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2024/04/23 19:20 |
[沖縄] 南国の強さとしなやかさ - 後編
♪ でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た

カラオケでもよく歌われている、THE BOOMの代表作『島唄』。まさかこれが、10万人以上の死者を出した、第二次世界大戦における日本国内最大規模の陸戦である、沖縄戦を表しているとは、説明を聞くまで全く知りませんでした。
デイゴは、沖縄県の県花。3月から5月ごろにかけて、炎のような赤い花を咲かせるのだそうです。デイゴの花が良く咲いた年は、台風の当たり年だとも言われているのだそうです。沖縄戦が勃発した1945年も、デイゴが良く咲いた。そして、その年の『嵐』は、台風ではなく、銃弾の『嵐』が降り注いだ……

そんな話を聞きながら、この日向かった先は、世界遺産『首里城』。そして、『旧海軍司令部壕』、『ひめゆりの塔』、『沖縄平和祈念資料館』へ。そこで目の当たりにしたのは、戦争の悲惨さは勿論のこと、戦争という非生産的で歪んだ『大義名分』のために、苦痛と苦渋の歴史を歩まざるを得なかった、沖縄の凄惨な歴史でした。またそれを、表層的な知識のみでしか知らなかった、ということに、愕然としたのは言うまでもありません。


守礼門 首里城主殿 御差床(2階)


考えてもみれば、初日に行った今帰仁城跡も、14世紀から15世紀にかけて北山王国として繁栄を築き上げたものの、中山王国の侵攻により滅亡。中山王国が南山王国をも滅ぼして統一を果たし、江戸時代以上の長い年月をかけて繁栄を築き上げるも、その時代は決して楽ではなく、常に日本(薩摩)と中国の板ばさみに合うという状態だったそうです。陸地の面積も少ないがゆえに、天然資源も武力も、双方の国に比べれば矮小だったことが、決定的だったのかもしれません。江戸初期には、薩摩藩の琉球侵攻により、琉球王国は薩摩藩の付庸国(従属国)へ。そして、明治の廃藩置県と琉球処分。琉球は日本の直轄領となり、『沖縄県』となったのです。
そんな中でも、全てにおいて服従するのではなく、琉球には琉球の立場、立ち居地がある。そう言わんばかりに交流されたのが、首里城なのではないでしょうか。赤を基調とした堂々たるたたずまい、柱には様々な細工が施されており、豪華絢爛の一言。しかしそれ以上に特筆すべきなのが、首里城の主殿に向かって右手の南殿が日本(特に薩摩藩)の接待に用いられた建物、左手の北殿が中国の接待に用いられた建物で、それぞれの国柄を表しているような建造物になっています。そして、まるでそれを付き従えているように建立された主殿。我こそが主人だと言わんばかりの構造は、決して、両国に全てを従属しているわけではない、という意思表示にも思えました。
また、首里城の主殿内を見学しても、中国の影響を多く受けたのは分かるものの、何か中国とは違う、かといって、中国の様式の折衷的な要素ではない、独特の雰囲気が醸し出されているのが分かります。独立した独特の文化が、そこに栄えていたというのが良く分かりました。


旧海軍司令部壕 司令官室 ひめゆりの塔 平和の礎


首里城の次は、『旧海軍司令部壕』、『ひめゆりの塔』、『沖縄平和祈念資料館』へ。そこで思い知った衝撃の事実の数々。かつて、映画で観た、『硫黄島からの手紙』や『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』のように、本土から離れた地域や島々は、いついかなる時でも、使い捨てのような立場・立ち居地だった。戦争の進行が不利と分かれば、銃弾や糧秣を無駄に支援せず、今あるだけのもので戦え。そういって切り捨てられた。それが、ありのままの姿で、目の前に、静かに眠るように佇んでいました。

『旧海軍司令部壕』の展示室には、壕を掘ったときに使用された鶴嘴が展示されており、壕の中に入ると、鶴嘴を使って掘り進んでいった跡が残っています。しかし、僕がそれ以上に目に焼きついて離れないのが、自決に用いた手榴弾の飛散物が抉り取った、壁の跡。生々しく残るその跡は、当時、この壕を拠点に国のために決死の思いで戦い抜き、そして散っていった先人達の想いを語るには十分すぎるくらいです。
『ひめゆりの塔』での追想はもっと辛い。まさに青春を謳歌しようとする少女たちが、突然、看護要員として従軍した。寝る間も惜しんで懸命に看護するも、「早くしろ」「治療はまだか」「水をくれ」などの罵声が飛び交う毎日。憔悴するほどに働いた後に言い渡された、突然の解散命令。どこへ行ったらいいのか分からない。しかし、アメリカ軍の実質的支配下に置かれた以上、容易に壕の外に出ることは出来ず、さらに追い討ちをかけるように、壕に手榴弾が投下され、壕にいた96名のうち、87名が死亡した。まだ生きたかったであろう、恋をして、好きな人と結ばれて、平和な家庭を築きたかったであろう少女たちに突きつけられた、残酷無比な結末。彼らの、そして彼女たちの無念は、戦争を肌で感じていない僕が察するにはあまりあるものだと実感しました。


『島唄』は、元々奄美諸島の民謡を表す言葉なのだそうですが、THE BOOMが『島唄』をリリースしたとき、本土の人間が軽々しく使ってほしくない、といった批判的な投書もあったそうです。今では、この歌が大ブレークしたことで三線を弾く若者が増え、伝統民謡離れ対策になったそうですが。ある意味皮肉ですね。。。
でも、その話を聞いたとき、その意味が分かった気がします。
海軍中将 大田実が、自決する直前に海軍次官宛てに発信した電報の最後に、『県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ』とあります。その最後の文章の前は、過酷な環境の中でも、沖縄県の民間人は、国のために、最後まで戦ったことが記されており、軍中枢への決別電報で、県民の敢闘の様子を綴ったのは、異例のことなのだそうです。

果たして、今、沖縄県の人たちに、大田実中将の想いが反映されているかどうか。

色々な問題が横たわり、挙げればキリがありません。しかし、顕在的な問題にせよ潜在的な問題にせよ、どこか『本土優先』的な『何か』があるのかもしれません。ただの僕の邪推かもしれませんし、杞憂に過ぎないかもしれませんが、少しでも、沖縄が、これまで以上に幸せな道を歩むことが出来たらと願わずにはいられない、そんな思いを馳せた旅でした。


『奇跡の1マイル』の夜


だからなのかもしれませんが、那覇市内の国際通りは、夜になるとそれはそれは異様なほどの活気で賑わっていましたよ! 東京の繁華街も顔負けの活気と熱気振りです。通りには、土産屋や菓子屋、沖縄料理の店や雑貨屋がひしめき合い、シーサーにガメラにウルトラマンにスパイダーマンに、そこかしこに色んなフィギュアが並んでいて、もう訳分からん状態。
あれだけの暗い過去を持っていながら、僅か数十年で、これほどまでに活気と魅力のある街へと発展した沖縄。沖縄の最大の魅力は、その内に眠る強さとしなやかさ、なのかもしれません。



『沖縄県』の写真についてはこちら

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2011/07/24 22:25 | Comments(0) | TrackBack() | Outdoors

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