えて、話すのが早く(彼だけではなくその周囲の人も)、ただでさえヒアリングに弱い僕が、一層英語を聞き取れず字幕にすぐさまギブアップしてしまったのは言うまでもなく。加えて自信家で、自分の作るものを誇示して止まず、頭にひらめいたらすぐさま行動せずにはいられず、そのくせ人の意見や忠告にはほとんどといっていいほど耳を傾けず、ひたすら狭い視野の中で自分の臨むままに突っ走る。周囲はそれに辟易し、構いたくないし構われたくもないと思いつつも、どこかで彼を意識せざるを得ない。いい意味でも、悪い意味でも。

そんな、いい意味では破天荒で型破りで、悪い意味では自分の信じたものしか持たず侍らず磨かない視野の狭い、気まぐれではないにせよ自分の視野・視界に入らない、または入る価値のないものは容赦無く振り落す主人公。そのまま年を取り、Facebookを世界的に有名にしても尚そんな自分で居続けるのかな、と思ったら、そこから先は思わぬ展開が。
一つは、Facebookの立ち上げから一緒だった友人が、『裏切り者』になってしまう、ということ。正確には意図的に『裏切り者』になったわけではありません。成り行きと、その後、巨大化したFacebookと彼との意識や方向性の違いが、そうなってしまった、というのが所以かと。
もう一つは、自分の意向や誇りと方向性を同じくしている人の、本性を知ってしまう、ということ。誇大広告とも捉えかねないが、一部の人にとっては心を鷲掴みにされてしまうくらいの卓越した話術。主人公にとって、譲れないものを抱えながらも、それを持続させるためのアイディアとコネクションを捻出。主人公にとっては、有難い存在ではあっただろうと思います。その時が来るまでは。慢心家の裏に潜む『危ない奴』の本性。きっとそれは、友人だけが知っていたのかもしれません。

そうして彼は、『億万長者』になりました。勿論、そんな成功を支援する『億万長者』もいれば、彼の『億万長者』を妬む者も。後者の方は、実際はどうなっていたのかは分かりませんが、少なくとも映画の中での描写では、正に敗者の薄汚いとも言える逆襲。まぁそれも、主人公のことが気になって仕方がないことの裏返し、とも言えなくもないですが。
それはともかく。
Facebookが成長するにしたがって、会員数も増えて、自分が手掛けたことが大きく成長していくのは嬉しかったけれど、結局のところそれはインターネット上での話。リアルな世界では、これまで一緒に戦ってきた人との軋轢が増えるばかり。そこで気づく。彼が本当に欲していたもの、望んでいたものは何か、を。
僕も実際そうじゃないから、素直じゃない人の気持ちはわかる。彼は、自分を見てほしい、自分を必要としてほしい、自分を認めてほしいという自己顕示を素直な形で表現することができない。だから捻くれた形での自己表現しか出来ない。Facebookは、素直じゃないがゆえに鬱積した感情が、彼の技術に対してぶつけた結果だとも思えます。そのぶつけた力が、世の中の面白さの原動力となり、最初はハーバード大だけ、次第にアメリカ国内の大学だけでなく海外の大学まで波及し、果ては社会に浸透する。それだけならいいとしても、結局のところ会社を運営するのは人であり、人は気持ちなくして動くものではありません。機械ではありませんから。

日本では、mixiやGREEが主流のソーシャル・ネットワーキング・サービス。しかし、それを利用しているユーザは、いったいどこまで自分の本当のことを公表しているのでしょう。そして、利用者は、いったいどこまでがその人の本当の情報だと思っているのでしょう。
まるでそれは、主人公を取り巻く周囲の人こそが、ソーシャル・ネットワーク内の嘘と虚栄に塗り固められた人物のよう。『天才』も『裏切り者』も『危ない奴』も『億万長者』も、彼の周囲を表しながら、それがそのまま彼のソーシャル・ネットワークとして形成されているようにも見えます。

現実世界とネット(仮想)の世界。一見すると、現実世界には本当(リアル)が目の前に現れるが、仮想世界は、それが本当のものかどうかは分からない。多分、嘘の情報が多いかもしれない。しかし本作の描写は、まるで、本当と嘘が逆転しているかのような錯覚も受けます。実際のところ、本作でなくても現在の世界も同じようなことが表れているようですが… いずれにしても、彼が本当に臨んだ姿とは、かなり違った形で成長したのでしょう。
彼にとってそれは、進化と呼ぶべきか退化と呼ぶべきか。多分きっと退化なのかもしれませんね。それは、彼のラストの描写が、物語っていると思います。

終始、会話が早くて聞くだけでは疲れてしまう作品です。途中まで観て、「あー、失敗したかな」と思いましたが、後半の展開を観て、なぜあれだけの賞を受賞し、またノミネートされたかの理由がわかりました。
一人の若者の、それを取り巻く若者の、成長と挫折と本当の臨むことが織り成す物語。あまりIT関係の難しいところに傾倒せず、登場人物の心の描写を鑑賞する作品だと思います。

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2011/01/25 22:50 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] アンストッパブル

アンストッパブル事の発端は、整備不良と操作ミスからなる人的行為。『それ』単体から見れば、実に取るに足らないこと。けれど、その『取るに足らないこと』が、その後、思わぬ事態を招くことになる。「まぁ、こんなもんでいいかな」という安易な考えが、大災害に発展することだってある。
身近なことから国家管理に至るまでのあらゆる『些細な人的行為』を、僕はこれまでたくさん目の当たりにしてきました。それによる損害は、単に口頭注意で終わるものもあれば、損害賠償にまで発展するものまで、「こんなもんでいいかな」という考えが招く、自分だけでなく他者の一生をも巻き添えにしてしまうほどの事件・事故。この作品は、2001年に実際に起こった貨物列車の暴走事故を元に作成されたものです。

この作品で分ったことは、乗用車であれ列車であれ、巨大でパワーのある鉄の塊は、運搬の世界においては強大な文明の利器になりますが、

使い方を誤れば、もはや手の施しようの無い凶器になる

ということ、につきます。たかが鉄道、されど鉄道。動力が完全な電気ではなくディーゼル機関車なので石油燃料も使用されていること、機関車は馬力が肝心。それに加えて力行となり速度が上昇、もはやそれだけでもリーサル・ウェポンなのに、運搬物が毒性の強い溶解フェノール。万が一を考え脱線計画を試みるも、暴走列車の行く先は郊外の市街地。そんなところで脱線させれば、鉄道会社や薬品会社の損害云々の話ではなくなってしまうのは言うまでも無く。
結果として、死者や損壊が発生したものの大惨事には至らりませんでした(映画では死者が出てしまいましたが、実際の事件では死者は出てないんだそうです)。


この作品でのポイントは2つ。

1つ目は、見慣れた、見知った、身近なものでも、視点を変えれば、身を震え上がらせるほどの凶器になり得る、ということ。
乗用車にしても鉄道にしても、今にも身体がもぎ取られるくらいのギリギリの感覚で見ることなんて滅多に無いはず。しかしこの作品では、まるで『鉄道 = 凶器』とでも言わんばかりの描写の仕方をしています。勿論、「鉄道は凶器です。生命を奪うものです。皆さん、鉄道に乗ってはいけません」なんていうことを主張しているわけではありません当然ながら。しかし、『文明の利器』という視点のみで見ていると、その表裏一体として見え隠れする、いや、「本当は見えているもの」が見えなくなります。むしろ、『文明の利器』を追いかけるあまり表裏一体の凶器の面を、「見て見ぬ振り」にされてしまうことが多いのではないかと。
これは鉄道に限らず、様々なものにも当てはまります。人間が作ったものは、決して『便利さ』というプラス面のものだけが存在することではない、ということです。

2つ目は、たとえそういった事件・事故が起こった時に解決できるのは、やはり人間だということ。人間が『文明の利器』を作り、その『文明の利器』に潜む『凶器』を作り出しても、その解決をするのは、やはり後にも先にも人間だということ。
それも、知恵と力と勇気を振り絞って立ち向かう、ということ、それぞれがそれぞれの出来ること、やれることの範疇で、最大限のことを成すこと。
そりゃ、理想は己の力の120%を引き出して死に物狂いで頑張れー! なんて出来ればかっこいいかもしれませんが、今作に登場する人は、別に特別な能力を持ち合わせているわけでもない、普通の人達。家族もいるし、ちょっとワケアリの人生を送ってそうな人達だけど、何もかもが普通の人達。そんな人達に、「5分後にスーパーマンになって」なんて言える筈もないし出来る筈も無い。
でも、彼等は成し遂げた。結果的にだけど。でも、彼らの考えうる頭と能力を使って。出来る限りのことを。知恵を絞って、乗り切ったこと。それもまた特別なことじゃない。どんな人のどんな人生にとって、全てに共通していることだと思います。
出来すぎだとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、それでいいのです。それがドラマなのですから。


今でも僕は、過去の妄執や確執にとらわれて、未来すらも黒いドロドロした得体の知れない『何か』に飲み込まれそうな、そんなことを思います。そんな底なし沼に、きっと死ぬまで立ち泳ぎでもしなければならないかもしれません。
でも、たとえそれが形式的なことであっても、単なるその場しのぎであっても、『自分が出来ること、自分がやれること、能力の限りを最大限に』を念頭に置きながら、頑張っていけたら、と思います。

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2011/01/16 23:51 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ロビン・フッド
ロビン・フッド安易な3D化は、商業主義に踊らされている証拠

といった類の記事やニュースリソースが、洋の東西を問わずに大々的にリリースされたのは、ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』が空前の大ヒットをしたのがきっかけ。それまでにも『3D』として銘打っている作品はいくつかありますが、どちらかというと所謂子供向けのアニメ的要素が強い作品が多く、一般的な大人が『3D』の世界観・奥行きを存分に楽しめる作品、という意味では、そのパイオニアの存在として、『アバター』が取り上げられていると思います。
しかし、今日までに幾多の映画がリリースされ、繰り広げられる人間ドラマやアクション・エンターテインメントといた『コンテンツの流れ』がお決まりのパターンとなってしまい、頭打ちとなっていく。その一方で、映画の表現やドラマの進行にも斬新さが求められる。「どんな作品も、たとえ話題性があろうとも、売れなければただのアマチュア作品」として見下されてしまうのであれば、それが安易な選択とはいえ、『3D』の表現に足を踏み入れてしまう、というのも吝かではないかもしれません。
しかし、(僕は未だに素人の域ですが)目の肥えた観客からすれば、安直な3D化は鑑賞すれば分かってしまうもの、みたいで。逆に3D化にすることで、評価を下げてしまったり、敢えて2Dの作品を鑑賞したり、というところがあるようです。事実、僕自身も、『タイタンの戦い』(リメイク)や『アリス・イン・ワンダーランド』は、2D鑑賞で正解と思ってしまいました。また、まだまだ3Dへの抵抗感もあり、『3Dを前提』として制作された作品にも、少し抵抗感があります(観てないくせに批判出来る立場ではありませんが…)。

しかし、その逆は?
「この作品、是非3Dで観たい!」と渇望してしまう作品は、これまでにあったっけ? と思い返してみると、多分あるんでしょうけれどすぐに僕の頭の中で見出せなかったのですが、

思い返すまでもなくこの作品を鑑賞し終えて思いました。「是非3Dで観たい!」と。

リドリー・スコット監督の作品の鑑賞は僕の映画鑑賞史の中ではかなり浅い方なので、あまり大っぴらに自分の偏食歴を語ることは出来ません(というか恥をかいてしまいますので…)。
『超大歴史スペクタクル』のジャンルならではこそ、というところもあります。そのスケールの大きさが、逆にもっと奥行きを持たせた作品として鑑賞したい! と思ったのかもしれません。


ロビン・フッドも、伝説上の英雄(時代背景は事実ですが、彼自身の実在を決定づける資料・文献は無いそうな。その後の様々な作品の中では、モデルとなった実在の人物はいたらしい)であり、作品自体もフィクションです。が、登場する人物や風景、家屋、動植物に至るまで、架空の存在はほとんどと言っていいほど無く、細かな(微細とも言っていい)ディテールにも及びながら、それでも壮大なスケールを描き切った、というところに、奥行きのパワーが漲っていたのでは、と思います。『実在しない架空の生物や現象』は、どうしても想像力で補うしかなく、またその想像力が映画としての表現力とマッチしない、あるいは追いついていないと、どうしても歪な表現に仕上がってしまうのではないか、とも思います。
その点で言えば、たとえロビンフ・フッドが伝説上での存在とはいえ、彼と彼の周囲の人間性・人間関係、12世紀当時の環境・現象、歴史背景に至るまで、リアリティに富んでいるし、また非常に精緻に描かれていると思います。リドリー・スコット監督が12世紀の世界を目の当たりにしたわけではないと思いますが、12世紀の世界観を、あたかも目の前にあるように、『信じ込ませる』というより『疑う余地がない』くらいにまで作りこんでいる、という意気込みが感じられます。

一方で、これは『グラディエーター』にも同様のところがある、『腐敗した権力への対抗』の縮図。少々出来すぎなところもありますが。
正義のアウトローという、ちょっと言葉尻だけでは矛盾しているように思えますが、全体的に自分の突き進む道は貫き通し、そしてその道すがらで出会った人たちには義理堅いのが、ロビン・フッドの持ち味。ただ単に悪性に嘆くだけでなく、また失望するだけでもなく、自由と権利を得るためならば、どんなことも諦めない。その一方で、最初の方こそ利己的な振る舞いで生きていたものの、十字軍遠征からの凱旋後に垣間見たジョン王の傲慢な振る舞い、それでも王につき従わんとする臣下の真摯な忠誠心の狭間で、「一枚岩の国を作るには」という考えが芽生える。
形成された『ロビン・フッド』の人間性の象徴と生き様は、たとえ時代を超えても、言語や民族、習慣が違っても、どの世界にも惹きつけてやまない魅力があるに違いありません。


登場人物の人間関係も、やはり不勉強の僕では最初は戸惑い、懸命に理解に励みましたが、幸い物語もそれほど複雑にはなりすぎず、明快な展開として描かれているし、笑いを誘う場面もあります。大ドンデン返しといった展開はないものの、壮大なスペクタクルの描写は必見の価値あり、と思っています。

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2010/12/12 13:53 | Comments(2) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] SPACE BATTLESHIP ヤマト

463850b9.jpeg宇宙を舞台に、人類と地球を侵略しようとする地球外生命体との戦いを繰り広げる、その後のSFアクションアニメの先駆的存在となった作品の実写映画です。本格的なVFXの技術を動員し、ハリウッドのアクション映画に比肩する作品としての前評判をちらほら耳にしたものの、公開前のCMで、日本の都市の上空にヤマトが飛んでいるシーンのあまりの違和感から、それほどの期待を寄せずに観賞しました。

そしてものの見事に、その寄せなかった期待がドンピシャ。

色々なところで、SF云々以前のツッコミどころ満載なのです。

宇宙空間で繰り広げられる、地球外生命体『ガミラス』との、息もつかせぬほどの戦闘シーン。
あまりにも動きが素早すぎて、しかも砲弾もこれでもかというくらい打ち込みすぎて、双方の位置関係や情勢が分かりませんでした。後々になって何とか目で追えるようになったものの、慣れが必要かもしれません。

打って変わって、ヤマトの内部のシーン。
息もつかせぬVFXとは真逆の、昭和の特撮戦隊ものによく見られる、貧相な合体ロボのコクピットみたい。戦闘シーンやヤマトの外観も、それこそリアリティを出し切っているとは思えないけれど、それでも実写ということから、丁寧に作られているのは分かります。『ヤマトが主人公』なら尚更のこと、外観はもちろん、内部もリアリティを出し切るくらいの作りが欲しいと思いました。このあまりのギャップの差に落胆を禁じえません。

ガミラスとの戦闘シーン。
事前に自衛隊に武器の取り扱いについて訓練を受けたらしいのですが、敵に銃口が向いていません。日本が銃社会でないことが、良かれ悪しかれ、『銃を使って敵を攻撃する』というを演じるところに、リアリティを引き出し切れていないところが感じられます。乱射すればいいってものでもないし。
あ、でも、アナライザーのシーンには迫力があり、目を引きました。

キムタクはやっぱりキムタク、というご意見の方も多く見受けられます。まぁ、彼は彼の演技のポリシーによって、キムタクという人格を踏まえた『古代進』というキャラクターを演じたのかもしれません。
しかしそれ以前に。乗組員が揃いも揃って隙だらけ油断だらけってどうなのよ!
人類の命運も、もって1年足らず。確証も何もない僅かな情報を頼りにイスカンダルへ航行するも、予定通りに到着するか、目的のものを入手できるかも分からない。ましてや、襲撃するガミラスの特性もほとんど掴んでいない。そんな勝率1%にも満たない、一か八かの賭けのような航行なのに、
敵の襲撃を受ける → 撃退する → 皆で喜ぶ → 油断する → 予期せぬ敵の襲撃を受ける
普通の軍隊じゃあり得ませんよこれ! 戦いの場から一旦離れて和気あいあいと仲間と時間を過ごすことはあっても、粛々と任務をこなしている間に、敵の存在や攻撃の有無を見落とすようなことは絶対しないと思うのです。


アニメだったらよかったのかもしれない(いや個人的にはよくありませんが)。でも今作は実写です。アニメとは違う、実写ならではのリアリティと表現力がもう少しあってもいいのではないのでしょうか。たとえそれが、原作のメインストリームから少々逸脱したものであったとしても。
ギリギリのラインで人事を尽くして、それでも完璧に作戦を遂行できるとは言いがたい。常に緊張と絶望感のプレッシャーに飲み込まれそうになりながら、ナイフのエッジ上を血だらけになりながら歩くがの如く。そこまでしても、最後の最後には逆転劇すら許されない状況に追いやられる。
個人的には、地球の命運をギリギリの賭けの中で握る物語であればこそ、リアルに描くことができるのではないかと思います。が、そんな状況下であるにもかかわらず、ほぼ全員に無駄ともいえるような余裕が散見されることに、残念な気がしてなりません。


まぁラストのシーンと言ったら、リメイク版『日本沈没』とか『アルマゲドン』とかと同じ。やっぱり地球と人類を救う運命を背負った主人公は、似た結末なのね。。。 と思いました。

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2010/12/02 22:46 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ハリー・ポッターと死の秘宝 Part1
ハリー・ポッターと死の秘宝 Part1世界中を席巻したファンタジー作品、ハリー・ポッターシリーズの最終章。そして、シリーズ初のPart1と2という、前後半に分けた作品。『最終章』として位置づけられた作品であるからこそ、力の入れ具合もこれまでの作品に比べてまた格別、ということでしょうか。

それもそのはず。
宿敵であるヴォルデモート卿が復活し、自分に傅く死喰い人達を呼び寄せ、来る宿命を自分のものにしようとする算段が整った。後は、それを実行するだけ。一方のハリー達は、これから襲いかかる敵の襲撃に備え、様々な準備や宿敵の計画を挫く行動に出ながらも、次々と大切な人を亡くし、ギリギリの中で生命を繋いでいく、という状態。
僅かな望みすらも消え入りそうな日々。一瞬のスキや判断ミスをしただけで、ズタズタに引き裂かれる。そんな、投げ出したくなるような生活に、怯えることすら許されない。
これを、若干17歳で?
彼にとって『選ばれし者』という称号は、もはや邪魔でしかならない。彼は、仲間と、愛する人たちと一緒に、ワイワイしながら楽しく過ごすのが夢だったはず。しかし今は、仲間内ですら、疑心暗鬼の空気に包まれている。まるで、それすらもヴォルデモート卿の手の内であるかのごとく。


ハリー・ポッターシリーズの中で、最も『観るのがきつかった』作品です。これまで、ハリー・ポッターシリーズを観賞して、彼の成長や彼が辿った宿命を知っている、見守ってきた方なら尚更のこと。『集中を強いられる』ような作風になっているのは勿論、圧倒的に手数も少なく、逆転劇の見込みも無いに等しい状況下。『主人公』の感情で観賞すると、まるで針の筵の上に座っているかのような気分。
ところどころで、エンターテインメント作品ならではの笑いを誘う場面もありますが、それを凌駕するくらいの、迫りくる恐怖、不安、焦燥感、疲れ。
守ってくれる人が悉く死んでいき、身を守るのも精一杯であるのにそれでも身一つで歯を食いしばらなければならない状況下は、通常だったら発狂するかもしれません。それでも、もう後戻りが出来ない旅路を、17歳の少年少女が強いられるのです。

対するヴォルデモート卿は、あれだけの数の死喰い人を侍らせているにも関わらず、誰一人として信用していません。『恐怖』によって部下を圧するように統括し、部下である死喰い人たちは、怯えと心酔で彼の下に身を寄せる。そういった組織は、精神的な張り詰めを緩める懐柔策があれば、あっという間になし崩しになるものですが、それはヴォルデモート卿も知っているのか、地獄を味わう以上の報復を彼らの目の前にちらつかせる。もはや、刃向かう気力が起きることもなくするように。

しかし、そんな圧倒的優位であるにも関わらず、ヴォルデモート卿が狙っているのは、自身の不死身を更に強固なものにするためのもの。『死の秘宝』。『死』を克服するための3つの品。
このことから、彼自身、自分に対して絶大な自信がある反面、慎重性も兼ね備える。彼が求めているのは、完璧な勝利と永遠の生命。それを得るためならば何を犠牲にしても厭わない。


自らの一生分を賭けるくらいの覚悟。身を切るくらいの凄惨な死と別れ。
既に小説版はその結末を発表しているものの、どうか彼らに、少しでも幸多き人生が歩めるよう、願って止みません。
魔法界の全てを賭けた戦いは、Part2に引き継がれます。

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2010/11/20 23:36 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie

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