『THE CORE』と同じように、日本沈没という大いなるディザスターを目の前に立ち向かっていくのは、政府・地球環境科学者や海底調査隊の人達、というプロフェッショナルの連綿。ただ、『THE CORE』に比べて、若干、『普通の、身近な人を守りたい』の感覚で自らの得た力で使命を果たしていくので、その分、映画の世界に入り込む事は出来たのですが。如何せん、何となくのっぺりとした感覚に囚われるのは気のせいでしょうか? 2時間余りという時間が、妙に長いように感じたのは……
勿論、これから先起こりうる大災害を前に、サクサクと物語を終わらせることを良しとは思いません。けれど、大勢の人が目の前で死ぬ。一気呵成に日本が沈んでいく。それでも誰かを救いたいが、残された時間が無い。本来だったら、緊迫感の連続で決して目の離すことができないシーンが盛りだくさん、のはずなのに、地形の起伏はおろか視界に移るものは何も無い平野を観ているような感覚になりました。
確かに、地球が何万年何億年とかけて起こしてきた地殻変動なのに、たった1年で日本が沈んでしまうほどの地殻変動がおきてしまう事自体あり得ない話ではあります。でもそれだけじゃなく、何だか妙に進みが遅い映画だと思えたのは、一人一人のキャラクターが関係しているのではないか、と。
どのキャラクターも、どこか真平なんですよ。妙にそらぞらしいというか。多分、あまり信じてはいないのではないのでしょうか。この映画のように、近い将来日本が沈むと言うシチュエーションを。まぁ、それは無理も無いとは思いますが。ちなみに僕も信じていません。少なくとも、1年というスーパー短時間で日本と言う島国が消えてなくなる、ということには。
まあでも、この物語は、ディザスター自体を信じる信じないは、起こりうること起こり得ないことはまるで別問題であって、そういう境遇の中で、ただの人間がどんな想いを馳せて、どんな行動をとるか、ということ。なのに、出演者が大してディザスターを信じていないから、観ているこっちも、「何となくこんなもん」という感じにしか映らなくて、イヤに薄く感じてしまいました。
と、まあ、色々とごたくを並べてみましたが、要は『戦国自衛隊1549』と同じように、印象の薄い映画になってしまった、ということです。僕は、1973年公開の『日本沈没』を観たことがありませんが、多分、原作からみても前作の『日本沈没』からみても、今作は全くの別物、と見ていいのでしょう。最新鋭テクノロジーをふんだんに使うのだったら、『ポセイドン』のように、人間性云々は後回しにして、ディザスターの迫力を前面に出せばよかったのに…… とも思ってしまいました。
きっと、これはある意味『娯楽映画』として作ったものではないのでしょうね。『デイ・アフター・トゥモロー』のように、日本に、いや、地球に住む人間に対して迫り来る恐怖として、描きたかったのかもしれません。決して身近なことのようには感じませんでしたがね。
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亀田が世界王座を獲得しましたね。
終わってしまったのはしょーがありませんが、まぁ、あれだけパフォーマンスしておいて所詮判定勝ちなので、どーでもいーんですが。
そんなことより、柴田恭兵さんの肺がん手術にショックを受けました。
手術後の経過は順調だということで、一安心です。
早く元気になって、戻ってきてくださることを祈りつつ……
また、あぶない刑事で大暴れしてください。
終わってしまったのはしょーがありませんが、まぁ、あれだけパフォーマンスしておいて所詮判定勝ちなので、どーでもいーんですが。
そんなことより、柴田恭兵さんの肺がん手術にショックを受けました。
手術後の経過は順調だということで、一安心です。
早く元気になって、戻ってきてくださることを祈りつつ……
また、あぶない刑事で大暴れしてください。
監督業はおろか、アニメ作品ですら初めてという彼に、不安の声が多数上がったのは言うまでも無く、しかも父・駿氏に大反対され、一時期は絶縁状態までになったとか。さしずめ、宮崎駿氏は海原雄山、宮崎吾朗氏は山岡士郎という感じですか。
勿論、僕もある意味不安を抱いていました。世界三大ファンタジーの一つとも言われている『ゲド戦記』を、何もかもが初めての人に任せてもいいのだろうか。また、某掲示板では、試写会で鑑賞したこの映画を酷評していました。「ジブリの名を汚した」とか、「父親の足元にも及ばない」とか。
確かに、今までのジブリ作品とは一線を画しています。全体的に暗いし、ドキドキやワクワクもあまりない。冒険スペクタクルのような要素はほとんど見られないし、格別目を引くキャラクターもいない。
観方によっては、ジブリブランドを壊された、とも言えなくも無いでしょう。
けれど、この映画には、単に現代社会の影の部分を反映しているだけでなく、『宮崎吾朗氏そのもの』を出しているのだと思います。乱暴な言い方をすると、『自己顕示欲』という言葉になってしまいますが、決してネガティブな方向ではなく、自身を社会に対するアピール、むしろ、『叫び』とも受け取れます。
「僕は『宮崎駿の息子』じゃない! 僕は『宮崎吾朗』なんだ!」というふうに。
他人の口から言えたことではありませんが、今まで彼は、本当に苦しんでいたのではないのでしょうか。
どこに言っても、誰に会っても、『宮崎駿の息子さん』。
偉大な父親を持ってしまったが故の苦痛。正に、登場人物である『アレン』は、ご自身をそのまま反映しているのではないかと思いました。
「父親を殺してしまった
いつも不安で、自身がないんだ」
悪夢にうなされるアレン。いつも自身の影に怯えているアレン。
自分がどんなふうに監督として指揮しても、自分がどんなアニメを作り上げようとしても、結局皆、父親と比較する。『比較される』という『悪夢』は、形は違えど、アレンの見る悪夢にも重なります。
宮崎吾朗氏がこの作品を選んだのは、アレンの境遇が自分に似ていたからだけではなく、アレンを通して、「自分を知って欲しい」と考えたから、だと思います。
彼も、きっと自分自身の持つインスピレーションをフルに活かした映画を作りたかったのかもしれません。でも、そのためには、まず、『宮崎吾朗』という人となりを知ってもらう事。そして、何かに、誰かにコンプレックスを持ち続けて自分を投げ遣りにするより、もう一度自分自身で『自分自身』を確かめる事。そういうことを、観客に伝えたかったのかもしれません。
そういう意味では、題材は別に『ゲド戦記』でなくても良かったのですが、今の自分の心情をストレートに伝えるためには、この映画が最適だったんだと思います。
この映画から、宮崎吾朗氏の宮崎吾朗氏たる『心意気』が感じられます。
純然たるエンターテインメントとはいえず、荒削りではありますが、純粋で、素直な魂を注いでいる映画です。彼の今後の足がかりとなる作品になるのは間違いないと思います。
次は、もっと翼を広げて、のびのびと、彼のインスピレーションを思う存分活かした作品が生まれることでしょう。
『呪われた海賊たち』では真面目一辺倒の彼が、『デッドマンズ・チェスト』では、一皮も二皮も剥けた、ジョニー・デップ扮するジャック・スパロウにも負けずとも劣らないコミカルなアクションを披露。でも、相変わらずその表情は真面目一辺倒なので、そのギャップがあまりにも滑稽で笑わずにはいられません。本人(ウィル・ターナーとしてですが)は精一杯真面目に戦っているつもりでも(笑)。
勿論、ジャック・スパロウの奇行癖は『呪われた海賊たち』を更に上回り、加えてキーラ・ナイトレイが扮するエリザベス・スワンが、海賊衣装をまとって大暴れ!
一瞬たりとも目の逸らす事が出来ない、極上とも言えるエンターテインメントに仕上がっており、ある意味疲れました。でも、映画を観終わった後の興奮は、しばらく止みそうにありません(笑)。
実はこの『デッドマンズ・チェスト』、最後まで観ると分かると思いますが、恐らく続編があります。パンフレットにも、各俳優達の紹介欄に『3作目を控えている』ということもさることながら、まるで続編を匂わせるような終わり方。
なので、『デッドマンズ・チェスト』という一括りの物語として考えると、相当量のボリュームの物語になるはず。今回を仮に『前編』として分けて考えても、まるでジェット・コースターのようにハイスピードで展開が進むので、約2時間30分の中に収めるのは相当大変だったのでは。大人でも、話の展開を追っていくにはちょっと骨が折れそうですから、子供だと難しいかもしれません。
あと、個人的にですが、ブラック・パール号が、デイヴィ・ジョーンズが操る海の魔物・クラーケンに襲われるシーンも、大迫力ではあるものの少しくどかったかなー、と。まぁでも、クラーケンに襲われるのはこの映画において非常に重要な役割を担いますから、あまりコンパクトサイズに収めるのも問題ですが(笑)。
なーんてことをツベコベ考えずに、だ。
これだけの超大作、欠点が一つや二つくらいあるのは当たり前。むしろ致し方無い。でも、それは観る人によって受け取り方は全然違ってくる。
いちいち捻くれたこと考えなくても、そんな欠点の一つや二つなんて、簡単に払拭してしまうくらいの面白さが、この映画には沢山ちりばめられているのですから。何もかもが豪華絢爛の『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』、是非ご堪能くださいませませ。
ちなみに。
エンドロールが終わっても、決して席を立ってはいけません。
『呪われた海賊たち』では、キャプテン・バルボッサの愛猿がアステカのコインをくすねるシーンでしたが、今回は……!
最後の最後まで笑わせるのがこの映画の醍醐味です。