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2017/07/21 17:31 |
[東京] TOKYO Guardian
とある番組で、授業では行わない本当の日本史の番組みたいなのを行っており、その一部で、かつて260年以上栄えていた江戸幕府が鎮座する江戸の成り立ちを取り上げていたコーナーがありました。その内容に非常に興味があり、東京を護り、そして今も護っている足跡を追ってみました。


平将門の首塚 寛永寺 神田明神



これまでに何回も丸の内周辺を、仕事・プライベート両方の面で訪れたことがあるのですが、『平将門の首塚』にはまだ一度も行ったことが無いのです。『平将門』に関する数々の伝奇・伝承は、曖昧且つ簡潔であるにせよいくつか耳にしたことがあります。そのため、実際に訪れる前にWeb上で幾つか文献を読んでみました。
そして実際に『平将門の首塚』に足を運んでみると、既に周辺から、何か異様な雰囲気を感じます。厳か、というより、禁断の地、というのが似合っているかもしれません。そう気安く立ち入ってはいけない、という空気を感じます。『平将門の首塚』の祠は、丸の内のビルに囲まれた形で築かれているので、史跡としての大きさとしてはかなり小振りです。そんなに沢山の人が訪れているわけでもない。ですが、首塚に供えられているお供え物、そして絶えることのない線香の淡い香り。平将門が亡くなってから既に1000年以上が経過しているのに、彼を敬う気持ちは、今でも変わっていないように見受けられます。

かつては己の首を探しに怨霊として江戸・東京にさまよい、幾度と無く江戸・東京を災いの坩堝にした平将門の霊。しかし、江戸幕府の創業者・徳川家康が、江戸に蔓延る災いも敬虔に祀れば、転じて江戸の守り神になると考え、首塚を建立したのだとか。しかし、関東大震災や日本敗戦を経て、首塚は何度か破壊と建て替えを繰り返すことに。その際、畏敬の念を払わなかった者に、多かれ少なかれ災いが振りまかれたとか!
そんな平将門の強力な怨念を鎮め、供養が行われ、1309年に相殿神としたのが、神田明神なのだそうです。更に、神田明神は江戸城から見て北東の位置。いわゆる丑寅の方角で、鬼門に位置する神社です。そのため、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇されたのですが、その後の関東大震災で焼失してしまったのだとか……。

しかし、調べている間、とんでもないことに気づいてしまいました。何と僕は、今年の年初に、成田山新勝寺に参拝したのです。
これは、当時の朝廷から見て関東において叛乱を起こした平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたとか。成田山新勝寺を参拝すると、平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされているって……。

無知な上に節操無しなのがバレてしまいました。

まぁ、何はともあれ、昨今のように様々な価値観が多様化しつつある今、幸せな毎日を送るためには「何を信じるか」が重要なんだと、神社の神主さんも寺の住職さんも仰っていますし(←見苦しい言い訳)。


そんな想いが込められた徳川幕府も、創設してから260年ほどでその幕を閉じてしまい、日本は近代国家へと進展していきます。そんな中でも、死して尚江戸を護るように、15代の将軍(とその正室)のうち、12代が、増上寺と寛永寺、半々に眠っています。まるで、江戸城を北と南の両方の面から護るように。
寛永寺には三つの区分に墓地が敷かれ、各墓地に、代々の徳川将軍が眠っているのですが、一般には非公開。先日、天璋院篤姫の墓地が抽選で公開されたのも、この寛永寺の墓地です。但し、隣接する一般の方々の墓地は普通に入ることが出来ますが、遺族の方々にとっては、故人との再会の場でもあるので、あまり騒がしくするのは控えた方がいいかもしれません……。


それなりに知っているようで、実はあまり知らなかった東京の歴史と、それを脈々と受け継ぎ、そして護ってきた魂。ほんの少しではありますが、それに触れることが出来た貴重な機会だったと思います。



『東京都』の写真集についてはこちら

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2009/03/01 14:07 | Comments(0) | TrackBack(0) | Outdoors

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