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2024/04/26 00:30 |
[Review] Vフォー・ヴェンデッタ
Vフォー・ヴェンデッタこれまた衝撃的な映画ですね。一部のマニアックな鑑賞者うけするような、好き嫌いが分かれそうな映画ですが、物語の筋は通っているので、僕は割りと好きな方です。もちろん、ナタリー・ポートマン好きにもお勧め。坊主にされるシーンを凝視できればの話ですが(笑)


また、同時にこの映画には答えが無く、正解も無く、考えさせられる映画でもあります。
舞台は近未来のイギリス。様々な策略によってイギリス国民が仕組まれ、半ば洗脳作戦の如く独裁社会へと発展していく。平和を維持する統治とは裏腹に、暴力と絶対権力によって人々を粛清していくが、そういった『国家の陰謀』に立ち向かっていく存在"V"が、やがて人々の心を揺さぶり、人々の本来の望む方向性へと導いていきます。

が。
結局のところ、その"V"も、事の発端は『国家の陰謀』に対する復讐であり、その手法が暴力であること。正義を唱える言葉の力を声高に掲げながらも、自己満足の為に復讐劇を繰り広げ、ロンドンの市街地を血の海にしたこと。
暴力における独裁社会に対抗するのには、結局のところ『暴力』でしか成し得ないのか。
『DEATH NOTE』のような、世の中の悪を鎮めるために、凶悪犯を次々に殺していくのと同じように。

けれど、"V"は決して「自分について来い」とは一言も言わなかった。ただ、自分の主張の正当性を唱えたものの、絶対に同意させるようなことはしなかった。
きっと、自分の行動が『独裁社会』のそれと何ら変わらないのは、"V"自体も分かっていたのでしょう。けれど、独裁者と『同じ』にならないために、独裁者のような『堕ちた人間』にならないように、というのが、せめてもの彼の復讐劇に対する流儀なのかもしれません。


もう一つ、この映画で主張したいメッセージとすれば、『恐怖』に対抗できる『力』。
それも『暴力』の意味ではなく、『意思』の力として。

『政治』も『象徴』も、ただそこにあるだけでは何の意味もないし役にも立たない。それに平伏す、もしくは崇める国民が存在する事で、初めて『政治』も『象徴』も意味を為すんだと思います。僕は、これまで意味づけ論的な授業を受けたりとか、論文を読んだりとかしたことがありませんが、本来無意味なものに意味をつけるためには、無意味なものを見る『眼』が必要なんだと、この映画では感じました。
その手段として、恐怖政治だったり、独裁だったりしますが、それは『政治』や『象徴』を無意味にしないための手段でもあり、それらを行使する独裁者達は、『無意味化』を恐れて行使しているんだと思います。
この映画のキャッチコピーで言う、「人々が政治を恐れるのではない、政治が人々を恐れるのだ」とは、正に言いえて妙ですね。

ナタリー・ポートマンの役どころは、そういう『現代社会』にも通用する、『恐怖』に対抗する『力』を演じている、そして、本当の『自由』を手に入れるためには、国民一人一人が、その『力』を身に着けていかなければならない、ということを投げかけている、そういう風に思えます。

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2006/04/22 23:03 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie

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