だからと言って、蚊取り線香はしばらく手放すことはできませんが。
加えて、携帯ムヒも手放せません。奴等は決まってO型の血を好むのです。
浜離宮恩賜公園の黄花秋桜の区画は、思ったより狭いものの、一面に広がるオレンジの花々は、まるで『風の谷のナウシカ』を彷彿させるくらいの黄金色の絨毯。残暑が続くけれど、朝だからなのか、蒸し暑さはあまりなくカラッとした陽気。正に、虫たちの蜜取りの絶好の気候ではないのでしょうか。
空は青く、雲も殆ど無く、風も爽やか。そんな陽気が手伝ってか、大都会のど真ん中なのに、浜離宮恩賜公園の周辺に聳え立つ高層ビルとのコントラストが、違和感無く鮮やかに映えておりました。
厳しい残暑と東京砂漠に疲れ果てた人に設えた、ほっと一息つけるような休憩処。
大都会のど真ん中のオアシスは、丁度夢と現実の狭間のように思えます。
美しい自然と、歴史と風流の趣がありながら、ふと顔を上げれば、大都市東京の象徴がズラリ。
今の浜離宮恩賜公園は、あまり長く夢に浸らずとも、ちょっとだけ夢見心地にさせてくれる。そんな空間なのかもしれません。
黄花秋桜のすぐ脇の花壇には、赤の濃淡が美しい秋桜が。
秋桜の見頃としてはまだ早く、初秋の季節では、ほんの数輪咲いている程度でした。
夏の暑さに、ちょっと急かされて咲いてしまったのでしょうか。
深い赤に彩られる秋は、これからが本番です。
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マイアミという南国の陽気で爽やかなイメージから180度かけ離れたような、夜の帳の中を静かにクールに潜入捜査を進めていく二人の特捜刑事。刑事ドラマや映画によくあるような、熱血漢たっぷりな部分は殆ど無く、寡黙に、淡々と獲物を追い詰め、捕らえていく。語ることなく行動で示す、ハードボイルドのような物語好きの人にとっては、たまらない映画かもしれません。
そう言えば、マイケル・マン監督がこの前の作品として撮影した『コラテラル』も、同様にハードボイルドの危険な匂いを醸し出していましたね。
さて、肝心の物語と言えば。
個人的には可もなく不可もなく、という感じでした。
勿論、比較する事自体愚の骨頂だというのは重々承知しておりますが、展開の予想がつかないスパイ映画等を観ていたためか、若干面白みにかけるんです。仲間の中に裏切り者が潜んでいたり、とか、同士討ちをしなければならない展開、とか、『24 - TWENTY FOUR -』のように、どんでん返しのどんでん返し、というような息もつかせないサスペンスが多く輩出されている昨今、敵側・味方側とクッキリ分かれた物語、というのは、先が読めてちょっと興ざめ。
逆に、「サスペンス映画を多く観てきたため、たまにはあれこれくどくど考えたりする事無く、ただ眼前に繰り広げられる刑事アクションを楽しみたい」、という意味ではいいかもしれません。
プラスして、ソニーとリカルドが思ったより真面目キャラだった、というところも。
警察署長も毎回毎回手を焼かせるような、破天荒振りを見せる刑事だと想像していましたが、その破天荒振りは、想像していたよりもずっと柔和。まあ、今作の舞台の殆どが潜入捜査だからなのでしょうか。『はみだし刑事』の柴田恭兵さんの方がよほど手を焼くんじゃないか、と思うくらい。
ラストシーンの銃撃戦は、かなり迫力がありました。生々しかったともいいますが(笑)
リアルさを追求していますので、ちょっと女性の方にはきついかもしれません。
ただ、単に二人の刑事の捜査を、ダラダラと垂れ流すだけの映画ではありませんので、退屈な思いはさせないと思いますよ。まあ、何せ二人の刑事に、『何も』と言っていいくらい危機が訪れませんので、全体的な起伏は乏しいですが。
もちょっと時間を短めに、コンパクトにまとめても良かった気がします。
「全ての真理を探求したい」
数の世界に生き、数の世界から逃れられない天才は、数の力で真理を探究しようとした。
けれど、本当に彼が求めたい真理は、別のところに存在した。目を凝らせば見えたはずなのに、数の世界しか知らないばかりに、掴みかけた心理を、みすみす指の合間からこぼれ落としていた。
掴もうとしても掴みきれない。真理はするりと逃げていく。目の前にあるのに。
一つの道を極めようとした者が、その道によって、人生の全てを瓦解させてしまうような苦しみを味わってしまう。
実在の人物である数学者、ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアの、波乱の人生を元に描いた作品であり、2002年の米アカデミー賞で、作品賞、監督賞、助演女優賞、脚色賞を受賞した作品です。
天才と狂人は紙一重、とよく言いますが、それは当の天才を赤の他人の目から見た感想です。他人の目からでは狂人に見えていても、本人が受ける苦悩は誰にも分からない。この映画は、天才の半生を描く物語でありながら、観客の視点は、正に当の天才そのもの。観客自身に、天才が見る『幻覚』や『幻聴』を感じ取って、少しでも、天才の苦悩に近づかせる描き方をしています。
今見えているのは、本物なのか。それとも、幻覚なのか。
どちらが本物か幻覚か分からない。
後に説明を受けても、本物は幻覚かもしれない、幻覚こそが本物なのでは。
「分かってもらえたであろうか。天才と呼ばれるが故の苦悩を」
そんなメッセージが、この映画の中で静かに語られています。
『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君に続く道』でも、その道の成功の舞台裏では、何かしらの影が生じてしまいます。成功『だけ』を享受できるような人生は、その人が有名であれ無名であれ、決して存在しないのかもしれません。
彼らの場合は、築き上げてきた成功を維持し、失敗して皆が離れることの恐れ。目に見えぬプレッシャー。自分が自分であることの強さ、自分が自分であることを他者が認め続ける事を失うことを恐れ、薬物に走った。
稀代の数学者であるジョン・ナッシュは、自分が自分であることを必死に守り抱いていくうちに、統合失調症に陥った。
「自分は他の奴等とは違う」
「自分は自分の数という世界で、真理を探究する」
「それで、他の奴等に自分を認めさせてやる」
目を凝らせば、自分を認めてくれる、自分を愛してくれる人は、すぐ側にいたのに。
彼が一度受けた苦難は、まだ終わりを見ていないけれど、それでも、周囲の人の支えも合って、徐々に『真実』と、『幻覚』を見る自分自身を受け入れようとしていきます。
普通に生活している人から見れば、とても想像し難い苦難の道のりですが、それでも努めて柔らかい波長に仕上げた作品は、観る人の心の温めてくれるのではと思います。
【ソウル=福島恭二】韓国警察庁は29日、暴走族が事前に申告すれば、指定する道路や時間帯で集団走行を認めるとの方針を発表した。
暴走族の欲求に条件付きで応えることで、暴走行為をなくすことを狙った苦肉の策だが、効果に対して疑問の声も上がっている。
韓国では日本の植民地支配からの解放記念日「光復節」(8月15日)などの祝祭日に、暴走族がオートバイなどで集団暴走を行う。年々、暴走行為は激しくなる一方で、今年の光復節には取り締まりの警察官がオートバイにはねられ重傷を負った。
発表によると、暴走族が事前に警察署などに申告すれば、祝祭日に特定の道路、時間内で仲間たちとの集団走行を許可する。ただ、集団の先頭と後尾は警察の車両が走り、「エスコートする」という。
誰も申請しないと思うそんなの。
警官に監視されながらの暴走なんて、つまんないことこの上ないと思うのですが。
最近の自分に対して思うことは、
心が狭くなったのかな
です。
今までだったら許容範囲だったことが、徐々に許せなくなっている自分がいるんですよ。大の大人ですから(爆)怒鳴り散らすようなことは致しませんが、癇に障るようなことが増えてきた、というか。
ヨーグルトはほぼ毎日食べてますので、カルシウム不足ということは無いとは思いますが…
分別が利いてきた割に、感情の起伏が激しくなったのか、それとも今までの方が、感情の起伏が平坦すぎたのか。
むしろ周囲に癇に障るような言動をする人が増えてきたのか(←人の所為にする悪党)
最後のは冗談ですが……
我慢することは大事ですが、「許せないことは許せない」ときちんと意思表示することもまた大事。
「心の広さ・狭さ」の変化も、また一つの勉強のうちか、と。