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2024/03/19 18:04 |
[沖縄] 南国の強さとしなやかさ - 後編
♪ でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

カラオケでもよく歌われている、THE BOOMの代表作『島唄』。まさかこれが、10万人以上の死者を出した、第二次世界大戦における日本国内最大規模の陸戦である、沖縄戦を表しているとは、説明を聞くまで全く知りませんでした。
デイゴは、沖縄県の県花。3月から5月ごろにかけて、炎のような赤い花を咲かせるのだそうです。デイゴの花が良く咲いた年は、台風の当たり年だとも言われているのだそうです。沖縄戦が勃発した1945年も、デイゴが良く咲いた。そして、その年の『嵐』は、台風ではなく、銃弾の『嵐』が降り注いだ……

そんな話を聞きながら、この日向かった先は、世界遺産『首里城』。そして、『旧海軍司令部壕』、『ひめゆりの塔』、『沖縄平和祈念資料館』へ。そこで目の当たりにしたのは、戦争の悲惨さは勿論のこと、戦争という非生産的で歪んだ『大義名分』のために、苦痛と苦渋の歴史を歩まざるを得なかった、沖縄の凄惨な歴史でした。またそれを、表層的な知識のみでしか知らなかった、ということに、愕然としたのは言うまでもありません。


守礼門 首里城主殿 御差床(2階)


考えてもみれば、初日に行った今帰仁城跡も、14世紀から15世紀にかけて北山王国として繁栄を築き上げたものの、中山王国の侵攻により滅亡。中山王国が南山王国をも滅ぼして統一を果たし、江戸時代以上の長い年月をかけて繁栄を築き上げるも、その時代は決して楽ではなく、常に日本(薩摩)と中国の板ばさみに合うという状態だったそうです。陸地の面積も少ないがゆえに、天然資源も武力も、双方の国に比べれば矮小だったことが、決定的だったのかもしれません。江戸初期には、薩摩藩の琉球侵攻により、琉球王国は薩摩藩の付庸国(従属国)へ。そして、明治の廃藩置県と琉球処分。琉球は日本の直轄領となり、『沖縄県』となったのです。
そんな中でも、全てにおいて服従するのではなく、琉球には琉球の立場、立ち居地がある。そう言わんばかりに交流されたのが、首里城なのではないでしょうか。赤を基調とした堂々たるたたずまい、柱には様々な細工が施されており、豪華絢爛の一言。しかしそれ以上に特筆すべきなのが、首里城の主殿に向かって右手の南殿が日本(特に薩摩藩)の接待に用いられた建物、左手の北殿が中国の接待に用いられた建物で、それぞれの国柄を表しているような建造物になっています。そして、まるでそれを付き従えているように建立された主殿。我こそが主人だと言わんばかりの構造は、決して、両国に全てを従属しているわけではない、という意思表示にも思えました。
また、首里城の主殿内を見学しても、中国の影響を多く受けたのは分かるものの、何か中国とは違う、かといって、中国の様式の折衷的な要素ではない、独特の雰囲気が醸し出されているのが分かります。独立した独特の文化が、そこに栄えていたというのが良く分かりました。


旧海軍司令部壕 司令官室 ひめゆりの塔 平和の礎


首里城の次は、『旧海軍司令部壕』、『ひめゆりの塔』、『沖縄平和祈念資料館』へ。そこで思い知った衝撃の事実の数々。かつて、映画で観た、『硫黄島からの手紙』や『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』のように、本土から離れた地域や島々は、いついかなる時でも、使い捨てのような立場・立ち居地だった。戦争の進行が不利と分かれば、銃弾や糧秣を無駄に支援せず、今あるだけのもので戦え。そういって切り捨てられた。それが、ありのままの姿で、目の前に、静かに眠るように佇んでいました。

『旧海軍司令部壕』の展示室には、壕を掘ったときに使用された鶴嘴が展示されており、壕の中に入ると、鶴嘴を使って掘り進んでいった跡が残っています。しかし、僕がそれ以上に目に焼きついて離れないのが、自決に用いた手榴弾の飛散物が抉り取った、壁の跡。生々しく残るその跡は、当時、この壕を拠点に国のために決死の思いで戦い抜き、そして散っていった先人達の想いを語るには十分すぎるくらいです。
『ひめゆりの塔』での追想はもっと辛い。まさに青春を謳歌しようとする少女たちが、突然、看護要員として従軍した。寝る間も惜しんで懸命に看護するも、「早くしろ」「治療はまだか」「水をくれ」などの罵声が飛び交う毎日。憔悴するほどに働いた後に言い渡された、突然の解散命令。どこへ行ったらいいのか分からない。しかし、アメリカ軍の実質的支配下に置かれた以上、容易に壕の外に出ることは出来ず、さらに追い討ちをかけるように、壕に手榴弾が投下され、壕にいた96名のうち、87名が死亡した。まだ生きたかったであろう、恋をして、好きな人と結ばれて、平和な家庭を築きたかったであろう少女たちに突きつけられた、残酷無比な結末。彼らの、そして彼女たちの無念は、戦争を肌で感じていない僕が察するにはあまりあるものだと実感しました。


『島唄』は、元々奄美諸島の民謡を表す言葉なのだそうですが、THE BOOMが『島唄』をリリースしたとき、本土の人間が軽々しく使ってほしくない、といった批判的な投書もあったそうです。今では、この歌が大ブレークしたことで三線を弾く若者が増え、伝統民謡離れ対策になったそうですが。ある意味皮肉ですね。。。
でも、その話を聞いたとき、その意味が分かった気がします。
海軍中将 大田実が、自決する直前に海軍次官宛てに発信した電報の最後に、『県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ』とあります。その最後の文章の前は、過酷な環境の中でも、沖縄県の民間人は、国のために、最後まで戦ったことが記されており、軍中枢への決別電報で、県民の敢闘の様子を綴ったのは、異例のことなのだそうです。

果たして、今、沖縄県の人たちに、大田実中将の想いが反映されているかどうか。

色々な問題が横たわり、挙げればキリがありません。しかし、顕在的な問題にせよ潜在的な問題にせよ、どこか『本土優先』的な『何か』があるのかもしれません。ただの僕の邪推かもしれませんし、杞憂に過ぎないかもしれませんが、少しでも、沖縄が、これまで以上に幸せな道を歩むことが出来たらと願わずにはいられない、そんな思いを馳せた旅でした。


『奇跡の1マイル』の夜


だからなのかもしれませんが、那覇市内の国際通りは、夜になるとそれはそれは異様なほどの活気で賑わっていましたよ! 東京の繁華街も顔負けの活気と熱気振りです。通りには、土産屋や菓子屋、沖縄料理の店や雑貨屋がひしめき合い、シーサーにガメラにウルトラマンにスパイダーマンに、そこかしこに色んなフィギュアが並んでいて、もう訳分からん状態。
あれだけの暗い過去を持っていながら、僅か数十年で、これほどまでに活気と魅力のある街へと発展した沖縄。沖縄の最大の魅力は、その内に眠る強さとしなやかさ、なのかもしれません。



『沖縄県』の写真についてはこちら

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2011/07/24 22:25 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors
[沖縄] 南国の強さとしなやかさ - 前編

本日の沖縄は、晴れ、気温は30度です

というキャビン・アテンダントさんのアナウンスを聞いて、「ああ、沖縄って、東京と同じくらいかな」と油断していたのも束の間、照りつける太陽の下で思い知らされたのは、暑さよりも湿度の高さ
そう、沖縄は亜熱帯。湿度が低めのところから来た人からすれば、常時サウナ状態と言わんばかりの、不快指数たっぷりの気候なのです! 初の沖縄上陸における洗礼。お越しの際は、是非、通気性のよい服装でどうぞ。でないと汗で服がへばりつき、より一層不快になること請け合いですから。

しかし、そんな不快指数を吹き飛ばすくらい、目の前に広がるのは亜熱帯ならではの植物と真っ青な海! 本州の海岸でも、味わえるのはほんの一部という真っ青な海の魅力に、多くの人が取りつかれるのも無理はありません。中には、半年で3回も沖縄に足を運んだ人もいる、というのも頷けます。
とはいえ、今回の旅は、世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群』をはじめとする、沖縄の史跡・戦跡を見るための旅。本土では見ることが出来ない、南国ならではの独特の文化や遺産はもちろん、『南国』であるがゆえに押し付けられた凄惨な過去を、この目で見、感じることが出来たと思います。


今帰仁城跡 - 一 今帰仁城跡 - 二 今帰仁城跡 - 三



まず訪れたのが、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の最北端、今帰仁城跡。琉球王国に滅ぼされる前の三山時代の、北王が居城。
城を囲うように張り巡らされた堅牢な城壁のみが往時の繁栄を忍ばせ、大庭(ウーミーヤー)は、木々の根で覆われ、王の坐す主郭も、今は草で覆われていました。松尾芭蕉が、朽ち果てた平泉を見て、「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句を詠んだのと同じように、もしここに来ていたら、同じ句を詠んだのかもしれません。
その一方で、志慶間門郭(シジマジョウカク)や御内原(ウーチバル)から臨む東シナ海の海は絶景! 茹だるような蒸し暑さを忘れさせるくらいの、真っ青な海が、眼前に広がりました。晴れていたからかもしれませんが。
そして、平郎門と大庭を結ぶ七五三の階段のには、寒緋桜が植えられていました。咲く頃合いが1月~2月ということですので、冬に訪れても、違った様相の今帰仁城跡を楽しむことが出来るかもしれません。


おきなわ郷土村 伊江島を臨む ジンベエザメ



今帰仁城跡の次は、遺跡・戦跡とは全然関係ないのですが、それでも沖縄に来たなら一度は見ないとね、ということで、『沖縄美ら海水族館』のある海洋博公園へ。今帰仁城跡から車で10分くらいのところなので、バス観光の方でもセットで訪れることができます。
当初、水族館のみが立地にあるとばかり思っていたのですが、水族館は海洋博公園の一部で、公園内には、海にまつわるエリアだけでなく、沖縄の郷土や歴史、植物を知ることも出来る、複合的な施設だったのですね。やはり単一の情報を片手にするだけでは、現地の面白さというものは分からないでしょう。

沖縄美ら海水族館』の入り口には、もはやこの水族館の代名詞にもなっている『ジンベエザメ』の銅像がお出迎え。中に入り、各スポットも確かに人気がありますが、やはり何と言ってもジンベエザメやマンタが泳ぐ大水槽が大人気。マグロなどの回遊魚と違って、大人しくゆっくり泳ぐため、たくさんの人がジンベエザメを前に、写真撮影していました。

水族館を見て回った後は、エメラルドビーチでちょっと一休み。関東近辺では滅多に見ることが出来ない海と空の青さに、心も体も癒されます。今回の旅が海水浴目的でないとはいえ、やはり僕も、沖縄の海の虜となりました。まだまだ、沖縄にはあまり人には知られていない地形や自然、かつての琉球王国の名残がそこかしこにあり、その全てを回ってみたいと思いつつも、同時に、沖縄の海をダイビングで満喫したい、と思った次第です。




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2011/07/23 22:18 | Comments(1) | TrackBack() | Outdoors
[岩手] The country of fairy tales
柳田國男の『遠野物語』の世界観に興味を抱き、今でも民話があちらこちらで息づき、伝承されている遠野へ行ってまいりました。

『遠野物語』は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、洋の東西を問わず童話や小説に出てくるような、因果応報が話の本質として物語られているものではなく、その地方に伝えられている伝承を、柳田國男が見聞きし、脚色もほとんどせず、ありのままに伝えている、というもの。結果として良い方向の結末となったり、悪い方向の結末となったりするも、「こういう善事を行ったから」とか、「こういう悪事を働いたから」等の、物語の結末に結びつくような因果関係はあまり出てこず、まるで昔からそこに『存在していた』かのように伝承される物語が伝承されるままに、淡々と綴られています。
読んだ本から、『何か』を得たい、と思う人が手に取れば、多分すぐに手放してしまうかもしれないくらい、『物語』と銘打っているにもかかわらず淡白な本と思ってしまうのではないか、と思います。しかし僕は、脚色が一切無く、伝えられていることが伝えられている通りに綴られている、ということが、読み手が如何様にも解釈できる、と思うのです。そここそが、『遠野物語』の一番の魅力なのではないか、と。


遠野の田園風景 カッパ淵 伝承園


当初の目論見では、街の至る所で、遠野に永く伝えられる伝承の石碑や遺跡が点在するものと思われていましたが、思ったほど多くはありませんでした。恐らく、『遠野物語』の数々の伝承は、文字として目で見て、それを情報として取り込む、という類のものではない。多くが語り部を通して語り継がれている、もしくは遠野の故郷の情景から、伝承の世界に住まう『住民たち』の息遣いを感じ取る、そんな風に感じ取りました。
それもあってか、駅前の商店街には、飲食店や雑貨屋さんが立ち並ぶも、その看板に並んで掲げられているように、『語り部』の看板が。遠野の物語が、あまり文字として残さず、語り継ぐことによって後世へ伝えられてきたことが分かります。
柳田國男が、『遠野物語』を執筆する際、それらの伝承のほとんどを脚色することなく伝えたのは、『文字にする』ということによる畏敬の念があったから、なのではないかと思います。僕の勝手な解釈なんですけれど。。。

そんな、伝承の世界に住まう『住民たち』を感じる遠野の街並みは、澄み渡って清々しく、素晴らしいの一言。夜行バスで向かい、遠野に到着したのは朝の6時頃。霧が濃く、お世辞にも見通しが悪いスタートでしたので、その時点ではそれほどの期待を寄せなかったものの、しばらく街を散策したら、その霧は一気に晴れました。空は一面の青空、青々と生い茂る新緑と、豊かな水と若い稲がどこまでも続くかのようにが広がる田園風景。古来より伝わる日本の田園が、目の前いっぱいに広がっている様は、今でも忘れえぬ思い出です。

特にお勧めなのが、遠野の故郷の風景と民芸を今に伝える、『
伝承園』と『遠野ふるさと村』でしょうか。風と葉擦れ、そして水の音しか聞こえず、のんびりと時を過ごし、遠野の、そして日本の故郷を満喫したり、また当時の生活習慣を学ぶには最適の場所だと思います。
また、『伝承園』では、おばあちゃんたちが、藁や生糸を使って、民芸品を作っています。遠野物語に登場する『おしらさま』や、『座敷童子』の人形が販売されていました。『伝承園』では、生糸のために実際に養蚕も行っているため、夏休みの自由研究等にもうってつけかもしれません。


遠野を後にして、その次は花巻へ。童話作家・宮沢賢治の生まれ故郷であり、彼が生み出した名作が、博物館や童話村として息づいている街へ向かいました。
宮沢賢治の博物館に入ってまず思ったのが、宮沢賢治が、単なる童話作家の枠に納まらず、様々な分野に秀でていた、ということ。学校の先生、ということもあってか、天文学をはじめ、諸外国の知識や農業など多岐にわたり、まるで明治時代のレオナルド・ダ・ヴィンチのよう。そういった多岐にわたる知識の吸収と、彼が『イーハトーヴ』と呼んだ岩手の自然が、彼の想像力を大いに駆り立て、様々な作品を生み出したのではないかと思いました。これまで、単に宮沢賢治の作品を読んだだけで、その側面でしか知らなかったので、別の一面を垣間見ることが出来たようで、新鮮でした。
既に、子供のころに宮沢賢治を読んだきり、最近では全く触れていなかったので、もう一度、彼の作品を読み直し、宮沢賢治と、彼が住んだ花巻に息づく世界に、再び浸ってみようと思った次第です。


遠野、花巻は、岩手県の内陸に位置する地域であるため、東日本大震災の影響は全くと言っていいほど受けていなかったように思います。顕著な爪痕がなかったとはいえ、やはりどこかしらで震災を受けたことによる陰鬱な空気が僅かながら漂っていたようにも思いました。
現実を直視し、ほんの僅かでも一歩一歩着実に前を向いて歩こうとする人もいる傍らで、いまだに現実を受け入れられず、失った悲しみから立ち直れない人もいらっしゃいます。これまで育み、培ってきた思い出や土地が、無残にも破壊された姿を目の当たりにすると、何と言葉をかけたらいいか、分からない遣る瀬無さに苛まれます。
遠野にしろ花巻にしろ、ここには、東北初の伝承が今でも残っています。姿は見えないけれど、昔から感じ取り、語り継がれてきた『存在』が、確かに息づいています。大切な人を失い、もう戻ってこないけれど、見えないけれど確かにいる『存在』が、今でも東北を、東北に住む方々を、天から、地から、見守っているような気がしてなりません。永く伝わる素晴らしい土地、破壊されることなく、これからもずっと語り、守り続けていきたい。そんな思いを馳せた旅でもありました。



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2011/07/02 22:40 | Comments(1) | TrackBack() | Outdoors
[熊本] たとえその出会いが小さくとも
普通に考えれば、東京在住の人間が、観光目的で、日帰り熊本に行く、なんてことは、決して無理ではないにせよあまりにも突拍子なことでして。方々から、「無謀」だとか「余裕がない」とか、散々なことを言われてしまいました。ええ、勿論分かっております。それが如何に変態じみたことであるかは。
それでも、今このタイミングで熊本に行きたい、と思ったのです。本当に衝動的ではあるのですが。

きっかけは、この本を読んだことによること。


よし、かかってこい! はい、わかりました。


著者は、大野勝彦さん。
もともとは、画家でも無く詩人でもなく、農家の方でした。ある時、トラクター操作の事故で、両手(肘より先)を切断を余儀なくされてしまいます。そこから先は、後悔の連続だったり、図らずも家族にその不安や不満をぶつけてしまったそうですが、その中でも、家族の方々は懸命に心配してくれた、看護してくれた。初めて、周囲の、特に家族の愛を心から感じた、ということです。
それからというものの、両手を無くしたら無くしたなりに、自分に出来ること、したいこと、そして何より、笑顔と感謝の気持ちを忘れずに持ち続けながら、今日に至っています。

忙しい毎日の中で、何気なく手にし、その言葉の端々に感動したことを覚えています。が、当時、それも心から湧き上がる感動ではなく、頭の中で完結してしまったもの。本当の意味での感動とは、よほど遠かったように思います。
そして、今回の統合失調症と休職騒動。全てにおいて自分の身の振り方が犯した間違いであるにも関わらず、悶々と嫌悪にふけていました。自分だけでなく、自分以外の何かに対しても。他者は勿論、目に見えやしない運命とやらにも。誰かに、何かに、その過ちをぶつけてしまいたかったのです。
そんな時に、再度この本を読みました。内容は購入した時と全く変わらないのに、飛び込んでくる想いが、重さが、全く違う。感動とか、感銘とか、そんな生易しい言葉では言い切れない思いでいっぱいになりました。もっと言えば、その言葉に、(勿論いい意味で)心を、気持ちをぶん殴られた、ような。

その時の衝動が、「大野勝彦さんに会いたい!」という気持ちを駆り立て、今回の熊本旅行に至るわけです。
そのため、熊本空港に到着した瞬間から、真っ先に、『風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館』へ参りました。


エントランス(風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館) 美術館からの風景(風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館)


九州であるにもかかわらず、阿蘇という土地は、高地の土地柄のため、5月上旬に雪が降ることがあるそうです。実際に行ってみっても、晴れて空気が澄んでいる、初夏の季節にもかかわらず、時折半そででは少し寒いと感じる風が吹いていました。しかし、環境は爽やかそのもの。コンクリート・ジャングルの中では味わえない空の下に、大野勝彦さんの美術館があります。

大野勝彦さんの作品は、全てが水彩。阿蘇を中心とした、風景や動物、植物の絵、とりわけ、見過ごされがちな植物の絵が多くありました。そこに、黒い墨で言葉を書く。飾らない、気取らない、心の中のありのままの言葉を、たとえそれが幼稚に見えてもお構いなく、キャンパスにしたためる。両手を失ってから現在に至るまで、彼が積み重ねてきた想いを、一枚一枚に丹念に込めて描き、綴っています。それは、彼を育んだ土地と環境に、彼が共に歩んできた奥さんやお子さんたちに、そして何よりも彼が愛する、ご両親に対して。

ただでさえ、以前に手にした彼の著書の言葉の端々にこみ上げるものがあるのに、この美術館に来て、その気持ちを一層深く再確認することが出来ました。そして、これまでの自分自身が、如何に小さかったか、ということも。


今回の旅の目的は、大野さんの美術館に行き、出来ればご本人にお会いすること。勿論、ノンアポ。
なので、基本的に会えないことを前提としていたのですが、展示スペースを回り、ショップのコーナーに立ち寄ろうとした瞬間、ご本人がいらっしゃったことに驚愕! 義手を付けて、これからその日描く絵の準備をし、テラスに出たところでした。
大野さんご自身としてやりたいと感じた「絵を描く」ということ。それでも、ご高齢であることに加え、身に着けているのが義手である以上、その一枚一枚を描くには、相当の集中力と根気が必要ではないかと思います。しかも、一つ一つが真剣勝負と言わんばかりの気迫が背中から発揮され、声をかけようかかけまいか、うろうろと迷っておりました(←小心者)。まぁ、こんな堂々巡りに余計なことを考えてしまうことろが、人からよく、「良くも悪くも図太さ、図々しさが無い」と言われる所以ですが……
そんな中、一組の老夫婦が、スタッフの方に「サインしていただいてもよろしいでしょうか?」と声をかけたため、便乗して僕もサインしてもらうことに!(←超小心者) 老夫婦のサインのあと、僕も購入した本に、サインをいただきました!


大野勝彦さんのサイン


年甲斐もなく緊張してしまい、後々になって、「あー、一緒に写真撮っとけば良かったー!」なんて思ったりしたものですが、それはそれで置いときまして。
『勝彦』という名前と、これまで農業に従事していたこと、親分肌のような人格ということから、もっと厳つい方かと思っていましたが、常に笑顔を絶やさない(というより、もはや笑顔がデフォルトになっているかのような)好々爺、という感じの方でした。絵を描いている最中にもかかわらず、気さくに請け負っていただいて。お年を召しているから、確かに往年の時の写真と比べると一回り小さくなったような印象を受けますが、それでも、堂々とした大きさなハートを持つ男を彷彿させました。

そして、握手。大野さんは義手を取り外し、肘から下がない腕を差し出しました。普通なら、直視したくない現実。でも、僕はその手(手ではないけど)を握りました。指の感触の先には、肘から先が無い骨の感触。笑顔でいたいのに、どこか顔が歪んでしまう。でも、この腕は生きている! もう、それまでと同じようなことは出来ないけれど、それでも何かを成す為に生きようとしている! 皺が増えた初老の男の腕であっても、そんな想いが伝わり、笑いたいのに、泣くのを堪えようとしている自分がいました。
最後に、ポストカードを記念にいただきました。本当に、何から何まで感動しっぱなしでした。


おそらく、彼にとっては、僕はただ一人のお客さんに過ぎないかもしれません。彼にとっては、ほんの数分の出会い。でも、僕にとっては、その数分の出会いは、たとえ小さくとも、何物にも代えがたい出会いになりました。
今回の僕が引き起こした騒動は、もはや変えることは出来ないし、無かったことにも出来ない。その事実は一生付きまとい、きっと何かにつけて僕を苛む。そして、その騒動以上の苦しい現実が、これからも引っ切り無しに迫りくることでしょう。
それでも、それを乗り越えなければならない時が来る。今回の大野勝彦さんとの出会いは、小さいながらも、今後の自分の人生に対し、しっかり前を向いて、時には歯を食いしばって、一歩一歩進むための勇気と気概を貰ったと思いました。てんで未熟だし、人の足を引っ張る毎日が続きそうな気がしますが、それでも、自分と自分の取り巻く人生に目をそむけず、たとえ小さくても、少しずつ前に進んでいこうと思います。


今回の旅では、他にも阿蘇と熊本市内を少し回りましたが、それはまたいずれ……



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2011/06/04 23:41 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors
[和歌山] これまでとこれからを考える旅

遅れ馳せながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、一部の方にはお伝えしたことですが、昨年、2か月ほど休職を取り、11月半ばに復職しました。
原因は統合失調症による鬱状態。と言っても、仕事が嫌ではなく、むしろ好きな遣り甲斐のある分野。急成長分野であるが故のプレッシャーと疲労の蓄積。それだけならまだしもでした。前にも書きました通り、自己管理と自己主張の無さ、『人のため』を勘違いしていたことの裏目、事の次第の流れがあまりにも他力本願であることが、自分を余計に追い詰め、今回の件に至ったわけです。自分の浅はかさが招いた事態であると言わざるを得ません。

でも、起こってしまったことを無にすることなど出来ない。基本的に生き方や気持ちの切り替えが超下手くそ人間なので、少しずつ、今の現実を受け入れ、その後、自分をどうしていきたいかを、ゆっくり考えていこうと思います。
また、非常に悔しいこともありました。周囲と比べること自体馬鹿げている、とお思いになるかもしれませんが、それでも、今の自分と、その周囲(同僚や友人等)と間に、歴然とした差が生じていると感じると、愕然とせざるを得ませんでした。これが現実。この程度の人生しか生きていない。悔しくて悔しくて、泣かなかった日は無いかもしれません。
しかしながら、ただ悔しさのあまり泣き伏していても何も始まりません。現実から目を背けたとしても、現実が目の前から消えてなくなるわけにはいきません。これが再出発。その間にも、同僚や友人は、どんどん先を行き、その差は歴然となるに違いありません。それでも前に進まなければならない。僕のような朴念仁には、一段抜かしをしながらダーッと駆け上がることは出来ない。着実な前進をしていくのみだ、と改めて感じました。


高野山へ旅をしたことも、当初は、自分を見つめ直す、という目的ではありませんでした。しかし、こういった経緯を思い起こすにつれて、今の自分に出来ること、今の自分に必要なことを想起させられたのです。

 

高野山 壇上伽藍の根本大塔 高野山 奥之院への雪の参道 高野山 奥之院 燈籠堂



和歌山県という位置からして、個人的には雪国という連想はありません。南紀白浜の白い浜辺や、鬱蒼と生い茂る熊野古道、水と緑が豊かな那智大社などがあるからだと思います。しかし、高野山はもはや別格。冬の高野山は、その土地柄が成しているのではと思うくらい、厚い雪に覆われています。
その日は全国的に晴れた一日。南海高野線の終着駅・極楽橋駅では、雪の面影などほとんどないくらいの、カラッとした冬晴れの気候に覆われていました。しかし、ケーブルカーに乗りかえり、数分の後に状況は一変。一面の銀世界に、世界はその様相を変えていきました。

下界とは打って変わっての高野山の世界。幸い、雲が若干多めであるものの、概ね晴れていたので、劈くような寒さではありませんでした。しかし、予てから目に留めておきたいと思っていた、雪に覆われた高野山の姿を目にすることが出来て、何とも恐悦な思いがしました。
ケーブルカーの高野山駅から、壇上伽藍までの距離が少々あるものの、壇上伽藍や金剛峰寺に到着してから、奥之院までの距離は、思ったほど遠くは無く、予定を計画的に実施すれば、1日で回れる広さではないかと思います。それでも、ケーブルカーの車内放送でもあったように、高野山は、正にそれ自体が街。仏教系の学校もあり、(食料調達等は別として)高野山だけでも十分に完結した生活が出来るように思います。

真冬の時期でしか見られない、雪で覆われた寺院に、ただただ魅入ってしまっていても、原則として、寺院内の暖房はありません。本堂の中に入っても、ほのかに蝋燭の灯りと温もりが感じられても、外気とそれほどの差は無いと思います。寒さが厳しくなれば、それこそ、一日中、手足が悴んでしまうのではないかと。
そんな、普通の人から見れば過酷ともいえる状況下でも、僧侶達は平然としていました。毎日の修行と鍛錬がそうさせているのかもしれませんし、観光客や修験者の手前、寒そうに悴んでいる姿を見せられまい、としているのかもしれませんが。
この僧侶達の姿を、見た当初はただ感心しただけだったのですが、現在の僕自身の状況と照らし合わせて、改めて感じたこと。それは『覚悟』。仏門に入ったが故、どのような過酷な状況下に置かれたとしても、自らの職務を、ただ全うする。誠意と、真摯を以って。思い返せば、僕は、そういった『覚悟』は勿論のこと、ただ自分の職務を全うすることに、『誠意さ』と『真摯さ』に、決定的に欠けていたと思うのです。

ある文献(ネットですが)を拝見したところ、仏教では、我慢は『傲慢』の一種である、とのこと。我慢すること、つまり未来の投資をするために今を押し殺すことは傲慢である、ということを説いているのだそうです。僧侶達の修行は、一見すると我慢の連続に捉えられがちですが、それは決定的に違う。彼等は未来の自分のために頑張っているのではない。ただ今生きている、今の『自分』に対して向き合っている。彼等の修行は、我慢ですら値しない。当然の職務を、ただ黙々と全うしているだけである。自分が、今までどれだけ『今の自分』から目を背け、時代と世界を呪い、無駄な愚痴をこぼし続けていたか、打ちのめされた瞬間でもありました。

当初、雪の高野山に赴きたい、という、観光目的であったものの、今の、そしてこれからの自分を向き合うことにもつながり、非常に掛け替えの無い旅になったのでは、と思います。


そんなわけで、このような文章を垂れ流し続けるのもどうかと思い、今後は、ネガティブ記事についてはもう書かないことにしました。かと言って、これまで書いたネガティブ記事を削除する予定はありません。これまで書いたことは書いたこととして、受け止めていこうと思います。
焦っては疲れ、焦っては疲れ、3歩進んで2歩下がる(よく4歩以上下がることもありますが)の生活ですが、今まで地に足をつけて生活していなかった分、いい機会ではないかと。周囲が僕よりももっと進んでいますし出世もしています。焦っている部分もあります。宿命というと重いかもしれませんが、それも一つの人生なんだと、いつか笑える日がくればいいかな、と。


 

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2011/01/08 20:14 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors

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