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2017/06/23 05:38 |
[Review] マイ・バック・ページ
マイ・バック・ページ昨今の時代劇を観て、脚本家などによる大胆な構想や当時の時代背景の描き方に、ネット上では一部良い意見もあるものの、多くの場合で悪い意見が見受けられます。「その時代に即した演出をしていない」とか、「あまりにも現代寄りの演出」とか、「史実ではあり得ない」とか。
でも、それがたとえ数百年の隔たりがあったとしても、人間の本質って、そう簡単に変わるものではないような気がします。その際たるものが、自己のアイデンティティや他者との関係性の確立。自分は誰なのか? 貴方は誰なのか? 自分はどこから来てどこへ行くのか? 自分のやるべきことは何か? そういった思いが、封建社会を作ったり、天下統一を図ったり、尊皇攘夷を掲げたり。そして、全共闘。正しいか正しくないかは、その後の歴史がしたり顔で語るけれど、当時の人間には、それこそが正しい道だと信じて疑わなかった。自分のやるべきことは、これなんだ、と。常にそこには、人間が人間であるが故の『エネルギー』が逆巻いていたんだと思います。

但し、そのエネルギーは時として人を大きく傷つけ、欺き、決して逃れ得ぬ負のスパイラルに陥らせてしまうことも確か。それでも、その結果がどうであれ、その後の歴史が間違ったことだと判断しても、自らの信じる道のために、信念のために、『実行した』と言う事実そのものは評価されるべきだと思います。
実際、僕自身も含め、不平不満は一人前のようにいえても、それを『実行する』に至るだけの理想家がどれだけいるのか。それとも、『実行する』には及ばないくらいに成熟した社会になったと認識すべきなのか。僕は、そういったことを客観的に考えようとしつつも、それはどこかで、今作の妻夫木聡が演じるジャーナリストである沢田がそうであり、同時に彼自身が嫌っているように、ただ傍観者として、安全な場所で安穏とそれを観察しているだけ、なのかもしれません。

そんな考えを巡らせながら今作を鑑賞しましたが、物語を進めば進むほどに、左翼思想の学生として遅すぎる決起をした、松山ケンイチが演じる梅山が分からなくなり、最終的には、憎しみを込めるようになりました(勿論、そういう役柄なのでしょうけれど)。
何故なら、彼らが仕出かしたことは、彼等の持つ理想とは程遠いから。そして、彼等の理想が叶ったその先が、未知数でもなんでもなく、ただの暗闇に覆われた世界にしか思えないから。まるで、血に飢えた獣が張りぼての理想と知性を掲げて突き進んでいくかのよう。そこにはどうしても、「日本の未来を守りたい」とか「日本の社会を支えたい」という気持ちは無いのです。ただ単に、自己のアイデンティティを表に出したかっただけ。英雄になりたかっただけ。彼等にとって、『自分こそが正義』と考えていたのだと思います。
だからなのかもしれません。作中、まるで今作を象徴するかのように、下記の台詞が往々にして口にされています。

君は一体誰なんだ?

私は一体何者なの? 何がしたいの?

普通って何?

そして、そんな理想とも不毛とも捉えられる闘争の中で、現実を見据えているのか、はたまた自分には関係ないとそ知らぬ振りをして傍観しているのか。闘争によって瓦礫が積み上げられ、血気盛んな垂れ幕がそこかしこに張り巡らされていても、見向きもせずに通り過ぎる学生達。世間一般で言われるところの、『普通の学生』達。また、世論や政治的つながりの濃い上層部のご意向に屈し、『社会の模範』ということをさも当然の如く振りまいて真実を闇に葬り去ろうとする、大人の世界。
『夢』とは、『理想』とは、心を意気揚々とさせる勇ましく心地よいものでありながら、欺瞞と逃避に満ちた毒の側面を持っている。そんな狭間の中で、それでも生きなければならない、生きざるを得ない。沢木のラストシーンの嗚咽は、そんな感情がこもっていると感じました。

『泣きたい時に、しっかりと泣ける男』とは、そういうものなのかもしれません。


『覚悟』。
これから先、色々なところで試される覚悟。僕自身、今後様々な選択を迫られる時が来る。その時、『覚悟』を以ってその選択が出来るか? そして、『誠意』を以って行動に移れるか?
この作品が、反面教師という側面ではないにせよ、鑑賞後、改めて自問自答しています。

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2011/06/10 23:08 | Comments(0) | TrackBack(3) | Review - Movie
[熊本] たとえその出会いが小さくとも
普通に考えれば、東京在住の人間が、観光目的で、日帰り熊本に行く、なんてことは、決して無理ではないにせよあまりにも突拍子なことでして。方々から、「無謀」だとか「余裕がない」とか、散々なことを言われてしまいました。ええ、勿論分かっております。それが如何に変態じみたことであるかは。
それでも、今このタイミングで熊本に行きたい、と思ったのです。本当に衝動的ではあるのですが。

きっかけは、この本を読んだことによること。


よし、かかってこい! はい、わかりました。


著者は、大野勝彦さん。
もともとは、画家でも無く詩人でもなく、農家の方でした。ある時、トラクター操作の事故で、両手(肘より先)を切断を余儀なくされてしまいます。そこから先は、後悔の連続だったり、図らずも家族にその不安や不満をぶつけてしまったそうですが、その中でも、家族の方々は懸命に心配してくれた、看護してくれた。初めて、周囲の、特に家族の愛を心から感じた、ということです。
それからというものの、両手を無くしたら無くしたなりに、自分に出来ること、したいこと、そして何より、笑顔と感謝の気持ちを忘れずに持ち続けながら、今日に至っています。

忙しい毎日の中で、何気なく手にし、その言葉の端々に感動したことを覚えています。が、当時、それも心から湧き上がる感動ではなく、頭の中で完結してしまったもの。本当の意味での感動とは、よほど遠かったように思います。
そして、今回の統合失調症と休職騒動。全てにおいて自分の身の振り方が犯した間違いであるにも関わらず、悶々と嫌悪にふけていました。自分だけでなく、自分以外の何かに対しても。他者は勿論、目に見えやしない運命とやらにも。誰かに、何かに、その過ちをぶつけてしまいたかったのです。
そんな時に、再度この本を読みました。内容は購入した時と全く変わらないのに、飛び込んでくる想いが、重さが、全く違う。感動とか、感銘とか、そんな生易しい言葉では言い切れない思いでいっぱいになりました。もっと言えば、その言葉に、(勿論いい意味で)心を、気持ちをぶん殴られた、ような。

その時の衝動が、「大野勝彦さんに会いたい!」という気持ちを駆り立て、今回の熊本旅行に至るわけです。
そのため、熊本空港に到着した瞬間から、真っ先に、『風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館』へ参りました。


エントランス(風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館) 美術館からの風景(風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館)


九州であるにもかかわらず、阿蘇という土地は、高地の土地柄のため、5月上旬に雪が降ることがあるそうです。実際に行ってみっても、晴れて空気が澄んでいる、初夏の季節にもかかわらず、時折半そででは少し寒いと感じる風が吹いていました。しかし、環境は爽やかそのもの。コンクリート・ジャングルの中では味わえない空の下に、大野勝彦さんの美術館があります。

大野勝彦さんの作品は、全てが水彩。阿蘇を中心とした、風景や動物、植物の絵、とりわけ、見過ごされがちな植物の絵が多くありました。そこに、黒い墨で言葉を書く。飾らない、気取らない、心の中のありのままの言葉を、たとえそれが幼稚に見えてもお構いなく、キャンパスにしたためる。両手を失ってから現在に至るまで、彼が積み重ねてきた想いを、一枚一枚に丹念に込めて描き、綴っています。それは、彼を育んだ土地と環境に、彼が共に歩んできた奥さんやお子さんたちに、そして何よりも彼が愛する、ご両親に対して。

ただでさえ、以前に手にした彼の著書の言葉の端々にこみ上げるものがあるのに、この美術館に来て、その気持ちを一層深く再確認することが出来ました。そして、これまでの自分自身が、如何に小さかったか、ということも。


今回の旅の目的は、大野さんの美術館に行き、出来ればご本人にお会いすること。勿論、ノンアポ。
なので、基本的に会えないことを前提としていたのですが、展示スペースを回り、ショップのコーナーに立ち寄ろうとした瞬間、ご本人がいらっしゃったことに驚愕! 義手を付けて、これからその日描く絵の準備をし、テラスに出たところでした。
大野さんご自身としてやりたいと感じた「絵を描く」ということ。それでも、ご高齢であることに加え、身に着けているのが義手である以上、その一枚一枚を描くには、相当の集中力と根気が必要ではないかと思います。しかも、一つ一つが真剣勝負と言わんばかりの気迫が背中から発揮され、声をかけようかかけまいか、うろうろと迷っておりました(←小心者)。まぁ、こんな堂々巡りに余計なことを考えてしまうことろが、人からよく、「良くも悪くも図太さ、図々しさが無い」と言われる所以ですが……
そんな中、一組の老夫婦が、スタッフの方に「サインしていただいてもよろしいでしょうか?」と声をかけたため、便乗して僕もサインしてもらうことに!(←超小心者) 老夫婦のサインのあと、僕も購入した本に、サインをいただきました!


大野勝彦さんのサイン


年甲斐もなく緊張してしまい、後々になって、「あー、一緒に写真撮っとけば良かったー!」なんて思ったりしたものですが、それはそれで置いときまして。
『勝彦』という名前と、これまで農業に従事していたこと、親分肌のような人格ということから、もっと厳つい方かと思っていましたが、常に笑顔を絶やさない(というより、もはや笑顔がデフォルトになっているかのような)好々爺、という感じの方でした。絵を描いている最中にもかかわらず、気さくに請け負っていただいて。お年を召しているから、確かに往年の時の写真と比べると一回り小さくなったような印象を受けますが、それでも、堂々とした大きさなハートを持つ男を彷彿させました。

そして、握手。大野さんは義手を取り外し、肘から下がない腕を差し出しました。普通なら、直視したくない現実。でも、僕はその手(手ではないけど)を握りました。指の感触の先には、肘から先が無い骨の感触。笑顔でいたいのに、どこか顔が歪んでしまう。でも、この腕は生きている! もう、それまでと同じようなことは出来ないけれど、それでも何かを成す為に生きようとしている! 皺が増えた初老の男の腕であっても、そんな想いが伝わり、笑いたいのに、泣くのを堪えようとしている自分がいました。
最後に、ポストカードを記念にいただきました。本当に、何から何まで感動しっぱなしでした。


おそらく、彼にとっては、僕はただ一人のお客さんに過ぎないかもしれません。彼にとっては、ほんの数分の出会い。でも、僕にとっては、その数分の出会いは、たとえ小さくとも、何物にも代えがたい出会いになりました。
今回の僕が引き起こした騒動は、もはや変えることは出来ないし、無かったことにも出来ない。その事実は一生付きまとい、きっと何かにつけて僕を苛む。そして、その騒動以上の苦しい現実が、これからも引っ切り無しに迫りくることでしょう。
それでも、それを乗り越えなければならない時が来る。今回の大野勝彦さんとの出会いは、小さいながらも、今後の自分の人生に対し、しっかり前を向いて、時には歯を食いしばって、一歩一歩進むための勇気と気概を貰ったと思いました。てんで未熟だし、人の足を引っ張る毎日が続きそうな気がしますが、それでも、自分と自分の取り巻く人生に目をそむけず、たとえ小さくても、少しずつ前に進んでいこうと思います。


今回の旅では、他にも阿蘇と熊本市内を少し回りましたが、それはまたいずれ……



『風の丘 阿蘇 大野勝彦美術館』についてはこちら
『熊本県』の写真集については
こちら

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2011/06/04 23:41 | Comments(0) | TrackBack(0) | Outdoors
[Review] パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉
パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉なんだかんだ言って、パイレーツ・オブ・カリビアンも4作目に突入ですか。回を追うにつれて何だかよく分からなくなっていく作品も、蓋を開ければ4作目になるほどの人気ぶり。やはりこの世界的な不況の中でも、ディズニーとジョニー・デップのブランドは強いのねー、と楽観視している今日この頃。

何と言っても、『デッドマンズ・チェスト』を鑑賞したあたりから、この作品は純粋なるエンターテインメントに徹した作品なんだなと思いましたから。
しっちゃかめっちゃかなのは、もはやこの作品にとっては常套句。今更シリアス方針だとか、メッセージ性を取り込むとか、そんなことはお構いなし。敢えて空気を読まず、只管キャンバスに絵の具で書きなぐるようなエンターテインメントに徹する作品に仕上げる、というのも、ある意味で天晴れな気がします。
まぁ、色々と小賢しい知識をはめ込んだ状態で鑑賞してはいけない、ということですな。


今作は、何よりも監督がロブ・マーシャルが担当するということで観てみました。
とはいっても、僕自身がロブ・マーシャル監督を初めて知ったのは、恥ずかしながら『SAYURI』の時です。その後、DVDで『シカゴ』を観たり、ネット上ではありますが、ロブ・マーシャル監督が振り付けを実施した作品等を調べました。その程度ですので詳しいには程遠いですが……
とはいっても、ミュージカルの監督が織り成す『パイレーツ・オブ・カリビアン』の世界って、どうなるんだろう、ジョニー・デップも『スゥイーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』でミュージカルをやりましたので、その仕上がりに若干期待を持っていました。が、ミュージカルっぽい部分は、アン王女の復讐号の甲板上で、リュートをBGMに繰り広げられる、ジョニー・デップとペネロペ・クルスのダンスくらい… 剣舞やリズムに合わせたアクションは、これまでにもありましたしそれ程目新しいものでもありませんでした。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』をミュージカル調に… もしかしたら、これまでの作品の流れや世界観、ディズニーのブランドを壊しかねない為、興行的にも冒険を強いられそうな気もしますが、個人的にはそんな『パイレーツ・オブ・カリビアン』も観たかったな、と思った次第です。


そして今回、ようやく、といって言いかもしれませんが、オーソドックスな金銀財宝ではなく、『生命の泉』という超レアのお宝を巡る冒険というのは、これまでの作品の中で初めてのことではないか、と(結局のところ、『生命の泉』そのものを狙う海賊は、ほんの一握りでしたが。大抵のキャラクターは、自身の本当の目的を果たす為に『生命の泉』を目指しています)。
呪いを解く為だったり、生命維持の為だったり、ジャック・スパロウ自身がトラブルメーカーなのに彼を救いに行こうとしたり。しかしどの作品にも共通するのは、ジョニー・デップが演じるジャック・スパロウ船長の目的が、ブラック・パール号を取り戻す、ということ。『船長』と名乗っているくせに、自分の船に乗っている場面が極端に少ないのですから……。

まぁそれは、この作品の一つのスパイス、おまけ要素の一つであると割り切るとして。

しかも『生命の泉』も、ただそれを飲めば、文字通り『生命』が与えられる、つまり『永遠の生命』が与えられる、のではなく、条件付きである、ということ。その条件を果たす為に様々なアイテムや、果ては生き物を入手したり、騙し合い謀り合いをするわけです。海賊らしいといえば海賊らしい。『ONE PIECE』にぞっこんの少年達からすれば、海賊の夢をぶち壊しかねない展開振り。でもこれこそが海賊! とも言うべきでしょうか。
ただ、黒ひげを演じるイアン・マクシェーンや、バルボッサを演じるジェフリー・ラッシュが、悪役振りにもさすがに貫禄がありますので、ペネロペ・クルスの悪役振りがちょっと影薄い、という感じも否めません。一部に義の厚い部分があるとはいえ、やはり海賊は海賊。狡猾な悪女振りが発揮されるところもあったのかもしれません。が、最後の方でそれが演じられるものの、何だかまくし立てるようで、少しもの足りなかったです。


一旦封切られた作品に対して『もし』と言うのは非常にナンセンスなことですが、今までの3作とは違う、ミュージカル調の『パイレーツ・オブ・カリビアン』というのも、観てみたいと思いました。純粋なるエンターテインメントに徹する作品であればこそ、その『見せ方』『魅せ方』に、今後の期待がかかります。

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2011/05/20 22:59 | Comments(0) | TrackBack(14) | Review - Movie
[Review] ブラック・スワン
ブラック・スワン白鳥の湖。チャイコフスキー作曲によるバレエ作品。
1877年のボリショイ・バレエ団による公演以降、多数の演出家・振付師によって様々な版が出され、今やクラシック・バレエの代表作ともいえるに至りました。
僕はバレエにはとんと疎い人間ですので、『白鳥の湖』と言われて思い浮かべるとしたら、『情景』をBGMに、一指乱れぬ動きで主役を引き立てる群舞(コール・ド・バレエ)や、4羽の白鳥たちの踊り(パ・ド・カトル)が真っ先に。しかし、群舞やパ・ド・カトルは、あくまで脇役・引き立て役であり、物語の主役は、やはり白鳥オデット。女性バレエ・ダンサーにとって、主役を演じたいと思う気持ちは、やはり並大抵のものではないのでしょう。
ただ、僕はこの作品で初めて知ったのですが、通常、オデットと、魔王ロッドバルトの仕組んだ罠によってジークフリート王子を奪わんとする黒鳥オディール。清楚で儚げ、奥ゆかしいオデットとは異なり、官能的で妖艶、王子を略奪しようとオデットに成り済ますオディール。この2役を、一人の人間が表現しなければならないのですから、並大抵の表現力や演技力では太刀打ちできないのでしょう。

特に、ストイックに頑張り、一途に、純真無垢に、直向きにバレエに打ち込んできた人物であれば尚更のこと。


この作品は、スポーツ作品でよくありそうな、血の滲むような努力を重ねて主役の座をつかむスポ魂作品ではなく、努力を重ねれば重ねるほど自分が堕ちていく、という錯覚に見舞われる作品です。

ストイックで一途、それが故に、あまり自己主張したがらない。そんな彼女にとって、妖艶で淫靡な表現力を主だった形式として踊る、ということは、彼女のこれまでのキャリアを180度ひっくり返されたようなもの。たとえ、それが長年夢見てきた主役の座であったとしても。
踊りのテクニックは完璧に近いのに、テクニックだけではどうしようもない表現力。ストイックで一途な性格は、それが故に、歪な形での完璧主義者として顕れます。どうやったら、妖艶で淫靡な表現力を身に着けることが出来るのか。悩みは積もりゆき、追い打ちをかけるかのような、演出家の要求、ライバルの出現、これまで応援をもらっていた母親からの、執拗かつ過剰なまでの保護。
被責妄想に駆られるかのように、彼女の精神は極限まで追い詰められ、目に映るのが現実なのか、それとも虚構なのか、その区別もつかなくなってしまいます。刻一刻と迫る舞台初日。焦れば焦るほど堕ちていく彼女の心は、それまでの純粋無垢な『白』から、邪悪で破壊的な『黒』へと、塗りつぶされていくのです。


この作品を鑑賞は、その多くにおいて、主人公のニナを演じるナタリー・ポートマンの後ろ頭が映っています。それを追うかのようなカメラワーク。つまりこの作品は、出来る限り、主人公ニナの視点で描かれているのだと思います。観客にも、出来る限り、ニナの心情の変化や極限までの精神披露、ニナが見たもの触れたのもを理解してもらうように、だと思われます。
それは、ダンスシーンにも多くとられています。俯瞰的にダンスシーンを撮影するのではなく、あくまで主人公をはじめとするダンサーの動きに合わせてカメラが動いている、ダンスを間近で見る、というより、鑑賞者自身がダンサーとなっている、という見せ方なのでしょうか。当然、ダンスの最中のニナの呼吸音も聞こえます。が、その呼吸音も、単にダンスの呼吸ではなく、徐々に焦りの呼吸に変わっていくのが窺えます。これも、ニナの心理変化をとらえる一つの要素になっているのではないか、と。
間近でダンサーのダンスを見るという表現は、臨場感があると思いますが、動きながらの撮影であるため、鑑賞者によっては酔ってしまうのではないかと思います。
また、ニナとリリーがクラブでダンスをするシーンも、光の点滅が続くため、これも鑑賞者によって酔う可能性がありますので注意が必要です。

それにしても、すごい作品だな、というのが観終った時の感想です。
あれだけ臆病で、儚げであまりにも自信がなさそうだったナタリー・ポートマンが、荒々しく、狂気に満ちた表情に変貌させるのですから。また、その変貌の落差は、通常の演技のトレーニングでも難しいのに、加えてバレエの練習も入るのですから。
予てより、ナタリー・ポートマンの超人ぶりは、Wikipediaに掲載されている情報から伺っていますが、正にこの作品は、その片鱗をありのままに出している、と言えるのでしょう。米アカデミー賞主演女優賞獲得もうなずけます。


この作品で、清純さや純情さは求めてはいけません。かなり刺激的で、背筋が凍りつくようなスリラーです。でも、個人的にはこういう作品、本当に大好きです。

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2011/05/12 22:23 | Comments(0) | TrackBack(15) | Review - Movie
[Review] 岳 -ガク-
岳 -ガク-ビッグコミックオリジナルの連載漫画として人気を博している、『岳 みんなの山』の映画化作品。山岳救助ボランティアの島崎三歩を中心に、山岳救助隊と登山者、そして山に魅せられた人たちとの交流や人間ドラマが描かれています。
基本的には、山で遭難したり、怪我や病気になった人たちの救助や手当業務が主ですが、登山を通じて、人の想いや悩み、葛藤を、時に穏やかに、時に鋭く描いていますので、色々な世相から支持を受けている作品であると思います。

主人公の三歩は、登山技術や緊急時の対応処置は勿論のこと、世界の名峰を登ってきたため、山については広く深く、まるで自分自身のように知っているし、さらには山を取り巻く気候変動についても深い知識を持っています。そして、それに慢心することなく、敬意を表しながら、山に、そして登山者に接する。でも、それ以上に、彼は多くの怪我人や病人、果ては死者にも接しています。だからなのか、務めて朗らかに、務めて大らかに、少しでも自分が受けてきた闇や痛みを人に見せまいとする努力が込められているように思います。
それが、初対面の人にとっては、「何じゃい、このふてぶてしく馴れ馴れしくちゃらんぽらんそうな男はっ」と思われてしまうのでは、と。きっと、彼自身も、そういう自分を演じているのに、戸惑いもあるかもしれませんが、「そうしなければやっていけない」という葛藤の方が強いのでしょう。
そして、何よりそんな、ふてぶてしく馴れ馴れしくちゃらんぽらんそうな男を、小栗旬が演じるということにビックリ! 正直、鑑賞している側からすると、「似合わねー、舞台俳優のような演じ方をする俳優さんが演じるのは似合わねー」と思ってしまいました。それはそれでアリなのかもしれませんが、全く受け付けなかったわけではなかったにせよ、どこかで違和感を感じてしまったのは事実です。う~ん。。。


さて、物語はというと、島崎三歩というより、どちらかというと、山岳救助隊の新人として入隊した、椎名久美の視点で描かれています。警察官としての知識や使命感、これまで培った体力等に自信はあっても、平地での仕事とは全く異なる山岳救助という仕事。素人目線であるからこそ、鑑賞する側からも素直に受け入れられるのではないかと思います。
そして、舞台は主に冬の北アルプスで繰り広げられ、主に救助活動にあたっていますが、視点は常に人間模様。山に魅せられて登った者、絆を深めるために登った者、何かをなすために登った者。物言わぬ山は、まるでそんな彼らを暖かく迎え入れるよう、というように思うかもしれませんが、基本的に山は何もしない。恩恵を与えるわけでもなく、意図的に罰するわけでもなく、淡々と自然の摂理のままに人に接する。そしてそのたびに、人は己の無力感に襲われ、苛まれ、絶望し、平伏し、それでも尚、人は抗います。
刻々と変わる天候の中で、時間を延ばせば延ばすほど生存できる確率が下がる中で、それでも迫られる選択。「そうしなければならない」という選択を迫られた時、人は、どんなに苦しく、どんなに辛い思いをするのでしょう。それでも自然は、決して慈悲の手を差し伸べてはくれない。だからこそ、己の運命と未来を切り開くには、自分自身でしかできないことに気付くのではないか、と思います。

人間の手にはどうしようもないことは、これまでもそうでしたし、そしてこれからもそうなのでしょう。それでも抗って生きていく。だからこそ、人間は美しい。だからこそ、三歩は、たとえ遭難者を発見した時、すでに事切れていたとしても、「よくがんばった」という声をかけるのでしょう。


「また、山においでよ」。
その言葉は、どんなに絶望しても、決して諦めてはいけない、後悔するような選択をしてはならない、という、彼の持つ力強い言葉。だからこそ、登山は止められない。絶望に打ちひしがれても、達成した時の喜びと開放感は、達成した者のみが得ることが出来る、特権なのだから。

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2011/05/07 19:11 | Comments(0) | TrackBack(13) | Review - Movie

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