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2024/05/09 03:57 |
改めて感じる人と人との想いと繋がり
震度7     


宮城県北部、岩手県南部の沖合いで発生した、類を見ないほどの巨大な地震。被災された方は、心よりお悔やみ申し上げます。というか、それ以外に何と声をかけたらいいか分からないくらいの惨状が、テレビ越しで分かりました。
その影響は東京でも大きく、東京23区で震度5強。建物の破損や一部の崩壊、ましてや死者まで出てしまうほどに。幸い、僕自身や家族には怪我も被害も無く、会社でも何ら損害が発生しませんでしたが、経験したことの無い揺れに、出来る限りの冷静な対応をしたとはいえ、恐怖に身を強張らせるばかりでした。

東京及び周辺のJR・私鉄・地下鉄は軒並みストップ。しかもJRは地震発生から終電まで復旧の目処が立たない状態に。辛うじてバスが動いていましたが、バス停から歩道橋を跨って道路の向こう側までの長蛇の列が出来、一体どこが末尾なのかが分からない。
職場から自宅まで約8kmであり、週末というしんどさを抱えながらも、徒歩で帰ることにしました。

結局のところ徒歩での帰宅が大正解。幹線道路は軒並み大渋滞で、バスやタクシーも全くと言っていいほどつかまらない。帰宅するまでに、5~6台のバスを追い抜かしてしまいました。。。

道は、一目散で家路に就く人達でごった返し、コンビにではパンやおにぎりが全滅状態。ただ、特別大きな混乱はありませんでしたし、何より、

  「特に女性の方ー! トイレありますー! どうか使ってくださーい!

  「おにぎり作りましたー。食べていってくださーい

  「休憩所ありまーす。毛布も用意してありますので家が遠い方はどうぞー!

要請されたわけでもなく、NPOやNGOの団体というわけでもない。沿道に事務所を構える、普通の企業だったり、ビルだったり、中には民家だったり。皆自発的に、道行く人達に対して、自分達が出来る手助けをしらっしゃいました。


寒空の下、煌々と照らされる月と足早に急ぐ人達。無機質な車のライトの列。そんな中での、暖かく差し伸べられた手。無縁社会だ、核家族だ、孤立した関係だ何だのと言われていますが、ちゃんとあるじゃないですか、人と人との想いと繋がりが。
なんだかんだ言って、やっぱり人間は逞しい。もの凄いへこたれそうな境遇に何度も何度も遭遇しても、その都度這い上がってくる。きっと一人ではそれは難しいけれど、たとえその人が今初めて見知った人でも、共に助け、助けられ、助け合うことが出来るのなら、きっと乗り越えられる、そんなじんわりと心の温まる想いを感じた帰路でした。



私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。

ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。

ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。

どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。

また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。

もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。



『伝道者の書 第4章』より

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2011/03/12 10:15 | Comments(0) | TrackBack() | Diary
[Review] 英国王のスピーチ
英国王のスピーチジョージ6世(Albert Frederick Arthur George Windsor

幼少より言葉が遅く、厳格な父ジョージ5世より厳しく育てられる。また左利きでX脚だったことから、半ば乱暴ともいうべき矯正の毎日を強いられ、次第に彼の心に大きな傷が出来始める。抑圧的でストレスが鬱積する毎日が、彼を言語障害(吃音症)に至らしめるには、想像に難くない。
彼の望みは一つ。「『普通の人』と『同じように』話すことが出来ること
それだけが望みであるにも関わらず、それだけでは済まされない事態が彼を襲う。父である前王の崩御。その父を継ぐはずの兄・エドワード8世の王族からの離反(王冠を懸けた恋)。そして第二次世界大戦の突入。ナチス・ドイツやソ連など、屈強の独裁帝国や共産主義が世界を席巻する、波乱に満ちた世情の中で、国が、民衆が、己の生活の安寧とイギリス国民としての誇りを持つためには、どうしても、上に立つ者の、元首の、リーダーの声が必要になる。
『普通の人』と『同じように』話すことが出来ること。
もはやそれだけでは留まらない己の立場。そして逃げることも引き返すことも出来ないし、そして許されない。
一人では成す術も無く、狼狽え、嗚咽し、絶望に打ちひしがれるだろう。でも、そんな中でも彼はやり遂げた。まだまだたとだどしい部分があろうとも。彼はやり遂げることが出来た。

それは、彼を献身的なまでに支えた、ただ一人の妻と、身分を超えて肩を並べ、共に乗り越えるために伴走した言語聴覚士。どんな困難も、一人で乗り越えるのは容易ではない。たとえ前に進むことが出来たとしても、その喜びを分かち合える人は、いない。
でも、それが二人だったら。それも自分と共に歩く掛け替えのないパートナーだったら。たとえ時間がかかっても、すぐに結果には繋がらなくても、失敗ばかりが続いても、前に進むことが出来た喜びを共有できるということは、素晴らしいことではないだろうか。




本作の主人公は、王という身分と位を頂に据えながらも、本質は普通の人間と何ら変わらない。彼には『吃音』という病を抱いている。これは幼少の頃からの心の病からくる病気だが、大なり小なり、心の病、コンプレックスを持っていない人なんて、この世にいるだろうか。イギリス国王、イギリス王室を題材とし、事実に基づいた作品であるが、これはコンプレックスを抱く普通の人が、そのコンプレックスを乗り越えるための人間ドラマなのだ。

それも、独力でいかにもヒロイック性全開というような、アメリカン・ドリーム満載の要素はどこにもない。本作のポイントは、人は独りでは決して生きてはいけず、誰かを助けて、誰かの助けを借りて、苦楽を分かち合いながら共に歩むということ、己が乗り越えたい壁は、時には己の力だけではどうしようもなく、その苦しみを共有できる本当の『仲間』『パートナー』がいるからこそ感慨も一入だということ、だと思う。
そして何より、今作で伝えたいことは、共に歩み、共に苦楽を分かち合う相手に、出自や身分など関係ない、ということ。彼にとってより近いはずの側近ですら、王をまるで腫物のように近づこうとはしない。今作で彼の吃音を劇的に改善させたライオネル・ローグの登場前にも言語聴覚士はいたが、全て王に傅く臣下に過ぎず、真剣に彼の吃音に向き合おうとはしないようにも見受けられる。
『普通の人』と『同じように』話すことが出来ること。
だからこそ、ジョージ6世として王座に就いた直後、娘達がまずした応対が、王の御前として礼を尽くすという様子を目の当たりにすると、とてもやりきれない気持ちになったに違いない。

これは、彼だけが特別じゃない。これは誰もが持っていることだ。
だからこそ、彼と同じ視点で、同じ立ち位置で一緒に考えられるパートナーが必要なのではないか。


僕はこの作品を鑑賞して、我が身を振り返った。僕は幸いにも吃音ではないけれど、彼の吃音を自分の今抱えているコンプレックスや悩みに置き換えると、なるほど、彼の悩み・苦しみと似ている。勿論、時代背景や身分のこともあるし、実際の生活に反映している病やコンプレックスだから、彼の悩み・苦しみは、決して同じではない。でも、もの凄く共感できる。
王座を手に入れる以上に、彼にとってこの上ない幸せは、自分の悩みや苦しみを理解し、乗り越えるために同じ目線で共に歩く『伴侶』『パートナー』を得たことだ。そこは僕にとっても焦がれるくらいの渇望の対象でもある。

自分を変えるきっかけ。それは他でもない人との出会い。少しどころではない。もの凄く羨ましい。そして、改めてそんな自分の変化を求める心を示してくれた本作に出会えたことを、心から嬉しく思う。

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2011/03/01 00:15 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島
ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島ナルニア国物語の第3作。前々作・前作と同じサブタイトルでしたが、今作は、原作の『朝びらき丸 東の海へ』ではなく、『アスラン王と魔法の島』というサブタイトルが使用されます。
カスピアン王子の角笛によって召喚され、テルマール人の無慈悲なナルニア侵略から救い、3年の月日が流れていました。そこにまた召喚されたペベンシー兄弟。しかし、召喚されたのは、次男のエドマンドと次女のルーシーだけ。現実世界では、ピーターとスーザンは遠いアメリカに渡り、次の人生を歩んでいる真っ最中でした。
何故彼らだけなのか。それはもうピーターとスーザンは、自身の成長の糧としてナルニアを必要としていないから。ナルニアは、単に魔法や幻獣、ファンタジーの世界を堪能する為の世界じゃない。自分の身体と心を成長する為の旅。自分の進みべき道を見出し、選んだ時、ナルニアは目の前から見えなくなってしまう。その分、エドマンドとルーシーは、まだまだ自身を鍛錬する必要がありました。第1作の『ライオンと魔女』のように、エドマンドは己の虚栄心と、次男という長男・長女からどこか抑圧された立場で、奔放な次女のお守りをしなければならないところに、どこか遣る瀬無さを感じていました。そこを白い魔女の付け入られ、一時は戦線を離れ、利用されることになるのですが。そしてルーシーは、これまでのように素直で幼顔の目立つ少女から、少しずつ女性の顔立ちへ。しかしそれと同時に目覚める己の自我。姉の美しさ、聡明さに憧れを持つも羨望を覚え、自分に対する自身の持ちようにもつながっていく。

彼等は、まだまだ成長しなければならない。彼等はこれから大人になる。その過渡期。そのために、彼等はナルニアがまだまだ必要なのです。そんな彼等だからこそ、今作は、己の欲望や価値観を揺さぶられるような様々な仕掛けが待ち受けます。
けれど、それでもずっとナルニアに頼るわけにはいかない。彼らも、ピーターやスーザンと同じように、いつかはナルニアから卒業する時が来るのだから。


と、いうわけで。
ペベンシー兄弟は、4人とも自分達の強さ・弱さをそれぞれ自覚し、何をすべきか、どのように成長すればいいのかが分っている、極端な表現で言えばどこか達観した考えの持ち主なのですが、やはりそれでは淡々とした冒険譚が繰り広げられるだけ。やはり、ナルニアを知らないキャラクターが必要ではなかろうかと。
そこで登場! ペベンシー兄弟の従兄弟、ユースチス!
現実主義とか一時ながら、それは、ファンタジーの生活を堪能したペベンシー兄弟に対するあてつけ。兄弟の居候先の息子ということで自分が優越感に浸らずにはいられない方便。それだけに、非常に陰険で意地悪。いいですねぇ。身体と精神の鍛え甲斐がありますねぇ(リーピチープばりの心持ち)。
結局のところ、彼もナルニアでの冒険を経て、成長していきます。しかし、彼もまだまだ自身の成長に対しては過渡期。第4作『銀のいす』の主人公を務めるように、彼にはまだナルニアでの修行が必要なのかもしれませんね。

さて。肝心の物語は、というと。
昨今のビッグタイトルの作品よろしく、Part1とPart2に分けた方がいいのではなかろうか、と思えるくらいの物語の展開の速さ。あまりの速さに、その前後関係や事実関係が曖昧でついてこれない部分もありました。
『ライオンと魔女』は、ファンタジー世界突入の導入部分。『カスピアン王子の角笛』では、カスピアン王子にとって、そしてテルマール人に征服されたナルニアにとって、伝説の4人の王が必要だったから。では、今回の召喚目的は? 今や王となったカスピアンにしろ、ナルニア人にしろ、特別伝説の王をしていない。勿論、いてくれればそれはそれで助かるけれど。ですので、むしろナルニアが伝説の王を必要としているのではなく、伝説の王(エドマンドとルーシー)がナルニアを必要しているのではないか、と。ユースチスもある意味で。
その部分は、冒険の初めの頃は全く分からず、冒険が進んで、その途中でそうではないかと思えます。しかし、朝びらき丸の目的である七卿探索が、何かいつの間にか七卿が持っている剣の収集になったり、七卿と七つの剣が意外にあっさり見つかったり、ラマンデゥの島を示す青い星が、若い娘に変わったりしかもそれがほんの一時だったり。とにかく、色んなものがあっさり過ぎ去ってしまって、それだけにかなり壮大な猛犬譚であるのでしょうけれど、どこか小ぢんまりに見えてしまうのです。
どうやら、本作は、原作をそのまま踏襲して作られたものではなく、7本の剣の捜索を加えることによって、より観客が夢中になれるようにアレンジしたもの、だとか。だから、サブタイトルも『アスラン王と魔法の島』というふうになったのではないか、と思うのですが…。
それでも、何かトントン拍子に物語が進んでいくところに、短い間に何とか詰め込んだ、という感じが否めません。過去にもハリーポッターシリーズでも同様のことがありましたのに。。。


もし、物語を隅々まで堪能するのであれば、原作を先に読んだ方がいいかもしれません。僕は『ライオンと魔女』でも『カスピアン王子の角笛』でも、特に原作を読まなくてもすんなりと物語の世界を堪能することが出来たのですが、今作は先に原作を読んだ方が、展開の速さに振り回されず堪能できるかもしれません。

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2011/02/26 23:15 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ヒア アフター

ヒア アフターhereafter

[副]
1. この後、今後、将来
2. 来世には
[名][the ~、a ~]
1. 将来、未来
2. 来世



此岸と彼岸を分ける境目として、『三途の川』があると言い伝えられています。ダンテの神曲でも、冥界への境界線として『アケローン川』があると記されています。時代も宗教も大きく隔たりがあるのに、この世のあの世の境界線に、山や谷でもなく、『川』が共通点として描かれているところに、何か人間の死生観の根本に、共通するものがあるように思いました。それが、『水』。生と死の境目の象徴に、『水』の存在をどこかに感じます。
本作は、それを意図しているわけではないとは思いますが、何かを象徴するように『水』が登場します。表情を変える海。南国リゾートの穏やかな海が、突如として多くの生命を奪い、鋭い爪痕を残す津波と化す。その津波が、今作の3人の主人公の一人の命運を大きく変えます。そして、場面場面で降り注ぐ雨。今作は、特に雨を降らさなければならない場面はないのですが、何か物語の象徴としてのシンパシーを感じます。


僕が感じた、本作の中で描かれている主題は、『境界』。それは単に生と死の境界だけでなく、様々な要素が含まれているように思います。
本作の主人公は、生まれも国も一切の接点の無い3人。唯一の接点と言えば、彼らの隣に、はっきりととも言える『死』が傍にいること。
パリのマリーは、バカンス中に大津波被害に合います。溺れながらも荒ぶる波の中で必死に生きようとするが、押し流された残骸に当たり、意識を失う。そのまま水没し、生命を失いかける。その時に見た不思議な映像。それを本にするも、誰とも共有できない内容は、むしろ出版社から敬遠されることとなります。それほど、『臨死』や『霊』という内容は、未だに近寄り難い。臨死体験が、彼女と周囲の『境界』を薄くし、そして壊していく。
サンフランシスコのジョージは、死者の声を聞き、生きている人に届けることができる霊能者。それは、自分にしかない特別な能力。しかし彼は、その能力に鼻をかけることをせず、むしろ拒もうとした。この能力は恵まれたものではない。呪われたものなのだ、と。この能力を、誰かと共有することは出来ない。だって誰にも分からないから。周囲の自分を見る視線は、良かれ悪しかれ「自分とかけ離れている」。変人として
敬遠するか、畏怖の対象となってしまう。特別な力を持たない人間としての『境界』を欲しても、彼の能力が、その『境界』を引き離してしまう。
ロンドンのマーカスは、誰よりも愛していた双子の兄ジェイソンを亡くす。薬物中毒の母との3人暮らし。いつものように福祉局が訪れ、ちゃんと養育出来ているかの監察を強いられる毎日。子どもの精神に悪影響を及ぼしてしまうような環境であるからこそ、互いの分身とも言える双子の兄弟は、拠り所という『境界』であった。それが突然いなくなる。一度でいいから、彼に会いたい。話をしたい。でも、似非霊能者は、その稚拙な能力もさることながら、彼の本当の願いすら分からない。信じられない大人社会との触れ合いに、彼の拒絶の『境界』が、日増しに膨らんでいきます。


そんな『境界』は、映像としても表現されているように思えます。
色彩のほとんどない沈鬱した映像。そこにいる人達は、確かに生きているのに、沈鬱な色彩が、どことなく生気を感じさせません。まるで、生と死の『境界』がぼかされているかのように。
また、特にマーカスの霊視の際、その場所がほとんどの場合で暗い部屋だったから、ということもありますが、人物の顔の片面にライトが当てられ、もう片方はその表情すら見ることが出来ないほど真っ暗。それも、どことなく生と死の『境界』が感じられます。


やがて接点の無い彼らが出会い、それぞれの『死』を見ることによって、自分自身が見てきた『死』を、見つめ直そうとします。それは自分の身の上であれ、能力であれ。見つめ直した結果は、この作品には描かれていません。きっと、その後も悩み、苦しみ、落ち込む日々も多いかもしれません。でも、これまでと違う『死』の向き合い方が出来るかもしれない。新たなスタート。それも、過去の出来事や経験からの飛躍や変化という『境界』が存在すると思います。


個人主義になった今、個々人が自由に『境界』を作ったり、定めたり、取り外したりすることが出来るようになりました。その最大の武器となったツールの代表格が『インターネット』。またインターネットによって、仮想世界の『境界』までも、作ることが出来るようになりました。
でも、それが、本当に、人間が根本に欲した『境界』なのでしょうか。
今作は、それぞれの登場人物が『死』という『境界』との向き合いを描いているものの、その根本は、単に『死』だけでなく、自身が取り巻く環境の『境界』にも言及しているように思えます。リアルとインターネット、様々なところに大なり小なりの『境界』があるものの、その『境界』は、全てが人間全てに対し決して望んだ、理想的なものではありません。ある人には理想的であるものの、ある人には絶望に打ちひしがれることにもなる。僕達一人一人の『境界』、便利なものが蔓延する今の世の中だからこそ、今一度、見つめ直す必要があるのかもしれません。

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2011/02/19 20:52 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
たい焼きの食べ方性格が分かるらしい
部署の人員総出で仕上げる必要のある大型案件のため、残業していた時のこと。
定時過ぎに、小休憩のため、オフィスの近所にある、評判のたい焼きを食べることにしました。
このたい焼き、ラインナップこそ少ないものの、尻尾の付け根の部分に梅干しが仕込まれているのが特徴です。食後の口直しのためだとか。

つまりはこのたい焼き、頭から食べることを前提に作られているそうで。そうとも知らずに尻尾から食べた僕は、初っ端から酸っぱい餡子を味わうという、何とも筆舌し難い経験をすることになるのです。

挙句、同じたい焼きを食べた部署内の方々から、「たい焼きは頭から食べるんじゃない?」とか「尻尾から食べる人って初めて見た」という、よく分からない烙印を押される始末。

予てから、たい焼きを尻尾から食べる私。でも、意識的に尻尾から食べているわけでもなければ、「尻尾から食べなさい」とか「尻尾から食べるとおいしい」ということを言われたわけでもありません。
きっと性格の問題なんだろうな、と思い、冗談交じりに調べてみたら、なんかありました。↓


性格診断 | 天下のたい焼き [天下鯛焼本舗]


尻尾から食べるあなたのタイプは…

用心深く慎重派。神経も細やかさでささいなことに気を使う。美しいものへの憧れの気持ちが強く、プラトニックな恋に憧れるロマンチスト。しかし鈍感な一面もあり、恋されていても気付かない事が多いかも?


だ、そうです。
まぁ、得てして10くらいの分類系占いというのは、カチッとあてはまる文言は避けるので、誰にでも言えそうなことではなかろうかと思います。あくまで参考程度に。

それはさておき、件のたい焼きのお店。口直しに梅干しを仕込む、というところはいいアイディアと思うのですが、頭を先に食べない人のことまで考慮しなかったのでしょうか? それとも、「たい焼きは頭から食べるもの」という固定観念が働いてしまったのでしょうか?
たい焼きを食べながら、そんな考えを巡らせるや否や、たい焼きを買ってきてくれた後輩の言によると、

このたい焼き、頭から食べてくださいって店頭で言われるんすよ


それを早く言えっつーの!!

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2011/02/17 22:41 | Comments(0) | TrackBack() | Diary

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