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2025/08/13 22:25 |
[Review] アース
earth『DEEP BLUE』は海洋動物、『皇帝ペンギン』はタイトルの通り主に皇帝ペンギン、『ホワイト・プラネット』は北極圏に住む陸上・海洋動物に焦点を当てたドキュメンタリーを映しています。そして、これらの作品で共通している事は、必死で生き抜こうとする生物の強さ、外的や自然環境の厳しさを物語っています。
『ホワイト・プラネット』は、それに加えて、自然環境破壊の魔の手を、生きも絶え絶えに、それでも尚もがきながら生き抜こうとするシロクマをはじめとした生物が、元凶である人間達に突きつけています。

『アース』も、これまでの生物界を映し出したドキュメンタリー映画と同じように、生物の生きようとする強さ、外的や自然の厳しさを物語っています。しかし、その範囲は、北極から赤道を通過し、南極に至るまでの全て。これまでのように、動物だけではなく、植物、海、そして地形に至るまで。
勿論、全ての生物、全ての自然環境を映し出すことは不可能ですが、厳しい環境の中でも必死で生き抜く生物達の生命の輝きは、有り余るくらいに美しく、神々しくも思いました。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のフルオーケストラも手伝ってか、多少脚色が入っているように思えるものの、映し出される全ての映像の美しさ、神々しさに、目を見張る事は間違いないでしょう。


この作品を鑑賞している最中、あることを考えていました。
それは『テラフォーミング』。人が住めない惑星を地球と似た環境に造り変える、『惑星地球化計画』。これまでSFの世界でしかない計画が、現実の科学を駆使して真剣に議論されているそうです。最も計画を遂行しやすい惑星として、火星が挙げられているわけですが……

この地球でさえ、今の姿になるのに46億年を費やしたというのに、たかが人間の科学の力で、数百年、数千年の時間で、地球と似た環境を造り出すことができるのでしょうか。

地球に住まう生物や、例え生物でなくても大地や海洋というのは、独立した環境を営んでいるようで、実は全て繋がっているんだと思うのです。食物連鎖だけでなく、大気の流れや海水の蒸発による降水、川の流れ、大地の形成、変わり行く環境の中で、生き抜く為に己を変え、また適応化していく進化。ポッといきなり自然界の営みができたのではなく、またそれぞれが大なり小なり関わって、今の自然界のサイクルが出来上がりました。
そのサイクルに歪みを入れたのが、人間。そして、今でもその歪みは日々大きくなっていく。時には、その歪みを正そうとする行いでさえ、余計な歪みを生じてしまう。

結局のところ、人間も、自然界のサイクルの一つの歯車なのではないのでしょうか。
人間以外の動植物は、自然の力に敬意し、または恐れ敬っている。自然の猛威と戦いながら必死にもがきはするけれども、決して自然を掌握したり、支配しようとはしていない。それは、自分達は決して自然に『勝てない』ことを知っているから。
人間も同じ。だから、色んなところで、自然のしっぺ返しが襲ってくる。
人間は、これからもきっと、彼等と同じように、自然界の支配下に置かれるのでしょう。実際に『テラフォーミング』が実現しようとも、きっと歪んだ形の、『到底地球とは似ても似つかない星』になってしまうのかもしれません。


この作品は、これまでの自然界ドキュメンタリーと同じように、何よりも『自然の叡智』はこんなにも美しく、厳しく、残酷で、でも時には穏やかで優しいことを物語っています。
美しい星であることを願うか、それとも人間だけの都合で営まれる星にするのか。選んだ先の未来は、一体どうなるのか。目の前に映し出される映像が、それを一人一人の人間に尋ねているようにも思えました。

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2008/01/12 13:34 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] 再会の街で

再会の街で『マイティ・ハート/愛と絆』では、アンジェリーナ・ジョリーが演じるマリアンヌ・パール氏は、愛する夫が惨殺されても、決してテロリストに屈しない強い心を持っていました。
では、自分の殻に閉じこもったままの、アダム・サンドラーが演じるチャーリー・ファインマンは、弱い人間なのか?

否。
マリアンヌ・パール氏の場合は、その職業柄もあったし、何よりも夥しいほどの危険が蔓延る場所での仕事だったから、「死ぬかもしれない」ことの覚悟はできていた。でも、チャーリー・ファインマンは、いや、あの忌まわしい2001年9月11日の大惨事に見舞われた方々は、自身がこんな酷い運命を辿ることを、予想だにしていなかったことでしょう。

WTCの両のタワーに突っ込んだ旅客機。一瞬、何が起こったのか分からない。きっとこれは夢。悪い夢。きっとすぐに醒めてくれる。
けれど突きつけられる現実は、あまりにも酷い。これから先、色んな未来を思い描いていたのに。それが全て灰となって消えた。きっとこれは悪い夢。そのはずなのに、目が醒めても、誰もいない。愛する者がいるべき場所に、いない。これからもずっと、こんな身の裂けるような思いをするのなら、いっそのこと、未来永劫『夢』の中で暮らしていければいいのに。
誰一人現実に引きずり出せない、『夢』の中へ     


『夢』という殻と『現実』という殻。
チャーリー・ファインマンが『夢』という殻に閉じこもっているのであれば、対照的に『現実』という殻に閉じこもっているのは、ドン・チードルが演じる歯科医、アラン・ジョンソン。突発的な事故で殻に閉じこもるのとは違い、慢性的にストレスが重なり、防衛反応的に殻に閉じこもってしまいます。
チャーリー・ファインマンの『夢』という殻を取り払い、元のルームメイトとしてやり直させようと考えるも、彼と話しているうちに、自分自身も『現実』に蔓延る『何か』に怯えて殻にとじこもっていることに気づく。チャーリー・ファインマンのように、目に見えやすいわけではないけれど、話を重ねるうちに、彼自身も、本当は取り払いたい殻に閉じこもっていることに気づいていきます。

その殻を取り払えるのは、紛れも無く自分自身。でも、それに気づかせてくれたのは、『夢』の殻に閉じこもった友人との会話。彼は『夢』の殻から決して出まいと思っていた。でも、血を吐くような思いで『夢』のからから出ようとした。その姿が、アラン・ジョンソンにとって、一つの救いになったのではないかと思います。


あの忌まわしい事件からもう5年以上経過しているのに、未だに癒えることの無い傷。記憶から全て取り去りたいのに、他者の視線は、「もっと身を切り刻め」と言っているようなもの。
きっと、被害者の本当の苦しみや辛さは分からない。でも、そんな彼らを心の底から心配する人の気持ちなら分かる。誰だって、自分の近しい人には、幸せになってもらいたいから。

『夢』という殻から醒めて、「『現実』に戻れてよかった」と思える社会。遠いような気がします。でも、決して不可能ではないと思います。勿論、今を生きる人々の、誠意と努力なしで実現できるものではありませんけれども。

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2008/01/09 23:08 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ラストキング・オブ・スコットランド
ラストキング・オブ・スコットランド『ヒトラー 最期の12日間』で、ブルーノ・ガンツ演じるアドルフ・ヒトラーは、まるで他を受け入れない狂人そのものでした。フォレスト・ウィッテカー演じるウガンダの独裁者イディ・アミンも、自身の持つ狂気を余すことなく撒き散らす独裁者のように描かれていますが、性質はアドルフ・ヒトラーとはまるで違いました。アドルフ・ヒトラーの持つカリスマ性は、触れた者は皆心酔する、まるで宗教指導者のようなもの。対するイディ・アミンは、アメとムチを巧みに使い、人々を引き込んでいき、罠にはめていく詐欺師のようなもの。
そして、どちらにも共通する事といえば、自分の気に入らない、自分の妨げになるものに対しては、容赦なく切り捨てる。まぁそれは、彼等のような独裁者に限らず、民主主義の国でも日常茶飯事的に起きている事ですが。勿論、彼等のように抹殺するような事はないですけれども。


この作品で、初めてイディ・アミンという人物を知ることが出来ました。念のためですが、この作品は実在の人物を題材にした作品ではありますが、実在しない人物、ジェームズ・マカヴォイが演じる青年医師ニコラス・ギャリガンの視点によって進んでいるため、多少脚色されております。

ニコラスが始めて会った時のアミン大統領は、『スコットランド』という共通の嗜好があったからこそなんだろうけれど、非常に友好的でした。単に手の捻挫を治療しただけなのに、アミン大統領の主治医に抜擢。更には主治医とは思えないくらいの待遇や、政治的な場面に頼ってもらえるなど、至れり尽くせり。でも、それこそがアミン大統領の『恐怖』という奈落の底の始まりでした。
アミン大統領は、自分が気に入ったものは何があろうとも手放さない。そして自分の気に入らないものは、いとも容易く切り捨てる。まるで子供のような二面性を持つ人物。偉大なる支配者の顔を見せるその裏側で、自分の意にそぐわない者は容赦なく粛清する。ニコラスがその事実を知ってしまうや否や、逃げられないようパスポートまで奪うほどの徹底振り。
しかも、アミン大統領の裏の顔まで知らなかった時のニコラスは、主治医とは思えない優遇を大手で振りかざす。それが、彼を破滅の底へと更に追いやる事も知らずに……


アミン大統領を演じたフォレスト・ウィッテカーは、第79回米アカデミー賞で主演男優賞を獲得しました(ちなみに僕的には『ブラッド・ダイヤモンド』で主演を演じたレオナルド・ディカプリオの方が良かったように思いますが……)。
同じ年の米アカデミー賞ノミネート作品で、アフリカを舞台に繰り広げられる物語は、他にも『バベル』や『ブラッド・ダイヤモンド』があります。昨年には、『ナイロビの蜂』がノミネートされ、レイチェル・ワイズが助演女優賞を獲得しました。それらの作品にまざまざと映し出されるのは、『アフリカの現状』。「どれだけ悲惨で、どれだけ過酷か」なんて、何も知らない僕が言葉にすることすらおこがましいくらいの現状。けれど、『ブラッド・ダイヤモンド』のラストのシーンにおける、夕日に照らされるアフリカの美しい光景もまた事実。
開発援助の名の下に脅かされるアフリカの利権争い。激変する環境、生活。そして宗教や民族間の戦争。増え続ける難民、難病患者。僕はまだ、映画の中でしか知り得ないけれど、それでも「何も触れない」よりかは、アフリカの現状をまざまざと描いた作品に触れられたことは、有意義だと思います。『ラストキング・オブ・スコットランド』も、元を糺せば、先進国による介入によってできた歪みの一端なのかもしれませんから。

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2008/01/06 18:09 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] オール・ザ・キングスメン
オール・ザ・キングスメン原作は、ピューリッツァー賞に輝いたロバート・ペン・ウォーレンの小説『すべて王の臣』。1949年にロバート・ロッセン監督によって映画化されたこの作品は、今作で2回目の映画化。
第2次世界大戦の終戦間もない1949年のルイジアナ州は、大企業との汚職にまみれ、富裕層と貧乏層との間に異常なまでに格差があった。その汚職を浄化すべく立ち上がった一人の男、ウィリー・スターク。一人の出納官に過ぎなかった彼が、やがて州知事に昇り詰めるも、やがて彼も権力に溺れ、腐敗に陥る。そんな彼を、傍らで見つめてきた新聞記者。この物語は、新聞記者である彼が見た、ウィリー・スタークの絶頂と凋落の物語といっていいのかもしれない。
いや、ウィリー・スタークだけではない。彼と、そしてウィリー・スタークに関わった人間全ての物語。『地方自治』の名の下に穢された手、身体、そして名誉。支払ってきた代償。裏切りの数々。

享受する人民は、誰一人、その裏舞台の汚れと憎しみの交錯を知らない     


大きなことをしようとすればするほど、その代償となる対価は大きく膨らみ、やがて正義の為に立ち上がった一人の知事の双肩でさえ、支えきれなくなる。何らかの『力』が作用すれば、それに対し反作用を起こす『力』もまた存在する。全ての『力』が自分の為になるとは限らない。自分を活かすとは限らない。やがてその『力』は両の肩からこぼれ落ち、多くの人々を巻き込む事になる。
誰もが傷付かない政治なんてあり得ない。誰もが幸せになる政治なんてあり得ない。多くの幸せのその真下には、血塗られた憎しみの渦が、今も人々の『幸せ』を付けねらうかのように、横たわり、眠り、そして機会を待っている。

そして発動された渦は、自らを封印した元凶に襲い掛かる。
もう元には戻れないと知っていても。


誰かの願いを叶える為に、誰かを犠牲にする」。

僕達の日常行動は、それで成り立っているということを、一体どれだけの人が噛み締めて生きているのだろうか。犠牲になる方は辛いのは勿論だが、犠牲にしなくてはならないと苦虫を噛み締める統治者もまた辛い(作中のショーン・ペンが扮するウィリー・スタークは、そんな表情は殆ど見せなかったが)。
しかし、「誰かの願いを叶える為に、貴方が犠牲になりなさい」と告げる者は、もっと辛い。
自分の中にも信念が、正義があるのに、それに反する事を言わされること。その対象が、自分と近しい人物であればあるほど、その傷は深く心を抉る。人々の生活の為、弱者を救う政治を作り上げる為とはいえ、今まで作り上げた『幸せ』を、たったの一言で壊すことになるのだから。

多くの人々を救う事と、自らの正義を貫く事。
その『力』を、誰の為に、何の為に使うのか。多くの人の為の正義と、自分の為の正義が問われる作品であると思う。

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2008/01/05 11:49 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] クィーン
クィーン日本の天皇制が、120代以上も続く連綿とした一族である事もさることながら、イギリス王室、いわゆるグレートブリテン島を支配した君主達もまた、今日に至るまで連綿と続いている。伝統と格式を持ち、国の全てを治め、国に全てを捧げるその御身に、『自分』という『自由』は、どこにも存在しない。
国の君主として王冠を頭にのせたその時から、歴史と伝統を刻み培ってきた国と、そこに住まう国民以外を、愛してはならない。死が二人を別つまで共に暮らす伴侶でさえ、次の王を産むために必要なだけなのだ。


1997年8月31日 フランス パリ。
元ウェールズ大公妃ダイアナ、死去。離婚後に交際していたドディ・アルファルド氏と共にパパラッチに追跡された果ての交通事故。
多くの人が悲しみ、彼女が生前住んでいた宮殿の前に、多くの花束が手向けられたにも関わらず、イギリス王室は、当初半旗すら掲げなかった。全てはイギリス王室の伝統のためであると同時に、『ウェールズ大公妃』の称号を冠しながらも、彼女は既に『民間人』だったからである。

彼女は『自由』を求めていた。『公人』である以上に、自分は『一人の人間』であることを求めていた。
彼女に手を差し伸べられて、救われた人も数多くいたが、彼女によって貶められ、犠牲になった人も数多くいたことも事実。けれどそれは、全てが彼女の所為ではない。彼女もまた、あらゆる苦しみの渦中に立たされた犠牲者でもあった。それは、彼女を伴侶としたウェールズ公チャールズにも、その一端がある。
それでも、幾星霜と積み上げてきたイギリス王室の伝統の『穢れ』が、無かった事にすることは出来ない。でも、窓の向うには、多くの愛すべき国民がいる。そして喚いている。「敬愛するダイアナが不慮の死を遂げたのに、何故イギリス王室は何もしないのか」と。

今まで正しいと守り抜いてきたものが、突如として脆く感じる。
国の為に、国民の為に、これほど傷つけてきた我が身に、もっと傷をつけろというのか。



ソフィア・コッポラ監督の『マリー・アントワネット』、アレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』と同じように、『公人』と『一人の人間』の狭間で葛藤する、同じ血の通う『人間』の物語。第79回米アカデミー賞主演女優賞を獲得した、ヘレン・ミレン主演の作品。
その輝きも、その微笑みも、その気品も、全て国のため。全て国民のため。
でも、宮殿の中では、まるで鳥籠の中の鳥のよう。「全ては国の、そして国民のため」と自分を押し殺しながら生きてきた。周囲が、それは時として親族、親兄弟でさえ、そうなるように『作って』きた結果。しかし、それが今、刃となって自身の身を切り刻む。それは、時代の変化による様々な『変革』の名の下に襲い掛かる刃。
昨今のバレエや歌舞伎のように、これまでの伝統と格式を守りながら新しい息吹を取り入れる、というわけにはいかない。だって『存在そのもの』が『国の全て』を象徴するのだから。

イギリス国民が、イギリス王室の中で巻き起こっている苦難や苦痛が分からないのと同じように、きっと日本国民も、皇室の中で巻き起こっている苦難や苦痛が分からない。皇室関連の報道では、皆にこやかにとの時を過ごしているけれど、心の中まで、本当ににこやかなのかは分からない。

『公人』として生まれ、そして『公人』としてのみ生き、『公人』としてその生涯を全うする事が、どれだけの覚悟と対価を支払っているのか、それを知り、そしてこれからの『皇室』や『王室』のあり方を問い続ける一端となる作品だと思う。

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2008/01/04 11:57 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie

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