去る2006年9月29日、東京高等裁判所が、代理出産としてこの世に生を受けた双子のお子さんを、高田延彦さん、向井亜紀さん夫妻の子供として出生届を受理するように東京都品川区に判断を下しました。
その後、品川区は最高裁判所へ許可抗告手続きを申し立てましたが、夫妻はめげることなく、自分たちの子供として一緒に暮らせるように、これからも戦い続けるそうです。
その時の、向井亜紀さんの言葉が、胸に響きました。
「子供の幸せを考えた判断を最高裁でしてほしい」
子供が心から好きなのに。何よりも待ち望んでいるのに。もう自分は二度と子供を産むことができない。それがどれほどの苦しみであり、辛さなのか。男である僕の考えなど、遠く及びません。
今の日本では、出産した女性を母親とする、という法解釈があるけれども、その高く聳え立つ険しい壁に立ち向かおうとも、『代理出産』という道を選んだ彼女は、ただただ純粋に、「愛する我が子がほしい」「一緒に幸せに過ごしたい」という強い願いがあるからでしょう。
他の何物にも勝る願いを持つ、強い女性だという印象を持ちました。
そんな彼女の願いとは裏腹に、次々と起こる忌まわしい事件。
幼児虐待。
児童虐待。
子供を産める体なのに。次の世を紡いでいく担い手を育てられる体なのに。
望まれないまま子供は産まれ、愛されないまま理不尽に死んでいく。
「言うことを聴かないから」「泣き止まないから」。言葉を知らない幼児にとって、泣くことは唯一の意思表示なのに。その唯一残された意思表示さえも、親たちは簡単に、そして無残に摘み取っていく。
仕事が忙しいから? ストレスが溜まっているから? 法律や社会保障が充分じゃないから?
それのどこに、子供を虐げていい理由があるのだろう。
それのどこに、子供の幸せを奪っていい権利があるのだろう。
確かに、今の法律も社会保障も、円満無事に子育てをする上では充分でないかもしれません。幸せな生活を送る上では、高い障壁になっているかもしれません。
でも、親までが障壁になってしまったら、子供はどうやって幸せになったらいいんですか?
もう二度と子供を産めない。それでも、幸せをつかもうと一生懸命になっている人たちもいる。
普通に結婚できて、普通に子供を産むことができて、普通に育てることが出来る。そうであることが、どれだけ幸せなことなのかを、今一度、心に留めておく必要があるのかもしれません。
媚びているいい例として、高校の単位履修詐欺問題。
逆の例として担任のいじめや子殺しなど。
メシ喰いたさに卑怯な振る舞いをしても正しげな顔をして歩いている大人が多いですね。
お偉い大人がどうして職や生命を賭した行動が取れないのか理解できません。
後ろ指を差される前に我が身を恥じて罪を明かし、腹を切るべきです。
「隠匿された情報で、バレないものはない。いずれ世間に知られてしまう」
今回の履修問題に関しても、たった一校の不正が全国区に広まり、大きな問題に。やっぱり、不正をした者のリスクは、比例して返ってくるんだな、と感じました。
正しい行いをするにも、時には勇気がいるし、傷つく人もいるかもしれない。でも、その正しい行いにはその分だけの見返りが返ってくる。
児童虐待も、子供の未来を踏みにじった不正行為も、その事実を裏付けています。
僕が常日頃考えている「人間らしく生きること」。それは、当然のようでいて、最も難しい行為なのかもしれません。