それは、ただの探究心ではなく、恍惚に浸り、自らの官能を満たすための欲望の標。
その香りが、欲しい
たった一瞬、我が掌中に収まるだけでは飽き足らない。その香りは自分のものだ。永遠に自分のものだ。死ぬまで。いや、死んでも尚。
その香りが、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい
これまでにも、芸術性に溢れる映画作品は数多く輩出されていますが、『香り』を、芸術作品のように美しく、そしてサイケデリックに表現した映画というのは、今作が初めてなのではないかと。
人格を疑われそうで怖いのですが(笑)、サイコスリラーの要素満載の映画は、僕の好きなジャンルの一つでもあります。
あらゆる香りを、それが遠く離れたものでさえも嗅ぎ分けられる鼻の持ち主。
至高の香りを求めた結果、ついに彼はえもいえぬ香りに到達する。
何としてでも手に入れたい。この探究心が満たされるのであれば。
だが、もはや探究心ではなくなっていた。その香りを手に入れるため、おぞましいほどの凶行に手を染めてしまったから。
彼が頭を垂れる対象は、その身の全てを委ねてしまえるような、麻薬のような『香り』。
それ以外は、ただのモノ。彼の欲望を満たすためだけの、ただのモノ。
だから、善悪が分からない。何が良くて、何が悪いのか。
我が望みを叶える為に、必要なものを手に入れようとしただけだ。
何がいけない? 何が悪い?
見ろ。我が凶行の成れの果ては、こんなにも多くの人間を平伏させている
香水の瓶から放たれる香り。それは、生きとし生きるもの全てを狂わせる、甘く、魔性を帯びた禁断の香り。全ての人間が涙し、全ての人間が悦に耽る、神の如き香り。
残念ながら、『映画』という媒体である以上、本当に『香り』が伝わってくることはありません。
この作品において、どのように『香り』を楽しむか。
それは、目に飛び込んでくる映像と、耳に入ってくる音声で楽しみます。
たから、なるべく静かな、雑音が出ない人の少ない日時にご覧になることをお勧めします。
映画では『香り』が伝わらないからこそ、その目を凝らし、その耳をすまして感じ取る『香り』。
足を踏み入れれば、もう元に戻れない禁断の領域。でも、足を踏み入れずにはいられない『悦の世界』を、感じることが出来るはずです。
赤ちゃんポスト
親が養育できない新生児を受け入れるシステム。熊本県の医療法人・聖粒会が運営する慈恵病院が導入を発表したもの。人目につきにくい病院の外壁に縦45センチメートル、横64センチメートルの穴を空けて、開閉できる扉を設け、36℃に温度管理された特製の保育器を置いておく。育てられない親が新生児を入れるとその重さでセンサーが感知し院内にブザーで知らせる。そのブザーとともに助産師らが駆けつけるという仕組み。監視カメラはつけず、「もう一度、赤ちゃんを引き取りたいときには、信頼して、いつでも連絡してください」といった手紙を置いておくという。ドイツ・ハンブルクに先例があり、キリスト教系の社団法人が2000年から設置し、70か所以上に広がっている。同病院では「赤ちゃんポスト」の設置理由について、「望まれない子供」がいることと、若年層の中絶防止を挙げている。
Yahoo! 辞書より抜粋
赤ちゃんポストの設置に伴い、各地で賛否両論の論議が繰り広げられています。
幼児虐待や育児放棄が横行している昨今、幼くして命を落とすくらいなら誰かに助けてもらった方がいいから賛成、とか。
逆に「そこに預ければ誰かが面倒を見てくれる」という考えが芽生え、かえって育児放棄が助長されるから反対、とか。
本当は、赤ちゃんポストは必要ないと思っています。
赤ちゃん一人一人が、本当の親元で育って、両親も、自分の血肉を分けた我が子を育てることができるのであれば。
できないから、『赤ちゃんポスト』という救済措置が必要になってきてしまいます。
それに、赤ちゃんポストは、不運の境遇に陥ってしまった赤ちゃんだけでなく、不運の境遇になりかねない親御さんへの救済措置でもあるはずです。
人間というのは、いや、人間だけではなく知性を持つ動物は、ストレスが溜まると、必ず弱いものにその鬱憤をぶつけます。人間の場合は、赤ちゃんですね。無抵抗で、力も無いから。容易に破壊の対象になる。それで、赤ちゃんの人生でなく自分の人生も全て台無しにしてしまう。
でも、その救済措置ですらも、『今ある選択肢の中での最善策』であって、『本当の意味での最善策』にはなりません。
赤ちゃんポストは必要ない、と思う理由は、もう一つあります。
その子が小学生とか中学生とか、一番多感な時に、ふとしたきっかけで『赤ちゃんポスト』に入れられた子供だ、ということが分かってしまった時。
「捨てられた子」「親に見離された子」として、いじめの対象にされてしまわないかどうか。
『その時』子供を救うことが出来ても、『これから先』もその子を救い続ける存在になれるかどうか。
多かれ少なかれ、人間は誰かを差別し、自分の優位性に浸る動物ですから、『赤ちゃんポスト』に入れられた、という事実が、その子に対する一生の『傷』になってしまう可能性もあります。
勿論、『その時』がなければ『これから先』など無いのですが……。
いずれにせよ、「もう『赤ちゃんポスト』は必要ありませんよ」と言えるような、そんな社会にしていきたいですね。
数多とある山積みの問題が、目の前に聳え立っていますが、それでも、一人でも多くの『親』と『子供』が、幸せな一生を送れるような、そんな社会にしていきたいです。
「諸君、最善を尽くせ」
『硫黄島からの手紙』で、西竹一中佐が最期に述べた言葉。
『最善』とは、一体何なのだろう。こういったニュースを目の当たりにするたびに、そう思います。
多くのヒットを世に送り出したい、経営者。
自分の理念と魂を表現したい、アーティスト。
何もかもが違う人間が、同じ舞台に立つ。同じ舞台の上で、違う線が交じり合う。交じり合って出来上がるものが何なのか、それがどこへ向かうのか、きっと誰も知らない。
それが、彼らの望みが絶望へと変わり、打ちひしがれるものかもしれない。でも、彼らは止まることが出来ない。止まってしまったら、彼らの望み『そのもの』が潰えてしまうから。
ショー・ビジネスの、表舞台と裏舞台の悲喜交々。煌びやかに輝き、歌い、踊り、世界を華やかに彩る彼女達も、その裏では数々の陰謀や確執のマリオネットと化していた。彼女達が表舞台に出るたびに、一曲一曲歌うたびに、有名になっていくたびに、少しずつずれていく夢への道筋。
気づいたときには、もう、自分が見えていた、見ようとしていたものが、見えなくなっていた。
「どうしてこんなことになってしまったのか?」
そう思った彼らは、やがて気づく。その答えは、『自分自身』の中にあるということを。
もう戻れない。やり直すことさえままならない。ましてや、失ったものを取り戻すことなど。
ならば、これからの道を突き進むしかない。どんな困難が待ち受けていようとも、何回挫折に見舞われようとも。己の力で、己が最も信じる道を。
歌、踊り、パフォーマンス、そして生き方。
スクリーンに映し出される彼らの生き様は、正にパワフルそのもの。
そして時折魅せる繊細さと、人間が人間であるが故の愚かなかけあい。光と影、表と裏に翻弄される彼らは、正に現代にも通じる何かを見せられているようで、最後まで引き付けられる作品でした。
でも、何より作品から溢れるばかりのパワー! これには、圧倒される方も大勢いらっしゃったのではないのでしょうか。
人間は決して一人では生きていくことは出来ず、一方で、複数の人間で生きていくからこそ、必ずそこに軋轢が生じ、時として個々の関係に亀裂を生じさせることがあります。
一旦壊れてしまったものを、元に戻すことは、そうそう容易なことではありません。だからこそ、それをどのように乗り越えていくか、そこに、人間が持つ本当の『強さ』が表れるのではないのでしょうか。
お客さんに提出する提案資料、10部全て印刷&製本完了!
訪問まであと3時間もあるし、珍しく余裕を持って準備することができたなぁ、と感慨に耽っていたその瞬間、
「Cyberさーん、今日の提案資料、この部分追加してねー。」
と、いきなり同行する上長に呼び止められ。
ったく、昨日あれだけ確認したのに、なーんで今になって追加部分が出てくるんだぁ!?
まあでも、追加部分はほんの一行ですので、ホッチキス外して追加部分の紙を差し替えて、またホッチキス留めする程度ですので、そんなに時間は食わない簡単な作業であるんですけど。
文句はタラタラ言わないものの、ブスッと不貞腐れて修正業務を請け負ったら、
「あ、Cyberさん、今『直前になって面倒くさい仕事振りやがって』とか思ったでしょ。」
と、嫌みったらしく聞いてくるので、こっちもつられて、
「あ、分かっちゃいました? すみませんねぇ、心が狭くって。」
と切り替えしたら、
「大丈夫だよ。その分おでこが広いから。」
てやんでぇバーロー畜生!
てやんでぇバーロー畜生!
てやんでぇバーロー畜生!
人間関係力89(やや不足)が、まざまざと露呈された瞬間でした。 orz
「この話、絶対秘密だからねっ!」
と念を押される話ほど、いとも簡単に周囲に知れ渡ってしまうのはお約束の話。でも、中にはその知れ渡ってしまった秘密が、冗談で通用しなくなることもちらほら。それが発端で、いじめとか、差別とかに発展することもありますが。
中でも、「周囲に知れてしまえば、確実にその人の人生を台無しにしてしまう」秘密は特に。
まあ、大抵その人は、自己防衛のために自分の重大な秘密は決して誰にも話すまいと固く自身に誓うのでしょう。
けれど。
人は生きていく限り、必ず誰かと接する。誰かに触れ合う。
「誰も自分の苦痛を共有できない」ことは、ずっと黙っているより辛いことかもしれません。
この作品で重要なポイントの一つとして、僕自身が考えたのは、「誰かの最も重い苦痛の経験を聞いて、それを受け止める、それを共有できる覚悟」にもあると思います。
その人が何故話をするのか。今まで誰にも話さなかったのに。
それは、話す相手を信じているから。共有してほしいと思っているから。
本当は、この苦痛をもうこれ以上自分だけで背負いたくない。誰かに聞いてほしい。理解してほしい。
でも、誰彼話せるものじゃない。自分と同じ苦痛を味わったことが無い人には特に。
これは、『父親たちの星条旗』にも、似たようなものがあります。
「硫黄島の戦いという惨状は、決して誇らしげに人に話せるものじゃない」と。
とても重く、とても難しい作品です。
『決して触れてはいけない秘密』。けれども『触れなければその人が潰れてしまう秘密』。
貴方は、それを受け止める覚悟はありますか?