「家督を継げるのは正妻から産まれた子であるからこそ。先に産まれたのに側室の子供には、継承権すら与えられない」「『次に産まれた』というだけで、家内での扱いは雲泥の差。長子には自分に勝るものなど何も無いのに」「まだ子を成していない、あるいは未だに姫君のみの出産で、一族郎党全てから白眼視される」等々。
そんな息も詰まるような宮中の暮らしは、たとえ西暦が3桁の中国であろうと、マリー・アントワネットが生きた18世紀であろうと、大した差は無いのですね。どんなに煌びやかな装飾や衣装に囲まれても、自分に忠実な者達を侍らせても、そこは暗く冷たい鳥籠、牢獄と一緒かもしれません。
10世紀の唐時代の中国。豪華絢爛、全てが雅やかに彩られた宮中で蠢く、家族の愛憎。微笑ましく食事する姿も、それは全て表面だけ。心の中は、嘘と隠し事と憎しみで淀んでいる。
作品の序盤は、単に宮中の一日を描くに過ぎない退屈な作品では、と思っていました。しかし、サスペンス映画を追うかのように、時間が経過すればするほど、登場人物の歪んだ関係が色濃く浮き彫りにされる。次第に明らかになる互いの腹の内。しかし、それをどのような手で遂行するかは、まだ双方とも明らかになっていない。どちらが互いの手を読み、それを制するか。
しかし分かっていることは一つ。どちらに転がっても、双方とも破滅しかない、ということ。これまでの中国の武侠映画を初めとするアクション映画は、何と言っても見所はその驚くべき体躯の駆使(まぁワイヤーアクションですけれど…)と、何千何万と出現する兵士、そして一糸乱れぬ動き。「戦争をするのは兵士だが、戦争を起こすのは政治家」の格言よろしく、本来なら家族間で収めるべき事態のはずなのに、なまじ王族の中でのいざこざですから、そのスケールの壮大さといったら。
そして、やはりラストは破滅でしかありませんでした。どちらから勝つにせよ、その損害は著しく大きく、国家の存亡を揺るがすに至る可能性だってある。すごく救いようの無い、後味の悪いラストです。勿論、そうなることは百も承知で作った作品かもしれませんし、その『後味の悪さ』から何を見出すかにもよりますけれど。
それにしても。
予算の配分を間違った作品か? と思ってしまうかのような、あまりにも不自然すぎる合成の数々は一体何なんでしょう?
この作品で最も表現したいのは、表向きの豪華さと、其の裏に蠢く陰謀なのでしょうけれど、それでしたら表の豪華さを、最後まで徹底して貫いて欲しかったな、と思いました。宮中の絢爛豪華さも、マスゲームのような大量の人の動きも目を見張るものだったのに、残念です。
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「どんな手を使ってでも、何よりもまずは勝利を」。そのために何十人何百人の屍が積み上がろうとも、争いを無くし平和な世界を作ろうとする若者の崇高なる意思を踏み躙っても、掴み取らなければならない『勝利』。
「第二次世界大戦でさえ、5年で終結した。今のイラク戦争は、6年経った今でも、解決の糸口は見えていない」
そう言わしめてしまえるのは、単にアメリカが弱いからではない。いくつもの間違いを犯してきたからだ。そして、対抗勢力もこれまでにない知恵と戦力を持ち始めている。誰も制御できない闇の取引が横行している所為で。しかしそれも、自由と権利を主張するが故。人を傷付けて、人を殺して勝ち得る自由と権利など、それこそ既に歪んでいるけれども。
もはや完全な正義、完全な悪は、この世に存在しないのかもしれない。正義と悪が混在し、カオスと化した世界。そんな中で、戦う意義はあるのか。戦う意味はあるのか。それでも、決断し、行動に出なければ、何も変わらない。何も変えることが出来ない。
この作品は、進んで『何か』を提供しようとするものではないと思う。ハッピーエンドも存在しない。強いて言えばバッドエンドだろうか。しかし、そう捉えろと促しているわけでもない。『決断』と『行動』の選択肢の岐路に立つ最中で、人は何を見、何をしようとし、何を考えているのか。政治家、ジャーナリスト、大学教授、学生。それぞれ立場は違う。考え方も違う。もしかしたら交わりさえ一生無いかもしれない。それでも、自らが自らとして生きるためのに、何かを『決断』し『行動』に移すということは、全員が同じように与えられた試練であり、そしてチャンスでもある。
作品の解釈はひとそれぞれだが、僕は一種の三竦みの構図であると感じた。
今の腐敗した政体を嘲笑う学生。しかし裕福な環境に入り浸り、努力の末勝ち得た他の学生の方が、将来性があると言わしめられる。
努力と苦労を積み重ねてきたからこそ、裕福な学生には無い輝きを持つ学生。しかし、志願した兵役でさえ、その志は上からの指令で脆くも崩れ去る。
全ての上に立ち、あらゆる権限を誇り指揮できる政治家。しかし今の腐敗した世の中、どんなに潔癖な政策でも、一般人の嘲笑の対象となる。
どんな立場でも、絶対は無い。誰かの、何かの上に立つ役目になれたとしても、必ず押さえつける存在がある。世の中の人間関係とは、得てしてそんな堂々巡りなのかもしれない。
第26代アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトの言葉。
「正義と平和のいずれを選ぶかと問われたら、私は迷わず正義を選ぶ」
貴方は、どちらを選ぶのか。
桜も散り、徐々に気温も高くなる、春と夏の狭間の季節。一年で最も過ごしやすくなる季節。
華やかで、『豪華』というよりは『賑わう』という表現が合っている躑躅。森鴎外や夏目漱石の小説にも登場する『根津権現』こと根津神社のつつじ苑に行って参りました。
華やかで、『豪華』というよりは『賑わう』という表現が合っている躑躅。森鴎外や夏目漱石の小説にも登場する『根津権現』こと根津神社のつつじ苑に行って参りました。
躑躅といえば、東京でもに植樹されている代表格の植物。花の咲いていない季節は、青々と茂った葉だけの低木が並ぶくらいで、少し素っ気無い感じも。そんな躑躅も、花を咲かせる季節になると、大紫や純白の大輪の花を咲かせ、街頭を賑わせます。
割と庶民的なイメージの花と思っていたのですが、これほどまでに多くの色彩、多くの品種が存在するとは思いませんでした。大紫や白の大輪でも賑わいを見せるのに、これほど多くの品種があると、まるで合唱でもしているかのよう。
園内には、約50種300本の躑躅が植えられているんだとか。間近で大輪の花を観賞するのも良し、遠くから、園内の色とりどりの優美な風景を楽しむのも良し。様々な楽しみ方が出来ると思います。
ただ、ご注意いただきたいことが。
園内の通路は、アップダウンがある上に、結構狭いです。休日だからかもしれませんが、朝の時間帯にも関わらず、つつじ苑は既に人で賑わっていました。なので、人と人とがすれ違うだけでも、結構一苦労なのです。
まぁ、花の名所はここに限らず、どこでも人の賑わう時は身動きできなくなるほどですけれどね…
『東京都』の写真集についてはこちら
-【名】(C)
1.取り付ける人[もの]
2.《口語》(買収などで事件をもみ消したり裏取引をする)フィクサー、仲介者; 調停者
3.定着剤; 色染め染料
法廷闘争は、被告と原告の戦い。さらには、検察側と弁護側の戦い。
どちらが多くの証拠を揃え、相手の弁論に対しどれだけ備えるか。どちらが上を行き、その論争を制するかの戦いは、時として正論だけで全てが賄えるわけではない。論点を巧みにすり替えたり、都合のいいように尋問を図ったり。そして、こちらの不利となる証拠を抹消したり。
正義を振りかざすだけでは勝てない。そんな時、人は倫理観から大きく逸脱するような行動を取る。どれだけ闘争相手を騙し、欺き、自分の有利な方へと誘うか。被告と原告の戦いは、何も法廷内だけではない。法廷の外でも、確実に相手を仕留め、あるいは自分達が有利になるような動きが、水面下で行われている
という作品を想像していたのですけれど、実際にはかなり違っていました。
今作の原題は『MICHAEL CLAYTON』。今作の主人公の名前。つまり近作は、巨額の薬害訴訟を目の前にして、弁護側として立つ主人公が、どう考え、どう動くかを追った物語。「如何にしてその巧みな話術と行動力で、不利となる証拠や議題を抹消するか」が目的ではないのです。
もみ消し屋として暗躍する役は、主演のジョージ・クルーニーだけかと思っていましたが、いやはや、もみ消しにかかるのは、被告側に立つほとんどの人間側だったんですね。ティルダ・スウイントン演じる、被告側の会社の法務部本部長、被告側が委託した弁護士事務所、そして、不利な証拠は人すらも抹消する暗殺集団……。
そんな中でも注目なのが、主演のジョージ・クルーニーと、アカデミー賞助演女優賞に輝いたティルダ・スゥイントン。どちらも、倫理に反した『もみ消し』という行為に走りながらも、完全なる悪役に徹し切れていない、人間らしいジレンマを醸し出しています。
ジョージ・クルーニーは、これまで数多く『もみ消し』としての実績を重ねていたが、本業は弁護士であるにもかかわらず、ずっと裏稼業に手を汚し続けて嫌気を指している。一方のティルダ・スウイントンは、不利な証拠はどんな手を使ってでも抹消する非常さを持ちながらも、演説などいざという時は鏡に向かって自分だけのリハーサルを行うなど、アドリブが利かない完璧主義者。一切の綻びを許さないから、予想外な出来事が発生すると、パニックに陥ってしまうタイプ。本人は努めてそう悟られないようにしていますけれど。
心理戦の応酬や、如何にして真実に近づくか、というのも勿論ですが、悪に徹しきれない普通の人間が、悪の手に染まった時、どのような行動に取るのか、というヒューマン・ドラマ的な側面を持つ作品です。
ですので、あまり過度な期待はせぬ方がいいかもしれません。ラストの、正にどんでん返しは見ものですが、それまでは中弛みに映ってしまうかもしれません。
物語はニューヨーク市街を襲い、次々と破壊活動を繰り広げる巨大な怪物。普通のアクション映画であれば、やれ宇宙から飛来した宇宙人だの、人間のテクノロジーが生み出した負の産物だのと説明がつき、人々の力を結集させて倒していきます。まぁアメリカ映画によくある物語展開ですが。
一方の今作は、そんな怪物のバックボーンは一切無し。無力なまでに逃げ惑う普通の人々の観点から捉えている作品です。わざと作り上げたと思いますが、映像の画質や動きも、ごく普通に店頭販売されているハンディカム。全くの一般人の視点で映し出されていますから、怪物の襲撃も全くの予告無し。建物が大きく揺れ、テレビを付けたら横たわる大型の船舶やビル。一旦外へ出ると、炎と粉塵の嵐。何が何だか分からない。考える暇も無く、逃げ惑う。どこへ逃げるのか、宛ても無いままに。これまでも同様の作品は数多く公開されていますが、これほどまでに「一般市民の視点」だけで描かれる作品は他にはないでしょう。現実にはまるであり得ない出来事の連続ですが、リアルで生々しくあります。
アクション映画は、単に一キャラクターだけでなくあらゆる視点で全貌を映し出しますから、観る側とすれば客観的な視点で物語を把握することが出来ます。もし、あのような怪物が本当にいきなり現れ、東京の街を炎で埋め尽くしたら、きっと僕も今作のように目に映るかもしれません。恐怖に怯え、慄きながら。
リアルといったら、生存率の低さ(爆)もそうですかね。まぁでも、早々に死んでしまうと物語として成り立たなくなってしまいますので、普通に見れば生存率は高いように思えますけれど(汗)。あとは吹き飛んだ自由の女神の頭部でしょうか。ポスターにもあるように。まるで砲丸投げのようにあの大きな頭部が放り出されるわけですから、小さい人間が見る上ではシャレになりません。
ホラーやスプラッタ要素も満載ですので、ご鑑賞の際はくれぐれもご注意を。