納棺師。遺体を棺に納める人。またその職業。
人の世には様々な出会いと別れがある。どんなに親しい人と出会っても、ずっと傍にいたいと思う人でも、必ず別れる時は来る。たとえ連絡が取りづらくなっても、会いたいと思ってもなかなか会えなくても、この地球上に生きて元気にしているのが分かれば、それだけでも、掛け替えの無い繋がりがあると感じることがある。
でも、人の『死』だけは、どうしようもない。あがらうことも出来ない。会いたいと思っても、もう二度と会うことが出来ない。その声を聞くことも、その温もりに触れることさえも。
だからこそ、綺麗にして送りたい。『死』は確かに永遠の別れであるけれど、新たな旅立ちの始まりでもある。生前、よく笑みをこぼしていた人なら尚更だ。笑って送り出したい 。
そんな、日本人の死生観が詰まった、優しくも穏やかな音楽と共に流れる、本年度最高傑作と言っても過言ではない作品。『ラストゲーム 最後の早慶戦』のように、これから死地に向かう学生達の想いを強くストレートに描くのではなく、まるで母親の胎内のように、優しく包み込むような雰囲気を醸し出している作品。
女性の身体を模したチェロ、まるで母親の胎内にいるような雰囲気、雪が溶け春が芽吹く。そして、様々な人生を送り、酸いも甘いも経験し、時には苦しい人生を歩んできた様々な人達の死。この作品には、至るところに『生』と『死』が存在し、交じり合っている。
納棺師という仕事は、派手でもなく目立つものでもなく、静謐だけど地味な職業。また、非常に失礼な言い方になってしまうが、「遺体に触れる」という職業柄、敬遠されがちな職業と思われるのだろう。実際、ほんの数十年前まで、食肉用の牛や豚等の肉類の解体作業は、敬遠されている部落民で行っていたというくらいだ。「汚らわしい仕事は汚らわしい人間に」という歪んだ風潮があったのだろう。その汚らわしい人が捌いた肉を、ほくほくと口にしているくせに。
しかし、そういった仕事が無ければ、私たちは新鮮で安全な肉を口にすることは出来ない。街中の清掃員だってそう。彼らがいなければ、今頃街中はゴミ溜めだ。悪臭と害虫でウヨウヨの世界になってしまう。
そして、納棺師にも同じことが言える。作中の納棺師は、自宅で大往生した方だけが対象ではない。アパートの一室で、寂しく孤独死する人を弔うこともする。初めて納棺の仕事をする人にとってはシュールで且つ強烈な体験だろう。本木雅弘氏のちょっとコミカルめいた演技とBGMで、周囲の鑑賞者はクスクス笑っていた。でも、僕は笑えず、こう思った。「辛くて寂しい時に、一緒にいてあげられなくてごめんなさい。貴方の最期をしっかりと見届けてあげられなくてごめんなさい」と。勿論、フィクションと分かっていても。
誰の目にも留まることの無かった人にも、安らかに眠れるようにお手伝いをする。僕も納棺師のことを理解しているとは程遠い人間だが、少なくとも、穢れた仕事ではない、贖罪の為の仕事ではないことは分かる。
月日は流れ、庄内平野は冬から春へ、大雪で積もりに積もった雪は溶け、花が咲き、新緑が芽吹く。ここにも、時間の流れの尊さと同時に残酷さを表現している。たとえ今わの際でも、もう少し、その人の傍にいたい。時が止まってくれたら、という想いも虚しく、時間は移ろい過ぎていく。
幸せだった時は、もう元に戻れない。その時、この先どう生きていけばいいのか、そんなことを試す意味でも、時間は静かに淡々と流れていく。
確かに、一生のうちで人の死に目に会うのは少ないだろう。だからこそ特別なことと思われがちだ。でも、人は生きている限り、必ず死ぬ。誰一人変えることの出来ない運命の道筋。特別なことではないからこそ、せめて、笑顔で送りたい。綺麗にして送りたい。それは故人のためでもあり、残された僕達がこれから先生きるためにも必要なことだと思う。
生と死、仕事人としての誇り、時間の流れと無常。日頃忘れがちで、でも掛け替えの無いほど大切な要素が詰まった作品だと思う。
人の世には様々な出会いと別れがある。どんなに親しい人と出会っても、ずっと傍にいたいと思う人でも、必ず別れる時は来る。たとえ連絡が取りづらくなっても、会いたいと思ってもなかなか会えなくても、この地球上に生きて元気にしているのが分かれば、それだけでも、掛け替えの無い繋がりがあると感じることがある。
でも、人の『死』だけは、どうしようもない。あがらうことも出来ない。会いたいと思っても、もう二度と会うことが出来ない。その声を聞くことも、その温もりに触れることさえも。
だからこそ、綺麗にして送りたい。『死』は確かに永遠の別れであるけれど、新たな旅立ちの始まりでもある。生前、よく笑みをこぼしていた人なら尚更だ。笑って送り出したい
そんな、日本人の死生観が詰まった、優しくも穏やかな音楽と共に流れる、本年度最高傑作と言っても過言ではない作品。『ラストゲーム 最後の早慶戦』のように、これから死地に向かう学生達の想いを強くストレートに描くのではなく、まるで母親の胎内のように、優しく包み込むような雰囲気を醸し出している作品。
女性の身体を模したチェロ、まるで母親の胎内にいるような雰囲気、雪が溶け春が芽吹く。そして、様々な人生を送り、酸いも甘いも経験し、時には苦しい人生を歩んできた様々な人達の死。この作品には、至るところに『生』と『死』が存在し、交じり合っている。
納棺師という仕事は、派手でもなく目立つものでもなく、静謐だけど地味な職業。また、非常に失礼な言い方になってしまうが、「遺体に触れる」という職業柄、敬遠されがちな職業と思われるのだろう。実際、ほんの数十年前まで、食肉用の牛や豚等の肉類の解体作業は、敬遠されている部落民で行っていたというくらいだ。「汚らわしい仕事は汚らわしい人間に」という歪んだ風潮があったのだろう。その汚らわしい人が捌いた肉を、ほくほくと口にしているくせに。
しかし、そういった仕事が無ければ、私たちは新鮮で安全な肉を口にすることは出来ない。街中の清掃員だってそう。彼らがいなければ、今頃街中はゴミ溜めだ。悪臭と害虫でウヨウヨの世界になってしまう。
そして、納棺師にも同じことが言える。作中の納棺師は、自宅で大往生した方だけが対象ではない。アパートの一室で、寂しく孤独死する人を弔うこともする。初めて納棺の仕事をする人にとってはシュールで且つ強烈な体験だろう。本木雅弘氏のちょっとコミカルめいた演技とBGMで、周囲の鑑賞者はクスクス笑っていた。でも、僕は笑えず、こう思った。「辛くて寂しい時に、一緒にいてあげられなくてごめんなさい。貴方の最期をしっかりと見届けてあげられなくてごめんなさい」と。勿論、フィクションと分かっていても。
誰の目にも留まることの無かった人にも、安らかに眠れるようにお手伝いをする。僕も納棺師のことを理解しているとは程遠い人間だが、少なくとも、穢れた仕事ではない、贖罪の為の仕事ではないことは分かる。
月日は流れ、庄内平野は冬から春へ、大雪で積もりに積もった雪は溶け、花が咲き、新緑が芽吹く。ここにも、時間の流れの尊さと同時に残酷さを表現している。たとえ今わの際でも、もう少し、その人の傍にいたい。時が止まってくれたら、という想いも虚しく、時間は移ろい過ぎていく。
幸せだった時は、もう元に戻れない。その時、この先どう生きていけばいいのか、そんなことを試す意味でも、時間は静かに淡々と流れていく。
確かに、一生のうちで人の死に目に会うのは少ないだろう。だからこそ特別なことと思われがちだ。でも、人は生きている限り、必ず死ぬ。誰一人変えることの出来ない運命の道筋。特別なことではないからこそ、せめて、笑顔で送りたい。綺麗にして送りたい。それは故人のためでもあり、残された僕達がこれから先生きるためにも必要なことだと思う。
生と死、仕事人としての誇り、時間の流れと無常。日頃忘れがちで、でも掛け替えの無いほど大切な要素が詰まった作品だと思う。
2009年2月24日 追記:
departure
-【名】
1.[具体的には] 出発
2.[通例 new~ で] (方針などの) 新発展、新しい試み 〔in, for〕
3.[具体的には] 〔常道・慣習からの〕 離脱、背反 〔from〕
『おくりびと (英題:Departures)』が、第81回 米アカデミー賞 外国語映画賞で、見事オスカーを受賞されました。本当におめでとうございます。
滝田洋二郎監督がおっしゃるように、海外から見た日本の映画というのは、まだまだ時代劇や任侠映画、アニメといったステレオタイプのイメージが強いと思います(それ自体が悪いというわけではありません)。ですが、カンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を獲得した柳楽優弥君が出演した『誰も知らない (英題:Nobody knows)』も、現代の日本(の問題)を描いているように、現代日本もしくは現代日本社会をモチーフにした作品も、徐々に世界各国で評価されているように思います。
素人意見で恐縮ながらも、これからの日本映画の世界への躍進に期待したいと思います。
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