しばらくヘビは結構です!
爬虫類苦手な人が観たら、真っ先に心臓発作でも起こすんじゃないんでしょうか。それくらいこの映画は恐怖に満ち満ちておりました。
『SNAKE FLIGHT』じゃなくて、文字通り『SNAKE FRIGHT』ですよ。物語がシンプルなだけに、その恐怖が際立って際立って。
映画館の帰り、そして家に帰って玄関を開ける瞬間、不必要な戦慄が走ったのは言うまでも無く。下手なホラー映画より現実味を帯びているからよっぽど怖い!
なので。
面白かったのですが二度と見る気はしません。安心して眠れなさそう(笑)
実は、動物系パニック・アクション映画というのは、『キラー・ビー』とか『アナコンダ』とか、名前は知っているもののほとんど観たことはありません。僕自身が怖がりというのもありますが。
本当に時々ですけれど、アクション・ホラー映画は観てはいます。でも、それらは大抵非現実的なものなので、如何にリアリティ溢れた映像で観ようとも、どことなく距離を置いた感覚になるのは否めません。確かに怖いけど、その怖さがそう引きずることはない、というか。
しかし。
この『スネーク・フライト』を観て確信しました。僕の最も苦手なジャンルであることを。
例えば、SF映画でも異星人やら架空や古来の動物やらがでてきて、人間に襲い掛かるものの、結局のところ架空でしかありません。また、『インディ・ジョーンズ』等でも、野生生物に襲われるシーンはあるものの、それがメインの映画ではありませんので、冒険の困難さを増倍させるだけのスパイスに過ぎないことが多いのではないのでしょうか。
だからこそ、実在する恐怖の生物が実生活の中で大暴れする、というのは、ありえないようでありえそうな気がして、鳥肌を立たせる。これが、僕が最も苦手とする所以です。
ぬるい映画ばかりで退屈していた方にはピッタリの映画ではないかと。
但し、一面ヘビだらけというあまりにもシュールすぎるシチュエーションには、それなりの覚悟は必要です。
mixiをはじめとするSNSの、色々な日記やコメント等を見ていると、「ああ、ここもやはりパブリック・コミュニケーション系サイトの運命から逃れられないのかな」と感じました。いわゆる、荒らしや誹謗・中傷の顕在化です。
SNSは、原則招待で参加できるサイトですので、招待を貰わなければ発言も投稿もできない。
万が一不適切な発言や投稿をすれば、招待者や登録した友人全員に迷惑がかかる。
だから、ネットという顔の見えない場所ではあるけれども、ある程度質の高いコミュニケーションが保障される。
はずが。
今や会員数は、mixiだけでも500万人超。そしてあの手この手を用いて、匿名性を保持したやり方で登録する等という手口も蔓延しつつあり、SNSの目的として掲げていた『質の高いコミュニケーション』は崩れつつあります。普通の匿名掲示板と何ら変わらない存在に。
こんな時だからこそ、もう一度ネット社会の原点に返って、出来る限り多くの人が気持ちよく使えるためのコミュニケーションは何なのか、というのを、見直さなくてはならないのでは、と思います。勿論、細かいところになると、個々人の考え方の違いがあります。僕が考えるネットマナーだって、別に全てが正しいとは思っておりません。客観的に見れば間違っていたりする事もあります。
そんな時も、当たり前ですが、賛同いただければ「ありがとう」、間違っていれば「ごめんなさい」の気持ちは忘れません。基本中の基本ですから。
以下、『ネットマナーを考える100の質問』より質問を拝借し、僕なりの答えを書いてみました。多少曖昧なところもありますが、これを機に、ネット社会の基礎となるネットマナーについて、お話をお伺いしたり、議論を交わしたりしていけたらと思います。
「人が変わることなんて無い」
自分の夢を誇らしげに喋る犯罪者が言いました。
「人は、変わることが出来る」
あまりにも対照的で、普通なら逆の性格設定なのでは、と考えてしまいます。けれど、もしこの映画と逆の性格設定であれば、警察官と犯罪者の接点はこの時だけ。警察官は、ある犯罪を立証するための証人である犯罪者を裁判所に送るだけ。犯罪者は、与えられた立場で淡々と証言を述べるだけ。ただ単に、人生の中の一つのエピソードに過ぎません。
『16ブロック』は、単に16ブロック先の裁判所へ証人である犯罪者を送り届ける最中に、繰り広げられる艱難辛苦を描いているだけではありません。たったの16ブロック。その間に、彼らの人生を揺るがすドラマが待っていたのです。
人というのは、一体誰と会って、どのタイミングで変われるかなんていうのは全く分かりません。ふと自分を見つめなおしてみると、いつの間にか変わっている。自分がこんな考えを起こしていたとは。自分がこんな行動に出ていたとは。
正に、神のみぞ知る奇跡の采配、とでもいうのでしょうか。
警察官は、たとえ一度地に堕ちてしまっても、もう一度立ち上がる希望を、犯罪者から教わりました。犯罪者は、自分のことだけでなく、他者のことも思いやる心を、警察官から教わりました。
何がきっかけで人は変わるか分からない。だからこそ面白いし、人生に一層の深みを増すことが出来る。『16ブロック』の凄まじいポリティカル・アクションと、もう一つの醍醐味です。
lobbyist
-[名][C] 議案員陳情者、ロビイスト
ある特定の主張を有する個人または団体が、政策に影響を及ぼすことを目的として行う私的政治活動を行う人物。
『ロビイスト』という単語にまつわる資料を見ていると、やはり揃いも揃って述べられているのが、「食わせ者が多い」ということ。
多くの企業で自身の利益に沿った主張を広めるために、ロビイストを雇っているところも多いが、時にその活動が政治腐敗をもたらす可能性もあるため、一定の規制を設けている国もあるんだとか。
まあ、それもそのはず。この映画に登場する、アーロン・エッカートが扮するニック・ネイラーも、
■ 論点をすり替える
■ 相手の揚げ足を取る
■ 極論は口にしない
といった、最高の頭脳と最悪の根性の持ち主。ある意味尊敬するけど、別の意味で友達にしたくないタイプですよ。飽きは来ないと思うんですけど…(笑)
映画に登場する、何かと世間で嫌われ、市場規模の縮小に瀕しているタバコ産業にしても。
自分がPRするタバコが、無害とも有害とも言うけどビミョーにあやふや、むしろ相手の欠点を挙げ連ね、最後は「自分で考えなさい」。
「自分で考えなさい」。ええ、ごもっとも。でもこの言葉ほど便利なものは無いんですよね。だってどの角度から見ても、聞き手の意思を尊重した言葉なんですから。その言葉の裏に巧みに仕組まれた罠に気づかないまま、「まあ、結局は個人の選択に任されるんだから、いいんじゃないか」と考えるようになり、「断固タバコ反対!」という考えは薄らいでいく。
でも、この映画は意外にも、現代社会に対するメッセージも込められていると思います。
世の中には色々な規則や反則事項等がありますが、それらに対して変に理屈めいた説明をするから、どんな規則にも存在する抜け穴を、結局のところ出し抜かれてしまう。また、今の時代、至る所に情報が蔓延し、同じように情報操作も蔓延しています。
本当にその規則を守らせたい、反則行為をやめさせたいと思うのであれば、理屈ぬきに「ダメなものはダメ」というように教え込むのも、一つの手ではないかと思います。少なくとも、昔の日本社会ってそういう風潮がそこかしこにありましたから。
「自分で考える」というのはエラくエネルギーを使います。同時に考える上での『基準』や『材料』も必要だから、あらゆるところにアンテナを張ることも忘れない。でも、生きていく上で必ず必要になるし、必要にならなくなることはありません。
色んなものが洪水のように襲い掛かってくる時代。いつ自分が飲み込まれるか分かりませんから。コメディテイストの映画でありながら、結構そういう大事なところ、気づかせてくれる映画です。
ノンフィクション小説『冷血』。これが完成する時、それは、彼 ―トルーマン・カポーティ― が、自らに課した『賭け』に負けることを意味していた。
彼にとって、彼以外の全ては、彼の『欲求』を満たすための糧である。小説の執筆という『欲求』を満たすためだけの存在である。それは、彼自身もよく承知だ。だから、彼は対象物に、自分自身が『のめりこむ』ことは許せても、『取り込まれる』ことは許さない。
でも、時として真実は『取り込まれる』寸前まで『のめりこまない』と、見えてこないこともある。そこで彼は賭けに出る。
『取り込まれる』前に、欲求を満たす方が先か。
欲求が満たされる前に『取り込まれ』、滅びの道を歩むのが先か。
それまで自身に課した賭けに勝ってきた彼は、驚愕の結末の前に、打ちひしがれることになる。
社交界で花を開かせる彼も、周囲から奇異とも取れる言動も、全ては彼の彼たるものを守る『盾』である。「何人たりとも自分の中に入らせない」。人は外見だけで自分を決め付けるが、本当は違うということを口にしつつも、その『違うところ』を、決して人に見せようとしない。
同時に、彼は余計に他者に関与しようとしない。彼にとっての他者を計る物差しは、自分の欲求を満たすことが出来るか出来ないか。それ以上でも、それ以下でもない。
それでも、『心』を持つ彼が自身を保ち続けるためには、自身を律する『何か』 ―『賭け』― を定めなくてはならない。そして、決して『賭け』に負けてはならない。
『賭け』に負けること。それは彼自身の『滅び』を示す。
でも。
彼は『滅ぶこと』を、むしろ望んだのではないのだろうか?
誰かに理解して欲しくないのに、「本当の自分は違うのに」と口にするのは、本当は誰かに「理解して欲しかった」のではないのだろうか?
誰かに、自分の中に「入ってきて欲しかった」のではないのだろうか?
違うのなら、更に問う。
何故『冷血』の後、一つの小説も完成できなかったのか?
ノンフィクション小説『冷血』。これの意味するものは、一体何なのだろうか。
カンザス州の片田舎で起きた一家惨殺事件の犯人を指すのだろうか。
それとも。
トルーマン・カポーティ、彼自らを指すのだろうか。