人間は進歩していない、そう思える象徴が、ニューヨーク市ハーレム界隈で蔓延していた。それは『麻薬』。アップ系からダウン系まで、多種の麻薬が街を支配し、人の心を支配し、そして人の身体を腐食させる。麻薬の虜になったのは、何もマフィアやギャングだけではない。政治家や芸能人、検察官や、事もあろうか警察官に至るまで、麻薬の持つ『魔力』は、確実に人の心に浸透する。
その麻薬を牛耳る事が出来る者こそ、街のトップをその手に掴むことが出来る。
その『トップ』を潰す事。それは、街を、人を蝕む麻薬を根絶やしにするための手段。
『トップ』に躍り出た者は、『トップ』でありつづけなければならず、しかもそれが『麻薬』という禁断のビジネスであればあるほど、決して尻尾を掴ませてはいけない。『木を隠すには森の中』。まる自分自身も一般市民の一人であるかのように振舞う。『トップ』を潰したい刑事としては、砂漠の中から目的の砂粒を見つけ出すのも同然の事。それでも諦めず、粘り強く捜査を続けるのは、誘惑に負けない己の確固たる信念があるがため。
この作品は、主人公と脇役とで、くっきりと分かれているものがある。
それは、強固な意志を持っているか、そうでないか。自らの信念を持ち、地にしっかりを足をつけているか、意思を持たずに翻弄されるか、あるいは付き従うだけなのか。
強固な意志を持っている人物と言えば、何と言っても主人公の二人である。フランク・ルーカスを演じるデンゼル・ワシントンと、リッチー・ロバーツを演じるラッセル・クロウ。
この作品の、というより、この時代に生きるほとんどの人々は、世界の展開がこれまで以上に速いため、もはや翻弄されるというより、思考することを止めてしまった人が多いように感じる。だから、自分が生きることに精一杯で、もしくは人に付き従うことで何とか生きることができる、というように見える。それは、今の世の中にも通じるところがある。
そんな中でも、しっかりと自分を持ち、地に足をつけて自分の信念を邁進している彼らは、脇役に比べ、非常にくっきりとしているのだ。善か悪かは、彼らの行動と思考の結果に過ぎない。共通しているのは、強固な『意思』。だからこそ、たとえ身内であれ、成すがままに生きる他の人と行動を共にするのは「危うい」と思ったのかもしれない。あまりにも油断が多く、危険だから。別の意味で言うと、頑固すぎて自分の意思にそぐわないものは排除しがちである、というふうにも見受けられるが。
どちらかに偏っているのではなく、両雄がほぼ同じく立ち並ぶように撮影されているから、お互いの距離が近くなればなるほど、その白熱振りは増していくのだろう。
如何にして証拠を残さず、裏社会で暗躍していくか。
如何にして証拠を掴み、裁きの場に引きずり出すか。
前述でも申し上げたが、この作品が今の世の中にも通じるのは、何も『考えることを失った翻弄される人間』のことだけではない。世の中に存在するあるとあらゆる『流れ』を一切無視した秩序作りは、やがて歪みしか生まなくなる、ということだ。
その歪みによって、多くの悲しみ、苦しむ人がいることも事実だし、多くの敵を作ることも事実。
しかしその一方で、『流れ』を無視しなければ作り出せない価値がある場合もあることもまた事実。
強固な『意思』を持つ男達の、食うか食われるかの戦いを描いている傍らで、複雑化が一層激しさを増す今の世の中の、住みにくさ、心地悪さをも表現されている作品であると思う。
雨
。
作物を育て、それを主に食す農耕民族において、雨は正に恵み。山岳地帯の多い地域では、その峻険な山々によって雲が遮られ、日照りによる干ばつが相次ぐこともしばしば。それゆえ、雨乞いによる儀式で降雨を祈ったとも言われています。
とは言え、雨は決して恵みだけを与えません。雨ばっかりでは過剰に水を与えることと同じであり、ゆくゆくは作物を腐らせてしまい、時には降りしきる雨が、洪水となって人々の生活を襲います。また、ほとんどの場合で日の光が遮られるため、やはり『雨』には、陰鬱な、とか、悲しい、といった感情が、洋の東西を問わず持ち上がります。
この『セブン』は、そんな陰鬱な街で起こる物語。
7つの大罪 -Seven Deadly Sins- は、キリスト教に登場する、人間を罪に導く7つの欲望。暴食(Gluttony)、色欲(Lust)、強欲(Greed)、憤怒(Wrath)、怠惰(Sloth)、嫉妬(Envy)、傲慢(Pride)。それぞれの欲望に模した殺人事件が繰り広げられる。その殺人は極めて用意周到で、目を疑うような残虐性を持ち、且つわずかな証拠すらも残さない。
殺された自分達には接点という接点はない。ただ、殺害に模した欲望に対する『業』をなしていることくらい。それとて、陰鬱で腐敗した街では、まるで『日常茶飯事』として衆目の目には意に介さないような形で発生する。街を取り巻く雰囲気は、『無関心』そのもの。それこそが、7つの大罪に匹敵する、いやそれを上回る罪ではないかと、観客に問いかけているかのよう。
実際、それに気づいている人が、ブラッド・ピットが扮するミルズ刑事の妻、グゥイネス・パルトローが扮するトレーシー。モーガン・フリーマンが扮するサマセット刑事に相談するのは、サマセット刑事がこの街に住んで長いから。住み続けるには、ここで子供を育てるには、あまりにも悪辣な環境。自分たちですら自分の身を守れないかもしれないのに、子供の身まで案じられるのだろうか。そんな不安。
不安が負のエネルギーを呼び、負のエネルギーに取りつかれたものは欲望に捕われ、その欲望のままに犯罪を繰り返す。それが『日常茶飯事』。
街そのものが、『人間』を表している。そう捉えてもいいくらいに蔓延している負のエネルギー。
この作品は、サスペンススリラーとして描かれていますが、その根幹にあるものは、人間ドラマではないか、と思います。それも、人と人とのつながりではなく、人の心の奥底に眠る醜い化け物。それをむき出しにした人間ドラマ。そして、あまりにも、登場人物に救いようがありません。これこそが人間の本性なんだぞ、と、暴力的に訴えるように。
しかし、だからこそ、大抵の人はこの作品を見て、自分の住む町が、自分の家族が、自分の隣人が、そして自分自身が、その本性についてを深く考える糧にもなり得るのではないか、とも思うのです。サマセット刑事が正にそれを体現していると思います。だって、本当にこの街で、醜悪なこと、悲惨なこと、陰鬱なことしか起こらないのなら、この街に長く住みたいとは思わない。ましてや、行きたいとも思わない。悪いことが大半を占めていても、この町で暮らし続けたい、生き続けたい『何か』があるのではないか。そう思わなければ、トレーシーに対してアドバイスをすることすらもしません。自分のことだけ考えればいいのだから。
この街で発生した連続殺人事件の犯人は、あまりにも、人間の負の側面ばかりに捕われています。むしろ、捕われきっている、ともいうべきか。人間の持つ、別の側面を見ていない。もしかしたらそこに、『その人ならでは』の本質があるかもしれないのに。
この作品は、人間の『本性』や『本質』を深く抉り出す、何とも見心地の悪い、けれども決して目をそらすことが出来ない作品ではないかと思います。
しかし、このバカバカしいアニメなのに、変なところで無意味なまでの凄い技術や手腕を振るうところが琴線に触れ、一気にファンになってしまいました。
深夜放送やニュース番組のコーナーに取り扱われれ、そしてついに待望(?)の映画化。副題は『総統は二度死ぬ』。007シリーズにあやかりたいという魂胆が見え見えです。
さて、この作品、映画史上かつて無い試みを採用しているのだとか。
1.バジェットゲージ・システム
映画製作にかかる費用を、棒グラフでリアルタイムに表示するシステム。どのシーンにどれだけの費用がかかっているのか、どの部分に無駄遣いしているかが分かる。
2.告白タイム
本編中に特定の時間帯を設け、この作品を一緒に観賞している人に告白してもらおう、という試み。愛の告白をする目的でこの作品をチョイスしたこと自体がそもそもの間違いだということが分かる。
3.プロダクト・プレイスメント
作品の中で、広告主の商品を使ったり、広告主のロゴ等を表示する広告活動のこと。無料マガジンで多数使用されている手法なので、映画鑑賞料も無料にしろや! と思うかもしれないが、大人なので思ってはいけない。
さて、観賞してみて、上記システムは如何なく発揮されておりましたが、
笑えるくらい無駄すぎました。
1.について…
まずオープニングの意味ありそうで実は無意味だったCGに、予算の半分を使用していたとか。しかも上映開始早々、その現状に総統が嘆いていました。ここで同情しない人がいるだろうか…!
さらに予算の無駄遣いは続き(製作用の資金なのに、スタッフ一同でピザ食ってたりとか)、いざクライマックス! という時に、とうとう資金は底を付きかけ、何を血迷ったのか、効果音を人間の声でまかなうという大胆さ。
そんな資金繰りがうまくいくはずもなく、結局企業からの出資が必要になってくるのです。それが、3.プロダクト・プレイスメントで発揮されるのです。
2.について…
一体何のために存在していたのか未だに分からないシステム。しかもこれ、DVD観賞では全く役に立たないし(早送りできるから)。告白タイム中も、キャラクターがちょこまかと動いたり矢鱈と五月蝿いし。
しかしこの無駄さ加減が、『鷹の爪団』のギャグの支えどころなのです。
3.について…
一番現実的なシステムですが、普通、さりげなく自然な感じで広告主の商品を使ったりとか、ロゴを出したりとかしますよね。
何なんですか、アノあからさまな広告の表示は。
何処でも何でも、ベタベタと広告貼り付けてりゃいいってもんじゃないだろ!
しかも何だよ! 有名企業の広告掲示しているから、かなりの製作資金を調達できたと思いきや、大胆に裏切るかのような無駄な3Dキャラクターの動きの数々! しかもメインキャラクターじゃないし!
しかし、それを見込んで敢えてこれだけの映画を作るのであれば、もはや製作者は稀代の天才か想像を絶するバカとしか言いようがありません。ただ、落語家のように、凄い教養はあるんだと思います。
きっとこれからも、ますます無駄力に磨きをかけていくことでしょう。この先、どんな作品に展開していくか、楽しみです。
というか、この映画にこんなに長々と書く予定は無かったのですが…… >自分
人生は、先が分からないから面白い、という人がいる。先が分かってしまったらつまらないから。
では、先が分かってしまう人生は、一概にして面白くない? 実は必ずしもそうではない。これから先、死ぬまでずっとハッピーな展開であればまだしも、人生には否応無く、大なり小なりの悲劇や苦痛が訪れる。そうなることを知っていたら、人は何が何でもその運命にあがらうはずだ。どうやったら、自分の運命は変わるのか。本当に運命を変えることが出来るのか。今までと同じことなのか、それとも違うことに挑戦するのか。結果は別にして、『あがらう』という道筋もまた、人生の大きな彩になる。
毎日を、淡々と、平凡に暮らしている人には、あるいは、自分のスタイルが凝り固まるくらいに確立して、容易に動かせない人には、難しいかもしれないけれど。
でも、ほんのちょっとの違う道筋が、近い将来、自身に大きな糧をもたらすことだってある。
この作品の主人公は2人。
ウィル・フェレルが扮する、堅物会計検査官ハロルド・クリック。毎日同じ時間に目が覚め、毎朝同じ回数歯を磨き、同じ道のり、同じ歩数、同じバスに乗って職場に向かう。寸分足りとも違わない自分の生活スタイル。平凡というより、変化の無い機械的な毎日。
方やエマ・トンプソンが扮する、人気女性作家カレン・アイフルは、一貫して主人公を殺す悲劇作家。自分のキャラクターをどのように殺すかで毎回悩み、苦しむ。まるで、「自分の小説は、誰かが必ず死ななければならない」と変に屈折したポリシーを抱えているかのように。
いつもと同じ毎日。いつもと同じ作風。
しかし、彼女が執筆中している、彼の『これまでの人生、そしてこれから辿る道筋』が、彼の頭の中で響く時、本来だったら全くの無関係にもかかわらず接点が出来た瞬間、これまで歩んできた両者の道筋に、変化が訪れる。
彼は知る。自分の人生が如何に変化の無い退屈な毎日を送っていたか。彼女は知る。いくらフィクションとはいえ作家としての責任に追われるのようにキャラクターを殺してきたか。
別に、彼らは変わることを恐れていたわけじゃない。
ほんの少しの行動一つ一つに、自分を変える『何か』があったかもしれないのに。意図してそれを無視したわけじゃない。変わらないことで、自身の人生に対する責任を果たせるんじゃないか、と思っていた。
しかし、お互いの存在を知ることによって、それが必ずしも幸せの道筋ではないということが分かった。変わらなくても幸せな人生を送れるかもしれない。でも、変われば、もっと違う幸せを感じ取ることが出来るかもしれない。だから、執筆中の作品の結末を変えて、それまで『最高』だったのが『まぁまぁ』に評価になっても、彼女はそれほど落胆しなかったのだと思う。新たな道筋ができた、どんな行く末が待っているかは分からないけど、これまでと違う何かを感じることが出来る、と思ったのだろう。
人の生命は一つだけれど、人生は一つじゃない。
未来への道筋は決まっているように見えて、実は決まっていないと思う。
何気ない行動、取るに足らない僅かな行動。でも、するとしないで大きく違ってくる。一つ一つの未来を決め、そして作り上げていくのは、誰でもない、自分自身なのだから。
イングランド・プレミア・リーグで大活躍し実績をかわれた、クノ・ベッカーが扮する主人公・サンティアーゴ。世界トップクラスプレイヤーが集う、チャンピオンズ・リーグで戦うため、かつてのチームメイトが現在所属しているレアル・マドリードへ。新天地でより一層活躍するサンティアーゴ。まさに有頂天であるこの時の彼は、まさか自分の足元が、音も無く崩れ落ちていくことを知らなかった。いや、見ようともしなかった、とも言うべきでしょうか。
どんなに練習を重ね、一流のプレイヤーになっても、可愛い奥さんを娶っても、まだまだ彼は精神的に子供。順風満帆な時は、手に入れるものばかりで、失うものなど何も無い、と思ってしまう。でも、振り返れば、疎かになってしまったことが山のように積まれていました。本当に必要なもの、本当に大切なことは何なのか。様々な事件を通して、一つ一つ、精神的に大人になっていく物語です。ですので、前作に比べれば、サッカーシーンは削られ、変わりに、彼のプライベートでの動きや、心の葛藤が重点に置かれておりました。サッカーのプレイを楽しみにしていた人にとっては、少々拍子抜けだったのかもしれません。
まぁ、サッカーに限らず、プロのスポーツ界というのは、目立ってなんぼ、実績を残してなんぼ、という、ものすごくシビアな世界。
どんなに実力があっても、ベンチに座ったままでは、何もしていない、何も実績を残していないのと同じ。実績を残せなければ評価も無くなり、自身の報酬にも影響する。それだけでなく、折角掴んだ自分の夢、自分のやりたかった事なのに、どんどん遠のく。プレイできなくなる。時としてチームメイトを蹴落としてでも。これについては、本人が望むとも望まずとも、ですけれど。また、クラブ・チームとしては、勝たないと意味がありませんから。チームを勝利に導くための布石に、友情関係を持ち込むわけにはいきません。
プロとして生きていくためには、プロとしての悩み事があります。ただ単に実力があればいい、ということではない。特にチームとして戦っていくからには、尚更の事。その時、自分としてどのような選択をすればいいのか。自分としても、チームとしても、どのような選択が一番ベストなのか。勿論、それは自分のプライベートにも多かれ少なかれ関わってきます。それが分かってこそ、大人としての精神力が培われるのではないかと思います。
さて。
余談ではありますがこの映画、プライベート・パーティのシーンが多いですね。前回も割りとそんなシーンが多くありましたが。
あまりハメを外したパーティのシーンが続くと、少々ウザく思うのですが… それは僕の好み? それとも日本人の感覚? もうちょっとストイックなシーンがあってもいいような気がしますが、いかがでしょう?