忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/04/25 17:55 |
[沖縄] 南国の強さとしなやかさ - 後編
♪ でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

カラオケでもよく歌われている、THE BOOMの代表作『島唄』。まさかこれが、10万人以上の死者を出した、第二次世界大戦における日本国内最大規模の陸戦である、沖縄戦を表しているとは、説明を聞くまで全く知りませんでした。
デイゴは、沖縄県の県花。3月から5月ごろにかけて、炎のような赤い花を咲かせるのだそうです。デイゴの花が良く咲いた年は、台風の当たり年だとも言われているのだそうです。沖縄戦が勃発した1945年も、デイゴが良く咲いた。そして、その年の『嵐』は、台風ではなく、銃弾の『嵐』が降り注いだ……

そんな話を聞きながら、この日向かった先は、世界遺産『首里城』。そして、『旧海軍司令部壕』、『ひめゆりの塔』、『沖縄平和祈念資料館』へ。そこで目の当たりにしたのは、戦争の悲惨さは勿論のこと、戦争という非生産的で歪んだ『大義名分』のために、苦痛と苦渋の歴史を歩まざるを得なかった、沖縄の凄惨な歴史でした。またそれを、表層的な知識のみでしか知らなかった、ということに、愕然としたのは言うまでもありません。


守礼門 首里城主殿 御差床(2階)


考えてもみれば、初日に行った今帰仁城跡も、14世紀から15世紀にかけて北山王国として繁栄を築き上げたものの、中山王国の侵攻により滅亡。中山王国が南山王国をも滅ぼして統一を果たし、江戸時代以上の長い年月をかけて繁栄を築き上げるも、その時代は決して楽ではなく、常に日本(薩摩)と中国の板ばさみに合うという状態だったそうです。陸地の面積も少ないがゆえに、天然資源も武力も、双方の国に比べれば矮小だったことが、決定的だったのかもしれません。江戸初期には、薩摩藩の琉球侵攻により、琉球王国は薩摩藩の付庸国(従属国)へ。そして、明治の廃藩置県と琉球処分。琉球は日本の直轄領となり、『沖縄県』となったのです。
そんな中でも、全てにおいて服従するのではなく、琉球には琉球の立場、立ち居地がある。そう言わんばかりに交流されたのが、首里城なのではないでしょうか。赤を基調とした堂々たるたたずまい、柱には様々な細工が施されており、豪華絢爛の一言。しかしそれ以上に特筆すべきなのが、首里城の主殿に向かって右手の南殿が日本(特に薩摩藩)の接待に用いられた建物、左手の北殿が中国の接待に用いられた建物で、それぞれの国柄を表しているような建造物になっています。そして、まるでそれを付き従えているように建立された主殿。我こそが主人だと言わんばかりの構造は、決して、両国に全てを従属しているわけではない、という意思表示にも思えました。
また、首里城の主殿内を見学しても、中国の影響を多く受けたのは分かるものの、何か中国とは違う、かといって、中国の様式の折衷的な要素ではない、独特の雰囲気が醸し出されているのが分かります。独立した独特の文化が、そこに栄えていたというのが良く分かりました。


旧海軍司令部壕 司令官室 ひめゆりの塔 平和の礎


首里城の次は、『旧海軍司令部壕』、『ひめゆりの塔』、『沖縄平和祈念資料館』へ。そこで思い知った衝撃の事実の数々。かつて、映画で観た、『硫黄島からの手紙』や『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』のように、本土から離れた地域や島々は、いついかなる時でも、使い捨てのような立場・立ち居地だった。戦争の進行が不利と分かれば、銃弾や糧秣を無駄に支援せず、今あるだけのもので戦え。そういって切り捨てられた。それが、ありのままの姿で、目の前に、静かに眠るように佇んでいました。

『旧海軍司令部壕』の展示室には、壕を掘ったときに使用された鶴嘴が展示されており、壕の中に入ると、鶴嘴を使って掘り進んでいった跡が残っています。しかし、僕がそれ以上に目に焼きついて離れないのが、自決に用いた手榴弾の飛散物が抉り取った、壁の跡。生々しく残るその跡は、当時、この壕を拠点に国のために決死の思いで戦い抜き、そして散っていった先人達の想いを語るには十分すぎるくらいです。
『ひめゆりの塔』での追想はもっと辛い。まさに青春を謳歌しようとする少女たちが、突然、看護要員として従軍した。寝る間も惜しんで懸命に看護するも、「早くしろ」「治療はまだか」「水をくれ」などの罵声が飛び交う毎日。憔悴するほどに働いた後に言い渡された、突然の解散命令。どこへ行ったらいいのか分からない。しかし、アメリカ軍の実質的支配下に置かれた以上、容易に壕の外に出ることは出来ず、さらに追い討ちをかけるように、壕に手榴弾が投下され、壕にいた96名のうち、87名が死亡した。まだ生きたかったであろう、恋をして、好きな人と結ばれて、平和な家庭を築きたかったであろう少女たちに突きつけられた、残酷無比な結末。彼らの、そして彼女たちの無念は、戦争を肌で感じていない僕が察するにはあまりあるものだと実感しました。


『島唄』は、元々奄美諸島の民謡を表す言葉なのだそうですが、THE BOOMが『島唄』をリリースしたとき、本土の人間が軽々しく使ってほしくない、といった批判的な投書もあったそうです。今では、この歌が大ブレークしたことで三線を弾く若者が増え、伝統民謡離れ対策になったそうですが。ある意味皮肉ですね。。。
でも、その話を聞いたとき、その意味が分かった気がします。
海軍中将 大田実が、自決する直前に海軍次官宛てに発信した電報の最後に、『県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ』とあります。その最後の文章の前は、過酷な環境の中でも、沖縄県の民間人は、国のために、最後まで戦ったことが記されており、軍中枢への決別電報で、県民の敢闘の様子を綴ったのは、異例のことなのだそうです。

果たして、今、沖縄県の人たちに、大田実中将の想いが反映されているかどうか。

色々な問題が横たわり、挙げればキリがありません。しかし、顕在的な問題にせよ潜在的な問題にせよ、どこか『本土優先』的な『何か』があるのかもしれません。ただの僕の邪推かもしれませんし、杞憂に過ぎないかもしれませんが、少しでも、沖縄が、これまで以上に幸せな道を歩むことが出来たらと願わずにはいられない、そんな思いを馳せた旅でした。


『奇跡の1マイル』の夜


だからなのかもしれませんが、那覇市内の国際通りは、夜になるとそれはそれは異様なほどの活気で賑わっていましたよ! 東京の繁華街も顔負けの活気と熱気振りです。通りには、土産屋や菓子屋、沖縄料理の店や雑貨屋がひしめき合い、シーサーにガメラにウルトラマンにスパイダーマンに、そこかしこに色んなフィギュアが並んでいて、もう訳分からん状態。
あれだけの暗い過去を持っていながら、僅か数十年で、これほどまでに活気と魅力のある街へと発展した沖縄。沖縄の最大の魅力は、その内に眠る強さとしなやかさ、なのかもしれません。



『沖縄県』の写真についてはこちら

拍手

PR

2011/07/24 22:25 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors
[沖縄] 南国の強さとしなやかさ - 前編

本日の沖縄は、晴れ、気温は30度です

というキャビン・アテンダントさんのアナウンスを聞いて、「ああ、沖縄って、東京と同じくらいかな」と油断していたのも束の間、照りつける太陽の下で思い知らされたのは、暑さよりも湿度の高さ
そう、沖縄は亜熱帯。湿度が低めのところから来た人からすれば、常時サウナ状態と言わんばかりの、不快指数たっぷりの気候なのです! 初の沖縄上陸における洗礼。お越しの際は、是非、通気性のよい服装でどうぞ。でないと汗で服がへばりつき、より一層不快になること請け合いですから。

しかし、そんな不快指数を吹き飛ばすくらい、目の前に広がるのは亜熱帯ならではの植物と真っ青な海! 本州の海岸でも、味わえるのはほんの一部という真っ青な海の魅力に、多くの人が取りつかれるのも無理はありません。中には、半年で3回も沖縄に足を運んだ人もいる、というのも頷けます。
とはいえ、今回の旅は、世界遺産『琉球王国のグスク及び関連遺産群』をはじめとする、沖縄の史跡・戦跡を見るための旅。本土では見ることが出来ない、南国ならではの独特の文化や遺産はもちろん、『南国』であるがゆえに押し付けられた凄惨な過去を、この目で見、感じることが出来たと思います。


今帰仁城跡 - 一 今帰仁城跡 - 二 今帰仁城跡 - 三



まず訪れたのが、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の最北端、今帰仁城跡。琉球王国に滅ぼされる前の三山時代の、北王が居城。
城を囲うように張り巡らされた堅牢な城壁のみが往時の繁栄を忍ばせ、大庭(ウーミーヤー)は、木々の根で覆われ、王の坐す主郭も、今は草で覆われていました。松尾芭蕉が、朽ち果てた平泉を見て、「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句を詠んだのと同じように、もしここに来ていたら、同じ句を詠んだのかもしれません。
その一方で、志慶間門郭(シジマジョウカク)や御内原(ウーチバル)から臨む東シナ海の海は絶景! 茹だるような蒸し暑さを忘れさせるくらいの、真っ青な海が、眼前に広がりました。晴れていたからかもしれませんが。
そして、平郎門と大庭を結ぶ七五三の階段のには、寒緋桜が植えられていました。咲く頃合いが1月~2月ということですので、冬に訪れても、違った様相の今帰仁城跡を楽しむことが出来るかもしれません。


おきなわ郷土村 伊江島を臨む ジンベエザメ



今帰仁城跡の次は、遺跡・戦跡とは全然関係ないのですが、それでも沖縄に来たなら一度は見ないとね、ということで、『沖縄美ら海水族館』のある海洋博公園へ。今帰仁城跡から車で10分くらいのところなので、バス観光の方でもセットで訪れることができます。
当初、水族館のみが立地にあるとばかり思っていたのですが、水族館は海洋博公園の一部で、公園内には、海にまつわるエリアだけでなく、沖縄の郷土や歴史、植物を知ることも出来る、複合的な施設だったのですね。やはり単一の情報を片手にするだけでは、現地の面白さというものは分からないでしょう。

沖縄美ら海水族館』の入り口には、もはやこの水族館の代名詞にもなっている『ジンベエザメ』の銅像がお出迎え。中に入り、各スポットも確かに人気がありますが、やはり何と言ってもジンベエザメやマンタが泳ぐ大水槽が大人気。マグロなどの回遊魚と違って、大人しくゆっくり泳ぐため、たくさんの人がジンベエザメを前に、写真撮影していました。

水族館を見て回った後は、エメラルドビーチでちょっと一休み。関東近辺では滅多に見ることが出来ない海と空の青さに、心も体も癒されます。今回の旅が海水浴目的でないとはいえ、やはり僕も、沖縄の海の虜となりました。まだまだ、沖縄にはあまり人には知られていない地形や自然、かつての琉球王国の名残がそこかしこにあり、その全てを回ってみたいと思いつつも、同時に、沖縄の海をダイビングで満喫したい、と思った次第です。




『沖縄県』の写真についてはこちら

拍手


2011/07/23 22:18 | Comments(1) | TrackBack() | Outdoors
[Review] コクリコ坂から
鑑賞の コクリコ坂から前半は、本当に「何でこんな作品を選んじゃったんだろう…」と思ってしまいました。
時代は高度経済成長真っ只中。翌年に東京オリンピックを控え、どこかまだ『戦後』という時代背景の情感を漂わせつつも、徐々に徐々に、近代化へと進みつつある世界。
と、それはそれでいいものの、問題はその世界を舞台にした主人公達のバックグラウンドの説明の無さ。観客は、さもその主人公の取り巻く世界は既に知っているかのように、前触れも無く放り込まれる。主人公達の交友関係、親子関係、学校生活、そこで起こっている問題。例えば、『カルチェラタン』が最初何を意味しているのか分からず、物語の途中でその意味がはっきりと分かったものの、何もかもが唐突過ぎて、理解する間も与えず次から次へとシーンは続き…

しかし、物語が進むにつれて、この作品は「理解する」作品ではないことに気づきました。この作品は、「感じる」ための作品であると。これは、高校に通う普通の男女の青春の物語。鑑賞者によっては、既に過ぎ去った遠い出来事。まだの人は、これから訪れる出来事。単純に恋愛一辺倒ではなく、平凡で、どこにでもいそうで、未熟だらけの学生達でも、力を合わせれば何かを成し遂げられる、たとえそれが、国を救うとか世界を救うとか、そんなものから程遠くても、彼等の心の中で、人生の中で、キラリと光る青春。
どんなにモノが豊かになっても進歩しても、人間の根幹と言うものは、そんなに容易く変わらない。この物語の世界観は、単に学生達の青春にちょっとスパイスを加えただけ。覚える必要も、理解する必要も無い。変わりゆく世界の中で、それでも変わらずにいる真実。ただ、彼等の生きたその道筋を、感じてもらえればいい、そんな想いが込められている作品のように思います。
ある意味ストレートではなくて、回りくどい描写だと思いますが。決して万人に受ける為の作品ではないと思います。むしろ、そんな商業主義的な作品はこの世にごまんとあるから、わざわざその潮流に乗って自分達もそんな作品を作ろうとはしない。作る必要も無い。自分達が描きたいものを、描きたい通りに描く。そんな作品。

そんなわけで、この作品はきっと好き嫌いがはっきりと分かれる作品ではないかと思いますが、僕は好きです。むしろ、物語の後半があるからこそ、前半の、はっきり言ってしまえば『つまらなさ』『平凡さ』に血が通うわけだし、後半だけであれば、ただ単に高校生活の一種の変化だけを綴っただけ。前半と後半の絶妙なバランスがあるからこそ、作品の『伝えたいこと』が成り立っているのではいか、と思います。


お父上が宮崎駿氏である、宮崎吾朗氏の二作目の監督作品。
前作『ゲド戦記』は大変な酷評で、原作者からも厳しい意見が出されたという曰くつきの作品なのですが、僕個人としては好きです。ただ、『ゲド戦記』というタイトルを冠してしまったのがいけなかったのではないかと。
偉大すぎる父親からの脱却と、それでもどこかで父親に依存したい気持ち。強力な環境が周囲にあり、今にも自分の存在が消え入りそうな中で、如何に自己という存在を確立していくか、もがき苦しむ、というメッセージ性が感じられました。もし、吾朗氏のオリジナルの作品であれば、それほどの酷評は無かったと思うのですが。あれほど「二世には才能が無い」なんて心無い発言が飛び交いつつも、これまでアニメどころか映画の世界にも踏み込んだことの無い彼が、一つの作品を世に出したのですから。
『コクリコ坂から』は、お世辞にも大衆受けしない作品。芸術家のエゴイストと、お客さんがそれを共有できなければ成り立たない、薄氷を踏むかのごとく、の作品。その作品を作りながら、『スタジオジブリ』としてのブランドとプライドを保ち、且つ食べていく、というのは、並大抵のことではないでしょう。映画のバックボーンを理解しながら鑑賞するのも、一つのスタイルですし大事なことですが、何よりも『感じる』ことに重点を置いた今作。今後は、どんな作品を展開していくのでしょうか……

拍手


2011/07/17 11:46 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2
ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2世界中を席巻したファンタジー作品、ハリー・ポッターシリーズの最終章。そして、最後の作品にして最初の3D化作品。
理不尽にも打ち立てられた己の過酷な運命に抗い、何人もの大切な人を失いながら、それでも諦めず戦い、立ち向かってきた。次々と明かされる衝撃の事実。逃れえぬ最後の戦い。そして、フィナーレ。足掛け10年間の歴史上かつて無いほどの壮大な物語の幕引きに、拍手を送らずにはいられませんでした。
『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で、ただ守られ、何も知らずに翻弄され続ける自分からの脱却、自分ので自分の運命に立ち向かうことを決めたハリー・ポッター。だからこそ、幸せになって欲しい。一ファンとして、一読者として、そう願わずにいられなかったことを覚えています。だからこそ、幸せな最後を飾れたことは、何よりも嬉しい。この作品に出会えたことを、心から感謝致します。

そうそう、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』を最初に鑑賞した時、一番驚いたのが、ネビルの成長。これまで、鈍臭い三枚目キャラの象徴ともいえるネビルが、「えっ、この子があのネビル!?」と言わんばかりに成長を成し遂げました。そして、最終章の今作。原作を読んだ時のネビルの成長に目を見張ったのも同じように、やはり映像としても、ネビルの成長は目覚しく、注目せずにはいられませんでした。ヴォルデモート卿という、死喰い人ですら恐れ慄く恐怖の存在を前にして、ただ一人、啖呵を切った。もし、敢闘賞があるのだとしたら、僕はネビルにこそ差し上げたいと思ったくらいです。
そして、ネビルだけではありません。ホグワーツの他のメンバーも同じ。過去の作品を振り返ると、ハリー・ポッターが、ロン、ハーマイオニーを巻き込んで、何か問題を引き起こすたびに、他の生徒達は、こぞってハリーを白い目で見ていた。でも、今は違う。刻々と追い詰められる中で、ヴォルデモート卿の声が頭に直接響く。「ハリー・ポッターを差し出せ。そうすればお前達は報われる」。しかし、誰もハリーをヴォルデモート卿に差し出そうとしない。身を挺して、彼を守る。初めて、そしてようやく彼等は決めたのだ。ハリーと共に戦おう、と。誰一人、強要していないしされてもいない。そして誰一人、「ハリー・ポッターがいなければ、こんなことにはならなかった」と思った人もいない。そんな、気持ちの変化、結束、今更な感じもしますが、彼等の友情をより一層高めたのだと思います。立ち向かうべき運命は、もはやハリーだけのものではないのですから。

映像の3D化については、後付編集ということもあり、『アバター』のようなスケール感を表現するまでには至っていません。ですが、これまで公開された3D作品に比べれば、とても観やすく、素晴らしいと思います。もし金額的にも余裕があれば、3Dで鑑賞されるといいかもしれません。


ここから、少々ネタバレ。
ハリー・ポッターシリーズの最終章と言うこともあって、それまでの物語の謎や登場人物、様々に散りばめられたエピソードが総結集されているんだな、と勇み足で参りましたが、(個人的に)若干消化不足なところも。
アルバスとアバーフォースとの兄弟間の確執。その象徴とも言うべき、彼等の妹であるアリアナの存在。いくら、ホッグズ・ヘッドとホグワーツとの最後の隠し通路が、アリアナの肖像画に隠されているから、アリアナの存在を出したとはいえ、別にアリアナでなくてもいいのでは? と思ってしまいました。アルバス・ダンブルドアとグリンデルバルドが企てていたことが、映画作品では思いっきりカットされているとは言え、その企てとアルバスの改心、そしてアバーフォースとの確執に、アリアナの存在は欠かせない。でも、その説明無しにアリアナをほんの僅かに登場させたとしても、何も知らない観客からすれば、「あの人は誰? ダンブルドアの妹? 何でここにいるの? ここにいる意味は何?」と考えてしまうと思うのです。
そして、セブルスとリリーの悲恋。セブルスがどれだけハリーの母親であるリリーを愛していたか、そして自分の所為で最愛の人を死なせてしまったか、その贖罪として彼の息子であるハリーを、たとえ虫けらのような眼差しで見られても、全力を以て守ると誓ったのか、その描写がちょっと端折っているように思えました。ですから、急速にハリーがセブルスに対して理解を深めようとするのも、少々無理があるのでは、とも感じてしまいました。

しかし、何はともあれ、諸悪の根源は全て絶え、彼等はようやく、自分のあるべき幸せの道を歩むことが出来たのです。架空の世界の登場人物ではありますが、これからも、永久に、彼等の未来に幸あれ!

拍手


2011/07/16 23:11 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[岩手] The country of fairy tales
柳田國男の『遠野物語』の世界観に興味を抱き、今でも民話があちらこちらで息づき、伝承されている遠野へ行ってまいりました。

『遠野物語』は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、洋の東西を問わず童話や小説に出てくるような、因果応報が話の本質として物語られているものではなく、その地方に伝えられている伝承を、柳田國男が見聞きし、脚色もほとんどせず、ありのままに伝えている、というもの。結果として良い方向の結末となったり、悪い方向の結末となったりするも、「こういう善事を行ったから」とか、「こういう悪事を働いたから」等の、物語の結末に結びつくような因果関係はあまり出てこず、まるで昔からそこに『存在していた』かのように伝承される物語が伝承されるままに、淡々と綴られています。
読んだ本から、『何か』を得たい、と思う人が手に取れば、多分すぐに手放してしまうかもしれないくらい、『物語』と銘打っているにもかかわらず淡白な本と思ってしまうのではないか、と思います。しかし僕は、脚色が一切無く、伝えられていることが伝えられている通りに綴られている、ということが、読み手が如何様にも解釈できる、と思うのです。そここそが、『遠野物語』の一番の魅力なのではないか、と。


遠野の田園風景 カッパ淵 伝承園


当初の目論見では、街の至る所で、遠野に永く伝えられる伝承の石碑や遺跡が点在するものと思われていましたが、思ったほど多くはありませんでした。恐らく、『遠野物語』の数々の伝承は、文字として目で見て、それを情報として取り込む、という類のものではない。多くが語り部を通して語り継がれている、もしくは遠野の故郷の情景から、伝承の世界に住まう『住民たち』の息遣いを感じ取る、そんな風に感じ取りました。
それもあってか、駅前の商店街には、飲食店や雑貨屋さんが立ち並ぶも、その看板に並んで掲げられているように、『語り部』の看板が。遠野の物語が、あまり文字として残さず、語り継ぐことによって後世へ伝えられてきたことが分かります。
柳田國男が、『遠野物語』を執筆する際、それらの伝承のほとんどを脚色することなく伝えたのは、『文字にする』ということによる畏敬の念があったから、なのではないかと思います。僕の勝手な解釈なんですけれど。。。

そんな、伝承の世界に住まう『住民たち』を感じる遠野の街並みは、澄み渡って清々しく、素晴らしいの一言。夜行バスで向かい、遠野に到着したのは朝の6時頃。霧が濃く、お世辞にも見通しが悪いスタートでしたので、その時点ではそれほどの期待を寄せなかったものの、しばらく街を散策したら、その霧は一気に晴れました。空は一面の青空、青々と生い茂る新緑と、豊かな水と若い稲がどこまでも続くかのようにが広がる田園風景。古来より伝わる日本の田園が、目の前いっぱいに広がっている様は、今でも忘れえぬ思い出です。

特にお勧めなのが、遠野の故郷の風景と民芸を今に伝える、『
伝承園』と『遠野ふるさと村』でしょうか。風と葉擦れ、そして水の音しか聞こえず、のんびりと時を過ごし、遠野の、そして日本の故郷を満喫したり、また当時の生活習慣を学ぶには最適の場所だと思います。
また、『伝承園』では、おばあちゃんたちが、藁や生糸を使って、民芸品を作っています。遠野物語に登場する『おしらさま』や、『座敷童子』の人形が販売されていました。『伝承園』では、生糸のために実際に養蚕も行っているため、夏休みの自由研究等にもうってつけかもしれません。


遠野を後にして、その次は花巻へ。童話作家・宮沢賢治の生まれ故郷であり、彼が生み出した名作が、博物館や童話村として息づいている街へ向かいました。
宮沢賢治の博物館に入ってまず思ったのが、宮沢賢治が、単なる童話作家の枠に納まらず、様々な分野に秀でていた、ということ。学校の先生、ということもあってか、天文学をはじめ、諸外国の知識や農業など多岐にわたり、まるで明治時代のレオナルド・ダ・ヴィンチのよう。そういった多岐にわたる知識の吸収と、彼が『イーハトーヴ』と呼んだ岩手の自然が、彼の想像力を大いに駆り立て、様々な作品を生み出したのではないかと思いました。これまで、単に宮沢賢治の作品を読んだだけで、その側面でしか知らなかったので、別の一面を垣間見ることが出来たようで、新鮮でした。
既に、子供のころに宮沢賢治を読んだきり、最近では全く触れていなかったので、もう一度、彼の作品を読み直し、宮沢賢治と、彼が住んだ花巻に息づく世界に、再び浸ってみようと思った次第です。


遠野、花巻は、岩手県の内陸に位置する地域であるため、東日本大震災の影響は全くと言っていいほど受けていなかったように思います。顕著な爪痕がなかったとはいえ、やはりどこかしらで震災を受けたことによる陰鬱な空気が僅かながら漂っていたようにも思いました。
現実を直視し、ほんの僅かでも一歩一歩着実に前を向いて歩こうとする人もいる傍らで、いまだに現実を受け入れられず、失った悲しみから立ち直れない人もいらっしゃいます。これまで育み、培ってきた思い出や土地が、無残にも破壊された姿を目の当たりにすると、何と言葉をかけたらいいか、分からない遣る瀬無さに苛まれます。
遠野にしろ花巻にしろ、ここには、東北初の伝承が今でも残っています。姿は見えないけれど、昔から感じ取り、語り継がれてきた『存在』が、確かに息づいています。大切な人を失い、もう戻ってこないけれど、見えないけれど確かにいる『存在』が、今でも東北を、東北に住む方々を、天から、地から、見守っているような気がしてなりません。永く伝わる素晴らしい土地、破壊されることなく、これからもずっと語り、守り続けていきたい。そんな思いを馳せた旅でもありました。



『岩手県』の写真集についてはこちら

拍手


2011/07/02 22:40 | Comments(1) | TrackBack() | Outdoors

<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]