雨 。
作物を育て、それを主に食す農耕民族において、雨は正に恵み。山岳地帯の多い地域では、その峻険な山々によって雲が遮られ、日照りによる干ばつが相次ぐこともしばしば。それゆえ、雨乞いによる儀式で降雨を祈ったとも言われています。
とは言え、雨は決して恵みだけを与えません。雨ばっかりでは過剰に水を与えることと同じであり、ゆくゆくは作物を腐らせてしまい、時には降りしきる雨が、洪水となって人々の生活を襲います。また、ほとんどの場合で日の光が遮られるため、やはり『雨』には、陰鬱な、とか、悲しい、といった感情が、洋の東西を問わず持ち上がります。
この『セブン』は、そんな陰鬱な街で起こる物語。
7つの大罪 -Seven Deadly Sins- は、キリスト教に登場する、人間を罪に導く7つの欲望。暴食(Gluttony)、色欲(Lust)、強欲(Greed)、憤怒(Wrath)、怠惰(Sloth)、嫉妬(Envy)、傲慢(Pride)。それぞれの欲望に模した殺人事件が繰り広げられる。その殺人は極めて用意周到で、目を疑うような残虐性を持ち、且つわずかな証拠すらも残さない。
殺された自分達には接点という接点はない。ただ、殺害に模した欲望に対する『業』をなしていることくらい。それとて、陰鬱で腐敗した街では、まるで『日常茶飯事』として衆目の目には意に介さないような形で発生する。街を取り巻く雰囲気は、『無関心』そのもの。それこそが、7つの大罪に匹敵する、いやそれを上回る罪ではないかと、観客に問いかけているかのよう。
実際、それに気づいている人が、ブラッド・ピットが扮するミルズ刑事の妻、グゥイネス・パルトローが扮するトレーシー。モーガン・フリーマンが扮するサマセット刑事に相談するのは、サマセット刑事がこの街に住んで長いから。住み続けるには、ここで子供を育てるには、あまりにも悪辣な環境。自分たちですら自分の身を守れないかもしれないのに、子供の身まで案じられるのだろうか。そんな不安。
不安が負のエネルギーを呼び、負のエネルギーに取りつかれたものは欲望に捕われ、その欲望のままに犯罪を繰り返す。それが『日常茶飯事』。
街そのものが、『人間』を表している。そう捉えてもいいくらいに蔓延している負のエネルギー。
この作品は、サスペンススリラーとして描かれていますが、その根幹にあるものは、人間ドラマではないか、と思います。それも、人と人とのつながりではなく、人の心の奥底に眠る醜い化け物。それをむき出しにした人間ドラマ。そして、あまりにも、登場人物に救いようがありません。これこそが人間の本性なんだぞ、と、暴力的に訴えるように。
しかし、だからこそ、大抵の人はこの作品を見て、自分の住む町が、自分の家族が、自分の隣人が、そして自分自身が、その本性についてを深く考える糧にもなり得るのではないか、とも思うのです。サマセット刑事が正にそれを体現していると思います。だって、本当にこの街で、醜悪なこと、悲惨なこと、陰鬱なことしか起こらないのなら、この街に長く住みたいとは思わない。ましてや、行きたいとも思わない。悪いことが大半を占めていても、この町で暮らし続けたい、生き続けたい『何か』があるのではないか。そう思わなければ、トレーシーに対してアドバイスをすることすらもしません。自分のことだけ考えればいいのだから。
この街で発生した連続殺人事件の犯人は、あまりにも、人間の負の側面ばかりに捕われています。むしろ、捕われきっている、ともいうべきか。人間の持つ、別の側面を見ていない。もしかしたらそこに、『その人ならでは』の本質があるかもしれないのに。
この作品は、人間の『本性』や『本質』を深く抉り出す、何とも見心地の悪い、けれども決して目をそらすことが出来ない作品ではないかと思います。