中国マフィアと日本のヤクザの抗争、そんな中二つの組織の間で暗躍する暗殺者・ローグ。力とプライドが飛び交うシリアスでバイオレンスなアクション映画。
というふうに思っていたのですが……
ギャグ映画ですかコレは??
僕はアメリカに行ったことがないので分からないのですが、現地のヤクザ組織とかヤクザ直営の店ってあんなふうになっているんですか? というか、それ以前にアメリカ人の日本ヤクザに対するイメージって、あんななのね……
(まあそんな僕も、ヤクザは映画とかそんな中でしか見たことありませんので、人のこととやかく言えませんけどね)
でも、ジェイスン・ステイサムや日本人の血筋を持っているのに今まで一度も日本語を喋っているところを見たことが無いデヴォン青木とか、(ほんのワン・シーンですが)日本語を喋っているところは、ちょっと嬉しいと思ったり。
でも、日本人からすればどうしてもギャグ映画にしか見えないこの作品も、ラストのクライマックス・シーンはビックリ! ある意味『パーフェクト・ストレンジャー』より面白い展開でした。予告編でも、特にサスペンス的なニュアンスはほとんどなく、あくまでアクションとバイオレンスに一貫した作品だと思っていたのですが、最後の最後で全てをひっくり返すような仕掛けがあるとは思いませんでした。
予告がない分、そのどんでん返しは観る者にとって新鮮に感じるのではないのでしょうか?
やっぱりアメリカ映画にしても日本映画にしても、またそれに限らずどの国で製作する映画にしても、異国の人を、異国の文化を表現するのは難しい、ということ。日本映画やドラマの中でも、「こんな外国人、いるの??」と首を傾げてしまうことはありますけれど。
そこを詳しいところまでリサーチして表現するかどうかというのは、プロデューサーや監督の手腕にかかってきますが、この映画は、あくまでアクションやバイオレンスが主体であり、組織の実体性とかは二の次みたい。でも、ねぇ。やっぱり、日本人として観賞するからには、もちょっと、こう、本物っぽく表現してもよくない? と思う今日この頃でございます。
あ、あと、ジェット・リーの暗殺者の目! 人を人とは思わず、ただのモノとして殺していく、温かみの無い冷めた石のような目! 詳しくは書きませんが、人助けをした際の彼の人間味溢れる目と全く違うから、本当にただのアクションスターではなく、「『俳優』なんだなぁ~」と唸ってしまいました。
……ってすみません、少々(?)暴走気味でした。要は僕はキャサリン・セダ=ジョーンズ様の大ファンですってこと。
さて、あらゆることに完璧を期すあまり歯車が噛み合わず、結果として色んな失敗、挫折に繋がるというのは、ものすごく共感できます。それも、「肩の力を抜け」という理屈は分かっていても、それを念頭に置くとかえって自分に甘えが出てくるから、「『全てを完璧にはこなせない』ということに甘えない。限りなく完璧に近い結果を出す」とわざと自分をより厳しい立場に追いやる。自分を突き詰めれば突き詰めるほど、緊張感が出るけれど、その反動もまた大きい。それでも、自分を緩めるわけにはいかない。悪循環スパイラルですね。
僕の一番嫌いな存在といったら、何と言っても自分自身なんです。「全てが思うようにいかない」と分かっているのに、「思うようにいっていない」ことに、常時腹を立てていたり。
それだけならまだしも、僕の場合は他の人と比べかなりダメなところがありまして。自分で立てた目標なのに、「忙しい」という甘えを理由にやる事為す事中途半端。客観的に見れば、忙しく見せているだけのただの怠け者。だからできていないのは自分の業の所為。できていない、やっていない、尚且つやれないことに目標を設けるなと自己嫌悪。最悪です。
そういう自分を最悪に追い詰めると、「ああ、人って独りでは生きていけない、というのは本当なんだなぁ」としみじみ実感します。大抵、自分が自己嫌悪に陥るスパイラルは、自分で自分を追い詰めるための所業がほとんど。でも、もし、一緒に頑張ってくれる、叱咤激励をかけてくれる人がいると、違った道筋になるかもしれない。全部が全部を自分でマネジメントしようとするから、変に肩肘が張ったり、変なところで曲解を生んだり。自分の目標なんだから自分でマネジメントするのは当然だけど、全てが自分の思い通りにいくわけがない。けれど、それを支え合う、理解してくれる、共に歩んでいける人が他にいるのであれば
この作品での『共に歩む役割』といえば、仕事のパートナー、アーロン・エッカートであったり、姪役を演じるアビゲイル・ブレスリンですが、彼等のような存在が傍らにあることで、今までにない『自分のマネジメント』をコントロールすることができる。そこがすごく羨ましいと思い、ちょっと涙が出てしまいました。
かつては人の心を封印し、それが表に出ることを恐れて我武者羅に何かに没頭する僕自身。ようやく『人の心の触れ合い』に解放しようとしても、独りだからまだまだうまくいかず。
どんな人生であれ、『自分』と共に歩んでくれる人というのは数えるくらいしかいないだろうし、仮にいたとしても巡り合えるかどうかも分からない。でも、そんな人に出会うことができて、自分と一緒に歩いてくれるのなら、きっと、これ以上の幸せはないんじゃないのでしょうか。
この言葉が、まさに『エディット・ピアフ』を語る全て。
『シャンソン界の誇る大スター』。不勉強ながら、僕の中での彼女のイメージはそれしかありませんでした。しかし、そんな彼女の人生は、正に壮絶の一言。たくさんの親友や男性に取り囲まれた、華やかに彩られた時期もある一方、大事故や殺人事件の共犯疑惑、ドラッグ漬け、果ては最愛の恋人の無残なまでの喪失。そんな絶頂とどん底を繰り返しながらも、歌に表れるように決して後悔しない彼女の生き様は、まるで『炎』。『炎のように生きた女性』とは、正に彼女を指しているのではないのでしょうか。
『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』と同じように、音楽の世界に身を投じ、生き抜いてきた人物の物語。音楽の、とりわけシャンソンの世界で燦然と輝く『炎の花』。
そして、成功の裏に潜む闇の部分。でも、これは『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』とは大きく違う。レイ・チャールズやジョニー・キャッシュが歩んできた闇の部分、とりわけ過ちの部分は、とりわけ人間が人間であるが故の過ちが表に出たのが大きかった。歴史に『もし』とか『~たら、~れば』というのはありませんが、彼らの場合は、少しの譲歩があったなら、最悪な道は避けられたかもしれない。過ちを犯さなくてもよかったのかもしれない。でも、エディット・ピアフには、悲しいかな選ぶ余地もなく運命が巡る。たとえ証拠不十分で釈放されたとはいえ、一度殺人容疑がかかってしまえば、その汚名はいつまでも続く。自分で望んだことでも、自分で犯したことでもないのに、最愛の男性を飛行機事故で亡くす。まるで神が理不尽に奪い取ってしまうかのごとく。
そんな絶望の淵を幾度となく彷徨った彼女が、何度も不死鳥のように甦ったのは、類稀なる歌声を持っていたから。彼女にとって、『歌』は『生命』と同じ価値。彼女が彼女であるが故の『存在』と同じ価値。『歌』がなければ、彼女は存在しないことと同じになってしまう。
選択の余地を与えられずに壮絶な運命を投げつけられた彼女にとって、人生最大の選択は、「歌手としての人生を歩むかどうか」ではないのでしょうか。
歌うことも、恋をすることも、エディット・ピアフという人生の炎を燃やし続けるために、絶対に必要なこと。だから、身も心もボロボロになり、まだ50歳にも満たないのにまるで80歳や90歳のような老婆の姿は、まるで、全て燃やし尽くした、灰のような印象を受けました。それでも、「まだ何か燃え足りない」と突き詰めるほどの情熱は、一体どこから出てくるのでしょうか。
頂点に上り詰めたアーティストによくある、傍若無人で、我侭で、自分勝手で、多分普通の人付き合いの中で、お近づきになりたいとは遠く及ばない女性。だけど、それでも多くの人がエディット・ピアフを慕ってきたのは、暗い世の中でも決して後悔せずに生きようとする、『エディット・ピアフ』という『炎』に当てられ、世の暗さに冷え切ったその身を火照らせることができるから、なのではないのでしょうか。
それにしても。
主演を演じたマリオン・コティヤール、超美人なんですね! ビックリしました。あんな美人が、まるで老婆のような姿形を成して、本当に老婆であるかのように歩き、振舞うなんて!
そうと思えば、舞台に立って美声を披露する歌姫。本当に同一人物なの? と思ってしまうくらいの凄まじさを感じました。特にラストの、ボロボロになった身体を引きずってまで舞台に立ち、内側から魂を込めるかのように歌う姿は、その迫力のあまり筋がゾクッときました。
彼女もまた、エディット・ピアフの炎のような情熱に当てられた人の一人なのかもしれません。
冷えきった社会。そしてどこか冷え込む社会の中での色々な人間関係。
でも、本当は、火照るような熱を、人は欲しているような気がします。
エディット・ピアフのような、壮絶ではあるけれど決して後悔しない、燃えるよな人生は、そんな冷めて乾いた人間関係に満ちつつある今の社会に、本来人が持つ燃えるような情熱を運んでくるのかも知れません。
でもその人は、貴方が横を向いた時も、貴方が側にいない時も、同じ顔をしている? ふと振り返れば、それまでと同じ顔、同じ姿であるはずなのに、それは貴方が今までに人物が目に映るかもしれません……
誰しもが抱いている秘密。それは決して人に言えない、いや、悟られることすらあってはならない。その秘密が暴かれた瞬間、それまでの全ての関係が破壊される事もあるのだから。
ある殺人事件をきっかけに、主人公が独自にホシに目をつけ、潜入捜査を試みる。しかし、ホシの秘密を暴きながら、殺人事件の真相を解明していくうちに、様々な関係者の、それまでの人間像からでは想像すら出来ない秘密を知る事になる。しかし、そんな主人公ですらも、決して人に知られてはならない秘密を持つ。
殺人事件の真相を暴く、という物語の流れから察するとおり、この映画はミステリーです。が、誰しもが持つ、誰にも悟られてはならない秘密は、情報社会となっている『今』だからこそ通じる題材。そういう意味では、ミステリー仕立てではなくヒューマン・ドラマの方がむしろ面白かったのでは、と思うのです。
ミステリーというには、割と先が読みやすい上に、重要なところが端折られたり説明不足だったり。それとなく演出する以前に、ほとんどすっ飛ばすような話の流れでしたので、ミステリーをじっくりと噛み締めながら観賞する人にとっては、いささか置いてけぼりを喰らうような感覚を覚えたのでは。
物語自体はとりわけつまらないというものではありませんので、敢えて秘密を抱えた人間同士のヒューマン・ドラマという位置づけで観賞された方がよろしいかもしれません。
それにしても。
あのハルー・ベリー嬢も(役に徹していたから、だけど)お下品な言葉を連発するのね…… 彼女のファンの一人として、ちょっとそれは寂しかったです。場面ごとに、次々とセクシーなドレスを身に纏うから一層ね。。。
さて、きっと貴方にも人には言えない、悟られることにすら怯える秘密があるはず。
では、その秘密は、本当に貴方だけのもの?
もしかしたら、知らないところで、貴方の秘密は、他の人に漏れているのかも……
けれどこの映画は、歴史ものでもなければ回顧録の作品でもありません。あくまで、様々な思惑と謎が入り混じるミステリーであり、舞台が1945年のベルリン、ということ。これから起こりうる超大国間の睨み合い、覇権争い。それを獲得するために必要な技術と頭脳。その鍵となる女性と、それを取り巻く人間の喜怒哀楽。
紛れも無くエンターテインメント性の高い作品であるならば、別に必要以上にこだわりをもったモノクロ映画でなくても良いのでは? と思うのは僕だけでしょうか。大雑把に言えば、『ブラックダリア』や『ゾディアック』のような見せ方でもよかったような気がします。両作品とも当時世間を震撼させた事件を基にした映画であり、回顧録というわけではありませんので、モノクロに徹底しているわけではない。でも、やはり当時の雰囲気をそれとなく匂わせるために、あえてフルカラーの中にセピア調を仕込んでいます。『さらば、ベルリン』も作品の基調がミステリーであるのなら、もうちょっと観賞しやすい色調であってもよかったのではないかな、と思います。
むしろ、モノクロに徹底的にこだわるのであれば、変にミステリーを取り入れるのではなく、当時の人間模様を描いたヒューマンドラマがよかったのではないか、と。
加えて、『スパイダーマン3』でも同様の感想。トビー・マグワイアの悪役は全っ然似合わない! 多分彼は性格的、ではなく性質的に悪役にはなれないと思うのです。僕としては、ジェイク・ギレンホールが割と合うんじゃないかと思いました。どちらにしても、大作の主役級を演じる彼らに、途中で殺されてしまうような端役は似合いませんけれど。
そして、やはり熱血なジョージ・クルーニーも全っ然似合っていません。『オーシャンズ』シリーズがヒットしていることもあってか、やはり彼はクールで且つ颯爽としたキャラクターの方が似合っていると思うのです。まぁ『シリアナ』はお世辞にもクールとも颯爽ともなっておりませんが、それでも、どこか底知れない雰囲気が漂っていましたし。
結局のところ、ジョージ・クルーニーとケイト・ブランシェットがドイツ語をペラペラに喋っているところくらいでした、印象に残っているところといったら。ミステリー部分も、これといった驚きといったことはありませんでしたし。
ミステリーも人間関係描写も抜きに観賞するのであれば、昔なつかしの映像を堪能する、というのもいいかもしれません。