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2024/04/17 00:44 |
[和歌山] これまでとこれからを考える旅

遅れ馳せながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、一部の方にはお伝えしたことですが、昨年、2か月ほど休職を取り、11月半ばに復職しました。
原因は統合失調症による鬱状態。と言っても、仕事が嫌ではなく、むしろ好きな遣り甲斐のある分野。急成長分野であるが故のプレッシャーと疲労の蓄積。それだけならまだしもでした。前にも書きました通り、自己管理と自己主張の無さ、『人のため』を勘違いしていたことの裏目、事の次第の流れがあまりにも他力本願であることが、自分を余計に追い詰め、今回の件に至ったわけです。自分の浅はかさが招いた事態であると言わざるを得ません。

でも、起こってしまったことを無にすることなど出来ない。基本的に生き方や気持ちの切り替えが超下手くそ人間なので、少しずつ、今の現実を受け入れ、その後、自分をどうしていきたいかを、ゆっくり考えていこうと思います。
また、非常に悔しいこともありました。周囲と比べること自体馬鹿げている、とお思いになるかもしれませんが、それでも、今の自分と、その周囲(同僚や友人等)と間に、歴然とした差が生じていると感じると、愕然とせざるを得ませんでした。これが現実。この程度の人生しか生きていない。悔しくて悔しくて、泣かなかった日は無いかもしれません。
しかしながら、ただ悔しさのあまり泣き伏していても何も始まりません。現実から目を背けたとしても、現実が目の前から消えてなくなるわけにはいきません。これが再出発。その間にも、同僚や友人は、どんどん先を行き、その差は歴然となるに違いありません。それでも前に進まなければならない。僕のような朴念仁には、一段抜かしをしながらダーッと駆け上がることは出来ない。着実な前進をしていくのみだ、と改めて感じました。


高野山へ旅をしたことも、当初は、自分を見つめ直す、という目的ではありませんでした。しかし、こういった経緯を思い起こすにつれて、今の自分に出来ること、今の自分に必要なことを想起させられたのです。

 

高野山 壇上伽藍の根本大塔 高野山 奥之院への雪の参道 高野山 奥之院 燈籠堂



和歌山県という位置からして、個人的には雪国という連想はありません。南紀白浜の白い浜辺や、鬱蒼と生い茂る熊野古道、水と緑が豊かな那智大社などがあるからだと思います。しかし、高野山はもはや別格。冬の高野山は、その土地柄が成しているのではと思うくらい、厚い雪に覆われています。
その日は全国的に晴れた一日。南海高野線の終着駅・極楽橋駅では、雪の面影などほとんどないくらいの、カラッとした冬晴れの気候に覆われていました。しかし、ケーブルカーに乗りかえり、数分の後に状況は一変。一面の銀世界に、世界はその様相を変えていきました。

下界とは打って変わっての高野山の世界。幸い、雲が若干多めであるものの、概ね晴れていたので、劈くような寒さではありませんでした。しかし、予てから目に留めておきたいと思っていた、雪に覆われた高野山の姿を目にすることが出来て、何とも恐悦な思いがしました。
ケーブルカーの高野山駅から、壇上伽藍までの距離が少々あるものの、壇上伽藍や金剛峰寺に到着してから、奥之院までの距離は、思ったほど遠くは無く、予定を計画的に実施すれば、1日で回れる広さではないかと思います。それでも、ケーブルカーの車内放送でもあったように、高野山は、正にそれ自体が街。仏教系の学校もあり、(食料調達等は別として)高野山だけでも十分に完結した生活が出来るように思います。

真冬の時期でしか見られない、雪で覆われた寺院に、ただただ魅入ってしまっていても、原則として、寺院内の暖房はありません。本堂の中に入っても、ほのかに蝋燭の灯りと温もりが感じられても、外気とそれほどの差は無いと思います。寒さが厳しくなれば、それこそ、一日中、手足が悴んでしまうのではないかと。
そんな、普通の人から見れば過酷ともいえる状況下でも、僧侶達は平然としていました。毎日の修行と鍛錬がそうさせているのかもしれませんし、観光客や修験者の手前、寒そうに悴んでいる姿を見せられまい、としているのかもしれませんが。
この僧侶達の姿を、見た当初はただ感心しただけだったのですが、現在の僕自身の状況と照らし合わせて、改めて感じたこと。それは『覚悟』。仏門に入ったが故、どのような過酷な状況下に置かれたとしても、自らの職務を、ただ全うする。誠意と、真摯を以って。思い返せば、僕は、そういった『覚悟』は勿論のこと、ただ自分の職務を全うすることに、『誠意さ』と『真摯さ』に、決定的に欠けていたと思うのです。

ある文献(ネットですが)を拝見したところ、仏教では、我慢は『傲慢』の一種である、とのこと。我慢すること、つまり未来の投資をするために今を押し殺すことは傲慢である、ということを説いているのだそうです。僧侶達の修行は、一見すると我慢の連続に捉えられがちですが、それは決定的に違う。彼等は未来の自分のために頑張っているのではない。ただ今生きている、今の『自分』に対して向き合っている。彼等の修行は、我慢ですら値しない。当然の職務を、ただ黙々と全うしているだけである。自分が、今までどれだけ『今の自分』から目を背け、時代と世界を呪い、無駄な愚痴をこぼし続けていたか、打ちのめされた瞬間でもありました。

当初、雪の高野山に赴きたい、という、観光目的であったものの、今の、そしてこれからの自分を向き合うことにもつながり、非常に掛け替えの無い旅になったのでは、と思います。


そんなわけで、このような文章を垂れ流し続けるのもどうかと思い、今後は、ネガティブ記事についてはもう書かないことにしました。かと言って、これまで書いたネガティブ記事を削除する予定はありません。これまで書いたことは書いたこととして、受け止めていこうと思います。
焦っては疲れ、焦っては疲れ、3歩進んで2歩下がる(よく4歩以上下がることもありますが)の生活ですが、今まで地に足をつけて生活していなかった分、いい機会ではないかと。周囲が僕よりももっと進んでいますし出世もしています。焦っている部分もあります。宿命というと重いかもしれませんが、それも一つの人生なんだと、いつか笑える日がくればいいかな、と。


 

『和歌山県』の写真集についてはこちら

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2011/01/08 20:14 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors

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