ノンフィクション小説『冷血』。これが完成する時、それは、彼 ―トルーマン・カポーティ― が、自らに課した『賭け』に負けることを意味していた。
彼にとって、彼以外の全ては、彼の『欲求』を満たすための糧である。小説の執筆という『欲求』を満たすためだけの存在である。それは、彼自身もよく承知だ。だから、彼は対象物に、自分自身が『のめりこむ』ことは許せても、『取り込まれる』ことは許さない。
でも、時として真実は『取り込まれる』寸前まで『のめりこまない』と、見えてこないこともある。そこで彼は賭けに出る。
『取り込まれる』前に、欲求を満たす方が先か。
欲求が満たされる前に『取り込まれ』、滅びの道を歩むのが先か。
それまで自身に課した賭けに勝ってきた彼は、驚愕の結末の前に、打ちひしがれることになる。
社交界で花を開かせる彼も、周囲から奇異とも取れる言動も、全ては彼の彼たるものを守る『盾』である。「何人たりとも自分の中に入らせない」。人は外見だけで自分を決め付けるが、本当は違うということを口にしつつも、その『違うところ』を、決して人に見せようとしない。
同時に、彼は余計に他者に関与しようとしない。彼にとっての他者を計る物差しは、自分の欲求を満たすことが出来るか出来ないか。それ以上でも、それ以下でもない。
それでも、『心』を持つ彼が自身を保ち続けるためには、自身を律する『何か』 ―『賭け』― を定めなくてはならない。そして、決して『賭け』に負けてはならない。
『賭け』に負けること。それは彼自身の『滅び』を示す。
でも。
彼は『滅ぶこと』を、むしろ望んだのではないのだろうか?
誰かに理解して欲しくないのに、「本当の自分は違うのに」と口にするのは、本当は誰かに「理解して欲しかった」のではないのだろうか?
誰かに、自分の中に「入ってきて欲しかった」のではないのだろうか?
違うのなら、更に問う。
何故『冷血』の後、一つの小説も完成できなかったのか?
ノンフィクション小説『冷血』。これの意味するものは、一体何なのだろうか。
カンザス州の片田舎で起きた一家惨殺事件の犯人を指すのだろうか。
それとも。
トルーマン・カポーティ、彼自らを指すのだろうか。
自身の『欲求』を満たすためだけの存在なのに、それに取り込まれてしまった。
対象、つまりカンザス州一家殺害事件の犯人に、自分と『同じもの』を投影したことが、取り込まれるきっかけとなったのでしょうけれど、きっと、観客はおろか本人ですら分からない『何か』が他にもあったのでしょう。
ノンフィクション小説『冷血』は、端から見ればトルーマン・カポーティの最高傑作で評されても、彼にとっては、人生の中で最も後悔する小説なのかもしれません。