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2024/05/20 07:36 |
[Review] 太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-
太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-『硫黄島からの手紙』では、栗林忠道中将を中心とした、硫黄島の戦いが、『俺は、君のためにこそ死ににゆく』では、鳥濱トメさんと彼女が甲斐甲斐しく世話をした特攻隊隊員が、『男たちのYAMATO』では、戦艦大和に搭乗する若き船員達が、今にも死ぬかもしれない状況の中での彼らの生き様と、そんな身であろうとも尽き果てることのない願い・望みが描かれている。本作は、サイパンの戦いで己の使命と向き合いながら戦ってきた、大場栄大尉の物語だ。
昨今の、太平洋戦争を描いた作品で、主だったものと言えば上記の作品になるが、これまで公開された作品を紐解けば、その数は更に多くなり、人々の心の中に、当時の彼らの心意気・恐怖・信念を語り継ぐ作品となれば、枚挙に暇が無いであろう。そして、そんな作品を鑑賞するたびに、僕は思う。

「ああ、僕は、彼らの生き様、覚悟、信念、恐怖、そして祖国に対する思いといったものを、全然知らない」
と。

上辺だけの知識では絶対に知ることが出来ない、当時の人々の生き様や覚悟。後世まで戦争の意味と、それを引き起こすことによって支払われる残酷な対価は、歴史教科書上の知識だけでは決してまかないきれるものではない。
だからこそ、事実を元にした作品に出会えたことは、僕にとってはこの上なく嬉しく思う。けれど、この作品を知るまで、『大場栄大尉』の存在と、彼の功罪、それによる苦悩は、一体どれだけの人が知っているのだろう。
ましてや、本作の元となった原作は、敵国の兵士でも会ったドン・ジョーンズ氏の著書『Oba, The Last Samurai Saipan 1944-1945』(訳書:『タッポーチョ「敵ながら天晴」 大場隊の勇戦512日』)なのである。同じ時代を生きてきたからかもしれない。それでも、アメリカ人の方が、当時の日本兵を知ろうとし、それを記録に残そうとしているのだから、日本人としては何とも情けなく、恥ずかしい思いもしてしまう。
当時の彼らの生き様や覚悟を、知ろうが知るまいがは、今を生きる私たちの選択だから、それはそれでいいと思う。でも、知る場を絞り込まれたり、限定されてしまうのは、個人的には好ましくない。また、今私たちが普通に生きていける社会にいるのは、彼らの望みでもあるからだ。それは、これからも私たちが生きていく上で、かみ締めなくてはならないと思う。


さて、今作は、主人公は大場栄大尉であるけれども、終始彼を中心とした作品にはなっていない。結果として、『大場栄』という人物が、サイパンの戦いで神出鬼没のようにアメリカ軍を翻弄する戦い方をし、アメリカ軍から『FOX』と呼ばれている、ということであるだけ。
『父親達の星条旗』や『硫黄島からの手紙』のように、日本とアメリカ、双方の視点から描かれており、双方の映像としての登場も、必ずしもどちらかに偏っている、というものではない(正確に分数を測ったわけではないが、そのように感じた)。
また、題名に『奇跡』という単語が使用されているけれど、特別神格化された何らかの現象が起こったわけではない。それぞれの登場人物が、それぞれの思いを馳せ、やるべきことをやった結果が目の前にある、という感じといえよう。
そして、この作品にも、惨たらしく人を殺す兵士もいる。しかし、日本軍とアメリカ軍が、完全であれ不完全であれ、『善』と『悪』に分かれた描き方をしていない。第一次世界大戦の、スコットランド軍とフランス軍、ドイツ軍が陣営する場所でのクリスマスの出来事を描いた『戦場のアリア』のように、単に殺し合いをするだけでなく、お互いの何らかの交流もあったに違いない。多くの『死』がサイパンを覆う中で、血と死肉の硝煙の匂いが充満する中で、『生』の象徴である一人の日本の赤ん坊。アメリカ兵は、その赤ん坊を無慈悲に殺すことなく、手厚く保護した。収容所に収容された日本人についても、必要以上に傷付けるようなことはしなかった。
本当の意味で、戦争は、『善』と『悪』には割り切れない。そんなメッセージが、この作品には込められている。

それでも。
戦争を体験した人間にしか、当時の辛さ・苦しさというものは、きっと分からないかもしれない。
本作の主人公・大場栄大尉を演じたのは、竹野内豊さんだ。ただ、それ以上に目を見張ってしまったのは、野営地で怪我人を看護する井上真央さんだ。
看護士は、怪我や病気を治す役割の人。いわば戦争の中でも『生』の役割を持つ人物だと思う。そんな人物でも、自分の名前を呼んでくれる、大切な家族が惨たらしく殺されてしまえば、その目は暗く澱む。「あいつらを殺したい」という台詞にも代表されるように、まるで人殺しの表情になる。数々のドラマで、明るく振りまく役が多かった彼女だけに、ほぼ終始ネガティブの表情には驚くばかりだった。でも、それだけ、戦争が人につける傷は、深く、その後のどんな人生を歩んで行こうとも、簡単には拭いきれない、と思った。


数々の大戦の中には、きっと、日本史には載らない、でも、日本という祖国のために必死で戦い抜いてきた名も無き人達がたくさんいると思う。そういった人達を知る機会は、そんなに多くないかもしれない。でも、たとえそれが『映画』であろうとも、そういった生き様を持った人達と触れ合える機会があれば、是非、触れていきたいと思う。

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2011/02/11 22:29 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] RED

REDブルース・ウィリス氏はともかくとして、アクション映画に登場する50台以上のキャラクターといったら、組織のトップとか司令官とか、主人公が狙う組織の黒幕とか、そんなイメージ。特に大きなアクションをするわけでもなく、存在するだけで威圧感を漂わせる役割。大抵、実際にアクションするのは、20~30台を中心とした、今をときめくアクションスター。それだけではアクションスターで、あとはどれだけ物語の重みと奇想天外なアクションを展開するか、によりますが。

本作品も、B級アクション映画よろしくの展開。CIAで優秀な分析官であるはずが、過去のとある作戦の生き証人になっていたがために、逆に追われるはめに。しかし、その優秀な腕と卓越した頭脳で様々な局面を突破。協力者も現れ、徐々にCIAと『過去のとある作戦』を追い詰め、暗部を剥がされていく。
そんな、あまりにもありきたりすぎるアクション映画でも、その主役が、50~60台を中心とした、大物だけどアクションに到底向きそうも無い役者だったらどうなるか。もう、「ええぇ~っ??」とか「本当に??」と驚くしかありません。

前述のブルース・ウィリス氏は、『ダイ・ハード』シリーズを始めとする様々なアクション映画の出演の実績がありますがら、まぁそれはいいとして(実際に、ほとんどがブルース・ウィリス氏とメアリー=ルイーズ・パーカー氏の展開だけだったら、そんなに目新しいものはありませんから)。
モーガン・フリーマン氏は、正にアクション映画では組織のトップ役や黒幕役が多い。サスペンスやヒューマンドラマ系も多いですがコメディ映画も多いですので、本作出演でもそんなに違和感が無く。ジョン・マルコビッチ氏も、奇抜な役割の作品を鑑賞していたこともあってか、やはり違和感も無く鑑賞できるものの、登場シーンや銃器を扱うシーンを見ても、「これで、もうすぐ60歳??」と思うばかり。
そして。何よりもビックリしているのは、ヘレン・ミレン氏!! 『トレジャー・ハンター』に老練の考古学者として登場した時も、アクション要素が高い作品とはいえ、そこまでアクションに興じるシーンはありませんでした(少なくとも彼女に関しては)。あとは、『クィーン』のような、凛とした役を演じるヒューマンドラマ、とか。それが、何食わぬ顔でマシンガンをぶっ放す! さも普通に銃器を扱う! 多分、ミセス大好きドM男からすれば、垂涎の的かもしれません。
そんな一堂に会し、現役時代は付きつ離れつ、恋したり殺しのターゲットになったりと、まさに現場たたき上げの面々達。だからこそ、そんな彼らがチームを組み、たとえ物語の流れに組み込まれた演出とはいえ、若年の傭兵やCIA幹部を手玉に取るところなんか、爽快感を感じずにはいられませんでした。

さすがに、往年のアクションスターよろしく、身体を張ってこれでもかというくらいのアクションを演じる、ということは無理のようです。まぁ、ブルース・ウィリス氏は映画の世界では根っからのアクション・スターとして叩き上げられてきましたので、彼が織りなす取っ組み合いの格闘は要素として組み入れている、として。
いわゆるスピード感を求めるのであれば、本作は向かないかもしれませんが、老練してますます冴えわたる度胸と、長年積み重ねてきたキャリアの表れでもある、観察眼と行動力を楽しむ作品として位置づけられているのかもしれません。

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2011/01/30 06:37 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ソーシャル・ネットワーク
ソーシャル・ネットワーク友達にしたら確実にメンドクサイと思われる人、と言われたら、確実に挙がる人だろうなぁ、というのが第一印象の作品。凡人にしたら絶対に分からない、分かるはずのないその卓越した頭脳は、まるで北野武監督を彷彿させます。得てして、『天才』と呼ばれる人はそうなのだと言わんばかり。
加えて、話すのが早く(彼だけではなくその周囲の人も)、ただでさえヒアリングに弱い僕が、一層英語を聞き取れず字幕にすぐさまギブアップしてしまったのは言うまでもなく。加えて自信家で、自分の作るものを誇示して止まず、頭にひらめいたらすぐさま行動せずにはいられず、そのくせ人の意見や忠告にはほとんどといっていいほど耳を傾けず、ひたすら狭い視野の中で自分の臨むままに突っ走る。周囲はそれに辟易し、構いたくないし構われたくもないと思いつつも、どこかで彼を意識せざるを得ない。いい意味でも、悪い意味でも。

そんな、いい意味では破天荒で型破りで、悪い意味では自分の信じたものしか持たず侍らず磨かない視野の狭い、気まぐれではないにせよ自分の視野・視界に入らない、または入る価値のないものは容赦無く振り落す主人公。そのまま年を取り、Facebookを世界的に有名にしても尚そんな自分で居続けるのかな、と思ったら、そこから先は思わぬ展開が。
一つは、Facebookの立ち上げから一緒だった友人が、『裏切り者』になってしまう、ということ。正確には意図的に『裏切り者』になったわけではありません。成り行きと、その後、巨大化したFacebookと彼との意識や方向性の違いが、そうなってしまった、というのが所以かと。
もう一つは、自分の意向や誇りと方向性を同じくしている人の、本性を知ってしまう、ということ。誇大広告とも捉えかねないが、一部の人にとっては心を鷲掴みにされてしまうくらいの卓越した話術。主人公にとって、譲れないものを抱えながらも、それを持続させるためのアイディアとコネクションを捻出。主人公にとっては、有難い存在ではあっただろうと思います。その時が来るまでは。慢心家の裏に潜む『危ない奴』の本性。きっとそれは、友人だけが知っていたのかもしれません。

そうして彼は、『億万長者』になりました。勿論、そんな成功を支援する『億万長者』もいれば、彼の『億万長者』を妬む者も。後者の方は、実際はどうなっていたのかは分かりませんが、少なくとも映画の中での描写では、正に敗者の薄汚いとも言える逆襲。まぁそれも、主人公のことが気になって仕方がないことの裏返し、とも言えなくもないですが。
それはともかく。
Facebookが成長するにしたがって、会員数も増えて、自分が手掛けたことが大きく成長していくのは嬉しかったけれど、結局のところそれはインターネット上での話。リアルな世界では、これまで一緒に戦ってきた人との軋轢が増えるばかり。そこで気づく。彼が本当に欲していたもの、望んでいたものは何か、を。
僕も実際そうじゃないから、素直じゃない人の気持ちはわかる。彼は、自分を見てほしい、自分を必要としてほしい、自分を認めてほしいという自己顕示を素直な形で表現することができない。だから捻くれた形での自己表現しか出来ない。Facebookは、素直じゃないがゆえに鬱積した感情が、彼の技術に対してぶつけた結果だとも思えます。そのぶつけた力が、世の中の面白さの原動力となり、最初はハーバード大だけ、次第にアメリカ国内の大学だけでなく海外の大学まで波及し、果ては社会に浸透する。それだけならいいとしても、結局のところ会社を運営するのは人であり、人は気持ちなくして動くものではありません。機械ではありませんから。

日本では、mixiやGREEが主流のソーシャル・ネットワーキング・サービス。しかし、それを利用しているユーザは、いったいどこまで自分の本当のことを公表しているのでしょう。そして、利用者は、いったいどこまでがその人の本当の情報だと思っているのでしょう。
まるでそれは、主人公を取り巻く周囲の人こそが、ソーシャル・ネットワーク内の嘘と虚栄に塗り固められた人物のよう。『天才』も『裏切り者』も『危ない奴』も『億万長者』も、彼の周囲を表しながら、それがそのまま彼のソーシャル・ネットワークとして形成されているようにも見えます。

現実世界とネット(仮想)の世界。一見すると、現実世界には本当(リアル)が目の前に現れるが、仮想世界は、それが本当のものかどうかは分からない。多分、嘘の情報が多いかもしれない。しかし本作の描写は、まるで、本当と嘘が逆転しているかのような錯覚も受けます。実際のところ、本作でなくても現在の世界も同じようなことが表れているようですが… いずれにしても、彼が本当に臨んだ姿とは、かなり違った形で成長したのでしょう。
彼にとってそれは、進化と呼ぶべきか退化と呼ぶべきか。多分きっと退化なのかもしれませんね。それは、彼のラストの描写が、物語っていると思います。

終始、会話が早くて聞くだけでは疲れてしまう作品です。途中まで観て、「あー、失敗したかな」と思いましたが、後半の展開を観て、なぜあれだけの賞を受賞し、またノミネートされたかの理由がわかりました。
一人の若者の、それを取り巻く若者の、成長と挫折と本当の臨むことが織り成す物語。あまりIT関係の難しいところに傾倒せず、登場人物の心の描写を鑑賞する作品だと思います。

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2011/01/25 22:50 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] アンストッパブル

アンストッパブル事の発端は、整備不良と操作ミスからなる人的行為。『それ』単体から見れば、実に取るに足らないこと。けれど、その『取るに足らないこと』が、その後、思わぬ事態を招くことになる。「まぁ、こんなもんでいいかな」という安易な考えが、大災害に発展することだってある。
身近なことから国家管理に至るまでのあらゆる『些細な人的行為』を、僕はこれまでたくさん目の当たりにしてきました。それによる損害は、単に口頭注意で終わるものもあれば、損害賠償にまで発展するものまで、「こんなもんでいいかな」という考えが招く、自分だけでなく他者の一生をも巻き添えにしてしまうほどの事件・事故。この作品は、2001年に実際に起こった貨物列車の暴走事故を元に作成されたものです。

この作品で分ったことは、乗用車であれ列車であれ、巨大でパワーのある鉄の塊は、運搬の世界においては強大な文明の利器になりますが、

使い方を誤れば、もはや手の施しようの無い凶器になる

ということ、につきます。たかが鉄道、されど鉄道。動力が完全な電気ではなくディーゼル機関車なので石油燃料も使用されていること、機関車は馬力が肝心。それに加えて力行となり速度が上昇、もはやそれだけでもリーサル・ウェポンなのに、運搬物が毒性の強い溶解フェノール。万が一を考え脱線計画を試みるも、暴走列車の行く先は郊外の市街地。そんなところで脱線させれば、鉄道会社や薬品会社の損害云々の話ではなくなってしまうのは言うまでも無く。
結果として、死者や損壊が発生したものの大惨事には至らりませんでした(映画では死者が出てしまいましたが、実際の事件では死者は出てないんだそうです)。


この作品でのポイントは2つ。

1つ目は、見慣れた、見知った、身近なものでも、視点を変えれば、身を震え上がらせるほどの凶器になり得る、ということ。
乗用車にしても鉄道にしても、今にも身体がもぎ取られるくらいのギリギリの感覚で見ることなんて滅多に無いはず。しかしこの作品では、まるで『鉄道 = 凶器』とでも言わんばかりの描写の仕方をしています。勿論、「鉄道は凶器です。生命を奪うものです。皆さん、鉄道に乗ってはいけません」なんていうことを主張しているわけではありません当然ながら。しかし、『文明の利器』という視点のみで見ていると、その表裏一体として見え隠れする、いや、「本当は見えているもの」が見えなくなります。むしろ、『文明の利器』を追いかけるあまり表裏一体の凶器の面を、「見て見ぬ振り」にされてしまうことが多いのではないかと。
これは鉄道に限らず、様々なものにも当てはまります。人間が作ったものは、決して『便利さ』というプラス面のものだけが存在することではない、ということです。

2つ目は、たとえそういった事件・事故が起こった時に解決できるのは、やはり人間だということ。人間が『文明の利器』を作り、その『文明の利器』に潜む『凶器』を作り出しても、その解決をするのは、やはり後にも先にも人間だということ。
それも、知恵と力と勇気を振り絞って立ち向かう、ということ、それぞれがそれぞれの出来ること、やれることの範疇で、最大限のことを成すこと。
そりゃ、理想は己の力の120%を引き出して死に物狂いで頑張れー! なんて出来ればかっこいいかもしれませんが、今作に登場する人は、別に特別な能力を持ち合わせているわけでもない、普通の人達。家族もいるし、ちょっとワケアリの人生を送ってそうな人達だけど、何もかもが普通の人達。そんな人達に、「5分後にスーパーマンになって」なんて言える筈もないし出来る筈も無い。
でも、彼等は成し遂げた。結果的にだけど。でも、彼らの考えうる頭と能力を使って。出来る限りのことを。知恵を絞って、乗り切ったこと。それもまた特別なことじゃない。どんな人のどんな人生にとって、全てに共通していることだと思います。
出来すぎだとお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、それでいいのです。それがドラマなのですから。


今でも僕は、過去の妄執や確執にとらわれて、未来すらも黒いドロドロした得体の知れない『何か』に飲み込まれそうな、そんなことを思います。そんな底なし沼に、きっと死ぬまで立ち泳ぎでもしなければならないかもしれません。
でも、たとえそれが形式的なことであっても、単なるその場しのぎであっても、『自分が出来ること、自分がやれること、能力の限りを最大限に』を念頭に置きながら、頑張っていけたら、と思います。

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2011/01/16 23:51 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[和歌山] これまでとこれからを考える旅

遅れ馳せながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、一部の方にはお伝えしたことですが、昨年、2か月ほど休職を取り、11月半ばに復職しました。
原因は統合失調症による鬱状態。と言っても、仕事が嫌ではなく、むしろ好きな遣り甲斐のある分野。急成長分野であるが故のプレッシャーと疲労の蓄積。それだけならまだしもでした。前にも書きました通り、自己管理と自己主張の無さ、『人のため』を勘違いしていたことの裏目、事の次第の流れがあまりにも他力本願であることが、自分を余計に追い詰め、今回の件に至ったわけです。自分の浅はかさが招いた事態であると言わざるを得ません。

でも、起こってしまったことを無にすることなど出来ない。基本的に生き方や気持ちの切り替えが超下手くそ人間なので、少しずつ、今の現実を受け入れ、その後、自分をどうしていきたいかを、ゆっくり考えていこうと思います。
また、非常に悔しいこともありました。周囲と比べること自体馬鹿げている、とお思いになるかもしれませんが、それでも、今の自分と、その周囲(同僚や友人等)と間に、歴然とした差が生じていると感じると、愕然とせざるを得ませんでした。これが現実。この程度の人生しか生きていない。悔しくて悔しくて、泣かなかった日は無いかもしれません。
しかしながら、ただ悔しさのあまり泣き伏していても何も始まりません。現実から目を背けたとしても、現実が目の前から消えてなくなるわけにはいきません。これが再出発。その間にも、同僚や友人は、どんどん先を行き、その差は歴然となるに違いありません。それでも前に進まなければならない。僕のような朴念仁には、一段抜かしをしながらダーッと駆け上がることは出来ない。着実な前進をしていくのみだ、と改めて感じました。


高野山へ旅をしたことも、当初は、自分を見つめ直す、という目的ではありませんでした。しかし、こういった経緯を思い起こすにつれて、今の自分に出来ること、今の自分に必要なことを想起させられたのです。

 

高野山 壇上伽藍の根本大塔 高野山 奥之院への雪の参道 高野山 奥之院 燈籠堂



和歌山県という位置からして、個人的には雪国という連想はありません。南紀白浜の白い浜辺や、鬱蒼と生い茂る熊野古道、水と緑が豊かな那智大社などがあるからだと思います。しかし、高野山はもはや別格。冬の高野山は、その土地柄が成しているのではと思うくらい、厚い雪に覆われています。
その日は全国的に晴れた一日。南海高野線の終着駅・極楽橋駅では、雪の面影などほとんどないくらいの、カラッとした冬晴れの気候に覆われていました。しかし、ケーブルカーに乗りかえり、数分の後に状況は一変。一面の銀世界に、世界はその様相を変えていきました。

下界とは打って変わっての高野山の世界。幸い、雲が若干多めであるものの、概ね晴れていたので、劈くような寒さではありませんでした。しかし、予てから目に留めておきたいと思っていた、雪に覆われた高野山の姿を目にすることが出来て、何とも恐悦な思いがしました。
ケーブルカーの高野山駅から、壇上伽藍までの距離が少々あるものの、壇上伽藍や金剛峰寺に到着してから、奥之院までの距離は、思ったほど遠くは無く、予定を計画的に実施すれば、1日で回れる広さではないかと思います。それでも、ケーブルカーの車内放送でもあったように、高野山は、正にそれ自体が街。仏教系の学校もあり、(食料調達等は別として)高野山だけでも十分に完結した生活が出来るように思います。

真冬の時期でしか見られない、雪で覆われた寺院に、ただただ魅入ってしまっていても、原則として、寺院内の暖房はありません。本堂の中に入っても、ほのかに蝋燭の灯りと温もりが感じられても、外気とそれほどの差は無いと思います。寒さが厳しくなれば、それこそ、一日中、手足が悴んでしまうのではないかと。
そんな、普通の人から見れば過酷ともいえる状況下でも、僧侶達は平然としていました。毎日の修行と鍛錬がそうさせているのかもしれませんし、観光客や修験者の手前、寒そうに悴んでいる姿を見せられまい、としているのかもしれませんが。
この僧侶達の姿を、見た当初はただ感心しただけだったのですが、現在の僕自身の状況と照らし合わせて、改めて感じたこと。それは『覚悟』。仏門に入ったが故、どのような過酷な状況下に置かれたとしても、自らの職務を、ただ全うする。誠意と、真摯を以って。思い返せば、僕は、そういった『覚悟』は勿論のこと、ただ自分の職務を全うすることに、『誠意さ』と『真摯さ』に、決定的に欠けていたと思うのです。

ある文献(ネットですが)を拝見したところ、仏教では、我慢は『傲慢』の一種である、とのこと。我慢すること、つまり未来の投資をするために今を押し殺すことは傲慢である、ということを説いているのだそうです。僧侶達の修行は、一見すると我慢の連続に捉えられがちですが、それは決定的に違う。彼等は未来の自分のために頑張っているのではない。ただ今生きている、今の『自分』に対して向き合っている。彼等の修行は、我慢ですら値しない。当然の職務を、ただ黙々と全うしているだけである。自分が、今までどれだけ『今の自分』から目を背け、時代と世界を呪い、無駄な愚痴をこぼし続けていたか、打ちのめされた瞬間でもありました。

当初、雪の高野山に赴きたい、という、観光目的であったものの、今の、そしてこれからの自分を向き合うことにもつながり、非常に掛け替えの無い旅になったのでは、と思います。


そんなわけで、このような文章を垂れ流し続けるのもどうかと思い、今後は、ネガティブ記事についてはもう書かないことにしました。かと言って、これまで書いたネガティブ記事を削除する予定はありません。これまで書いたことは書いたこととして、受け止めていこうと思います。
焦っては疲れ、焦っては疲れ、3歩進んで2歩下がる(よく4歩以上下がることもありますが)の生活ですが、今まで地に足をつけて生活していなかった分、いい機会ではないかと。周囲が僕よりももっと進んでいますし出世もしています。焦っている部分もあります。宿命というと重いかもしれませんが、それも一つの人生なんだと、いつか笑える日がくればいいかな、と。


 

『和歌山県』の写真集についてはこちら

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2011/01/08 20:14 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors

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