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2024/04/19 07:51 |
[Review] 英国王のスピーチ
英国王のスピーチジョージ6世(Albert Frederick Arthur George Windsor

幼少より言葉が遅く、厳格な父ジョージ5世より厳しく育てられる。また左利きでX脚だったことから、半ば乱暴ともいうべき矯正の毎日を強いられ、次第に彼の心に大きな傷が出来始める。抑圧的でストレスが鬱積する毎日が、彼を言語障害(吃音症)に至らしめるには、想像に難くない。
彼の望みは一つ。「『普通の人』と『同じように』話すことが出来ること
それだけが望みであるにも関わらず、それだけでは済まされない事態が彼を襲う。父である前王の崩御。その父を継ぐはずの兄・エドワード8世の王族からの離反(王冠を懸けた恋)。そして第二次世界大戦の突入。ナチス・ドイツやソ連など、屈強の独裁帝国や共産主義が世界を席巻する、波乱に満ちた世情の中で、国が、民衆が、己の生活の安寧とイギリス国民としての誇りを持つためには、どうしても、上に立つ者の、元首の、リーダーの声が必要になる。
『普通の人』と『同じように』話すことが出来ること。
もはやそれだけでは留まらない己の立場。そして逃げることも引き返すことも出来ないし、そして許されない。
一人では成す術も無く、狼狽え、嗚咽し、絶望に打ちひしがれるだろう。でも、そんな中でも彼はやり遂げた。まだまだたとだどしい部分があろうとも。彼はやり遂げることが出来た。

それは、彼を献身的なまでに支えた、ただ一人の妻と、身分を超えて肩を並べ、共に乗り越えるために伴走した言語聴覚士。どんな困難も、一人で乗り越えるのは容易ではない。たとえ前に進むことが出来たとしても、その喜びを分かち合える人は、いない。
でも、それが二人だったら。それも自分と共に歩く掛け替えのないパートナーだったら。たとえ時間がかかっても、すぐに結果には繋がらなくても、失敗ばかりが続いても、前に進むことが出来た喜びを共有できるということは、素晴らしいことではないだろうか。




本作の主人公は、王という身分と位を頂に据えながらも、本質は普通の人間と何ら変わらない。彼には『吃音』という病を抱いている。これは幼少の頃からの心の病からくる病気だが、大なり小なり、心の病、コンプレックスを持っていない人なんて、この世にいるだろうか。イギリス国王、イギリス王室を題材とし、事実に基づいた作品であるが、これはコンプレックスを抱く普通の人が、そのコンプレックスを乗り越えるための人間ドラマなのだ。

それも、独力でいかにもヒロイック性全開というような、アメリカン・ドリーム満載の要素はどこにもない。本作のポイントは、人は独りでは決して生きてはいけず、誰かを助けて、誰かの助けを借りて、苦楽を分かち合いながら共に歩むということ、己が乗り越えたい壁は、時には己の力だけではどうしようもなく、その苦しみを共有できる本当の『仲間』『パートナー』がいるからこそ感慨も一入だということ、だと思う。
そして何より、今作で伝えたいことは、共に歩み、共に苦楽を分かち合う相手に、出自や身分など関係ない、ということ。彼にとってより近いはずの側近ですら、王をまるで腫物のように近づこうとはしない。今作で彼の吃音を劇的に改善させたライオネル・ローグの登場前にも言語聴覚士はいたが、全て王に傅く臣下に過ぎず、真剣に彼の吃音に向き合おうとはしないようにも見受けられる。
『普通の人』と『同じように』話すことが出来ること。
だからこそ、ジョージ6世として王座に就いた直後、娘達がまずした応対が、王の御前として礼を尽くすという様子を目の当たりにすると、とてもやりきれない気持ちになったに違いない。

これは、彼だけが特別じゃない。これは誰もが持っていることだ。
だからこそ、彼と同じ視点で、同じ立ち位置で一緒に考えられるパートナーが必要なのではないか。


僕はこの作品を鑑賞して、我が身を振り返った。僕は幸いにも吃音ではないけれど、彼の吃音を自分の今抱えているコンプレックスや悩みに置き換えると、なるほど、彼の悩み・苦しみと似ている。勿論、時代背景や身分のこともあるし、実際の生活に反映している病やコンプレックスだから、彼の悩み・苦しみは、決して同じではない。でも、もの凄く共感できる。
王座を手に入れる以上に、彼にとってこの上ない幸せは、自分の悩みや苦しみを理解し、乗り越えるために同じ目線で共に歩く『伴侶』『パートナー』を得たことだ。そこは僕にとっても焦がれるくらいの渇望の対象でもある。

自分を変えるきっかけ。それは他でもない人との出会い。少しどころではない。もの凄く羨ましい。そして、改めてそんな自分の変化を求める心を示してくれた本作に出会えたことを、心から嬉しく思う。

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2011/03/01 00:15 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島
ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島ナルニア国物語の第3作。前々作・前作と同じサブタイトルでしたが、今作は、原作の『朝びらき丸 東の海へ』ではなく、『アスラン王と魔法の島』というサブタイトルが使用されます。
カスピアン王子の角笛によって召喚され、テルマール人の無慈悲なナルニア侵略から救い、3年の月日が流れていました。そこにまた召喚されたペベンシー兄弟。しかし、召喚されたのは、次男のエドマンドと次女のルーシーだけ。現実世界では、ピーターとスーザンは遠いアメリカに渡り、次の人生を歩んでいる真っ最中でした。
何故彼らだけなのか。それはもうピーターとスーザンは、自身の成長の糧としてナルニアを必要としていないから。ナルニアは、単に魔法や幻獣、ファンタジーの世界を堪能する為の世界じゃない。自分の身体と心を成長する為の旅。自分の進みべき道を見出し、選んだ時、ナルニアは目の前から見えなくなってしまう。その分、エドマンドとルーシーは、まだまだ自身を鍛錬する必要がありました。第1作の『ライオンと魔女』のように、エドマンドは己の虚栄心と、次男という長男・長女からどこか抑圧された立場で、奔放な次女のお守りをしなければならないところに、どこか遣る瀬無さを感じていました。そこを白い魔女の付け入られ、一時は戦線を離れ、利用されることになるのですが。そしてルーシーは、これまでのように素直で幼顔の目立つ少女から、少しずつ女性の顔立ちへ。しかしそれと同時に目覚める己の自我。姉の美しさ、聡明さに憧れを持つも羨望を覚え、自分に対する自身の持ちようにもつながっていく。

彼等は、まだまだ成長しなければならない。彼等はこれから大人になる。その過渡期。そのために、彼等はナルニアがまだまだ必要なのです。そんな彼等だからこそ、今作は、己の欲望や価値観を揺さぶられるような様々な仕掛けが待ち受けます。
けれど、それでもずっとナルニアに頼るわけにはいかない。彼らも、ピーターやスーザンと同じように、いつかはナルニアから卒業する時が来るのだから。


と、いうわけで。
ペベンシー兄弟は、4人とも自分達の強さ・弱さをそれぞれ自覚し、何をすべきか、どのように成長すればいいのかが分っている、極端な表現で言えばどこか達観した考えの持ち主なのですが、やはりそれでは淡々とした冒険譚が繰り広げられるだけ。やはり、ナルニアを知らないキャラクターが必要ではなかろうかと。
そこで登場! ペベンシー兄弟の従兄弟、ユースチス!
現実主義とか一時ながら、それは、ファンタジーの生活を堪能したペベンシー兄弟に対するあてつけ。兄弟の居候先の息子ということで自分が優越感に浸らずにはいられない方便。それだけに、非常に陰険で意地悪。いいですねぇ。身体と精神の鍛え甲斐がありますねぇ(リーピチープばりの心持ち)。
結局のところ、彼もナルニアでの冒険を経て、成長していきます。しかし、彼もまだまだ自身の成長に対しては過渡期。第4作『銀のいす』の主人公を務めるように、彼にはまだナルニアでの修行が必要なのかもしれませんね。

さて。肝心の物語は、というと。
昨今のビッグタイトルの作品よろしく、Part1とPart2に分けた方がいいのではなかろうか、と思えるくらいの物語の展開の速さ。あまりの速さに、その前後関係や事実関係が曖昧でついてこれない部分もありました。
『ライオンと魔女』は、ファンタジー世界突入の導入部分。『カスピアン王子の角笛』では、カスピアン王子にとって、そしてテルマール人に征服されたナルニアにとって、伝説の4人の王が必要だったから。では、今回の召喚目的は? 今や王となったカスピアンにしろ、ナルニア人にしろ、特別伝説の王をしていない。勿論、いてくれればそれはそれで助かるけれど。ですので、むしろナルニアが伝説の王を必要としているのではなく、伝説の王(エドマンドとルーシー)がナルニアを必要しているのではないか、と。ユースチスもある意味で。
その部分は、冒険の初めの頃は全く分からず、冒険が進んで、その途中でそうではないかと思えます。しかし、朝びらき丸の目的である七卿探索が、何かいつの間にか七卿が持っている剣の収集になったり、七卿と七つの剣が意外にあっさり見つかったり、ラマンデゥの島を示す青い星が、若い娘に変わったりしかもそれがほんの一時だったり。とにかく、色んなものがあっさり過ぎ去ってしまって、それだけにかなり壮大な猛犬譚であるのでしょうけれど、どこか小ぢんまりに見えてしまうのです。
どうやら、本作は、原作をそのまま踏襲して作られたものではなく、7本の剣の捜索を加えることによって、より観客が夢中になれるようにアレンジしたもの、だとか。だから、サブタイトルも『アスラン王と魔法の島』というふうになったのではないか、と思うのですが…。
それでも、何かトントン拍子に物語が進んでいくところに、短い間に何とか詰め込んだ、という感じが否めません。過去にもハリーポッターシリーズでも同様のことがありましたのに。。。


もし、物語を隅々まで堪能するのであれば、原作を先に読んだ方がいいかもしれません。僕は『ライオンと魔女』でも『カスピアン王子の角笛』でも、特に原作を読まなくてもすんなりと物語の世界を堪能することが出来たのですが、今作は先に原作を読んだ方が、展開の速さに振り回されず堪能できるかもしれません。

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2011/02/26 23:15 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ヒア アフター

ヒア アフターhereafter

[副]
1. この後、今後、将来
2. 来世には
[名][the ~、a ~]
1. 将来、未来
2. 来世



此岸と彼岸を分ける境目として、『三途の川』があると言い伝えられています。ダンテの神曲でも、冥界への境界線として『アケローン川』があると記されています。時代も宗教も大きく隔たりがあるのに、この世のあの世の境界線に、山や谷でもなく、『川』が共通点として描かれているところに、何か人間の死生観の根本に、共通するものがあるように思いました。それが、『水』。生と死の境目の象徴に、『水』の存在をどこかに感じます。
本作は、それを意図しているわけではないとは思いますが、何かを象徴するように『水』が登場します。表情を変える海。南国リゾートの穏やかな海が、突如として多くの生命を奪い、鋭い爪痕を残す津波と化す。その津波が、今作の3人の主人公の一人の命運を大きく変えます。そして、場面場面で降り注ぐ雨。今作は、特に雨を降らさなければならない場面はないのですが、何か物語の象徴としてのシンパシーを感じます。


僕が感じた、本作の中で描かれている主題は、『境界』。それは単に生と死の境界だけでなく、様々な要素が含まれているように思います。
本作の主人公は、生まれも国も一切の接点の無い3人。唯一の接点と言えば、彼らの隣に、はっきりととも言える『死』が傍にいること。
パリのマリーは、バカンス中に大津波被害に合います。溺れながらも荒ぶる波の中で必死に生きようとするが、押し流された残骸に当たり、意識を失う。そのまま水没し、生命を失いかける。その時に見た不思議な映像。それを本にするも、誰とも共有できない内容は、むしろ出版社から敬遠されることとなります。それほど、『臨死』や『霊』という内容は、未だに近寄り難い。臨死体験が、彼女と周囲の『境界』を薄くし、そして壊していく。
サンフランシスコのジョージは、死者の声を聞き、生きている人に届けることができる霊能者。それは、自分にしかない特別な能力。しかし彼は、その能力に鼻をかけることをせず、むしろ拒もうとした。この能力は恵まれたものではない。呪われたものなのだ、と。この能力を、誰かと共有することは出来ない。だって誰にも分からないから。周囲の自分を見る視線は、良かれ悪しかれ「自分とかけ離れている」。変人として
敬遠するか、畏怖の対象となってしまう。特別な力を持たない人間としての『境界』を欲しても、彼の能力が、その『境界』を引き離してしまう。
ロンドンのマーカスは、誰よりも愛していた双子の兄ジェイソンを亡くす。薬物中毒の母との3人暮らし。いつものように福祉局が訪れ、ちゃんと養育出来ているかの監察を強いられる毎日。子どもの精神に悪影響を及ぼしてしまうような環境であるからこそ、互いの分身とも言える双子の兄弟は、拠り所という『境界』であった。それが突然いなくなる。一度でいいから、彼に会いたい。話をしたい。でも、似非霊能者は、その稚拙な能力もさることながら、彼の本当の願いすら分からない。信じられない大人社会との触れ合いに、彼の拒絶の『境界』が、日増しに膨らんでいきます。


そんな『境界』は、映像としても表現されているように思えます。
色彩のほとんどない沈鬱した映像。そこにいる人達は、確かに生きているのに、沈鬱な色彩が、どことなく生気を感じさせません。まるで、生と死の『境界』がぼかされているかのように。
また、特にマーカスの霊視の際、その場所がほとんどの場合で暗い部屋だったから、ということもありますが、人物の顔の片面にライトが当てられ、もう片方はその表情すら見ることが出来ないほど真っ暗。それも、どことなく生と死の『境界』が感じられます。


やがて接点の無い彼らが出会い、それぞれの『死』を見ることによって、自分自身が見てきた『死』を、見つめ直そうとします。それは自分の身の上であれ、能力であれ。見つめ直した結果は、この作品には描かれていません。きっと、その後も悩み、苦しみ、落ち込む日々も多いかもしれません。でも、これまでと違う『死』の向き合い方が出来るかもしれない。新たなスタート。それも、過去の出来事や経験からの飛躍や変化という『境界』が存在すると思います。


個人主義になった今、個々人が自由に『境界』を作ったり、定めたり、取り外したりすることが出来るようになりました。その最大の武器となったツールの代表格が『インターネット』。またインターネットによって、仮想世界の『境界』までも、作ることが出来るようになりました。
でも、それが、本当に、人間が根本に欲した『境界』なのでしょうか。
今作は、それぞれの登場人物が『死』という『境界』との向き合いを描いているものの、その根本は、単に『死』だけでなく、自身が取り巻く環境の『境界』にも言及しているように思えます。リアルとインターネット、様々なところに大なり小なりの『境界』があるものの、その『境界』は、全てが人間全てに対し決して望んだ、理想的なものではありません。ある人には理想的であるものの、ある人には絶望に打ちひしがれることにもなる。僕達一人一人の『境界』、便利なものが蔓延する今の世の中だからこそ、今一度、見つめ直す必要があるのかもしれません。

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2011/02/19 20:52 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] 太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-
太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-『硫黄島からの手紙』では、栗林忠道中将を中心とした、硫黄島の戦いが、『俺は、君のためにこそ死ににゆく』では、鳥濱トメさんと彼女が甲斐甲斐しく世話をした特攻隊隊員が、『男たちのYAMATO』では、戦艦大和に搭乗する若き船員達が、今にも死ぬかもしれない状況の中での彼らの生き様と、そんな身であろうとも尽き果てることのない願い・望みが描かれている。本作は、サイパンの戦いで己の使命と向き合いながら戦ってきた、大場栄大尉の物語だ。
昨今の、太平洋戦争を描いた作品で、主だったものと言えば上記の作品になるが、これまで公開された作品を紐解けば、その数は更に多くなり、人々の心の中に、当時の彼らの心意気・恐怖・信念を語り継ぐ作品となれば、枚挙に暇が無いであろう。そして、そんな作品を鑑賞するたびに、僕は思う。

「ああ、僕は、彼らの生き様、覚悟、信念、恐怖、そして祖国に対する思いといったものを、全然知らない」
と。

上辺だけの知識では絶対に知ることが出来ない、当時の人々の生き様や覚悟。後世まで戦争の意味と、それを引き起こすことによって支払われる残酷な対価は、歴史教科書上の知識だけでは決してまかないきれるものではない。
だからこそ、事実を元にした作品に出会えたことは、僕にとってはこの上なく嬉しく思う。けれど、この作品を知るまで、『大場栄大尉』の存在と、彼の功罪、それによる苦悩は、一体どれだけの人が知っているのだろう。
ましてや、本作の元となった原作は、敵国の兵士でも会ったドン・ジョーンズ氏の著書『Oba, The Last Samurai Saipan 1944-1945』(訳書:『タッポーチョ「敵ながら天晴」 大場隊の勇戦512日』)なのである。同じ時代を生きてきたからかもしれない。それでも、アメリカ人の方が、当時の日本兵を知ろうとし、それを記録に残そうとしているのだから、日本人としては何とも情けなく、恥ずかしい思いもしてしまう。
当時の彼らの生き様や覚悟を、知ろうが知るまいがは、今を生きる私たちの選択だから、それはそれでいいと思う。でも、知る場を絞り込まれたり、限定されてしまうのは、個人的には好ましくない。また、今私たちが普通に生きていける社会にいるのは、彼らの望みでもあるからだ。それは、これからも私たちが生きていく上で、かみ締めなくてはならないと思う。


さて、今作は、主人公は大場栄大尉であるけれども、終始彼を中心とした作品にはなっていない。結果として、『大場栄』という人物が、サイパンの戦いで神出鬼没のようにアメリカ軍を翻弄する戦い方をし、アメリカ軍から『FOX』と呼ばれている、ということであるだけ。
『父親達の星条旗』や『硫黄島からの手紙』のように、日本とアメリカ、双方の視点から描かれており、双方の映像としての登場も、必ずしもどちらかに偏っている、というものではない(正確に分数を測ったわけではないが、そのように感じた)。
また、題名に『奇跡』という単語が使用されているけれど、特別神格化された何らかの現象が起こったわけではない。それぞれの登場人物が、それぞれの思いを馳せ、やるべきことをやった結果が目の前にある、という感じといえよう。
そして、この作品にも、惨たらしく人を殺す兵士もいる。しかし、日本軍とアメリカ軍が、完全であれ不完全であれ、『善』と『悪』に分かれた描き方をしていない。第一次世界大戦の、スコットランド軍とフランス軍、ドイツ軍が陣営する場所でのクリスマスの出来事を描いた『戦場のアリア』のように、単に殺し合いをするだけでなく、お互いの何らかの交流もあったに違いない。多くの『死』がサイパンを覆う中で、血と死肉の硝煙の匂いが充満する中で、『生』の象徴である一人の日本の赤ん坊。アメリカ兵は、その赤ん坊を無慈悲に殺すことなく、手厚く保護した。収容所に収容された日本人についても、必要以上に傷付けるようなことはしなかった。
本当の意味で、戦争は、『善』と『悪』には割り切れない。そんなメッセージが、この作品には込められている。

それでも。
戦争を体験した人間にしか、当時の辛さ・苦しさというものは、きっと分からないかもしれない。
本作の主人公・大場栄大尉を演じたのは、竹野内豊さんだ。ただ、それ以上に目を見張ってしまったのは、野営地で怪我人を看護する井上真央さんだ。
看護士は、怪我や病気を治す役割の人。いわば戦争の中でも『生』の役割を持つ人物だと思う。そんな人物でも、自分の名前を呼んでくれる、大切な家族が惨たらしく殺されてしまえば、その目は暗く澱む。「あいつらを殺したい」という台詞にも代表されるように、まるで人殺しの表情になる。数々のドラマで、明るく振りまく役が多かった彼女だけに、ほぼ終始ネガティブの表情には驚くばかりだった。でも、それだけ、戦争が人につける傷は、深く、その後のどんな人生を歩んで行こうとも、簡単には拭いきれない、と思った。


数々の大戦の中には、きっと、日本史には載らない、でも、日本という祖国のために必死で戦い抜いてきた名も無き人達がたくさんいると思う。そういった人達を知る機会は、そんなに多くないかもしれない。でも、たとえそれが『映画』であろうとも、そういった生き様を持った人達と触れ合える機会があれば、是非、触れていきたいと思う。

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2011/02/11 22:29 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] RED

REDブルース・ウィリス氏はともかくとして、アクション映画に登場する50台以上のキャラクターといったら、組織のトップとか司令官とか、主人公が狙う組織の黒幕とか、そんなイメージ。特に大きなアクションをするわけでもなく、存在するだけで威圧感を漂わせる役割。大抵、実際にアクションするのは、20~30台を中心とした、今をときめくアクションスター。それだけではアクションスターで、あとはどれだけ物語の重みと奇想天外なアクションを展開するか、によりますが。

本作品も、B級アクション映画よろしくの展開。CIAで優秀な分析官であるはずが、過去のとある作戦の生き証人になっていたがために、逆に追われるはめに。しかし、その優秀な腕と卓越した頭脳で様々な局面を突破。協力者も現れ、徐々にCIAと『過去のとある作戦』を追い詰め、暗部を剥がされていく。
そんな、あまりにもありきたりすぎるアクション映画でも、その主役が、50~60台を中心とした、大物だけどアクションに到底向きそうも無い役者だったらどうなるか。もう、「ええぇ~っ??」とか「本当に??」と驚くしかありません。

前述のブルース・ウィリス氏は、『ダイ・ハード』シリーズを始めとする様々なアクション映画の出演の実績がありますがら、まぁそれはいいとして(実際に、ほとんどがブルース・ウィリス氏とメアリー=ルイーズ・パーカー氏の展開だけだったら、そんなに目新しいものはありませんから)。
モーガン・フリーマン氏は、正にアクション映画では組織のトップ役や黒幕役が多い。サスペンスやヒューマンドラマ系も多いですがコメディ映画も多いですので、本作出演でもそんなに違和感が無く。ジョン・マルコビッチ氏も、奇抜な役割の作品を鑑賞していたこともあってか、やはり違和感も無く鑑賞できるものの、登場シーンや銃器を扱うシーンを見ても、「これで、もうすぐ60歳??」と思うばかり。
そして。何よりもビックリしているのは、ヘレン・ミレン氏!! 『トレジャー・ハンター』に老練の考古学者として登場した時も、アクション要素が高い作品とはいえ、そこまでアクションに興じるシーンはありませんでした(少なくとも彼女に関しては)。あとは、『クィーン』のような、凛とした役を演じるヒューマンドラマ、とか。それが、何食わぬ顔でマシンガンをぶっ放す! さも普通に銃器を扱う! 多分、ミセス大好きドM男からすれば、垂涎の的かもしれません。
そんな一堂に会し、現役時代は付きつ離れつ、恋したり殺しのターゲットになったりと、まさに現場たたき上げの面々達。だからこそ、そんな彼らがチームを組み、たとえ物語の流れに組み込まれた演出とはいえ、若年の傭兵やCIA幹部を手玉に取るところなんか、爽快感を感じずにはいられませんでした。

さすがに、往年のアクションスターよろしく、身体を張ってこれでもかというくらいのアクションを演じる、ということは無理のようです。まぁ、ブルース・ウィリス氏は映画の世界では根っからのアクション・スターとして叩き上げられてきましたので、彼が織りなす取っ組み合いの格闘は要素として組み入れている、として。
いわゆるスピード感を求めるのであれば、本作は向かないかもしれませんが、老練してますます冴えわたる度胸と、長年積み重ねてきたキャリアの表れでもある、観察眼と行動力を楽しむ作品として位置づけられているのかもしれません。

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2011/01/30 06:37 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie

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