小説の後半半分が、映画の後半3/4を占めるような勢いなので、最初観た時の、前半のはしょり方の尋常の無さに驚きました。確かに、中国の大地とそこに住まう人々との触れ合いによって、主人公の心情が徐々に変わっていき、目的を成し遂げていく様子は、後半にこそその真骨頂に達するのですが。
前半部分のはしょり方にその後の展開がつまらなくなりそうだと心配しておりましたが、杞憂に終わってホッとしております。
この映画に登場する中国人は、どの人も親切で、言葉を除けば理解ある人たちばかりです。昨年、あれだけ大掛かりな反日デモ放送を見る限りでは、『ウソっぱち』とか『絵空事』と思われるかもしれません。
でも、考えて欲しい。テレビに映る人だけが中国人なのでしょうか。中国人はすべからく全員反日感情を振りかざしているのでしょうか。
僕は中国の内政については殆どといっていいほど知りませんが、今でも、反日教育を行っていると聞きます。それでも、日本に対して好意的に感じてくれる人はいると思います。いや、いると信じたい。同じ地球上に生きる、同じ人間であるのなら。
また、例え『映画』という作り物であったとしても、全く言葉が通じなくても、こうして直に人と人とが触れ合う事で、互いの心や互いの温もりを伝え合うことができるのではないか、ということを、この映画ではメッセージとして投げかけていると思います。100%は無理です。でも、何もしなければ1%も伝える事は出来ませんから。
結果として、結局は日本と中国は仲違いするかもしれない。でも、もしかしたら寄り添い会うことが出来るかもしれない。「何もしない」ことほど、辛く苦しい事はありませんから。
この物語には、二組の父子が登場します。
ちょっとしたすれ違いが時を経て大きくなり、互いに歩み寄る事ができない父と子。
ちょっとしたことがきっかけで離れ離れになるも、我が子に会いたいと願う父と会う勇気が持てない子。
前者は、素顔ではなく、仮面をかぶり表面上でしかコミュニケーションをしない。
後者は、自分の望みをありのままに素顔で素直に自分の気持ちをぶつける。
本当にその人のことを「分かりたい」と思うのなら、まずはぶつかってみなければ。触れてみなければ。表面だけのコミュニケーションは、単にその場を取り繕っているだけ。
本当の気持ちまでは伝わらない。
今の世の中、今正にこの瞬間、表面だけのコミュニケーションで見えない苦しみにさいなまれている人は多くいるはず。それは、ひいては外交問題にすら成り得る。
テクノロジーが蔓延し便利な世の中だからこそ、心を伝える、心に触れ合うことを、もう一度見直していく必要があるのではないかと感じます。
何年後かして、自分が登場した映画を振り返って観てみたら、自分が用を足している(しかも大)ところがバッチリ映っているのですから。
リアリティを求めた結果なのかもしれませんが、もちょっと考えてもよさそうな気が……(笑)