通称EVP。日本語名では電磁音声伝達現象。
近代的な電子機器が発する静電磁波を媒体として、死者が生者に音声やイメージを伝達する現象。
トーマス・エジソンは、霊界との交信の手段を見出すために、通信手段となりうる装置の開発に日夜明け暮れていた。時を越えて、全世界に散らばるAV機器から死者のメッセージを受信したという報告が相次ぐ。単なる幻聴か、それとも本当に死者からのメッセージなのか。
「死んだ大切な人の顔を、姿を、もう一度見たい。もう一度その声を聴きたい。」
その願いを叶えようと、EVPに手を染め始めた時、彼は予想だにしなかっただろう。決して、元に戻れぬ道である、ということに。生きる者として決して踏み込んではならない領域に足を踏み入れた時、その行く末は、一体どこへ行くのだろうか……
ミステリーとホラーをミックスさせた物語。
の、つもりだったんでしょうけれど、ミステリーにもホラーにも、どちらにも徹しきれなかった作品です。ぬるめの『世にも奇妙な物語』に、ぬるめのミステリーを混入させた、という感じでしょうか。
愛する伴侶が死に、その声を聴きたい、姿を見たいと強く思うあまり、取り憑かれるようにEVPを始める。伴侶の声を聴く事が出来つつも、その裏で奇妙な出来事が、まるで導かれるように折り重なる。
それを探っていく過程は、わりとハラハラとしつつも、ラストシーンは微妙に消沈気味…… 話の成り行き上と捉えられなくもありませんが、この部分は逆にミステリー色を強く出して欲しかったように思います。ホラー映画主体の映画であるにせよ。
ホラー好きだけど、強烈且つ濃厚な映画はちょっと苦手、という人にはいいかもしれませんが、あまり納得できる形でミステリーを交えているわけではありませんので、ご注意を。
久しぶりに昔の友人に会って、色々と話をしていると、ふと思うことがあります。
「ああ、こいつ変わったな」って。
でも、『自分自身』に対して、「変わった」と感じることは、あまり無いのではないのでしょうか。
一番身近にいるのに、一番分かっていない人間なのかもしれません。
『自分』というのは。
でも、時々自分を振り返ってみると、「あれ?」と思うことがありです。
「今までの僕は、こんな考え方をしたっけ?」
「こんな行動をするなんて、昔は思わなかったなぁ」
「ああ、自分も変わっているんだ」
かつて、僕は自分も他人も『変わっていく』ことを、受け入れようとしませんでした。
放っておいても、自分が関わらなくても、人は変わっていくのに。
変化を認めたり、受け入れることが出来ず、『過去のまま』を美化し、自分の殻に閉じこもっていました。
表面的に楽しい振りをしていて、一番『変化』に恐れていたのかもしれません。
そんな僕も、やっぱり『変わった』と思うこと。
それは、自分の『変化』が楽しい、と思えるようになってきたこと。
かつて、あんなに恐れていたのに、今は『楽しい』と思っている。
どうなるか分からない未来を、楽しんでいる自分がいるんです。
だからと言って、完全に『変化』に対する『恐れ』を拭い去ったわけではありません。恐れているけれど、同様に楽しんでいる。この感覚は、実は表裏一体なのかもしれません。
人も変わった。同じように自分も変わった。
『変わらないもの』ばかりを大切にしていた自分が、『変わるもの』にも目を向けるようになった。
小さいことだけれど、この自分の『変化』は、もっと、自分の人生を深くさせてくれるのかもしれません。
そんな僕の『変化』は、きっと、僕だけの力で成し遂げたものではありません。
僕を変えてくれた、僕の変化を『楽しい』と思えるようにしてくれた人に、深い感謝の意と、これから先、僕自身も、人の変化に影響を与えられるような、そんな人間になっていこうと思います。勿論、いい意味で(笑)
人の変化を望まなかったのに、人の変化に影響を与えたいと思えることも、また一つの、僕の『変化』なんでしょうね。
彼岸花ほど、未だかつて奇特な異名を持つ花はないでしょう。
方や、『曼珠沙華』と呼ばれ、法華経中の梵語より『天上の花』と意味されるほど尊い花とされたり。方や、『死人花』や『地獄花』と呼ばれ、家に入れると火事を招くと言う不吉な花とされたり。
どちらにしても、『黄泉の国』を連想させる花なんですね。
天候は快晴。
風はやや強め。
真夏が完全に過ぎ行く前の、若干の暑さは残るものの、湿度もあまり無く、心地よさだけが肌を通り過ぎる絶好の秋晴れの日。陽の光をその身に浴びる花、林の中でひっそりと咲く花。見渡す限りの真紅の絨毯は、秋の彩を感じさせます。
巾着田は、遠方に秩父の山々を見渡す事の出来る田園風景。雨上がりの後のように、空気も澄んでいたため、赤い彼岸花が、より一層赤みを強め、紅に染まっていました。周囲の緑色とは正反対の色でありながらも、いや、正反対の色だからこそ、真紅の色が深みを増していました。
澄んだ空気と水。深い緑色。より深さを増す赤。
かつて、人々がこの花から、黄泉の国に連想させるのは何となく分かる気がします。『引き込まれる色を持つ花』。彼岸花に見惚れるうちに、魂を抜かれてしまうような。
『天上の花』と『死人花』。彼岸に咲く『死』を思わせる花は、そんな魅力を醸し出しているのでしょう。
巾着田の中程には、彼岸花と同じ時期に咲くコスモスの群生が。
こちらも満開で、白からピンク、深い赤の花が、風任せに揺られながらも見事に咲き誇っておりました。
そして、コスモスの群生は正に虫たちの楽園。先日の浜離宮恩賜公園と同じく、蜂や蝶が方々に飛んでいましたが、全体的にやや小振り。その代わり、赤とんぼがこれまた群生と言えるかのように沢山飛んでいました。
花の移ろいと共に、虫たちの移ろいもまた、秋の訪れを感じさせます。
きっと、この一体は夕暮れも素晴らしく美しいのでしょう。真っ赤に燃えた太陽に照らされる真紅の彼岸花。まるで、一帯が本当に燃えているかのような、『赤』の楽園を作り上げるかもしれません。
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「コピーロボットって何ですか?」
ジェネレーションギャップ。
それは時に、自分の年齢を痛切に自覚させられる、あまりにも酷い仕打ちです。
もうすぐ友が死ぬというのに、自分は何も出来ない。
ただ、見送るだけ。
友が死ぬのを、ただ、見送るだけ。
死ぬのは怖かった。でも早く死にたいとも思った。
これ以上、友の死に様を見ずに済むから。
大好きな人たちを守りたい。この思いは揺るがない。
自分の命を、お国のために、大切な人たちのために捧げられるのなら。
でも。
次々と死んでいく友を目の前にすると、その思いは、揺らぐ。
大切な人の死を目の前に、残された者の心は、癒す余地も残さず酷く引き裂かれる。
外の世界を知ることなく、孤独なままに、海の底で果てる。
暗く、冷たく、何もない空間の中で。
終始寂しさを漂わせる、そんな映画に感じました。勿論、映画の出来不出来とかそんなことではなく、一人、また一人と、敵艦を駆逐するために、人知れず死んでいく彼らの勇姿に。
『男たちの大和』を動とするなら、この映画は静。しかもそれが、あまりにもくっきりと表れていたため、死ぬ正にその間際の青年たちの表情が、生々しく表現されていました。彼らの死に様を眼にし、引き裂かれた心を引きずりながら、自分の死の瞬間に怯える者の表情も。
死ぬとは何か。
今の今までさっぱり感じることの出来なかった青年たちに、もうすぐそこまで迫ってくる恐怖。
僕はここで死ぬ? これから?
この海底で? 暗い海底で?
ボクノ死ハ、一体誰ガ、知ッテクレルノカ?
本当は、叶えたい夢があるのに。自分が自分でいられる、自分の笑顔を見せることが出来る、そんな自分の居場所が、本当はあったのに。
あまりにも寂しく、暗く狭く、孤独で静かな世界の中で、短く儚い青春であろうとも、彼らは精一杯謳歌していた。最後は結構あっけなかったのですが、その孤独な最期が、若くして全てを絶たれた青年の辛さ、苦しさを物語っています。