対して今作『ジャンパー』は、特殊能力は瞬間移動のみ。物語の核も瞬間移動。ですので、瞬間移動が行われる過程の映像効果、行われた後の空間の歪み、そして能力を持つ者が世界中を駆け巡れる、というところ。一つの能力に絞ったからこそ、丁寧にその様子が特殊技術で表現された作品だと思います。
進化した特殊技術を無為に広げて使おうとせず、あくまで『瞬間移動』の一点に絞り、あり得ないけれどあり得そうな、とことんリアリティを追求して作り上げた作品であると思います。
が。
悲しいかなこの作品は。それで終わりなのです。
『瞬間移動』の能力に目覚める → とある秘密組織に狙われる → 人質を取られる → 人質を助け、秘密組織の追っ手を封じ込める。なんて分かりやすい物語展開! 主人公が何故『瞬間移動』の能力者に、所謂『ジャンパー』に目覚めたのか、どうしてその秘密組織が『ジャンパー』を狙い、抹殺しようとするのか、全く分かりませんでした。
とりあえず、秘密組織の言い分としては、『ジャンパー』は世界を滅亡させる脅威であるからとか。確かに、何時でも何処でも自由自在に移動し現れる能力は、(移動先に)その場にいた普通の人にとっては甚だ迷惑でしょうけれど。秘密組織なら、自分達の利益主義のために、『ジャンパー』を利用しようとか思わないのかな? もしくは、『ジャンパー』がそもそもダークヒーローで、普通の人と戦いを繰り広げるとか。更には人間側につく『ジャンパー』も現れ、『瞬間移動』の戦いは、正にどちらが先を読み、先に行動し、先手を打つかの戦いに!
って、それだと『X-MEN』の二番煎じになってしまいますね……。
いずれにしても、盛り上がるシーンはあるもののこの作品ならではの特筆すべきものはなく、裏をかいたり心理戦にもつれ込んだりすつこともなく。兎にも角にも、『瞬間移動』という能力そのものを、如何にして特殊技術で楽しむかに終始徹した作品でした。
でも、一つの能力の表現に対して、愚直なまでに取り組んでいる分、鑑賞者としても、『瞬間移動能力』そのものに食い入るように引き込まれるのは確かです。
これは僕個人の考えですが、一つの超能力だけの作品を、オムニバス形式で作るのはどうでしょう。今作は『瞬間移動』ですから、次回作は『念動力』とか『透視』とか『接触感応』とか。変に色々な能力を入り混じった作品より、一つの能力に絞り、それに対しリアリティに富んだ表現をするのですから、見応えはあるかもしれません。但し、物語性は無いかもしれませんが(汗)。
けれど、『他人事』というのは、そういった時事情報を毎日ニュースや新聞を扱っている報道者や、それを見ている僕達も、同じなのではないか。様々な事件に対し意見を述べるのは自由だ。けれどその意見の多くは、大抵が『他人事』。「責任は誰が負うべきか」に帰結する。その意見を述べた当の本人はというと、特に何かをするわけでもない。確かに、事件の当事者でない者がいきなり関与するのもおかしいし、出来る事なんて無いかもしれない。でも、もし出来る事があるのなら、それを行うべきだし、解決した後で、責任問題を問うことだって遅くは無い。
毎朝毎夕の通勤、勤務中、コンビニや本屋等の店の中。見渡す限り、ただ単に、『他人』として、『傍観者』として、『関係無い者』としてやり過ごしたい。何となく、そんな気がするのだ。
今作『明日への遺言』は、戦後の戦犯裁判を題材として取り上げている。これまでの戦場における悲惨な光景はほとんど無く、終始、裁判所内での撮影となっている。過去にも、『生きること、死ぬことの覚悟』や『家族への愛』、『最善を尽くし、己の信じる道を進む』といったことがテーマに各作品が制作されていった。この作品では、『責任』、そして『自分の正義を貫く』という現代の世相に対しそのまま問いかけているテーマを取り上げている。
第二次世界大戦。20世紀、世界中で最も多くの人命が奪われた惨たらしい戦争。敵国粛清のために仕掛けられた多数の爆弾。本来、軍事施設に対する爆撃のみ適法だったにも関わらず、一般市民をも巻き込んだ無差別爆撃は、後を絶つことは無かった。無差別爆撃を仕掛けた米軍搭乗員38名を捕らえ、正式な審理を問わずに処刑した、元東海軍司令官である岡田資中将をはじめとする20名が、戦犯として裁判にかけられていた。
戦争は、勝とうと負けようと、人殺しであることに変わりは無い。実行した者であっても、命令した者であっても。
けれど歴史は常に勝者のもの。勝った方が正義と見做される。歴史を塗り替える権利が与えられる。これまでもそうしてきた。きっとこれからもそうなのだろう。そして、敗者にその責の重圧が潰れてしまうくらいに圧し掛かる。
だからこそ、岡田中将はその理不尽が許せなかった。確かに自分も人殺し。その責は負わねばならない。良い事をしたとは思っていない。しかし、それは戦犯を犯した者に対する処罰である。本来殺すべきでない一般市民を大量に殺した者に対する処罰である。それに対する被告への処罰が、あまりにも理不尽なのだ。まるで、「負けたから当然」と、『他人事』のように吐き捨てるように。
裁判は、誰もが助かりたいばかりに、誰かに責任を擦り付け合う。勿論、法廷という厳粛な世界なのだから、『嘘』ではないのだろうけれど、観ている側とすれば、何とも見苦しい。
しかし、岡田中将は、「自分が助かりたい」という考えは、ほとんど持っていなかった。自分は命令をしただけ。実行したのは部下達と、自分を擁護する弁論が出来たにも関わらず。処刑の責任をその身一身に受け止めようとした。もしかしたら岡田中将自身でさえ、「生き残りたい」と願っていたのかもしれない。それにも関わらず。
更に、検察官や裁判官からも、減刑が出来ると捉えられる発言が来る。岡田中将の真摯で毅然とした姿勢に心を打たれたからなのかもしれない。しかし、岡田中将はそれを突っ撥ねた。それは真実ではない。真実でないから、法廷で告げるべきことではない。また、そんな甘い囁きに乗るのは、自分の正義に悖る。そう考えたのだろう。
今の世の中、こんなことが出来る人は、一体どれくらいいるのだろう。少なくとも、報道で見る政治家や不祥事を起こした人達、そして、顔や名前、素性が分からないことをいいことにネット上等で嘲笑う人達は、皆無に近い。
そして僕自身も、こんな極限状態の中で、これだけの責任感を奮い立たせることが出来るかどうかといったら、恐らく答えは「いいえ」と答えると思う。それだけの年数や経験を重ねていないことも勿論、それだけの覚悟が培われる土壌に生活していないことも事実。しかし、これから先も、こんななあなあで不安定、不明瞭だらけの世界が続くのだとしたら、岡田中将のような、決して逃げることなく、理不尽に対しあくまで戦い抜き、己の正義を貫き、そして果たすべき責任を果たす、という精神は、どこへ行ってしまうのだろう。
この作品が作成されたのは、これから先の世界をどう作り上げていくことに、誰しもが『責任』を負っている、ということを示すためのものだと思う。世界各地で起こっている紛争だけではない、地球環境破壊だって同じことだ。今、自分は何に対し、どれだけのことが出来、そしてどれだけの責任が果たせるか。そんなことを考えさせられる作品であると思う。
まぁでも、昨年から話題作、超大作などが目白押し。話題作といえば、サスペンス等、汗を握るような戦いが繰り広げつつも、重いテーマがずっしりのっかかってきたり。方や超大作といえば、視覚効果も抜群、音声も四方八方から飛び交って、これでもか! というくうらい自己主張が強いものばかり。
それはそれで面白いし、一部の作品では好評価を得ているものもありますが、四六時中そんな神経をすり減らすような作品ばかりが公開される様では、鑑賞者としては疲れるばかりでしょう。って、別に神経すり減らすために映画鑑賞しているわけではないんですけれど(笑)。
たまには、こういったほのぼのとした作品を鑑賞するのも、いいのかもしれません。
これは勝手ながらの憶測ですが、恐らくこの作品のメインキャストであるお二人もそんな気持ちがあったのかも。
この作品は、根本となる題材(『自信を持つ』、もしくは『自信を取り戻す』ということ)は割とありきたり。脚本についても視覚効果や映像についても、とりわけ「これはすごい!」とか「ここは印象に残る」といいったところも特に存在しない。
けれど、お二人は今をときめく(爆)大スター。話題作や超大作のオファーも沢山あるはず。けれどもこの作品を選んだ。話題作や超大作を卑下するわけではないが、そればかりが続けばキャラクターが固定されてしまうし、何より『話題作』と『超大作』に恥じぬように演じなければならない。
その点、この作品は息抜きができる。キャラクターと自分自身を固定されるわけではなく、ありのままに表現することができる。自然体でいることができる。
このお二人を観て、何となくそんな感じがしました。
特筆すべきシーンとか視覚効果とか、あまり無いように見受けられる本作ですが、「たまには、ちょっと軽めの作品を観たい」という方にはお勧めだと思います。
大抵のファンタジー作品といえば、完全に独立した御伽の世界、もしくは現実世界と同じ空間でありながら魔力を持つ者・選ばれた者しか見ることも行くこともできない『シームレスだけど独立した世界』というのが主流でした。前者でいえば『ロード・オブ・ザ・リング』、後者でいえば『ハリー・ポッター』シリーズや『スターダスト』といったところでしょうか。
異なる世界を行き来する、という意味では、『ナルニア国物語』シリーズもそうですね。しかし、この作品はどちらかというと、『パラレルワールド』というよりかは、『本の中』とか『御伽草子』の世界と現実世界とを行き来している、というようなイメージ。少なくとも、ナルニア国を救う運命にある4兄弟が住まう現実世界と、ナルニア国が、『並行』して存在する、という感覚はありません。そういう意味であれば、「パラレルワールドを行き来すること」を実写の映画として制作した映画は、この『ライラの冒険』が初なのかもしれません。
さて。この『ライラの冒険』シリーズ第1弾の『黄金の羅針盤』。感想と致しますと、「制作者サイドの苦悩とジレンマがひしひしと伝わる作品」でした。これは、2006年に公開された『ダ・ヴィンチ・コード』を彷彿させるジレンマです。
何故かと言うと、恐ろしく展開が速いのです。日本語吹替え版も同時に公開されるはずですから、子供にも広く鑑賞してもらうのが狙いなのでしょう。けれど、大人でさえ「話の展開がエラくポンポン進んでないか?」と思うくらいですから、子供ですと、もしかしたら何が何やらサッパリ、ということになってしまわないのでしょうか。
原因の一つとしては、やはり『詰め込み過ぎ』に他ならない、と思うのです。例えば、作中である事件が発生し、ライラがそれについて親友と話をするシーンがあるのですが、その『事件』が一体いつの間に出てきたのか。別に観逃しているわけでも無いのに、いきなり彼らのトピックスとしてポッと出てきて、さも「既に観客は皆知っている」とばかりに話をするのです。そういったことが何度か出てきたので、結構戸惑いました。
連続した作品は、何よりも最初が大事。恐らく、今後の展開にも重要になる要素が、これでもかというくらい最初の作品に含まれていたのでしょう。しかし、詰め込み過ぎて説明的な描写に終わってしまっていることに、その後の物語や展開に支障をきたさないかどうか心配です。
そしてもう一つ。ライラの驚くべき順応力の高さ。とても「何も知らない、これから真実を探りに行く」とは思えないほどの。
ライラは、おしとやかとは程遠い、活発で滑舌、度胸があり肝が据わっている、今時男ですら珍しい性格を持つおきゃんな女の子。しかし、そんな彼女であっても、いきなり未知の事柄、未知の世界に遭遇すれば、戸惑うし尻込みをすることだってあるはず。更に、こういった性格であれば、これまで起こっている事柄、自分とその周囲の関係をもっと知りたい、知っておきたいと思うはず。しかしどう観ても彼女の行動は、既に自分の運命を知って、受け入れでもしなければ、これ程までの行動力・順応力は発揮できないのでは、と思うのです。
あまり疑問を持たず、果敢というより無謀すぎるくらいに前進するライラ。それは子供であるが故なのでしょうけれど、「何よりもまず実行」という信念があるからなのでしょうけれど、観客からしたら違和感は拭いきれないと思いました。
そんなこんなで、結構歪みだらけの本作品。多分丁寧に描こうとしたら、余裕で2時間半~3時間の超大作になるはず。それでも2時間弱に収めているのは、前述の通り、子供にも広く見てもらいたいからだと思います(上映が終了した瞬間、「えっ、もう終わり!?」と思ってしまうような早さを覚えました)。さすがに『ロード・オブ・ザ・リング』のような3時間コースは、子供には酷ですし。しかしそれが、かえって作品に無理な端折りや歪みを生じさせてしまった結果に繋がったのでしょう。
まぁ『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』シリーズのような、秘境や魔境によくある粘着質でダークなウジュルウジュル感はほとんど無いので、観易い作品であることは確かです。衣装や建物もゴージャス感があり綺麗ですし、よろい熊の戦いも圧巻です。
そして、やはり3部作であるからか、物語やキャラクター、世界観に至るまでの真相や真実は、ほんの一端しか出てきていません。正に、『黄金の羅針盤』が終了して初めて、スタート地点に立てた、という感覚です。ライラ自身も、そして観客も。
『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』シリーズのように、続き物でありながら単体の作品としても面白いのに対し、この作品は、全ての物語の流れを繋げて、初めて本当の面白さが実感できると思います。これが制作者サイドの意図なのかどうかは分かりませんが。でも、もしそうなのであれば、次回作公開まであまり長いスパンをかけるのは得策ではありません。「連続した鑑賞」が、映画版『ライラの冒険』を楽しむコツなのではないかと思います。
まぁ、こうやって素人薀蓄を並べ立てていても、ちゃっかり次回作を首を長くして待っておりますし(汗)。
小学生の頃、国語の授業で、ある物を題材に作文を書け、という課題がありました。そのある物とは、(課題用の)一枚の古びた島の地図。それだけ。でも、子供の想像力というのは果てしなく、そして驚愕するばかり。みるみる内に作文を書き上げていきます。
島に住む妖精。ひっそりと佇む村々。村に襲い掛かる魔物や怪物達。それを束ねる大いなる存在。立ち向かう勇者。その手には剣と魔法。そして島の奥底に眠る宝の山。大人からすればただの一枚の地図であっても、子供にとっては夢と冒険の世界。子供だけにしか見えない、行く事のできない秘密基地。当時は、子供心ながらそんな空想の世界に没頭できると思っていました。
しかし、そんな夢を見る時期も、思春期を迎えるかどうかの境目で、段々と薄らいでいくのです。
主人公の少年は、二つの現実に悩んでいた。一つは、もう子供みたいに夢を見ることができない、苦しい家庭の事情。もう一つは、いつも思い通りにいかず友達とうまくコミュニケーションも取れず、苛められる学校生活。
そんな折、転校生として現れた一人の少女。現実世界にいる女の子なんだけれど、どことなく現実離れしているような。それは、小説家の両親の元で育てられたとか、空想好きでいつもファンタジーなネタを用意しているとか、そんなことではなく。一言で言えば『ピーターパン』。永遠の子供を象徴するかのような女の子。でも、自分の空想世界を共有してくれる友達といったら、その子しかいなかった。そんな壮大な空想を心の中でいつも描き続けている二人だからこそ、実現できたのかもしれない。『テラビシア』という王国は。
相変わらず現実世界では、『テラビシア』のわくわく感からは程遠い、客観的に見れば取るに足らない出来事が起きている。けれど、秘密を共有する二人が『テラビシア』に足を踏み入れれば、不可能なことは何も無かった。昨日のわくわくは、今日もそこにある。そして、明日もあるのだろう。
夢を見る時期を卒業しない限り。
人は誰でも大人になります。好き勝手に生きられなくなり、自立と自律、そして自分の行動に責任が伴ってきます。遊んでばかりではいつか飢え死にする。アリとキリギリスの物語のように。だから働かなければならなくなり、おいそれと空想の世界に没頭し続けることは難しくなります。
勿論、他にも色んな意味で目覚めの時です。最たる例では、異性への意識。そうやって人は大人になり、これまでの世界からどんどん遠ざかっていく。その時、置き去りにされてしまった空想の世界は、一体どこへ行ってしまうのでしょう。
大人になることへの喜びと同時に、子供心を満たした世界を失う苦しみ。
「もっとこうしていれば良かった」。心に描けば不可能は無い『テラビシア』でさえも、失ったものは、もう元には戻らない。何でも手にすることができた子供時代に対し、何かを得れば何かを失う、それが大人の世界であり、現実の世界です。大人になるというのは、楽しいことだけではない。辛いことも沢山あるということを、少年は知る。観ているこちらとしても、とても辛く、心が苦しくなりました。
1時間30分という、あまり長くない作品ですが、現実世界の苦しみと空想世界の楽しさ、少年少女の子供から大人へ成長していく過程が丁寧に作りこまれているように感じました。話の展開も無理が無く、観易い作品であると思います。
子供心を忘れてしまった、あるいは取り戻したい、というような方にもご覧いただける作品ではありますが、どちらかというと、中学生とか、思春期境目の方々向けかもしれません。今は、上っ面というか、外見ばかりを気にして背伸びしながら大人になろうとする子が多く見受けられますが、『本当に大人になる』ということは、心に大きな穴を開けてしまうくらい辛く大変なことでもある、ということを分かっていただければと思います。
まぁ、何はともあれ、大人は確かに大変ですけれど、できることがすごく広がりますから、やはり楽しさの方が勝るかもしれませんけれどね。