「今年の河津桜は、例年に比べて1週間も早く咲いたから、もう結構散り始めているし、葉っぱも出ているねぇ」
という台詞は、長年河津桜を愛でてきた地元の人の声。地球温暖化が遠因なのかどうかは定かではありませんが、それもそのはず、厚手のコートを着ると汗が出てきてしまう、2月の終わりとは思えないくらいの暖かさ。早咲きの桜として知られる河津桜も、花弁どころか葉すらも開いてしまうのは無理もないことかと。
例年は3月の頭くらいが河津桜のピークらしいですけれど、今年は早めの花見で正解かもしれません。河津駅の改札口は、朝も早から大勢の花見客で賑わい、異様な混雑を見せていました。
まぁ、品種は何であれ、桜の花が日本人の心を虜にしてしまうのは今も昔も同じ。加えて、桜の代表品種の一つである染井吉野は、ほぼ日本全国に点在していますが、河津桜は(ここだけというわけでは無いにせよ)日本全国に遍く広がっている、というわけではなく、そのため、早咲きの桜としての名所は、自ずと人が集まってしまう、というかなり特殊とも言うべき引力が働いてしまうのです。
混雑が嫌いな僕としては大迷惑……というか、他の人もそれは似たような感覚をお持ちの方もいらっしゃるでしょうけれど。酒を片手にわいわい盛り上がる人が好きな人もいれば、ひっそりと静かに桜を愛でる、僕はどちらかというと後者の方です。ですので、駅周辺の喧騒から速やかに離れ、割と人の少ない、でも十分に河津桜を愛でることが出来る場所に移動するのでした。
ちなみに、昔は『花見』といえば特権階級の娯楽らしかったのですが、一般人でも『花見』を娯楽として楽しむことが出来るようになったのは、何と江戸時代かららしいのです。
河津桜まつりのイベント会場は、主に河津川の河口付近なのですが、人ごみを避けるためもう少し足を伸ばして内陸の方へ。更に山間の方へ歩いていくと、『伊豆の踊り子 文学碑』とか『河津七滝』とかがあるのですが、そこまでは行かずに、河津桜の原木が植えられている飯田家や、かわづカーネーション見本園(温室なので外よりも更に温かい!)、来宮神社、涅槃堂へと散策しました。
最後に。
河津桜を楽しむための観光客が非常に多いため、行きの『踊り子号』ではほとんどの乗客は河津で降りたのです。その目論見もあり、帰りも自由席で座れるかなー、と思ったのが運の尽き。基本的なことですが、河津駅が終点ではありません。『踊り子号』の終点は、伊豆急下田駅なのです。そのため、帰りの電車の自由席は、伊豆急下田から乗車してきた人で割と混雑しており、河津駅から乗車した人は(指定席券を持っていない限り)ほとんど(東京まで)座れないことにっ!
疲れ果てた身体で2時間30分も立ちながら、というのは、結構きついかもしれません。そのため、予め競争率の高さを潜り抜けて指定席券を購入するか、熱海辺りで東海道線の始発に乗り換えた方がいいかもしれません。
以上、豆知識でした。
という台詞は、長年河津桜を愛でてきた地元の人の声。地球温暖化が遠因なのかどうかは定かではありませんが、それもそのはず、厚手のコートを着ると汗が出てきてしまう、2月の終わりとは思えないくらいの暖かさ。早咲きの桜として知られる河津桜も、花弁どころか葉すらも開いてしまうのは無理もないことかと。
例年は3月の頭くらいが河津桜のピークらしいですけれど、今年は早めの花見で正解かもしれません。河津駅の改札口は、朝も早から大勢の花見客で賑わい、異様な混雑を見せていました。
まぁ、品種は何であれ、桜の花が日本人の心を虜にしてしまうのは今も昔も同じ。加えて、桜の代表品種の一つである染井吉野は、ほぼ日本全国に点在していますが、河津桜は(ここだけというわけでは無いにせよ)日本全国に遍く広がっている、というわけではなく、そのため、早咲きの桜としての名所は、自ずと人が集まってしまう、というかなり特殊とも言うべき引力が働いてしまうのです。
混雑が嫌いな僕としては大迷惑……というか、他の人もそれは似たような感覚をお持ちの方もいらっしゃるでしょうけれど。酒を片手にわいわい盛り上がる人が好きな人もいれば、ひっそりと静かに桜を愛でる、僕はどちらかというと後者の方です。ですので、駅周辺の喧騒から速やかに離れ、割と人の少ない、でも十分に河津桜を愛でることが出来る場所に移動するのでした。
ちなみに、昔は『花見』といえば特権階級の娯楽らしかったのですが、一般人でも『花見』を娯楽として楽しむことが出来るようになったのは、何と江戸時代かららしいのです。
河津桜まつりのイベント会場は、主に河津川の河口付近なのですが、人ごみを避けるためもう少し足を伸ばして内陸の方へ。更に山間の方へ歩いていくと、『伊豆の踊り子 文学碑』とか『河津七滝』とかがあるのですが、そこまでは行かずに、河津桜の原木が植えられている飯田家や、かわづカーネーション見本園(温室なので外よりも更に温かい!)、来宮神社、涅槃堂へと散策しました。
最後に。
河津桜を楽しむための観光客が非常に多いため、行きの『踊り子号』ではほとんどの乗客は河津で降りたのです。その目論見もあり、帰りも自由席で座れるかなー、と思ったのが運の尽き。基本的なことですが、河津駅が終点ではありません。『踊り子号』の終点は、伊豆急下田駅なのです。そのため、帰りの電車の自由席は、伊豆急下田から乗車してきた人で割と混雑しており、河津駅から乗車した人は(指定席券を持っていない限り)ほとんど(東京まで)座れないことにっ!
疲れ果てた身体で2時間30分も立ちながら、というのは、結構きついかもしれません。そのため、予め競争率の高さを潜り抜けて指定席券を購入するか、熱海辺りで東海道線の始発に乗り換えた方がいいかもしれません。
以上、豆知識でした。
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-【名】
1.取り替え子 《さらった子の代わりに妖精たちが残すとされた醜い子》
【CHANGE+-LING】
ある日突然、愛する我が子がいなくなった。それまでたった二人、手を取り合って生きてきたのに。いなくなって5ヶ月が経ち、仕事をしようにもうまく身を置けない。彼女にとって息子は、彼女の心を支える唯一無二の存在だったから。
いなくなった期間、毎日のように探し求め、毎日のように祈ったに違いない。ほんの少しでも希望があるのなら、それに頼りたい。でも、彼女に襲い掛かる悲劇は、『息子がいなくなる』だけでは終わらなかった。
息子が見つかったと警察から連絡が入った時は、何物にも増して嬉しかったに違いない。息子を乗せた汽車が駅に到着する。待ちわびた瞬間。でも、降りてきたのは見知らぬ子供。その子供は、自分の息子と同じ名前を名乗り、自分を母と慕う。そしてその子供を保護した警察は、強制的に刷り込ませるようにその子供を「息子だ」といい続ける。
誰よりも息子を知っている母親の意見は全く聞き入れられない。「母親であるがゆえに冷静な判断ができない」と封じ込められる。そうかもしれない。でも、長い間(といっても数ヶ月)離れたとはいえ、自分の子供を見分けられない親がどこにいる? その後も、息子と明らかに違う証拠が数々と出てきているのに、警察は取り合うどころか、精神異常者に仕立て上げる。更なる悲劇の幕開け。そんな中でも平然と行われている、情報操作と真相の隠蔽。腐食した警察の実情。暴き立てれば謀反者として社会的に抹殺される社会。
しかし、やがて真相解明の動きが活発し、同時に警察の数々の隠蔽工作も白日の下にさらされる。警察の捜査はあまりにもお粗末だったこと、ちゃんと操作していれば、救える生命もあったということ。彼女も、そんな警察に対する被害者として訴えを起こし、結果として勝訴することになる。勝訴したことでほんの少し笑みを浮かべるものの、別に彼女にとっては、訴訟で警察に勝つことが望みではない。彼女の望みはだた一つ。息子と、これまでと同じように共に暮らし、生きていくこと。
しかし、彼女の願いは終ぞ叶うことなく、その生涯を閉じることとなる。
1920年代後半に発生した連続少年誘拐殺人事件『ゴードン・ノースコット事件』の被害者の一人である、クリスティン・コリンズの視点から描いた作品。この作品に登場する人物は、全て実名であり、この作品を通じて、初めてこんなおぞましく辛辣な事件が過去に起こっていたことを知った。
そして、かつてのロサンゼルス市警が、あまりにもお粗末でいい加減で、市民を踏みにじるようなことしか行っていないことも。作品の中での彼らに対する感情は、もはや怒りを通り越して呆れ果てていた。
しかし、そんな中でも彼女は諦めなかった。ただ、息子に会いたい、取り戻したいという一心で。たとえ、どんな残酷な結果が待ち受けていようとも、ほんの少しの希望があれば、それだけでも息子を探す希望と活力になる。帽子を目深にかぶるのはシャイな女性の象徴とあるけれど、そんな感じは微塵も見せない。
ただ、映画作品としては、本来ならば『子供を捜す親の直向な愛』を前面に捉えたかったと思うのだろうけれど、いつの間にか作品の主点が『警察の杜撰な捜査と汚職の暴露』にシフトしてしまった感じは否めない。本当は、この2つが作品の要なんだろうと思うけれど。
決してハッピーエンドではないけれど、悲しい結末ではない。ほんの一握りでも希望を持つことが出来れば、人はまた、前に進んで歩くことが出来る。やがてその歩みは他の人を動かし、大きな流れとなる。人の想いの何よりの強さを描いた作品だと思った。
皆が年をとり、皺が増え、身体も自由に動かなくなる傍らで、自分は少しずつ身体が動かせるようになり、皺も無くなり、視力も聴力も改善され、肉体も生き生きとしていく。最初のうちは大変かもしれないが、結局同じことなのかもしれない。最初は動けないし人の世話を借りてばっかり。そのうち経済的にも精神的にも自立し、最後にはやっぱり人の世話になる。
しかし、「若返っても歳を取っても、行き着く先が同じ」という考えは、物語の最後の方であっさりと無くなっていました。それは、「誰かと同じように年を重ねるということが絶対に出来ない」ということ。急に恐ろしくなりました。「他人とは違う人生を送りたい」と思う傍らで、「誰かと同じように歳を取りたい」と思っていることもまた事実。というより、「歳を重ねることの苦労を共に分かち合いたい」という感情でしょうか。
自分は特別だと思っていても、結局はそれも束の間の出来事。同じように歳を重ねることが出来ないと分かった瞬間、あがらうことのできない孤独感が身体中を駆け巡る。そして、歳を取ることに逆らえないことと同じように、若返ることもまた、逆らうことの出来ない運命。
歳を取ることが神が与えた呪いなのなら、若返ることもまた、神が与えた呪いなのかもしれません。
そんな、数奇な運命を辿った一人の男の物語。小説やマンガとかではあり得そうな設定。でもそれが、実写として目の前に映し出される。勿論、CGや特殊メイク等の技術を駆使しているとはいえ、そのあまりにもリアルな表現には、正直息を飲んでしまいました。
多分、「生まれた時は80歳代で、歳を取るごとに若返る」という人物だけの物語なのなら、あまり実感が伴わない作品かもしれません。ですが、主人公であるベンジャミン・バトンをさらに際立たせているのは、いや、ベンジャミン・バトンが際立たせている、と言い換えてもいいかもしれません、そんな主人公と対を成すもう一人の人物、それが、僕達と同じように歳を取っていくデイジーの存在。
デイジーがまだ無垢な少女であった時、ベンジャミンは歩くのもままならない老人だった。それが、デイジーが少女から女性へと美しさを増すにつれ、ベンジャミンの毛髪は増え、筋肉も増し、杖も無く歩けるようになる。人生の中間地点。二人はようやく歳相応になる。
しかし、喜びも束の間。燦然とした輝きを放っていた彼女も、やがて皺がふえ、肌にはしみができるようになります。でも、ベンジャミンはどう見ても高校生か大学生と見まがうような青年の姿。恐らくこの時が、ベンジャミンにしてもデイジーにしても、最も呪いたくなる時期なのかもしれません。
「人生は何が起こるかわからない」。もしあの時こうしていれば、もしあの時こうだったら、こんなことは起こらなかったという連続が、後悔の念として今でも人々の心の中に植えつけられる。凶悪な事件の渦中にいたのなら、尚更でしょう。それでももし、ひと時の幸せをかみ締めることが出来るのは、傍らに共に人生を歩んでくれる人がいるから。
時を止めることが出来たら、時を巻き戻すことが出来たら。後悔と挫折を一度でも味わった人なら、誰でもそう思う。でも、時間は待ってはくれない。冷酷で残忍なほどに確実に時を刻んでいく。ただ、どんなに頭の中で分かっていても、同じ時間の中に生きていると知っていても、「同じように時を感じる生き方が出来ない」というのは、残酷以上に辛辣。
この物語の終わりは、たとえ短かったとはいえ、やはり観てて切ない部分がありました。すっかり年老いておばあちゃんになっているデイジー。でもベンジャミンは、見た目は4~5歳くらいなのに、既に認知症が発症して、もはやデイジーですら分からない状態に。最期は、肌も張りがあり、目もぱっちりとした赤ちゃん。それが、まるで未練を全く残さないかのように、静かに息を引き取っていきます。
老いるということの恐ろしさもそうですが、人生を普通に、誰かと共に歩んでいくことの素晴らしさを教えてくれる物語。自分が今、どんな境遇であれ、どんな人生であれ、どれだけの価値のものや金銭に囲まれていようと、行き着く先は皆老いであり、死である。
誰かと共に時を過ごせる、たったそれだけでも、どれほど素晴らしいことかが描かれている作品と思います。
そこは言論の自由も、宗教の自由も、思想の自由も無い世界。現代の日本の法律ではあり得ない世界。但し、血の大晦日の本当の事実を知る者以外は。
『取るに足らない平凡な中年男女が世界を救う』という、如何にも荒唐無稽のように見えるけれど、子供の頃思い描いた理想には程遠いけれど、それでも懸命に地面を這い蹲るように生きる人達の物語。世界中が本当の事実を知らなくても、せめて自分達が知っていれば。全てを変えることはできなくても、たとえ世界中に罵られても、自分達だけはちゃんと本当の事実を覚えておこう。
でも、それは変に悟ってしまい、変に諦めを憶えてしまった大人の理論。自分の肉親が、これからも先未来永劫侮辱され続ける、辛酸を舐め続けることを強いられる、10歳代の青臭い若者からすれば、もはや耐えられないことかもしれない。
「警察なんか大っ嫌い!」
あの時、まだ自分は何の力も持たない子供だった。誰かに頼らなければ生きていけない子供だった。もし自分に力があれば、肉親を助けることが出来たのに、悔しさを滲まずにはいられない。誰か、助けて。心の底からそう叫んでも、誰も助けてくれなかった。誰一人。そして、誰よりも大切な肉親は、偽りのテロリストに仕立て上げられた。
「どうして戦うことをやめちゃったの!?」
戦うことをやめたいと思ったことはない。けど、今のこの状態で、一体何ができる? 相手は世界の国家や宗教界の指導者までも巻き込んだカリスマ。国家や宗教が味方になれば、自然とそれに従事する人達も味方になる。たとえそれらが盲目の羊達ばかりとはいえ、何十億という人間の力が合わされば、どんなに理想を掲げても、どんなに本当の事実をぶちまけても、大海原に小石を投げるが如く、ほんの僅かに波紋ができるだけ。波紋はすぐに消えて無くなる。
もどかしい。自分に何も出来ないことが、できたとしても、すぐに掻き消されてしまう今の世の中が。
「どんなに最悪な状況でも、あいつは逃げなかった」
まるで子供の遊びなのに。あのころの情熱も青臭さも、とうに無くなっていたと思ったのに。大人になって、現実を知って、それにどっぷり浸かりすぎてしまったのがいけなかったのだろうか。
大人ぶってかっこつけて、そのまま諦めて世情に流されるという選択肢もある。でも、その選択肢を選んだら、きっとこの先後悔する。未来永劫、死ぬまで。きっと笑うかもしれない。バカなネタに使われるかもしれない。それでも、それまで共に戦う抜いた友人を、肉親を侮辱されるのは許さない。ほんの僅かな波紋でも、繰り返し繰り返し石を投げ続ければ、やがてその波は大きくなり、大きく広がり、大海原を覆い尽くす。それを信じて、今でも、石は投げ続けている。その大海原が、自分達を遥かに超える怪物だったとしても。
しかしながらこの作品、サスペンスドラマにしても、ヒューマンドラマにしても、か・な・り中途半端。血の大晦日の事件が発生して15年後、そこから『しんよげんの書』に書かれている人類滅亡の薬液散布に至るまでの間を描いた物語。なのですが、その物語を無理矢理2時間30分に押し込んだという形で端折りすぎ、展開があまりにも急すぎるため、観客は置いてけぼりされてしまうような結果に。『ハリー・ポッター』シリーズでも結構端折りすぎの部分は多く見られましたが、さすがにやりすぎではないかと思ってしまいました。
これまでのマンガ作品発の映画作品は、たとえマンガを読んでいなくても展開が分かるように作り上げるのが多かったと思います。『デスノート』は、オリジナルを若干含んでいるとはいえ、第一部の7巻までの流れを2章立てにしているので、サスペンスのハラハラ感と物語の重厚さを見事に両立していたと思います。ですが、今作はさすがに原作を読んでいないと、もはやついていけないという状態。いや、多分マンガを読んでもついていけなかったのでは、と思ってしまいました。
劇場では小学生~中学生も多かったのですが、かなり辛そうでしたよ。
仕事帰りに軽く映画鑑賞でも、という意味ではちょっとお勧めできません。多分鑑賞するだけで余計に疲れてしまうでしょう。製作者サイドも、この物語の詰め込み方は相当悩まれたのかもしれませんが、エンターテインメントからえらく懸け離れてしまった作品と感じてしまいました。
あ、でも小泉響子役の子は良かったですよ。
『チェ 28歳の革命』が、彼の革命史の成功を綴った物語だとしたら、『チェ 39歳 別れの手紙』は、彼の革命史の衰退を綴った物語。
チェ・ゲバラという人物の革命は、舞台がキューバであろうともボリビアであろうとも、それは何も変わらない。ある視点で見れば、それは素晴らしいことでもある。でも、別の視点で見れば、それは大いなる間違いであることになる。
彼の『革命』の本質、彼の中の『革命』の軸のようなもの、それは、国民の一人一人が、もしくは革命に参加している者一人一人が、革命がどんな意味と意義を持っているのかをきちんと理解すること。彼にとっての『革命』は、単なる破壊行為でも暴力行為でもない。ましてや、昨今、世界中で蔓延している自爆テロのような、自分たちの行いを強制的に正当化するような、究極の自慰行為とも思われるようなものでもない。
では、何故彼はボリビアで失敗したか。それは、『革命』のプロセスも、それまでの彼の本質、『革命』の軸に沿った形で行っていたから。
20世紀という、これまでと比較して人間文化や思考の進化の速度が極端に違う世界情勢の中での革命は、ほんの数年前に行われた手法が、今でも同じ効力を持つとは限らない。チェ・ゲバラの中に持つ『革命』の意味と意義は、恐ろしいまでに堅い基盤として根付いている。しかし、その堅さが故に、その時代、その場所に少しずつでも変えようとしないところが、逆に周囲とのギャップを生み出してしまう結果となる。
加えて、人間は本来あまりにも欲の強い生き物だ。何かを手に入れたら、次はもっといいものを手に入れたくなる。もっといいものを、もっといいものを。欲望は果てしなく続くが、手に入るものがこれまでと変わらない価値のものであれば、自ずと人間はやる気を失っていく。
足並みが揃わなくなった部隊ほど、脆いものは無い。こうして彼は、衰退の道を歩んでいくことになる。
2部作となっているチェ・ゲバラの物語を鑑賞して、彼が、これまでの政治や勢力に蹂躙された人々の姿に嘆き、それを根本から変えるために立ち上がった姿を見て、彼の深い革命に対する考えを垣間見ることが出来た(それでも、限られた時間の中だから、ほんの一部なのだろうけれど)。
でも、彼が何故『革命のアイコン』として、今でも(特に共産主義圏で)広く慕われているのかについては、分かっているようで実は分かっていないのかもしれない。恐らくではあるが、現代の革命はあまりにもプロセス重視で、最初こそ革命の意味や意義を声高に唱えていたのに、手に取った兵器の破壊力を目の当たりにしてしまい、本来の意味や意義を見落としてしまうような革命家が多いのだろう。しかし、彼は何よりもまず革命の意味と意義を徹底させることが必要だと考えた。この革命が、貴方達にとってどれだけの価値を持つのか。それを切々と伝えるために。
唯一の弱点といえば、あまりにも彼の革命の意味と意義が確固たるものだった故に、柔軟性に欠けていたということだろうか。
しかし、思想は違うけれど、彼の根本に持つものには、何か共感を得るものがある。それは、物質的に恵まれている今の時代だからなのだろうか。目に見えるものばかりを追いがちな今の世の中で、本質をじっくりと見出している人は、僕を含めどれだけ多くいるのだろうか。この作品を鑑賞した後の沈んだ感情の中で、ふとそれを思い巡らせてみた。