箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。
旧約聖書『創世記』
地球に舞い降りた宇宙人は、地球を征服しようとするのではなく、警告が目的で来たという、これまでとはまた違った設定。そして、地球を滅ぼすその最たる生物『人間』が、警告を真摯に受け止めようとしなければ、また人間が地球の滅亡を食い止めるに値しない生物だと断定されれば、即座に人間文明が尽く葬られる。
『ノアの方舟』に登場する、『ノア』と『神』を、飛来した宇宙人がその任を担う、『ノアの方舟』現代版。生物が多様に進化した地球の生態系。それは宇宙の宝。滅ぼすにはあまりにも惜しい。だから、それを滅ぼす最たる生物である『人間』を滅ぼす、というもの。
まぁ、地球を征服に来た宇宙人の作品にしても、どのみち地球人が滅びの道を歩んでしまうのは否めませんが。
これまでにも宇宙人に関する作品は多く公開されていますが、地球人のDNAを取り込んで、完全に地球人を『同じ』になる、というのは初めてではないのでしょうか。地球人に化けたり、地球人と交配するのは割と多かったと思うのですが。
しかし、この作品は飛来した宇宙人によって人間社会が滅ぼされるのに、登場するのは関係者と国防・警察関係者のみ。あまり、というかほとんど一般人の混乱というのが多くなかったように思え、現実的に描こうとしたのにどこか対岸の火事のような感じがしました。また、地球環境破壊についても、どんなにエコロジー関連のテクノロジーが蔓延しても、人間の心が変わらなければ、根本的に地球を維持することはできない。
そういったことを前面に出したかったのでしょうけれど、結構こじんまりとまとまった作品になってしまった感じがしましたので、少々肩透かししていまったのは否めません。
ヒーローものやド派手なアクションと同じように、『宇宙人もの』の作品も、大分出尽くした、という感じなのでしょうか。今回の『宇宙人』の目的設定が他と異なっていることからも、惜しい作品ではないかと思います。
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What all schoolchildren learn ?
Those to whom evil is done
Do evil in return.
W.H.オーデン『もうひとつの時代』
誰かを傷つけた者は、必ずその復讐を受ける。傷つけられたのと同じ、血をもって贖う復讐を。
人類が文明を築き上げてからもう数千年の時を超えているのに、その考えは今も尚続いている。まるで、復讐劇に終わりなど無いように。そしてその復讐の手は、攻撃を仕掛けた者に留まらず、攻撃を支持した者、攻撃した者と同じ血が流れている者にもその牙は向けられる。
同じ星に住む、同じ人間であるのに。
「優れているのは自分。だから他は全て劣っている」「自分と違うものは全て異形。だから異形は排除する」人間が人間であるが故の負の思考の連鎖。そして、犠牲になるのは決まって弱い人、罪も無い人。
負の連鎖は、その根源を絶たなければならない。しかし根源を絶つ方法は、正義を振りかざせば、正しい方法を貫けば絶てるものではない。そこは、勧善懲悪のようなはっきりとした立場の具現は行われていない。どちらが相手の先を読み、相手に近づけ、相手を滅ぼすか。それには、時としてあまりにも汚い手法に手をつける必要もある。勿論、その手法には相手を巧みに騙す『嘘』も。
リドリー・スコット監督の作品は、過去にもいくつか鑑賞しています。が、『ブラックホーク・ダウン』や『アメリカン・ギャングスター』といった作品と比較すると、ちょっとぬるいような、そんな気がしました。また、レオナルド・ディカプリオ氏出演の最近の出演といえば、『ブラッド・ダイヤモンド』や『ディパーテッド』。それらの作品と比較しても、多少ぬるさが否めないような気がします。
何と言うか、あまり『思い切り』というか『泥臭さ』というのが感じられませんでした。サスペンスものとしては珍しく分かりやすかったのですけれど。R-15指定ではなかったからなのでしょうか(一応この作品はR-12指定ですが…)? それとも予算不足だから? アメリカ発金融危機は、映画界にもやっぱり影響していたんでしょうか。予算の問題とか。
まぁ、本当の実情を知らない観客からすれば、下世話なお話かもしれませんが……
それに、この作品が封切られる前は、レオナルド・ディカプリオ氏とラッセル・クロウ氏、どちらの『嘘』が世界を救うか、というものでした。しかし、実際のところ『嘘』というより『隠し事』に近く、どちらもその『隠し事』によって折角順調に進んでいた仕事が有耶無耶になったり。「敵を騙すならまず味方から」とはいうものの、もう少しでテロリストを捕縛できるというところでそれはどうだろう、というところがチラホラ。
結局、「どちらの嘘が」というところは、自分が打った伏線と放った手駒をどう駆使し、相手をおびき寄せ、捕縛に導くか。そのためにつく『嘘』。相手をしてやったと言わせることより、相手を如何に手駒として動かすかの策略。少なくとも、人を『手駒』ではなく『人』として共闘する人物では難しいかもしれません。まぁ、そういう世界に生きればそうならざるを得ないのは致し方ありませんが。
兎にも角にも、リドリー・スコット監督の作品としては、少し消化不良では? と思ってしまうような作品でした。
自分の信じるままの判断で行動する。しかしそれは、時として大きな誤りを発生させることになる。あまり深くは感じていなかったけど、一人の時だったらともかく、複数人で行動していたら、きっと大きな不幸に発展しかねない。
まぁ、つまりあれだ。自由気ままな旅でもちゃんと情報収集しなさいってこった。
何のことかというと、紅葉を楽しむために遠出した三峰散策。高校生の時行って、その美しさをまだ覚えていたので、もう一度見てみたいと思って出かけたのです。当時の思い出は、ロープウェイを使って三峰神社まで登ったこと。また今回も、ロープウェイを使って三峰神社まで登り、視界に広がる紅葉を楽しもうと思ったのです。2007年12月に廃止になったのを知らずに、というより調べずに。
しかし、しかーし! 三峰の観光案内を担当している皆さん! あなた方にも落ち度があったのですよ!
三峰口駅を出てすぐに見える観光案内の看板。それを見ると、ロープウェイの標識が! それも三峰口駅からほんの数十~数百メートル歩けばたどり着けるような感じで描かれてあって!
それを信じてテクテク歩くこと1時間半。未だにロープウェイのロの字も見えず、路線バスは何台も通り過ぎて行き……。ですがバス停に克明に『ロープウェイ』と記してあったから、それを信じてズンズン進んだのです。歩きで。結局、ロープウェイ入り口のバス停に、紅葉シーズンでしかも休日なのに閑散としている有様を見てはたと気がついたのです。
「もしかしたらロープウェイはやっていないのかもしれない!」
トドメとして目に入ったのは、旧ロープウェイ入り口の今にも朽ち果てそうなポスター。『2006年5月からの運休』。廃止になったのを知らない人が見れば、きっとまた時が来れば再開するよな、と思ってしまうに違いない!
どうですか観光案内担当の皆さん! まだこれだけ「ロープウェイは運営してる」と思い違えてもおかしくないものが沢山あるんですよ! 今回の僕の遠出が大失敗だったのは、情報を適切に入手しなかったのも相ですが、間違いを起こしやすい案内表示のおかげでもあったのですよ!
こうやって僕は、今のどこかの政治家と同じように、責任転嫁を学んでいくのです。
orz
でも、結局のところ、旧ロープウェイの入り口あたりでタクシーを拾い(30分くらい待ちました… 流石シーズン中)、三峰神社まで行きましたが、歩いた途中で三峰渓谷の紅葉を堪能することが出来ました。バスを使っていたら、通り過ぎて、きっと堪能できなかったことでしょう。
まぁ、思わぬ収穫としましょう。それ以上に(時間的・体力的)損害は大きかったけど。
そんなこんなで、三峰神社に到着したものの既に時間が差し迫ってしまい、今までに無くせわしない観光に(泣)。そんな中、奥秩父に広がる大パノラマの紅葉もそうですが、僕の眼を惹いたのは、三峰山博物館で開催していた『ニホンオオカミ展』。
僕の動物占いが狼だからってわけではないのですが、以前より『狼』という存在は、どこか他の動物に比べて惹かれるものがありました。名前の響きもかっこいい、というところもありますけれど。
『狼』は、森の植物や農作物を食い荒らす鹿などを獲物とする肉食動物。それ故に、古来より多かれ少なかれ農業を営む民族から親しまれ、場所によっては神のように崇め奉られてきました。三峰神社も、そんな狼を、所謂『犬神』として崇め奉ってきた神社です。しかし、『狼』の存在は宗教や民族によって大きく異なるのも事実。特に牧畜を営む民族では、家畜を襲う害獣として忌み嫌われているし、グリム童話を始め色々な童話での「悪者の象徴」として描かれています。北欧神話では、フェンリルの名で北欧の神々と対峙する存在となっていますし。
子供の頃は童話を通して「狼=悪者の象徴」といわれ続けてきましたが、時と共にその感情は薄くなり、逆に狼の狩りのところを映像等で目の当たりにすると、やはりかっこいいなぁ、と思ってしまうのです。数多くある犬の種類の中でも、僕が特にすきなのが、シベリアン・ハスキーかアラスカン・マラミュート。理由はやっぱり、外見が狼に似ているから、なのです。
三峰山博物館での『ニホンオオカミ展』は、絶滅したとされるニホンオオカミが、最近になって(もしかしたら近種か雑種かもしれないが)日本各地でわずかではあるにせよ目撃例があること、また、ニホンオオカミに関する、毛皮を始めとした様々な展示物が陳列されています。どれもやはり惹かれて見入ってしまいました。
これまで、人間の仕業であろうとなかろうと、絶滅とされてきた生物は、どれも「ある時点を境に目撃例がなくなった」ことを指します。もしかしたら、ニホンオオカミはまだどこかで生きていて、人間に見つかることなく、山奥でひっそりと暮らしているのかもしれない。いつか、日本の山中を、オオカミの遠吠えがこだまする時が来るのでしょうか。三峰山は、そんな滅びの瞬間をただ冷徹に、それでも暖かい眼差しで、これまで、そしてこれからも見守り続けるのかもしれません。
まぁ、つまりあれだ。自由気ままな旅でもちゃんと情報収集しなさいってこった。
何のことかというと、紅葉を楽しむために遠出した三峰散策。高校生の時行って、その美しさをまだ覚えていたので、もう一度見てみたいと思って出かけたのです。当時の思い出は、ロープウェイを使って三峰神社まで登ったこと。また今回も、ロープウェイを使って三峰神社まで登り、視界に広がる紅葉を楽しもうと思ったのです。2007年12月に廃止になったのを知らずに、というより調べずに。
しかし、しかーし! 三峰の観光案内を担当している皆さん! あなた方にも落ち度があったのですよ!
三峰口駅を出てすぐに見える観光案内の看板。それを見ると、ロープウェイの標識が! それも三峰口駅からほんの数十~数百メートル歩けばたどり着けるような感じで描かれてあって!
それを信じてテクテク歩くこと1時間半。未だにロープウェイのロの字も見えず、路線バスは何台も通り過ぎて行き……。ですがバス停に克明に『ロープウェイ』と記してあったから、それを信じてズンズン進んだのです。歩きで。結局、ロープウェイ入り口のバス停に、紅葉シーズンでしかも休日なのに閑散としている有様を見てはたと気がついたのです。
「もしかしたらロープウェイはやっていないのかもしれない!」
トドメとして目に入ったのは、旧ロープウェイ入り口の今にも朽ち果てそうなポスター。『2006年5月からの運休』。廃止になったのを知らない人が見れば、きっとまた時が来れば再開するよな、と思ってしまうに違いない!
どうですか観光案内担当の皆さん! まだこれだけ「ロープウェイは運営してる」と思い違えてもおかしくないものが沢山あるんですよ! 今回の僕の遠出が大失敗だったのは、情報を適切に入手しなかったのも相ですが、間違いを起こしやすい案内表示のおかげでもあったのですよ!
こうやって僕は、今のどこかの政治家と同じように、責任転嫁を学んでいくのです。
orz
でも、結局のところ、旧ロープウェイの入り口あたりでタクシーを拾い(30分くらい待ちました… 流石シーズン中)、三峰神社まで行きましたが、歩いた途中で三峰渓谷の紅葉を堪能することが出来ました。バスを使っていたら、通り過ぎて、きっと堪能できなかったことでしょう。
まぁ、思わぬ収穫としましょう。それ以上に(時間的・体力的)損害は大きかったけど。
そんなこんなで、三峰神社に到着したものの既に時間が差し迫ってしまい、今までに無くせわしない観光に(泣)。そんな中、奥秩父に広がる大パノラマの紅葉もそうですが、僕の眼を惹いたのは、三峰山博物館で開催していた『ニホンオオカミ展』。
僕の動物占いが狼だからってわけではないのですが、以前より『狼』という存在は、どこか他の動物に比べて惹かれるものがありました。名前の響きもかっこいい、というところもありますけれど。
『狼』は、森の植物や農作物を食い荒らす鹿などを獲物とする肉食動物。それ故に、古来より多かれ少なかれ農業を営む民族から親しまれ、場所によっては神のように崇め奉られてきました。三峰神社も、そんな狼を、所謂『犬神』として崇め奉ってきた神社です。しかし、『狼』の存在は宗教や民族によって大きく異なるのも事実。特に牧畜を営む民族では、家畜を襲う害獣として忌み嫌われているし、グリム童話を始め色々な童話での「悪者の象徴」として描かれています。北欧神話では、フェンリルの名で北欧の神々と対峙する存在となっていますし。
子供の頃は童話を通して「狼=悪者の象徴」といわれ続けてきましたが、時と共にその感情は薄くなり、逆に狼の狩りのところを映像等で目の当たりにすると、やはりかっこいいなぁ、と思ってしまうのです。数多くある犬の種類の中でも、僕が特にすきなのが、シベリアン・ハスキーかアラスカン・マラミュート。理由はやっぱり、外見が狼に似ているから、なのです。
三峰山博物館での『ニホンオオカミ展』は、絶滅したとされるニホンオオカミが、最近になって(もしかしたら近種か雑種かもしれないが)日本各地でわずかではあるにせよ目撃例があること、また、ニホンオオカミに関する、毛皮を始めとした様々な展示物が陳列されています。どれもやはり惹かれて見入ってしまいました。
これまで、人間の仕業であろうとなかろうと、絶滅とされてきた生物は、どれも「ある時点を境に目撃例がなくなった」ことを指します。もしかしたら、ニホンオオカミはまだどこかで生きていて、人間に見つかることなく、山奥でひっそりと暮らしているのかもしれない。いつか、日本の山中を、オオカミの遠吠えがこだまする時が来るのでしょうか。三峰山は、そんな滅びの瞬間をただ冷徹に、それでも暖かい眼差しで、これまで、そしてこれからも見守り続けるのかもしれません。
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2008年の紅葉巡り第一弾。仕事が忙しいあまり遠出が出来ず、本来なら色々と紅葉の名所を巡るたびに出掛けようと思っていたのですが…(泣)
とはいうものの、都内でも目を凝らせば中々の名所が多く、またホームページとかで特別紹介されていなくても、いや紹介されていないからこそ、実際に行ってみると人も少ないし静かにのんびり出来たりするものです。
というわけで、第一弾は都内。それも、国と都の政治の中心地に足を運んでみました。
折りしも見学当時は、忌まわしい事件が起こった後、だから国会議事堂の周囲は10mごとに警備員が。塀を見上げると至るところに監視カメラ。ものものしい雰囲気を醸し出していました。
そんな中でも、正門からぞろぞろと沢山の人達が。国会議事堂の見学ツアーだそうですが、建物の中には入れず、敷地内の見学で終わった模様。まぁ致し方無いといえば無い。
しかし、そんなものものしい雰囲気も、少し距離を置けば、青空と銀杏の黄色が見事に映える秋の風物詩に。晩秋の秋の涼風が、静かな朝を運んでいますが、当の建物内は、きっと大嵐が吹き荒れていることでしょう。
そして、きっと大嵐が吹き荒れているのは一つにあらず。それは東京都庁もそうでしょう。でもやはり、外ではそんな嵐もなんのその。穏やかな空気が新宿中央公園内を駆け巡っていました。
そういう意味で言えば、唯一中もきっと静かだろうと思わせたのが、赤坂の迎賓館でしょうか。この時期は、特に国外からの賓客もいないし、途中途中で物資を運ぶトラックが入るくらいで。
そして東京都庁といえば、やはり45Fの展望台。既に昼間の時間なのでかなり遠くの景色は霞んでしまっているようでしたが、それでも澄み渡る空気のおかげで、見渡す限りの東京を堪能することが出来ました。
眼下に見える明治神宮も、まだ緑が目立つものの、既に紅葉が多く占めているように思いました。
とはいうものの、都内でも目を凝らせば中々の名所が多く、またホームページとかで特別紹介されていなくても、いや紹介されていないからこそ、実際に行ってみると人も少ないし静かにのんびり出来たりするものです。
というわけで、第一弾は都内。それも、国と都の政治の中心地に足を運んでみました。
折りしも見学当時は、忌まわしい事件が起こった後、だから国会議事堂の周囲は10mごとに警備員が。塀を見上げると至るところに監視カメラ。ものものしい雰囲気を醸し出していました。
そんな中でも、正門からぞろぞろと沢山の人達が。国会議事堂の見学ツアーだそうですが、建物の中には入れず、敷地内の見学で終わった模様。まぁ致し方無いといえば無い。
しかし、そんなものものしい雰囲気も、少し距離を置けば、青空と銀杏の黄色が見事に映える秋の風物詩に。晩秋の秋の涼風が、静かな朝を運んでいますが、当の建物内は、きっと大嵐が吹き荒れていることでしょう。
そして、きっと大嵐が吹き荒れているのは一つにあらず。それは東京都庁もそうでしょう。でもやはり、外ではそんな嵐もなんのその。穏やかな空気が新宿中央公園内を駆け巡っていました。
そういう意味で言えば、唯一中もきっと静かだろうと思わせたのが、赤坂の迎賓館でしょうか。この時期は、特に国外からの賓客もいないし、途中途中で物資を運ぶトラックが入るくらいで。
そして東京都庁といえば、やはり45Fの展望台。既に昼間の時間なのでかなり遠くの景色は霞んでしまっているようでしたが、それでも澄み渡る空気のおかげで、見渡す限りの東京を堪能することが出来ました。
眼下に見える明治神宮も、まだ緑が目立つものの、既に紅葉が多く占めているように思いました。
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しかし、200年から300年の時を越えても尚、浮世絵はまだまだ謎な分野が多いんだとか。日本文化のコレクションを多数集めているボストン美術館でも、秘宝中の秘宝なんだそうです。西洋画、油絵にはない、儚さや艶かしさを醸し出している浮世絵。宮廷や官僚だけでなく、一般庶民にも広く愛されるという、多分西洋にはあまり無いと思われるからこそ、色々な見方・見せ方・表現の仕方が、それを見る者に感激を与えたのかなと思います。
江戸東京博物館で開催された『ボストン美術館 浮世絵名品展』。開催終了間近であるにも関わらず、訪れる人が多く盛況していました。ボストン美術館に収蔵されている約5万点のうち、今回の名品展で展示されたのは160点。その多くが、今も尚研究の段階だとか。
浮世絵といえば、東洲斎写楽や歌川国政、葛飾北斎や安藤広重など、メジャーなところはパッと思いつくも、各人の活躍は割と江戸の中期後半~後期の黄金時代。軒並み浮世絵のビッグネームが連なる時代。でも、先だってのテレビ番組で浮世絵を紹介したところ、最近の研究は、初期の浮世絵(江戸中期前半あたり)が中心だとか。勿論、ビッグネームに隠れたところでいい作品を出しているが、ビッグネームよりは有名度が低い作家もいるようで、そういった人達の作品も注目を浴びているのだそうです。
こうして見ると、初期の浮世絵は、線が太いので丸みを帯びた描写であっても幾許か堅さを感じる描写が多いのですが、時を重ねるにつれて、その線も細くなり、描かれている人のポーズや表情も豊かになり、それに乗じて色彩も鮮やかになっていきます。こうした浮世絵の進化が、今で言うファッション雑誌としての役割を果たすようになったのでしょう。現に、遊郭の女性達を描いた作品は、どれも個性的で、でも派手すぎずしっとりとした艶な雰囲気を演出しています。
当時、彼女達が江戸の町のファッション・アイコンとして羨望の的となったのは頷けます。
ここでふと思ったのですが。
『描かれた女性』『二次元』『個性的なファッション』。時代は異なれど、何となく今のオタ●が買い漁るアニメやコミックの二次元キャラと驚くほどの共通点があります。西洋の油絵とは異なり、一般庶民でも割りと気軽に購入できる浮世絵。今も昔も、日本文化は、こういったものを求める気質があるのでしょうか??