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2017/03/28 13:16 |
[Review] ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2
ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2世界中を席巻したファンタジー作品、ハリー・ポッターシリーズの最終章。そして、最後の作品にして最初の3D化作品。
理不尽にも打ち立てられた己の過酷な運命に抗い、何人もの大切な人を失いながら、それでも諦めず戦い、立ち向かってきた。次々と明かされる衝撃の事実。逃れえぬ最後の戦い。そして、フィナーレ。足掛け10年間の歴史上かつて無いほどの壮大な物語の幕引きに、拍手を送らずにはいられませんでした。
『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で、ただ守られ、何も知らずに翻弄され続ける自分からの脱却、自分ので自分の運命に立ち向かうことを決めたハリー・ポッター。だからこそ、幸せになって欲しい。一ファンとして、一読者として、そう願わずにいられなかったことを覚えています。だからこそ、幸せな最後を飾れたことは、何よりも嬉しい。この作品に出会えたことを、心から感謝致します。

そうそう、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』を最初に鑑賞した時、一番驚いたのが、ネビルの成長。これまで、鈍臭い三枚目キャラの象徴ともいえるネビルが、「えっ、この子があのネビル!?」と言わんばかりに成長を成し遂げました。そして、最終章の今作。原作を読んだ時のネビルの成長に目を見張ったのも同じように、やはり映像としても、ネビルの成長は目覚しく、注目せずにはいられませんでした。ヴォルデモート卿という、死喰い人ですら恐れ慄く恐怖の存在を前にして、ただ一人、啖呵を切った。もし、敢闘賞があるのだとしたら、僕はネビルにこそ差し上げたいと思ったくらいです。
そして、ネビルだけではありません。ホグワーツの他のメンバーも同じ。過去の作品を振り返ると、ハリー・ポッターが、ロン、ハーマイオニーを巻き込んで、何か問題を引き起こすたびに、他の生徒達は、こぞってハリーを白い目で見ていた。でも、今は違う。刻々と追い詰められる中で、ヴォルデモート卿の声が頭に直接響く。「ハリー・ポッターを差し出せ。そうすればお前達は報われる」。しかし、誰もハリーをヴォルデモート卿に差し出そうとしない。身を挺して、彼を守る。初めて、そしてようやく彼等は決めたのだ。ハリーと共に戦おう、と。誰一人、強要していないしされてもいない。そして誰一人、「ハリー・ポッターがいなければ、こんなことにはならなかった」と思った人もいない。そんな、気持ちの変化、結束、今更な感じもしますが、彼等の友情をより一層高めたのだと思います。立ち向かうべき運命は、もはやハリーだけのものではないのですから。

映像の3D化については、後付編集ということもあり、『アバター』のようなスケール感を表現するまでには至っていません。ですが、これまで公開された3D作品に比べれば、とても観やすく、素晴らしいと思います。もし金額的にも余裕があれば、3Dで鑑賞されるといいかもしれません。


ここから、少々ネタバレ。
ハリー・ポッターシリーズの最終章と言うこともあって、それまでの物語の謎や登場人物、様々に散りばめられたエピソードが総結集されているんだな、と勇み足で参りましたが、(個人的に)若干消化不足なところも。
アルバスとアバーフォースとの兄弟間の確執。その象徴とも言うべき、彼等の妹であるアリアナの存在。いくら、ホッグズ・ヘッドとホグワーツとの最後の隠し通路が、アリアナの肖像画に隠されているから、アリアナの存在を出したとはいえ、別にアリアナでなくてもいいのでは? と思ってしまいました。アルバス・ダンブルドアとグリンデルバルドが企てていたことが、映画作品では思いっきりカットされているとは言え、その企てとアルバスの改心、そしてアバーフォースとの確執に、アリアナの存在は欠かせない。でも、その説明無しにアリアナをほんの僅かに登場させたとしても、何も知らない観客からすれば、「あの人は誰? ダンブルドアの妹? 何でここにいるの? ここにいる意味は何?」と考えてしまうと思うのです。
そして、セブルスとリリーの悲恋。セブルスがどれだけハリーの母親であるリリーを愛していたか、そして自分の所為で最愛の人を死なせてしまったか、その贖罪として彼の息子であるハリーを、たとえ虫けらのような眼差しで見られても、全力を以て守ると誓ったのか、その描写がちょっと端折っているように思えました。ですから、急速にハリーがセブルスに対して理解を深めようとするのも、少々無理があるのでは、とも感じてしまいました。

しかし、何はともあれ、諸悪の根源は全て絶え、彼等はようやく、自分のあるべき幸せの道を歩むことが出来たのです。架空の世界の登場人物ではありますが、これからも、永久に、彼等の未来に幸あれ!

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2011/07/16 23:11 | Comments(0) | TrackBack(15) | Review - Movie
[Review] マイ・バック・ページ
マイ・バック・ページ昨今の時代劇を観て、脚本家などによる大胆な構想や当時の時代背景の描き方に、ネット上では一部良い意見もあるものの、多くの場合で悪い意見が見受けられます。「その時代に即した演出をしていない」とか、「あまりにも現代寄りの演出」とか、「史実ではあり得ない」とか。
でも、それがたとえ数百年の隔たりがあったとしても、人間の本質って、そう簡単に変わるものではないような気がします。その際たるものが、自己のアイデンティティや他者との関係性の確立。自分は誰なのか? 貴方は誰なのか? 自分はどこから来てどこへ行くのか? 自分のやるべきことは何か? そういった思いが、封建社会を作ったり、天下統一を図ったり、尊皇攘夷を掲げたり。そして、全共闘。正しいか正しくないかは、その後の歴史がしたり顔で語るけれど、当時の人間には、それこそが正しい道だと信じて疑わなかった。自分のやるべきことは、これなんだ、と。常にそこには、人間が人間であるが故の『エネルギー』が逆巻いていたんだと思います。

但し、そのエネルギーは時として人を大きく傷つけ、欺き、決して逃れ得ぬ負のスパイラルに陥らせてしまうことも確か。それでも、その結果がどうであれ、その後の歴史が間違ったことだと判断しても、自らの信じる道のために、信念のために、『実行した』と言う事実そのものは評価されるべきだと思います。
実際、僕自身も含め、不平不満は一人前のようにいえても、それを『実行する』に至るだけの理想家がどれだけいるのか。それとも、『実行する』には及ばないくらいに成熟した社会になったと認識すべきなのか。僕は、そういったことを客観的に考えようとしつつも、それはどこかで、今作の妻夫木聡が演じるジャーナリストである沢田がそうであり、同時に彼自身が嫌っているように、ただ傍観者として、安全な場所で安穏とそれを観察しているだけ、なのかもしれません。

そんな考えを巡らせながら今作を鑑賞しましたが、物語を進めば進むほどに、左翼思想の学生として遅すぎる決起をした、松山ケンイチが演じる梅山が分からなくなり、最終的には、憎しみを込めるようになりました(勿論、そういう役柄なのでしょうけれど)。
何故なら、彼らが仕出かしたことは、彼等の持つ理想とは程遠いから。そして、彼等の理想が叶ったその先が、未知数でもなんでもなく、ただの暗闇に覆われた世界にしか思えないから。まるで、血に飢えた獣が張りぼての理想と知性を掲げて突き進んでいくかのよう。そこにはどうしても、「日本の未来を守りたい」とか「日本の社会を支えたい」という気持ちは無いのです。ただ単に、自己のアイデンティティを表に出したかっただけ。英雄になりたかっただけ。彼等にとって、『自分こそが正義』と考えていたのだと思います。
だからなのかもしれません。作中、まるで今作を象徴するかのように、下記の台詞が往々にして口にされています。

君は一体誰なんだ?

私は一体何者なの? 何がしたいの?

普通って何?

そして、そんな理想とも不毛とも捉えられる闘争の中で、現実を見据えているのか、はたまた自分には関係ないとそ知らぬ振りをして傍観しているのか。闘争によって瓦礫が積み上げられ、血気盛んな垂れ幕がそこかしこに張り巡らされていても、見向きもせずに通り過ぎる学生達。世間一般で言われるところの、『普通の学生』達。また、世論や政治的つながりの濃い上層部のご意向に屈し、『社会の模範』ということをさも当然の如く振りまいて真実を闇に葬り去ろうとする、大人の世界。
『夢』とは、『理想』とは、心を意気揚々とさせる勇ましく心地よいものでありながら、欺瞞と逃避に満ちた毒の側面を持っている。そんな狭間の中で、それでも生きなければならない、生きざるを得ない。沢木のラストシーンの嗚咽は、そんな感情がこもっていると感じました。

『泣きたい時に、しっかりと泣ける男』とは、そういうものなのかもしれません。


『覚悟』。
これから先、色々なところで試される覚悟。僕自身、今後様々な選択を迫られる時が来る。その時、『覚悟』を以ってその選択が出来るか? そして、『誠意』を以って行動に移れるか?
この作品が、反面教師という側面ではないにせよ、鑑賞後、改めて自問自答しています。

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2011/06/10 23:08 | Comments(0) | TrackBack(3) | Review - Movie
[Review] パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉
パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉なんだかんだ言って、パイレーツ・オブ・カリビアンも4作目に突入ですか。回を追うにつれて何だかよく分からなくなっていく作品も、蓋を開ければ4作目になるほどの人気ぶり。やはりこの世界的な不況の中でも、ディズニーとジョニー・デップのブランドは強いのねー、と楽観視している今日この頃。

何と言っても、『デッドマンズ・チェスト』を鑑賞したあたりから、この作品は純粋なるエンターテインメントに徹した作品なんだなと思いましたから。
しっちゃかめっちゃかなのは、もはやこの作品にとっては常套句。今更シリアス方針だとか、メッセージ性を取り込むとか、そんなことはお構いなし。敢えて空気を読まず、只管キャンバスに絵の具で書きなぐるようなエンターテインメントに徹する作品に仕上げる、というのも、ある意味で天晴れな気がします。
まぁ、色々と小賢しい知識をはめ込んだ状態で鑑賞してはいけない、ということですな。


今作は、何よりも監督がロブ・マーシャルが担当するということで観てみました。
とはいっても、僕自身がロブ・マーシャル監督を初めて知ったのは、恥ずかしながら『SAYURI』の時です。その後、DVDで『シカゴ』を観たり、ネット上ではありますが、ロブ・マーシャル監督が振り付けを実施した作品等を調べました。その程度ですので詳しいには程遠いですが……
とはいっても、ミュージカルの監督が織り成す『パイレーツ・オブ・カリビアン』の世界って、どうなるんだろう、ジョニー・デップも『スゥイーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』でミュージカルをやりましたので、その仕上がりに若干期待を持っていました。が、ミュージカルっぽい部分は、アン王女の復讐号の甲板上で、リュートをBGMに繰り広げられる、ジョニー・デップとペネロペ・クルスのダンスくらい… 剣舞やリズムに合わせたアクションは、これまでにもありましたしそれ程目新しいものでもありませんでした。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』をミュージカル調に… もしかしたら、これまでの作品の流れや世界観、ディズニーのブランドを壊しかねない為、興行的にも冒険を強いられそうな気もしますが、個人的にはそんな『パイレーツ・オブ・カリビアン』も観たかったな、と思った次第です。


そして今回、ようやく、といって言いかもしれませんが、オーソドックスな金銀財宝ではなく、『生命の泉』という超レアのお宝を巡る冒険というのは、これまでの作品の中で初めてのことではないか、と(結局のところ、『生命の泉』そのものを狙う海賊は、ほんの一握りでしたが。大抵のキャラクターは、自身の本当の目的を果たす為に『生命の泉』を目指しています)。
呪いを解く為だったり、生命維持の為だったり、ジャック・スパロウ自身がトラブルメーカーなのに彼を救いに行こうとしたり。しかしどの作品にも共通するのは、ジョニー・デップが演じるジャック・スパロウ船長の目的が、ブラック・パール号を取り戻す、ということ。『船長』と名乗っているくせに、自分の船に乗っている場面が極端に少ないのですから……。

まぁそれは、この作品の一つのスパイス、おまけ要素の一つであると割り切るとして。

しかも『生命の泉』も、ただそれを飲めば、文字通り『生命』が与えられる、つまり『永遠の生命』が与えられる、のではなく、条件付きである、ということ。その条件を果たす為に様々なアイテムや、果ては生き物を入手したり、騙し合い謀り合いをするわけです。海賊らしいといえば海賊らしい。『ONE PIECE』にぞっこんの少年達からすれば、海賊の夢をぶち壊しかねない展開振り。でもこれこそが海賊! とも言うべきでしょうか。
ただ、黒ひげを演じるイアン・マクシェーンや、バルボッサを演じるジェフリー・ラッシュが、悪役振りにもさすがに貫禄がありますので、ペネロペ・クルスの悪役振りがちょっと影薄い、という感じも否めません。一部に義の厚い部分があるとはいえ、やはり海賊は海賊。狡猾な悪女振りが発揮されるところもあったのかもしれません。が、最後の方でそれが演じられるものの、何だかまくし立てるようで、少しもの足りなかったです。


一旦封切られた作品に対して『もし』と言うのは非常にナンセンスなことですが、今までの3作とは違う、ミュージカル調の『パイレーツ・オブ・カリビアン』というのも、観てみたいと思いました。純粋なるエンターテインメントに徹する作品であればこそ、その『見せ方』『魅せ方』に、今後の期待がかかります。

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2011/05/20 22:59 | Comments(0) | TrackBack(14) | Review - Movie
[Review] ブラック・スワン
ブラック・スワン白鳥の湖。チャイコフスキー作曲によるバレエ作品。
1877年のボリショイ・バレエ団による公演以降、多数の演出家・振付師によって様々な版が出され、今やクラシック・バレエの代表作ともいえるに至りました。
僕はバレエにはとんと疎い人間ですので、『白鳥の湖』と言われて思い浮かべるとしたら、『情景』をBGMに、一指乱れぬ動きで主役を引き立てる群舞(コール・ド・バレエ)や、4羽の白鳥たちの踊り(パ・ド・カトル)が真っ先に。しかし、群舞やパ・ド・カトルは、あくまで脇役・引き立て役であり、物語の主役は、やはり白鳥オデット。女性バレエ・ダンサーにとって、主役を演じたいと思う気持ちは、やはり並大抵のものではないのでしょう。
ただ、僕はこの作品で初めて知ったのですが、通常、オデットと、魔王ロッドバルトの仕組んだ罠によってジークフリート王子を奪わんとする黒鳥オディール。清楚で儚げ、奥ゆかしいオデットとは異なり、官能的で妖艶、王子を略奪しようとオデットに成り済ますオディール。この2役を、一人の人間が表現しなければならないのですから、並大抵の表現力や演技力では太刀打ちできないのでしょう。

特に、ストイックに頑張り、一途に、純真無垢に、直向きにバレエに打ち込んできた人物であれば尚更のこと。


この作品は、スポーツ作品でよくありそうな、血の滲むような努力を重ねて主役の座をつかむスポ魂作品ではなく、努力を重ねれば重ねるほど自分が堕ちていく、という錯覚に見舞われる作品です。

ストイックで一途、それが故に、あまり自己主張したがらない。そんな彼女にとって、妖艶で淫靡な表現力を主だった形式として踊る、ということは、彼女のこれまでのキャリアを180度ひっくり返されたようなもの。たとえ、それが長年夢見てきた主役の座であったとしても。
踊りのテクニックは完璧に近いのに、テクニックだけではどうしようもない表現力。ストイックで一途な性格は、それが故に、歪な形での完璧主義者として顕れます。どうやったら、妖艶で淫靡な表現力を身に着けることが出来るのか。悩みは積もりゆき、追い打ちをかけるかのような、演出家の要求、ライバルの出現、これまで応援をもらっていた母親からの、執拗かつ過剰なまでの保護。
被責妄想に駆られるかのように、彼女の精神は極限まで追い詰められ、目に映るのが現実なのか、それとも虚構なのか、その区別もつかなくなってしまいます。刻一刻と迫る舞台初日。焦れば焦るほど堕ちていく彼女の心は、それまでの純粋無垢な『白』から、邪悪で破壊的な『黒』へと、塗りつぶされていくのです。


この作品を鑑賞は、その多くにおいて、主人公のニナを演じるナタリー・ポートマンの後ろ頭が映っています。それを追うかのようなカメラワーク。つまりこの作品は、出来る限り、主人公ニナの視点で描かれているのだと思います。観客にも、出来る限り、ニナの心情の変化や極限までの精神披露、ニナが見たもの触れたのもを理解してもらうように、だと思われます。
それは、ダンスシーンにも多くとられています。俯瞰的にダンスシーンを撮影するのではなく、あくまで主人公をはじめとするダンサーの動きに合わせてカメラが動いている、ダンスを間近で見る、というより、鑑賞者自身がダンサーとなっている、という見せ方なのでしょうか。当然、ダンスの最中のニナの呼吸音も聞こえます。が、その呼吸音も、単にダンスの呼吸ではなく、徐々に焦りの呼吸に変わっていくのが窺えます。これも、ニナの心理変化をとらえる一つの要素になっているのではないか、と。
間近でダンサーのダンスを見るという表現は、臨場感があると思いますが、動きながらの撮影であるため、鑑賞者によっては酔ってしまうのではないかと思います。
また、ニナとリリーがクラブでダンスをするシーンも、光の点滅が続くため、これも鑑賞者によって酔う可能性がありますので注意が必要です。

それにしても、すごい作品だな、というのが観終った時の感想です。
あれだけ臆病で、儚げであまりにも自信がなさそうだったナタリー・ポートマンが、荒々しく、狂気に満ちた表情に変貌させるのですから。また、その変貌の落差は、通常の演技のトレーニングでも難しいのに、加えてバレエの練習も入るのですから。
予てより、ナタリー・ポートマンの超人ぶりは、Wikipediaに掲載されている情報から伺っていますが、正にこの作品は、その片鱗をありのままに出している、と言えるのでしょう。米アカデミー賞主演女優賞獲得もうなずけます。


この作品で、清純さや純情さは求めてはいけません。かなり刺激的で、背筋が凍りつくようなスリラーです。でも、個人的にはこういう作品、本当に大好きです。

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2011/05/12 22:23 | Comments(0) | TrackBack(15) | Review - Movie
[Review] 岳 -ガク-
岳 -ガク-ビッグコミックオリジナルの連載漫画として人気を博している、『岳 みんなの山』の映画化作品。山岳救助ボランティアの島崎三歩を中心に、山岳救助隊と登山者、そして山に魅せられた人たちとの交流や人間ドラマが描かれています。
基本的には、山で遭難したり、怪我や病気になった人たちの救助や手当業務が主ですが、登山を通じて、人の想いや悩み、葛藤を、時に穏やかに、時に鋭く描いていますので、色々な世相から支持を受けている作品であると思います。

主人公の三歩は、登山技術や緊急時の対応処置は勿論のこと、世界の名峰を登ってきたため、山については広く深く、まるで自分自身のように知っているし、さらには山を取り巻く気候変動についても深い知識を持っています。そして、それに慢心することなく、敬意を表しながら、山に、そして登山者に接する。でも、それ以上に、彼は多くの怪我人や病人、果ては死者にも接しています。だからなのか、務めて朗らかに、務めて大らかに、少しでも自分が受けてきた闇や痛みを人に見せまいとする努力が込められているように思います。
それが、初対面の人にとっては、「何じゃい、このふてぶてしく馴れ馴れしくちゃらんぽらんそうな男はっ」と思われてしまうのでは、と。きっと、彼自身も、そういう自分を演じているのに、戸惑いもあるかもしれませんが、「そうしなければやっていけない」という葛藤の方が強いのでしょう。
そして、何よりそんな、ふてぶてしく馴れ馴れしくちゃらんぽらんそうな男を、小栗旬が演じるということにビックリ! 正直、鑑賞している側からすると、「似合わねー、舞台俳優のような演じ方をする俳優さんが演じるのは似合わねー」と思ってしまいました。それはそれでアリなのかもしれませんが、全く受け付けなかったわけではなかったにせよ、どこかで違和感を感じてしまったのは事実です。う~ん。。。


さて、物語はというと、島崎三歩というより、どちらかというと、山岳救助隊の新人として入隊した、椎名久美の視点で描かれています。警察官としての知識や使命感、これまで培った体力等に自信はあっても、平地での仕事とは全く異なる山岳救助という仕事。素人目線であるからこそ、鑑賞する側からも素直に受け入れられるのではないかと思います。
そして、舞台は主に冬の北アルプスで繰り広げられ、主に救助活動にあたっていますが、視点は常に人間模様。山に魅せられて登った者、絆を深めるために登った者、何かをなすために登った者。物言わぬ山は、まるでそんな彼らを暖かく迎え入れるよう、というように思うかもしれませんが、基本的に山は何もしない。恩恵を与えるわけでもなく、意図的に罰するわけでもなく、淡々と自然の摂理のままに人に接する。そしてそのたびに、人は己の無力感に襲われ、苛まれ、絶望し、平伏し、それでも尚、人は抗います。
刻々と変わる天候の中で、時間を延ばせば延ばすほど生存できる確率が下がる中で、それでも迫られる選択。「そうしなければならない」という選択を迫られた時、人は、どんなに苦しく、どんなに辛い思いをするのでしょう。それでも自然は、決して慈悲の手を差し伸べてはくれない。だからこそ、己の運命と未来を切り開くには、自分自身でしかできないことに気付くのではないか、と思います。

人間の手にはどうしようもないことは、これまでもそうでしたし、そしてこれからもそうなのでしょう。それでも抗って生きていく。だからこそ、人間は美しい。だからこそ、三歩は、たとえ遭難者を発見した時、すでに事切れていたとしても、「よくがんばった」という声をかけるのでしょう。


「また、山においでよ」。
その言葉は、どんなに絶望しても、決して諦めてはいけない、後悔するような選択をしてはならない、という、彼の持つ力強い言葉。だからこそ、登山は止められない。絶望に打ちひしがれても、達成した時の喜びと開放感は、達成した者のみが得ることが出来る、特権なのだから。

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2011/05/07 19:11 | Comments(0) | TrackBack(13) | Review - Movie

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