展開の速さと、少々耳障りに感じてしまうくらいの歌と音楽の応酬に、ちょっとげんなり状態……。。。
かわいいんですけどね、ペンギン。最初のうちは、CGとミュージカルのコラボレーションのような、一種の斬新な感覚を覚えましたが、後半になると、しつこいくらいのジェットコースターのようなアクションシーン(?)の数々。
つーかあんなに凹凸の激しい氷の上や洞穴の中を滑っていたら、いくらなんでも死んでるって!
CGであるからこそ、そこまで激しいことがこれでもかというくらいに出来るんだと思うのですが、CGの質が高さ(=限りなく現実のペンギンと同じように見えてしまう)が、かえって激しいアクションにどことなく垣間見える人間としての残忍さを物語っていました。「これはCGなんだ、現実じゃない」というふうに割り切って観ようにも、「大怪我するんじゃないか?」というような想いが張り巡らされて、ハラハラせざるを得ませんでした。まぁ、観客にそう感じさせることに、制作者側の意図もあったのかもしれませんが……って、これは考えすぎですかね。
さて、そんな作品であるにせよ、この物語にもそれなりのメッセージ性がありまして。
『環境問題』とか『人間の身勝手への警鐘』といったものもありますが、同じようにこの作品から感じたメッセージは、『コミュニケーション』。
ペンギンと人間。ペンギンの鳴き声は、所詮人間には分からない。けれどダンスなら、自分たちの考えていることを伝えられるかもしれない。僕たち人間も、言葉は分からなくても、身振り手振りで何となくその人の言わんとしていることが何となく分かる。それで、コミュニケーションを取ることが出来る。
言葉に出来なくても、自分たちが思っていることは、何らかの方法で伝えることが出来る。巧く歌を歌うことが出来ず、生まれついたダンスが凶兆の原因といわれ侮蔑されても、何かできることがある。この作品では、人間とペンギンとのコミュニケーションに繋がった。
自分の『思い』や『考え』を伝えたい。『声』ではなく自分の『体』で。今のコミュニケーション不足が社会的な問題として提起されている人間へのメッセージなんだと思いました。
でもやっぱり展開の速さからか、そのメッセージ性もどこか薄いような気がして……
いろんな意味で、消化不良となってしまった映画でした。
大理石の 台の上で 天使の像 ささやいた
夜になると ここは冷える 君の服を 貸してくれる?
基本的に楽しい歌なのですが、サビの部分に入るまでの不気味な雰囲気は、子供心に恐怖を感じました。薄暗い美術館の中、動くわけが無いのに今にも動きそうな収蔵品の数々。でも、僅かに聞こえる石が擦れる音。衣擦れの音。
「動くはずが無い。動くはずが無い」。そう念じながら、そろりと後ろを振り返ってみる。その目に飛び込んでくる、信じられない光景。生命の無いものに、生命が吹き込まれる瞬間。夜の帳が、その非現実感を更に冗長させる…!!
今でこそ、エンターテインメント上でのその恐怖心は非現実的であるからこそ、かえって心地よいものになっております。なので、この映画では、『夜の闇と静寂の中で、生命無きものが今正に動き出す瞬間』を、ホラー映画ばりに丁寧に描いて欲しかったのですが、
それを差し引いてもお釣りがくるくらい面白かったのでOKでしょう!
あんまりやり過ぎると、かえって子供さんが泣いてしまいますので…(笑)
細かいところは突っ込み放題でしたけどね。
ネアンデルタール人の顔や骨格の造形が、やけに現代人に似ていたり。
南米原産の動物が、アフリカの動物スペースに陳列されていたり。
何より影の番町の存在があったり(これは本編をご覧下さい)。
そんな突っ込み満載であるにせよ、肩の力を抜いて観るべき映画でしょう。これはあくまで『映画作品』であり、『エンターテインメント』なのですから。
雰囲気的に『ナショナル・トレジャー』に似ていますが、こちらの方はトレジャーハンター映画の王道を貫いている映画。『ナイト ミュージアム』は、単に収蔵品が動く理由を解き明かすだけの枠にとどまらず、人と収蔵品という、ありえない相対するもの同士のボケとツッコミの応酬をふんだんに取り入れることで、子供にも大人にも大人気の映画に仕上がったと思います。
一番笑えたのは、ジオラマのミニチュア人間による勇敢なる活躍ぶり。
如何に勇猛果敢に攻め入ろうとも、現実世界との大きさの対比に、笑わずにはいられませんでした(笑)。
日本三大庭園として、今も尚愛されている水戸の偕楽園。毎年2月下旬から3月下旬にかけて『梅まつり』が開催されますが、今年は暖冬の影響からか、これから3月中旬に差し掛かろうという時期なのに、既に梅の花は散り気味に。『花弁の絨毯』とまではいかないものの、既にピークを過ぎたような、どこか物寂しさを感じました。
白梅に属する花は、まだ蕾の状態のものがいくつかあるものの、紅梅に属する花は、やはり多くが散ってしまったように見受けられました。
ただそれでも、一昨年、池上梅園で梅を愛でたときと同じく、厳しい寒さを乗り越えて、春の訪れを告げるかのように、凛と力強く咲く梅の花には、強く惹かれるものがあります。パワフルに咲き誇る、というのではなく、内在するパワーを芯に凝縮したような、『不動』とか『確固たる』という言葉が、この花には良く似合っていると感じます。
ですが、やはりこれも暖冬の影響からか、梅の花に内在する不動のパワーも、どこか不完全燃焼気味のような気が…… 曇天の影響もあるのでしょうけれど。
まぁ、僕が考えている強さを誇る梅とは別の、少しパワーダウンした落ち着いた感じの梅というのも、また別の一面の美しさなのかもしれませんね。
『茨城県』の写真集についてはこちら
ニコラス・ケイジも走る走る走る走る走るー!!
けれどコチラは足ではなくバイクですが。
バットマンやスパイダーマン等と同じく、アメコミを実写化したスーパーアクション映画。いや、ホラー映画かな?
濃厚なまでに脂っこい料理を食べた後で飲む烏龍茶のように、スッキリする映画。というのは少々言いすぎですが、メッセージ性の高い作品や、重く圧し掛かる作品を観た後で、こういうアホっぽさ満載の映画は、それまでの自身の体内の空気を一変してくれるでしょう。
しかも、物語はそんなに凝っていないので、頭を働かせて観るようなことはなく。『Mission: Impossible』と同じように、目の前に繰り広げられる過激ともいえるアクションを楽しんでおりました。
しかし、色々な要素において、既視観テンコ盛りなのは気のせいでしょうか?
周囲の迷惑なんて塵芥にも介さないくらいの、アホみたいなド派手アクションを演じるあたり、『CASSHERN』を彷彿させたり。同じ境遇のアドバイザーが主人公を導くあたり、『エラゴン』を彷彿させたり。
あ、もしかして逆ですかね。『ゴーストライダー』がオリジナルだったり? まぁどちらが先にネタとして出たかについては大して問題ありませんが……
だが! そのような屁理屈は一切必要ないのです。
こういった類のアクション映画に関しては特に!
思いのまま、目の前に繰り広げられるド派手シーンの一つ一つを楽しめれば!
(なんか、この手のアクション映画に対するコメントは、どれもこれも同じようになってきたような気がする… orz)
しっかしまぁ。
ありとあらゆる視覚効果の数々を狙ったからなのか、冒頭でも述べましたとおり、割とホラー要素が強くなってしまいましたなぁ。まぁ、そもそもそんな漫画だからなのかもしれませんが。
でも、過激アクションとホラー要素以外は、(若干恋愛要素が入ってますけど)極力削ぎ落とした作品であると思います。日頃の憂さ晴らし目的などで、観てみてはいかがでしょう?
悠久を思わせる大自然の中で、我が部族が王たらんと、争いに明け暮れる戦士達。圧巻のスペクタクルで、覇権を得るための戦いが繰り広げられる!
でも、結局のところ、目を見張ったのはここ止まり。
印象深かったシーンは、数少ないもののいくつか存在しておりました。ですが、長年の構想と費用を費やした割には、そういったシーンが重要なファクターを占めるわけではなく、雲散霧消にただのワンシーンとして通り過ぎてしまった感じがするのです。
この映画を観ている途中、色々なことを考えておりました。
まず、この映画は『商品』ではなく、『作品』である、ということ。単に商業的なエンターテインメントを前面に押し出すのではなく、チンギス・ハーンの生涯を、英雄としてより一人の人間として、周囲の人間との関係性や己が抱える苦悩を描こうとしたこと。
でも、それを描こうとして、結局のところ何を伝えたかったのか。例えば、宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』。「簡単に生命を捨ててはいけない」というメッセージを強く出しながらも、「偉大なる存在からの巣立ち」とか「正真正銘の自分自身の存在」といった、正に監督の生い立ちを彷彿させるような心意気を感じました。
しかし、『蒼き狼』では、焦点として描きたいものがぼやけていて、液体のようにつかみ所がなく、観る側としても、「で、結局何が言いたかったんだろう?」と思ってしまうのです。悲運の生い立ちと血塗られた運命を背負った、チンギス・ハーンの過酷な半生を描こうとしてもダイジェスト的に描かれてしまえば、結局、観客の心に響き渡るものも少なくなってしまうでしょう。
『商品』ではなく『作品』としての映画。でも結局、「そう描きたかった」だけに止まってしまったように思わざるを得ません。
そして、やはり主役にしても脇役にしても、日本人を起用した、ということ。
「日本人が、日本語をしゃべって演じている」ところが、強く違和感として感じました。
違う人種が違う文化を題材にした映画は、数はそれほど多くないけれどいくつか存在します。ロブ・マーシャル監督の『SAYURI』とか。確かに、中国人やマレーシア人が日本人として演じるところに違和感はあるし、作法や着物の着方など、生粋の日本人から見れば是正したくて仕方がない部分がありますが、『SAYURI』はそれを逆手にとり、外国人が見た日本的『美』の憧憬を描いているように思います。だから、登場人物は全て英語。真の『日本的』に近づけないからこそ、うまくそれを利用し、且つ美しさを如何に引き出すか、というのは、日本人として目を見張るものがありました。
日本人がモンゴルの作品を作るからには、どんなにモンゴル人としてなりきろうとも、やはり日本人であることを拭い去ることはできません。その上、全編日本語。この弱点を逆手に取っているわけではなく、実直なまでに『役』になりきろう、という俳優魂で突き動かしていますので、「これは本当に『モンゴル』の歴史スペクタクルとしての作品なのか?」と疑問を抱かずにはいられません。
モンゴルの方々は、この映画のプレミア試写会で、何度も喝采を送ったと伺いましたが、正直本心はどうだったのか、心配な部分はありました。
ただの一歴史スペクタクルにしたくない、という気持ちがあったのでしょうけれど、この映画の『本質』として、焦点として描きたい、強く観客の心に刻み込みたい、という要素が弱かった作品でした。豪華な俳優達が出演し、壮大なスケールで描かれているだけに、少し残念です。