鑑賞前のこの作品に対する最初のイメージは、『触覚』。絹のような滑らかで上質な質感。確かにそこにあるのに、まるでそこに無いかのようなに感じるのは、まるで儚さ。『パフューム ある人殺しの物語』で見事なまでに表現された『香り』、つまり『嗅覚』と同じように、『触覚』も、『映画』というメディア上では表現することはできない。けれど、洋の東西をまたいで旅し、人々との触れ合いの中で核となる『絹』に、決して表現できない、でもまるで『触れている』かのような感覚を表現しているのではないか、と思っていました。
実際に鑑賞してみると、それまでのイメージとは全く違う。それは、いい意味でも悪い意味でも裏切られたわけではなく、想像をはるかに超えた、芸術作品でした。
確かにそこにあるのに、まるでそこに無いような。触れ得るのに、触れることが出来ないような。
儚さを感じる、一遍の詩。消え入りそうな、一曲の音楽。幻にも思える、一枚の絵。油絵ではなく、水彩画や水墨画のような。
そう、この作品は、作品そのものが『絹』。触れているのに、そこに見えるのに、不安になる、心許なくなる。あまりの手触りのよさに、しばし恍惚にひたるけど、再び目をやると、指の間からするりと滑り落ちてしまう。
それでも、触れていたい、追い求めたいと思うのは、一度その美しさに触れてしまったが故の己の欲望なのでしょうか。
異国の地で、男は絹のような肌の少女に出会い、そしてその肌に触れる。その瞳も、その唇も、雪のような肌も全て、彼の目に焼き付いて離れない。その男の妻も、最初は彼を追い求める。異国の地で何があったのか、表層部分しか聞かされない。心ここにあらずなのは、きっとそれ以上に心奪われる『出会い』があったから。
触れることができない。絹のように儚いから。
男は少女で心の中を満たす。でも、決して全てが満たされるわけではありません。少女は最果ての国、日本に住んでいる。そう簡単には会えない。会えたとしても、その肌に、その憂える温もりに触れられるだろうか……
女は男の肌の温もりを感じる。でも心の温もりは感じない。今の彼の心の中に、自分はいない。こんなにも近くに触れたいものがあるのに、あまりにも遠すぎる。空気のようで、掴み所が無い。もし叶うなら、彼の心を満たす存在に、私がなりたいのに……
最後の方で、マダム・ブランシュが読み上げる手紙。その内容は、全身の毛が弥立つくらい、切なく、そして悲しいものでした。
もう二度と、愛する男の身に触れることは出来ない。でも、せめて、彼の心に触れていたい。留まりたい。彼の心を満たすことが出来れば、もう絹のように心許なくするりと滑り落ちるようなことはなく、不安に駆られることはないから。これからも、ずっと。永遠に。
「あなたの幸せのためなら、ためらわずに私を忘れて。
私も未練を残さず 、告げましょう、さようなら。」
これは僕なりの解釈ですが、心の中を満たしたい存在であり続けたいのであれば、「忘れて」という言葉は使わないはずです。あくまで、「触れ得ぬ存在となるくらいなら、目に見える存在としての『私』を忘れて」という意味なのではないのでしょうか。
誰にも消せない温もり。それは、彼の『心』を満たすことで初めて叶えられる願い。人の想いの強さと同時に、人の想いの儚さを、静かに綴った作品です。