開催期間終了間際、やっとこさ見る時間が取れました。レオナルド・ダ・ヴィンチの最初の単独作品『受胎告知』。東京国立博物館の閉館1時間前にどうにか入場。やはり開催期間終了間際、閉館間際だからか、平日にもかかわらず、かの歴史的名作の前には、大勢の人が屯しておりました。
ルネッサンスの巨匠の一人である彼の作品を、絵心の無い素人人間である僕がが云々述べるのは愚の骨頂なのは言うまでも無く。
ただ、少し離れた場所で、デジタル技術を駆使して細部まで再現した『受胎告知』の複写が、解説用として展示されておりましたが、如何に最先端の技術で細部まで複写したとはいえ、本物の『受胎告知』から受ける感じが、明らかに違う。まぁ、それは当然といえば当然なんですけれども。
デジタル技術で複写されたり、コピー物の『受胎告知』は、そこにあるただの絵。けれども、本物の『受胎告知』は、ただの絵に留まらない感じを受けます。今回、この作品は本邦初公開なので、この絵だけのための展示会場が設けられ、厳重な管理体制とこの絵の厳格さを更に醸し出すような装飾が敷かれておりました。それを差し引いても、『受胎告知』から受ける感じがただの複写物と違うのは、やはりレオナルド・ダ・ヴィンチの創作に対する意識や意欲に他ならないと思います。
「何よりも上手く、誰よりも絶賛されるような絵を描こう」
ではなく、
「本当に存在するかのような絵を描こう」
どんなに緻密で、リアリティに溢れ、絶賛される絵を描こうとも、結局その絵は『そこに存在する絵』でしかない。彼が求めていたものは、絵の内容そのものが、本当に実在すると思えるものを描くこと。『受胎告知』の中に描かれている場所や道具が、本当に過去に存在していた、大天使ガブリエルが、絵の通りの姿で地上に舞い降りた、等等。まさに、『過去に本当にあった事象』を具現化するかのような描写方法。
その探究心が、後々の彼の絵に数多く活かされている。その解説が、『受胎告知』以降の展示室で展示されておりました。人間の感情とその動き、肉体の表現、果ては動植物の細かな動きに至るまで。
鋭いを通り越して恐ろしいまでの観察力で、『リアリティ溢れる』ではなく『実物そのもの』を極限までに追求した、レオナルド・ダ・ヴィンチの貪欲なまでの探究心。飽きっぽい僕にとっては見習いたいものですが、さすがに人間の肉体を観察するために、墓から死体を暴き出すというのまではちょっと……(笑) でもそれは、本当に自分が追い求めたいものを得るためならば、あらゆる犠牲も厭わない、という意思の表れでもあるんでしょうか。
『探究心』と『異端の眼』。今でこそ通常ならば、「異端視されたくない」と思う力が強まり、たとえ底知れない探究心を持っていようとも「これ以上は異端視される」と思ってしまえば、断念せざるを得なくなることが多々あります。が、彼は違った。たとえ人が『異端』と見ようと、彼の『探究心』が満たされていなければお構いなし。でも、だからこそあれだけ『そこにある絵』には決して留まらない『感じ』を発する作品が描けるんだと思います。
作品の美しさの中に潜む、恐ろしいまでの『探究心』。今も尚、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が愛され、そして作品の意味に挑戦し続ける人が多いのは、そのためかもしれません。
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闇夜にまぎれながら暗躍する怪人と、鋭い爪で敵を引き裂くミュータント。縦横無尽に繰り広げられる、白熱するバトル・アクションの数々。一体誰が、この二人の世紀のバトルを想像し得たでしょうか。
たとえ映像技術をふんだんに駆使したシーンと分かっていようとも、何人たりとも決して、その迫力、そのダイナミックさから、目を離すことはできない!
正にヒーローが、いやヒーローしか魅せることができない、己の肉体と技とプライドを賭けた戦い!
しかし、この戦いを仕組んだ黒幕の存在がいる、ということを、この二人はまだ知らない。しかもそれが、フロドやサムたちを散々苦しめたゴラムだということを、一体誰が予想できただろうか!
しかしたとえ黒幕が明らかになろうとも、二人の戦いは、もはや止まることはできない。映画史に名を残す究極の戦いの行方は!? 果たして、黒幕の存在を知り、運命に打ち勝つことができるのか!?
誰一人想像もつかない結末へ、物語は急展開を告げる
そろそろ手がつけられなくなったのでやめにします。
主演はクリスチャン・ベールとヒュー・ジャックマンですが、勿論バットマンとウルヴァリアンの戦いではありません。アンディ・サーキスも出演していますが、言うまでも無くゴラムでも、ましてやキング・コングでもありません。
物語は19世紀末のロンドン。ある事件をきっかけに袂を分かった二人の奇術師の、プライド剥き出しの戦い。
どちらが互いのトリックをいち早く見破り、どちらがそれを上回るマジックを紡ぎ出すか。その耳を澄まし、その目を凝らし、その頭を回転させ、そして限界に挑戦する。
マジックがより大胆になれななるほど、己の身に降りかかる危険は更に増し、それは己自身のみならず周囲をも不幸に追いやる。だがもう二人の対決を、誰もが止める事はできない。「どちらがより上を行くか」
僕はマジックは超のつく素人ですので、トリックを見破ろうとしてもいつも見破れずにいます。まぁただの悪足掻きですが。ただ、この作品はトリックを見破ろうとする以上に、主人公に、その周囲に、そして観客に対して降りかかる災厄、というか、人災にはらはらしました。
互いが互いを意識して、トリックを見破ろうとするのは分かっています。しかし、互いの名声や栄誉を傷つけ、舞台から引き摺り下ろすやり方というのは、あまり好きではありません。さらにそれが、観客を巻き込む事件に発展してしまえば。ただ、その舞台で誰が犠牲になるのか、どんなところでトリックが見破られ、逆手に取る展開を引き出すのか。むしろその緊張感が、時間が経てば経つほどより物語に深みを帯びているんだと感じました。
『憎しみ』と『復讐』。それが、互いの奇術により磨きをかけ、深みを増すとは。奇術師の世界は、なかなか壮絶です。
ちなみに。
本編の核となる奇術のトリックは、決して誰にも言ってはならない、と上演の冒頭の注意書きにありました。物語を進めるにあたって、その核となる奇術のトリックは、うっすらと感づいてはおりましたが、正直「まさか奇術のためにここまでやるとは……」というのが感想です。
『憎しみ』と『復讐』、そして『執念』。表舞台でスターとして輝き続けることは、並々ならぬ覚悟が必要なのです。
というのが一番の感想です。
原作と製作総指揮が、『シン・シティ』と同じフランク・ミラーだそうで。彼のグラフィック・ノベルは僕が不勉強であるためよく分からないのですが、作品から受け取れる感じが『シン・シティ』によく似ていたので、「ああ、同じ人が製作総指揮か監督にかかわっているのかな」と思いました。
但し、『シン・シティ』とは別の方向に、この映画ならではのこだわりがあったのだと思います。物語の流れや仕掛け、緻密さといったものは敢えて削り、とことんまで突き詰めてこだわったもの。それは『肉体の表現』と『音響』。方々で、「CGを駆使した新たな映像革命!」なんて銘打っていますが、『映像革命』というより、『表現革命』とでもいうのでしょうか。
CGの合成だって分かっている。でも魅入られずにいられない『肉体の表現』。
たった300人のスパルタの精鋭部隊が、100万+巨大動物を相手に繰り広げる殺陣。剣で相手を切りつける、槍で相手を刺し貫く、盾で攻撃から身を守る。そして、相手を見据える鋭い眼光。筋肉の動き一つ一つから汗の滴る瞬間まで、細微に渡って緻密に描いた『肉体の表現』。
客観的に観れば、よく、時代劇系のアクションゲームで出てくる、一人の主人公(=プレーヤー)が、何百人と沸いて出てくる敵をめっためったに薙ぎ倒していくようなものと一緒です。が、結局ゲームはゲームでしかなく、その時の迫力は、武器の動きによって出てくる視覚効果や必殺技の視覚効果や音響がほとんど。一方『300』は、鍛え抜かれているものの、特殊な能力を持っているわけではないので、必殺技なんて使えません。だからこそ、肉体の一つ一つの動きに注力して表現できたんだと思います。
R-15指定の映画ならではの、血はドバドバ、腕や首は吹っ飛ぶ、そういった系統の映像は大の苦手という人からすれば目を背けたくなるような数々の連続ですが、それでも、彼らの動き一つ一つを観て、「素晴らしい」と唸りそうになってしまいました(映画館内なので発声はしませんでしたが)。
(誤解無きように申し上げますが、僕はスプラッター・ホラーは苦手です(汗))
そして音響。これも、『表現革命』としてふんだんに映画の音響技術を駆使したものではないかと思います。
レオニダス王誕生の瞬間に流れる音響。全身が身震いしてしまいました。本当に王が目の前にいるかのような錯覚を覚えるくらい。否応無く傅いてしまうくらいの絶対的な支配感覚。
こんなふうに薀蓄垂れ流したところで、僕が映画の映像や音響技術に長けているわけではありません(むしろ素人中の素人)ですが、王が本来持ちえているカリスマを、更に音響効果によって倍増させる。いや、倍増より2乗3乗と言った方がしっくりくるかもしれません。
最初から最後まで重厚すぎて、今にも館外にその迫力が溢れてしまうような、オペラとか交響楽団を聴いているかのようでした。
映像といい音響といい、とにもかくにもすごいと唸ってしまう作品ですが、さすがにデート向きではないような気がします。まぁ、あれだけ惨殺シーンが目白押しでしたらね……
開いた口が塞がらないくらい何でもアリの世界になっておりました。
これまでの1作目・2作目では、色んな思惑が錯綜し、縦横無尽に行動を展開しています。が、手段は違えど目的の方向性はどのキャラクターをとっても割と一方向性を示していましたので、観ているこちら側としても、破天荒な展開であっても一つ一つ理解しながら観ることが出来ました。
が、3作目は全キャラクターの目的も行動展開もバラバラ。まぁ、自分大好き・個人プレイ満載の海賊たちが主人公の映画ですから、ある意味で3部作中最も『海賊らしい』と思います。しかしこれを『一本線』の『物語を紡ぐ』作品に仕立てるためには、よほど物語りを練りに練らなければならないと思いますが、結局のところ、蓋を開けてみれば……。。。
僕の中では、ジャック・スパロウを救出してから、最後の戦いが開始されるまでの間が、スッポリ抜けているのです。登場する主要人物が、色んなところに行ったり来たり。何らかの思惑が駆け巡り、相手を欺いては手段を選ぼうとせず目的を達成しようとする、というところは何となく分かったのですが、展開があまりにも早すぎるのか、それとも複雑すぎるのか、気がつけばクライマックスのシーンに。
「何も考えずに、ただ画面に繰り広げられるアクション・エンターテインメントを楽しめばいいよ!」と考えようとしても、それでは物語の展開中に起こるミッシング・リンクの要素が大きすぎて、ちょっと無理でした。最初の方で、「少なくとも『デッドマンズ・チェスト』を復習してから観た方が良かったかな」と思いましたが、きっと復習したとしてもよく分からなかったでしょう。
ディズニー映画にしては今までに無い複雑極まりない作品に仕上がっておりました。
勿論、お馴染みのエンドロール後のラストシーンのお楽しみもあります。ある意味ハッピー・エンドを演出しているラストシーンですが、本編中の複雑さが後を引いていたからか、微妙な後味に。
ただ、3作目を観て良かった、と思うところは、ジョニー・デップが扮するジャック・スパロウのワンマン映画ではないということ。
1作目より2作目、という感じで、オーランド・ブルームもキーラ・ナイトレイも活躍の場を広げていますが、それでもまだジョニー・デップの引き立て役という感じは拭いきれませんでした。しかし、3作目はジョニー・デップの出番が若干少なめに成っているのに対し、それまで脇を固めていた登場人物が、一気に表舞台に飛び出ることに!
ジェフリー・ラッシュやビル・ナイの渋い役割も勿論ですが、3作目はやはりオーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイでしょう。特にキーラ・ナイトレイ! 勇ましくてかっこよかったです。
いずれにせよ、一見だけでは全てを理解できない手法を取るあたり、『オーシャンズ12』と似たような感覚に陥ったのは言わずもがな。やはりこれも、製作者サイドの思惑に陥った証拠なのかな…… orz
壮大さもなく、巧みに練られた脚本であるわけでもなく、特別目を見張るような俳優がいるわけでもない。けれど、素朴で、人情味あふれていて。うまく言葉に表せないけれど、ただ単に「この映画を観ろ!」と投げかけるだけの作品ではなく、スクリーンを隔てて、「一緒に楽しもう」と声をかけてくれるかのような。
商業主義に走るような一大エンターテインメントを目指すわけでも、何らかの賞を受賞するような大作を目指すわけでもない。『落語』と同じように、一緒に楽しんで、一緒に笑い合おう。温かい気持ちに『させる』んじゃない、温かい気持ちを『伝え、共有する』作品だと思います。
勿論、これは『落語』がメインに登場しますが、あくまでツールとしての一部であり、作品としての目的は、『自分探し』。まぁ、そんな『自分探しの旅』みたいな仰々しいものではなく、日常生活の中で持つ自分のコンプレックスを、どうしていきたいかと悩む人たちの悲喜交々を描いています。
「人の出会いによって変わっていく」。この類の作品というのは今までにも多く世に出されています。パターン的には『県庁の星』によく似ていますが、言わずもがな、方向性は別ですね。『県庁の星』は、主人公の二人が別に出会わなくても、それなりの人生を送っていけるのでしょうけれど、出会うことによって、違う世界を触れ、色んな価値観、色んな選択肢を見出すことになる。
一方、『しゃべれども しゃべれども』は、自分が抱え持つコンプレックスをどうにかしたい。でも、何をやってもどうにもならない。『その人たち』に出会うまでは。「本当に自分を変えられるのだろうか」。一抹の不安が過ぎりながらも、出会って、触れて、そして変わる。自分の中に、足りないもの、補うべきものが見えてくる。はじめは形でもいい。そこから、だんだんと『自分らしさ』を見出していく。登場人物は、皆不器用だけれども、そこが『等身大の人間らしさ』を演出できていて、鑑賞する人にも共感を得ることができるのでしょう。
「落語習って、何か変わったか?」
いいえ、変わったんですよ。見違えるほどじゃないけど、目に見える形じゃないけど、少しずつ変わっていっている。この出会いで。
人間だから、目に見えるような結果をすぐに欲しがるけれど、よーく目を凝らせば、よーく耳を澄ませば、きっとどこかに変化がある。ほんの少しだけど、その変化を観察していくのって、本当に面白いし、むしろ愛おしい。
さて、話は変わりますが。
僕はお世辞にも教養や知性を持っている方ではありませんので、落語を聴いても、面白い部分でも「ん? どこが?」と思ってしまうことも多々あります。周囲の人は「落語って面白い!」という人がいるけれど、自分自身の感覚では、「確かに面白い部分があるけれど…」と多少なりとも思ってしまうところに、自分の無知と教養の無さが露呈してしまっています。大変お恥ずかしいながら。
「古典芸能だから、敷居が高い」なんて考えはすれど、所詮それは自分が敬遠するための言い訳。でも、この作品で、ほんの少しではありますが、『落語』の面白さを身近に感じるようになりました。
時間があるときに、演芸場へ行って、生の落語を肌で感じたいですね。本当の面白さに、触れてみたいと思います。