「隊長、……失礼、します…」
「おお、入りたまえ。
ん? どうした。そんな浮かない顔をして。
まさか、『結婚祝賀パーティーのドサクサに紛れて、20台前半のうら若き乙女をゲット
だぜ★ロックオン&狙い撃ち大作戦』は失敗に終わった、などと言うのではなかろうな」
「も、申し訳ございませんっっ!!」
「やはり、お前には荷が重かったのかもしれんな……」
「今回は戦場の流れを読みきれなかったことが敗因でした。
音楽バンドの企画が次々と起こり、会場内の来客に照準を合わせる余裕も無く……」
「言い訳はよろしい。
最初からお前にそこまでの期待はしておらん。
だが、この度の戦は確かに企画ものが相次ぎ、周囲の人間とコミュニケーションが取りづら
かったのも事実……。
ならば最後のチャンスを与えるのも、上官としての使命かもしれんな」
「と、申しますと?」
「二次会のセッティングを用意した!
勿論、既に21時を回ったところだから、人数もグッと減っているだろう。
照準を定めやすい環境になるに違いない」
「本当でございますか!」
「うむ! これで作戦遂行も容易になることだろう。心してかかれ!!」
「ぃーやっほーぅい!!」
すみません、明日は休日出勤なのでここまま帰宅してしまいました。
って。
結婚祝賀パーティーはそれが趣旨じゃないんだよ。
そめちゃん&じゅんじゅん、結婚おめでとう。末永く幸せにね。
人間というのは。
一度何かの欲や快楽を覚えると、それに慣れてしまい、それ以上の欲や快楽を求めてしまいます。もっと、もっと。今よりもずっといい欲求を。
けれど、世の中全ての人間が同じように『前以上の欲求』を満たすことなんて有り得なくて。勿論、努力精進の末勝ち取れる人もいるし、たまたま運良くその欲求が舞い込んでくることもあるけれども、大多数の人が、現実を目の前に打ちのめされて。
「オレはなんて不幸な人間なんだ……」
「いつまでたっても私は独りぼっち……」
でもね。
よーく眼を凝らして、周りを見てご覧。
本当に貴方は独りぼっち? この世の人間全てが貴方に冷たかった?
誰一人、貴方に手を差し伸べる人はいなかった?
今まで享受してきた幸せに慣れてしまって、より良い幸せを求めようとしても、結局得たいものは得られず、自分が不幸のどん底に陥っていると思ってしまう。でも、少なくとも、今まで何らかの形で『幸せ』を享受してきたんでしょう? 確かにもう慣れてしまって、幸せ度も低くなっているかもしれないけれど、でも、少なくとも『不幸ではなかった』んでしょう?
不幸と感じてしまう時ほど、人間というのは『自分』を見失ってしまうのかもしれません。
だからこそ、不幸だと感じてしまった時は、一度立ち止まって、迷ってり戸惑ったりしたもいいから、もう一度自分の周りをよーく確かめるチャンスなのかもしれません。
この映画って、コミカルで観ようによってはすごいオフザケ系の映画ですが、ある意味、今自殺を考えようとしている人に対するメッセージも込められているんじゃないかと、割と真剣に考えてしまいました。
この、『シカゴ』を彷彿させるようなテイストの映画。
ロブ・マーシャル監督がリメイクしたら、何気に観てみたいなー、と思いました。
リドリー・スコット氏が監督を務める歴史大スペクタクル作品について、本作は避けては通れない、とも言えるべき作品。
2001年初頭のゴールデン・グローブ賞、米アカデミー賞という、アメリカでの映画作品の権威でもある両賞において作品賞を受賞(作品賞だけでなく、ラッセル・クロウ氏が主演男優賞を受賞しています)し、ようやく浸透し始めた『CG』を用いた表現技法も話題になりました。さらには、1億5000万ドル近くが費やされ、当時ではそれが破格の製作費だった、とか。それでも、これだけの偉大なる賞を受賞したということは、それだけ、その作品の注目度や、完成度、監督をはじめとする製作者、並びに演じる俳優の皆さんの想いがつまっている、とも言えるのでしょう。
歴史大スペクタクル、と申し上げましたが、本作は、いわゆる大軍が押し寄せる、大規模の戦闘が繰り広げられる、大地・海洋など様々な戦地を上空から俯瞰的に撮影する、というものはほとんどありません。もしそれを『歴史大スペクタクル』と位置付けるのであれば、これは、そのジャンルに当てはまらないのかもしれません。
どちらかと言うとこの作品は、『古代ローマ』の時代に生きる男の苦悩や生き様が描かれているのではないか、と思います。とは言っても、『古代ローマ』の時代特有の描き方がされているわけではなく、現代にも通じるところがあります。決して特別なものではなく。
その一人が、本作の主人公、将軍マキシマス。自身も高い戦闘力を誇りながら、策略家としてもその名を馳せ、部下からも慕われ、当時の皇帝であるマルクス・アウレリウスからも絶大な信頼を得る。そんな彼でも、決して権力に媚びず、身近でささやかな幸せを追い求めることこそ至上の喜びとみているが、アウレリウス帝の長男であるコンモドゥスの皇帝即位後、一転して追われる身になり、唯一の心の拠り所だった家族も虐殺される。身も心もボロボロになり、倒れてしまった彼に待ち受けているのは、将軍の時とは正反対の、『剣闘士(グラディエーター)』としての毎日。金儲けの道楽のために、誰かを殺し、誰かに殺されかける、同じ血の通った人間なのに、滑稽な道楽の対象として生命を削り取られることとなる。
しかし、彼はその持前の強さによって死ななかった。いや、死ねなかったのかもしれない。彼にはやるべきことがあったから、それは、自分をどん底に陥れたコンモドゥスに復讐すること。彼にとって剣闘士としての毎日は、くだらない滑稽な殺人ショーでしかないのですが、一方でコンモドゥスに対しては、はっきりと「殺す」と口にしている。これは、殺人という復讐ではなく、国を治める者に値しない失格者の人間を、完膚無きまでに叩きのめす、ということを意味しているのではないかと思います。自分の利益を欲するために人を殺すわけでも、単なる殺人狂として血を求めるわけでもない。結果的に自らの手を血で汚すことになっても、その先の大いなる未来のための殺す。そういう生き様が込められていると思います。
もう一人が、前述のアウレリウス帝の長男、コンモドゥス。歴史上の実在の人物ですが、その評価の多くは批判的。彼自身もよき皇帝として働いていた時期はあったのではないかと思うのですが、現存する資料や歴史学者の見解を見ると、古代ローマのその他の皇帝と比較材料としても、悪評の高さが目立ってしまっている、とか。そして今作も、全体的に見れば、単に己が得た権力を己の赴くままに振りかざし、元老院と対立し、気に入らないものは全て自らの手にかける、という、半ば暴政の手腕を振るっているように見受けられます。
しかし、そんな彼の人間形成に、リドリー・スコット監督が着目したのは、若き時の父親アウレリウス帝との確執。良き統治者は、良き父親とは限らないというのは、どの時代もどの世界もやはり同じようなもので、映像としては描写されていないものの、父親からの十分な愛を受けずに育ったばかりに、父親を無理矢理にでも振り向かせたいがための行動が、のちに己や周囲を顧みない行動、振る舞い、そして政治手法に反映してしまう。特にマキシマスは、アウレリウス帝の絶大な信頼を受けていたこと、本来であれば自分が受けるべき信頼を、血の繋がりすらもない、それでも父親が息子として慕っている、どこぞの馬の骨とも知らぬ輩が受けていたことに、嫉妬心を抑えずにはいられない。だからこそ、マキシマスに対しては、執拗なまでの、時には悪質ともいうべき罠を散々仕掛ける。結局、それらは、民衆からの不評も相まって、マキシマスに看破されてしまうのですが。
さて、そんな悪役の代表とも言うべきコンモドゥスですが、もし自分が、彼と同じような立場だったら、彼と同じことをしない、という保証はあったでしょうか? どんな立場の人間であれ、人はどこかで誰かの愛を求めているし、愛に飢えている。自分と近しい存在であれば尚更のこと。それが、全く関係のない人物に対し愛を発しているのであれば、たとえ発した者、受け取った者にその意思がなくても、「横から掠め取られた」と思ってしまうかもしれません。愛を受けられなかった、という思いの蓄積が、多ければ多いほどに。そこに、人間としての哀しみを、リドリー・スコット監督は見出したのかもしれません。
ただの歴史ドラマにあらず。これは、現代にも通じる、人間ドラマを描いた作品であると思うのです。だからこそ、時を経た今でも、映画ファンに絶大な人気を誇っているのかもしれません。
久々に実家に帰ってのんびりと過ごしていた折、妹夫妻が遊びに来ました。
その手には何と、Wii
がっ!!
まだ買って間もない時期なので、とりあえずソフトは『Wii Sports』のみ。
けれどこれがめちゃくちゃ楽しいのです。
一番驚いたのが、やっぱりセンサーの性能のよさ。
操作者の動きと画面上のキャラクターの動きに、全くと言っていいほどタイムラグを感じません。しかもあさってな方向に誤って動くような事もほとんどなく。
今までは、一部を除いて平版にボタンや十字キーがあるゲーム・コントローラーが通常でしたが、Wiiはその『通常』を覆し、ゲームの遊び方を飛躍的に増やしたのではないのでしょうか。
(勿論、今まで通りの平版にボタン、という使い方も出来るみたいです)
とりあえず、テニス・ボウリング・ゴルフに興じました。まぁこれが面白くて面白くて。
実際に体(といっても手と腕が主ですが…)を動かしながらのプレイなので、家で手軽に出来る『本物の遊び』ですね。擬似的ではあるにしろ。
これは確かに、中高年の方々も食いつくゲーム機だろうし、アメリカで発砲事件が発生したのも頷けるわ。
任天堂が初めて世に出したゲーム機『ファミリー・コンピュータ』。それが、ようやく本当の家族で楽しむゲーム機として帰結したのかもしれません。いや、むしろここからが、ゲーム機としての新たなジェネレーションの第一歩なのかも。
少なくとも一人暮らしの家ではやるゲームじゃないと思う。
一人で黙々とボウリングとかやってても…… ねぇ。
ジェームズ・ボンドのイメージというと、洗練された紳士、シャープで冷酷な暗殺者、というイメージが強いですが、今作のジェームズ・ボンドはそのイメージとはかけ離れた、というより、真逆の印象を受けます。
90年代末、携帯電話が一般家庭に登場したものの今よりもずっと普及率が低い時代に、携帯電話を持っていることで優越感に浸る高校生のような。「オレってもう大人なんだぜー」と、携帯電話持っているだけで大手を振って大人の仲間入りをする『振り』をする、それと同じような感じを受けます。言うなれば、『00』の称号を得た事で、無理矢理自分を背伸びして『華麗で冷徹な暗殺者』を装っている、とでもいうのでしょうか。
ダニエル・クレイグがそういう印象を持つ俳優でないとは思いますが、少なくともピアーズ・ブロスナンでは無理でしょう。あれだけ洗練されたダンディーさを醸し出しているピアーズ・ブロスナンに、初期の初々しいジェームズ・ボンドを演じるのは困難かもしれません。
というわけで、この映画はジェームズ・ボンドというより、一人の英国諜報員の初任務を描いた映画、という方がしっくりくると思います。その、ただの諜報員が活動の最中であまりにも残酷な経験をすることで、初めて本当の意味での『ジェームズ・ボンド』が誕生する、という感じでしょうか。
ですので、今までの作品の『ジェームズ・ボンド』像を想像していた人から観れば、賛否両論なのかもしれません。だって今作はあまりにもヤンチャで、無謀なところがありますから(笑)。
世界各国の『007』ファンが、原作の第一作『Casino Royale』の映画化である今作のジェームズ・ボンドに、ダニエル・クレイグを起用した事に失望し、今後は『007』を観ない、というボイコットをしたのは懐かしい話。それもそのはず。今までのジェームズ・ボンド役をこなした俳優が、錚々たる人物ですから。
しかしよくよく考えてみると、初期のジェームズ・ボンドを、今までの俳優が演じていたらどうなっていたか。勿論、『00』の称号を得て間もない時に、既にダンディーさに溢れている、というのもちょっと不自然な感じがしますし、その洗練されたダンディーさを以って演じた彼らが、一転喧嘩っ早いやんちゃな駆け出し諜報員を演じたらどうなるか。
多分、それこそ『007』ファンがかけ離れることになるのでは、と。
実際、僕はダニエル・クレイグが出演している作品はあまり観た事が無く、「こういう色をした俳優なんだ」という自分の中での解釈が成立していないので、そういう意味ではこの映画に割とすんなり入ることが出来ました。そして、ラストの一連の任務を終えて過酷な経験を積んだことで、本当の意味での冷酷なスパイになったジェームズ・ボンドの眼光といったら…!
「ああ、ここからが本当の『ジェームズ・ボンド』の話なんだなぁ」と思います。
まずは、『007』シリーズの映画、としてでなく、『一人の英国諜報員』の映画としてご覧になって下さい。最後、本当の『007』が確立するのを、目の当たりにするはず…!