昼時の品川駅。
突然の通り雨が道行く人達を襲い掛かり、乾いたアスファルトは瞬く間に濡れていく。
かんかん照りの陽気だったところに襲い掛かる通り雨。傘を持っていない人は、一目散に雨宿りできるところへ走っていく。汗でビッショリのシャツを、更にビッショリにさせて。
降りつける雨は熱を帯びた道路によってみるみる蒸発し、ただでさえ蒸し暑い東京をより蒸し暑くさせる。
そんな中を、一心不乱に、お経を唱える一人の修行僧。
駅前のアーケードにいたので、雨で濡れてはいないが、顔から首筋から、お布施を入れるための椀を持つ手に至るまで、じっとりと汗で濡れている。
走り行く雑踏。突然の通り雨の音。全てが修行僧の経を掻き消していく。
振り向く者は、誰もいない。まるで、そこに修行僧がいないかのように、皆通り去っていく。
それでも、修行僧はその身に課せられた修行を全うするため、静かに経を唱え続ける。
二時間後。埼京線の電車内にて。
渋谷駅から乗ってきた一人の修行僧。
昼下がりの埼京線なので、ガラガラに空いていることをいいことに、
ドカッ (←ぞんざいに座る音)
ズシッ (←足を投げ出す音)
ズンッ (←無礼な若者の如く足を組む音)
悠々自適に両腕を座席いっぱいに広げて座るさまは、まるで大勢のキャバクラ嬢を両腕にはべらせているかのよう。
更に高田馬場付近で、おもむろに携帯電話を取り出し、何と堂々と通話。
「もしもしー? 今高田馬場あたりー。もうすぐ着くからー。じゃっ」
極めつけは、池袋に降りる直前に見えた、彼の左手首。
ブランドはわからないけど見るからに超高そうな腕時計がキラリ。
「世の中なんてそんなもんだゼッ!」
ということを思い知らされる一例でした。
ちなみに上下の修行僧は同一人物ではありませんので、あしからず。
突然の通り雨が道行く人達を襲い掛かり、乾いたアスファルトは瞬く間に濡れていく。
かんかん照りの陽気だったところに襲い掛かる通り雨。傘を持っていない人は、一目散に雨宿りできるところへ走っていく。汗でビッショリのシャツを、更にビッショリにさせて。
降りつける雨は熱を帯びた道路によってみるみる蒸発し、ただでさえ蒸し暑い東京をより蒸し暑くさせる。
そんな中を、一心不乱に、お経を唱える一人の修行僧。
駅前のアーケードにいたので、雨で濡れてはいないが、顔から首筋から、お布施を入れるための椀を持つ手に至るまで、じっとりと汗で濡れている。
走り行く雑踏。突然の通り雨の音。全てが修行僧の経を掻き消していく。
振り向く者は、誰もいない。まるで、そこに修行僧がいないかのように、皆通り去っていく。
それでも、修行僧はその身に課せられた修行を全うするため、静かに経を唱え続ける。
二時間後。埼京線の電車内にて。
渋谷駅から乗ってきた一人の修行僧。
昼下がりの埼京線なので、ガラガラに空いていることをいいことに、
ドカッ (←ぞんざいに座る音)
ズシッ (←足を投げ出す音)
ズンッ (←無礼な若者の如く足を組む音)
悠々自適に両腕を座席いっぱいに広げて座るさまは、まるで大勢のキャバクラ嬢を両腕にはべらせているかのよう。
更に高田馬場付近で、おもむろに携帯電話を取り出し、何と堂々と通話。
「もしもしー? 今高田馬場あたりー。もうすぐ着くからー。じゃっ」
極めつけは、池袋に降りる直前に見えた、彼の左手首。
ブランドはわからないけど見るからに超高そうな腕時計がキラリ。
「世の中なんてそんなもんだゼッ!」
ということを思い知らされる一例でした。
ちなみに上下の修行僧は同一人物ではありませんので、あしからず。
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自分の父親が死んで、父親の遺体を引き取ろうとした矢先、多くの人が故人の死を嘆き悲しみ、哀悼の意を自分自身に向ける。「あいつはいい奴だった」「彼のことを尊敬して止まなかった」。
周囲の人は、家族も含めて、皆、故人の話で持ちきり。この映画、一体誰が主人公なの? と疑いたくなるようなシーンが続き、最後のシーンで、そういった疑問が湧き出た意味がようやく分かりました。主人公とヒロインが、互いに『穴埋めの関係』と言ったのも。何だか単調で、複雑怪奇で、物語に大した波が無いのでむしろ眠気を誘うような映画でしたが、案外、奥が深いのかもしれません。
それは、本当の意味で自分は自分を理解しておらず、むしろ、他の人の力によって本当の『自分』が何なのかを理解する、ということ。そして、これから先どうあるべきか、を理解する、ということ。
疎遠が続いた親戚でも、肉親すらも成しえなかったことを、会ってたった数日の女性が成しえたのも、単純に『スチュワーデス』という接客サービス以上の何かがあったからだと思います。それこそ、主人公との同じような体験をしたことのある人間だからこそ、なのでしょうけれど。
伊達に、『穴埋めの関係』を語っていません。
「失敗してもクヨクヨするな」
なんて、今の世の中氾濫しすぎるくらい言われている言葉ですが、ちっとも分かっていないくせに偉そうな口をぬかすな、と反抗したくなることもあります。
けれど、取り戻そうとしても二度と取り戻せないものもある。この映画でそれを暗に示しているのが、『父親の死』です。死んだものは二度と生き返らない。過去の思い出だけが心に残り、それを共有できる人は、もう傍らにはいない。
「大失敗してもしがみついて、そこから伸し上がっていくことが偉業なのよ。」
大切な人の命が無くなったことに比べれば、クビになったことなど取るに足らないこと。「また次がある」なんて不確定なことを言われるより、「しがみついてでも勝ち取れ」と言われたほうが、今まで自分が信じてきた道を歩んできたことが、どんなに惨めでも、価値がある、と思えてくる。
やや強引ですが、そんなメッセージが込められているんだと思います。
また、あれだけ多くの人が自分の父親を慕ってくれたのは、それだけ、彼自身も(大)失敗を繰り返し、それでも、しがみついて自分の信じる道を歩いていく、という『偉業』を成し遂げたから、なのではないのでしょうか(そのエピソードは描かれていませんが、色々な対比の意味で、そんな感じがします)。
そして、そんなふうに自分を導いてくれる人がいたら、その人にとって、どれだけ『幸せ』なことでしょうか。
「人生、山あり谷あり」
これから先、僕の人生もそうなのでしょう。僕も負けてはいられません。
これは原作を読まずに映画鑑賞に挑戦しましたので、予備知識なしでは若干の不安が残りました。ファンタジーものの映画は、得てして複雑な物語になりやすいですから。ネタバレを取るか、新鮮味を取るか。
そしてそのジレンマは、杞憂に終わった事は言うまでも無く。この映画は間違いなく、小学生の道徳の授業そのまんまの映画ですから。複雑な物語展開はありません。まだオトナの汚れきった世界に浸っていない、純粋無垢な少年少女向けの映画なのです。
もちろん、アニメ映画とは思えないほどの美しい映像は、大人の人でも一見の価値はありますが、如何せん、観終わった後の微妙な後味の残り加減が何とも……。
それは、この映画で最も伝えたいこと。
「己の願いのためなら、何をやっても構わないのか」
頭では分かっているのですよ。大人は誰でも。
例えば、「~~を殺せば、貴方の願いはかなえられる」
願いをかなえたら、同時に殺人犯。でも、~~を殺さなければ、願いはかなわない。
その願いが、終生貴方の人生を幸福にするだけのものであれば、貴方は~~を殺しますか?
「世の中全ての人が幸せになれる願いなんてあり得ない」
理屈では分かっていても、それでも願わざるを得ないこともあります。
誰が不幸になっても、誰が死んでも、振り返れば多くの屍が横たわっていても。
この先、どんな艱難辛苦が待ち受けていても。
ワタルとミツルは、正に『子供』と『大人』の対比ですね。
ミツルも、最後の宝玉を手に入れれば幻界が滅びる、それは間違いである事を頭の中のどこかで知っていた。でも、間違いだと知っていても、それを自分で無理矢理振り払った。「そうなっても構わない」と思うほどの願いがあったから。
そう、大人の視点で観ると、ミツルは決して間違っていないのです。
本当に「正しい事」なんて、きっと誰にも分からない。ミツルも、考えに考えての答えだったのかもしれない。
この映画に、正解はありません。
大人は誰でもそう思うでしょう。だからこそ、微妙な後味を感じたのかもしれませんが。でも、まだ社会の奥深い闇の部分を知らない、触れていない子供にとってみれば、いい機会なのかもしれません。
「本当に大切な事な何なのか」ということを学びとる事を。
しかし、「正解はない」ということを分かりきっている大人としても、もう一度立ち返ってみる上でもいいのかもしれません。分かりきった事でも、『本当に』分かりきった事ではないかもしれませんから。
ついこの間まで春だと思っていたら、もう季節は夏。
爛漫とした空気は過ぎ去り、東京の下町は、どこもお祭りのように活気付いています。
毎日蒸すような湿気が蔓延し、茹だるような暑さが続いても、夏を彩る色とりどりの花や祭事を目にすると、自然と、体の内側から活気が湧いてくるものですね。
小学生の頃、理科の授業や自由研究で欠かせない朝顔。
昔のイメージですと、紫をベースに赤や青の品種が多かったような気がするのですが、入谷鬼子母神の朝顔市では、物凄い沢山の品種が、まるで競い合うかのような咲き誇っていました。
スタンダードな、赤紫、青紫の品種から、白、ピンク、オーシャンブルー。スプライト模様やまだら模様まで。一本の蔓から、四色の花が咲くものもや、海外品種のものまでズラリ。
若干小ぶりの花だったものの、雨露にさらされた花に光が反射する様が美しく、正に花の名のごとく、夏の朝の代名詞にピッタリの花を咲かせていました。
一方で、販売されている朝顔は、どれも小鉢程度の大きさ。
まるでこれ以上成長しないヒヨコのように、行灯作りの背丈もいまいち小さめ。僕の記憶によると、サンサンと照りつける太陽の下で育った朝顔は、無尽蔵といっても過言ではないくらい恐ろしい速さで成長します。蔓の長さは、成人男性の背丈を軽ーく超えます。
小ぶりの成長に止めておくのが、行灯作りの為せる業なのでしょうか? それとも、そこまでしか成長しないように、朝顔を品種改良している、とか…?
科学好きの僕には想像に絶えませんが、何となく寂しい気もします。
まぁ、下町の繁華街を埋め尽くすほどの朝顔の蔓を伸ばされても、迷惑極まりないのは分かっていますがね…。
機会があったら、実家の庭とかで、また小学生の時のように朝顔を育ててみようかと。それこそ限界に挑戦するように。
爛漫とした空気は過ぎ去り、東京の下町は、どこもお祭りのように活気付いています。
毎日蒸すような湿気が蔓延し、茹だるような暑さが続いても、夏を彩る色とりどりの花や祭事を目にすると、自然と、体の内側から活気が湧いてくるものですね。
小学生の頃、理科の授業や自由研究で欠かせない朝顔。
昔のイメージですと、紫をベースに赤や青の品種が多かったような気がするのですが、入谷鬼子母神の朝顔市では、物凄い沢山の品種が、まるで競い合うかのような咲き誇っていました。
スタンダードな、赤紫、青紫の品種から、白、ピンク、オーシャンブルー。スプライト模様やまだら模様まで。一本の蔓から、四色の花が咲くものもや、海外品種のものまでズラリ。
若干小ぶりの花だったものの、雨露にさらされた花に光が反射する様が美しく、正に花の名のごとく、夏の朝の代名詞にピッタリの花を咲かせていました。
一方で、販売されている朝顔は、どれも小鉢程度の大きさ。
まるでこれ以上成長しないヒヨコのように、行灯作りの背丈もいまいち小さめ。僕の記憶によると、サンサンと照りつける太陽の下で育った朝顔は、無尽蔵といっても過言ではないくらい恐ろしい速さで成長します。蔓の長さは、成人男性の背丈を軽ーく超えます。
小ぶりの成長に止めておくのが、行灯作りの為せる業なのでしょうか? それとも、そこまでしか成長しないように、朝顔を品種改良している、とか…?
科学好きの僕には想像に絶えませんが、何となく寂しい気もします。
まぁ、下町の繁華街を埋め尽くすほどの朝顔の蔓を伸ばされても、迷惑極まりないのは分かっていますがね…。
機会があったら、実家の庭とかで、また小学生の時のように朝顔を育ててみようかと。それこそ限界に挑戦するように。
全編に渡って、本当にカッコいい映画でした!
確かに、アメリカ万歳、という、自国の軍事を賛美した保守的な感じは否めませんが、それでも、観る人を感動させる力があるのは、これは『アメリカ大統領』の物語ではなく、『一人の夫』であり『一人の父親』の物語であるからだと思います。
「テロには決して屈しない
交渉も拒否する」
口で言うことが出来ても、家族を人質にされ、大切な人が今にも目の前で殺されそうになった時程の、『国の首領』の考えが如何に無力か、を知らされる。それでも、家族を守るため、仲間を守るために、怯えながらも、時として自分の無力に痛感しながらも、戦い続ける姿に『大統領』ではなく『普通人間』を感じました。
ハリソン・フォードって、あれだけカッコいい俳優でありながらも、『普通の人間』を演じるというところがスゴイ。まぁ、どんなだらしのない役を演じようとも、そのカッコいい容姿と渋い声を覆い隠すことなど出来ませんが、それでも『普通の人間』そのもののオーラを立ち込めている、というのは、何かご本人の特質があってこそなのかもしれません。
『アメリカ大統領』という、一国の首領であり、その一声で(映画の中ですが)ある意味一切の生殺与奪の権を執行できながらも、一旦自分が、自分の家族が、自分の周囲がすぐ間近で危機に陥ると、途端に弱い男に成り下がり、その無力さに痛感する。そんな中でも、家族を、一人でも多くの仲間を救い出すために、限られた環境と物資の中で、頭を張り巡らせ一つ一つ危機を乗り越えていく。
さらに、予測もつかないサスペンスフルな物語が、一層、この映画を釘付けにさせるスパイスでもあるのでしょう。一旦、大統領が一気呵成に仲間を救い出すも、それが敵に見つかってしまい、人質にされ、絶体絶命のところで、頭脳を張り巡らせ、その危機を乗り越えていく。
と、一人の男が奮起して愛するものを守り戦っていく、というスタンスで作られた映画だと思いますが、やはりこれも、いうなれば『テロリスト映画』。
勿論作り話であることに変わりはありませんが、9月11日のあの体験を世界中が感じ取り、「何が善か」「何が悪か」「攻撃することが、力を誇示することが正義なのか」「弱者を虐げて、何が平和なのか」と、世界の人々の中で多様な価値観が目覚め、日増しに争いが大きくなる中で、この映画は、果たして、どのように映るのでしょうか?
「やはりテロは悪だ、根絶やしにしないといけない」「アメリカはイラク戦争で何の成果を挙げたのか、これはアメリカ軍事の鼓舞にすぎない」色々な異論反論オブジェクションが交わされるでしょう。
でもこの映画で伝えたいのは、そんな国云々のことではなく、もっと身近なこと。自分が、自分の愛する人が危機に陥ったとき、「貴方は何をするのか」。
ただ悪を罵るだけの傍観者になるのか、国や自治体の対応を呪うだけなのか。
いつ降りかかるか分からない危機。貴方なら、どうしますか?