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2024/03/19 20:33 |
[Review] 蒼き狼 地果て海尽きるまで
蒼き狼 地果て海尽きるまでどこまでも続く草原。その果てに見えるは、雄々しく聳え立つ数々の霊峰。青く澄み渡る空に、悠然と翔る鷹。
悠久を思わせる大自然の中で、我が部族が王たらんと、争いに明け暮れる戦士達。圧巻のスペクタクルで、覇権を得るための戦いが繰り広げられる!

でも、結局のところ、目を見張ったのはここ止まり。
印象深かったシーンは、数少ないもののいくつか存在しておりました。ですが、長年の構想と費用を費やした割には、そういったシーンが重要なファクターを占めるわけではなく、雲散霧消にただのワンシーンとして通り過ぎてしまった感じがするのです。


この映画を観ている途中、色々なことを考えておりました。

まず、この映画は『商品』ではなく、『作品』である、ということ。単に商業的なエンターテインメントを前面に押し出すのではなく、チンギス・ハーンの生涯を、英雄としてより一人の人間として、周囲の人間との関係性や己が抱える苦悩を描こうとしたこと。
でも、それを描こうとして、結局のところ何を伝えたかったのか。例えば、宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』。「簡単に生命を捨ててはいけない」というメッセージを強く出しながらも、「偉大なる存在からの巣立ち」とか「正真正銘の自分自身の存在」といった、正に監督の生い立ちを彷彿させるような心意気を感じました。
しかし、『蒼き狼』では、焦点として描きたいものがぼやけていて、液体のようにつかみ所がなく、観る側としても、「で、結局何が言いたかったんだろう?」と思ってしまうのです。悲運の生い立ちと血塗られた運命を背負った、チンギス・ハーンの過酷な半生を描こうとしてもダイジェスト的に描かれてしまえば、結局、観客の心に響き渡るものも少なくなってしまうでしょう。

『商品』ではなく『作品』としての映画。でも結局、「そう描きたかった」だけに止まってしまったように思わざるを得ません。

そして、やはり主役にしても脇役にしても、日本人を起用した、ということ。
「日本人が、日本語をしゃべって演じている」ところが、強く違和感として感じました。
違う人種が違う文化を題材にした映画は、数はそれほど多くないけれどいくつか存在します。ロブ・マーシャル監督の『SAYURI』とか。確かに、中国人やマレーシア人が日本人として演じるところに違和感はあるし、作法や着物の着方など、生粋の日本人から見れば是正したくて仕方がない部分がありますが、『SAYURI』はそれを逆手にとり、外国人が見た日本的『美』の憧憬を描いているように思います。だから、登場人物は全て英語。真の『日本的』に近づけないからこそ、うまくそれを利用し、且つ美しさを如何に引き出すか、というのは、日本人として目を見張るものがありました。
日本人がモンゴルの作品を作るからには、どんなにモンゴル人としてなりきろうとも、やはり日本人であることを拭い去ることはできません。その上、全編日本語。この弱点を逆手に取っているわけではなく、実直なまでに『役』になりきろう、という俳優魂で突き動かしていますので、「これは本当に『モンゴル』の歴史スペクタクルとしての作品なのか?」と疑問を抱かずにはいられません。

モンゴルの方々は、この映画のプレミア試写会で、何度も喝采を送ったと伺いましたが、正直本心はどうだったのか、心配な部分はありました。


ただの一歴史スペクタクルにしたくない、という気持ちがあったのでしょうけれど、この映画の『本質』として、焦点として描きたい、強く観客の心に刻み込みたい、という要素が弱かった作品でした。豪華な俳優達が出演し、壮大なスケールで描かれているだけに、少し残念です。

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2007/03/04 13:56 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie

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