友達と一緒に旅行に行っても、僕だけフラッと寄り道したり。遅れて集合した時の友人の一言は、「どこかで狩りでもしてきたの?」。オレは孤高のハンターかっつの。でもそう思われても仕方ないくらい、集団から離れて行動してしまいます。半ば無意識に。
こんな性格であることを重々承知していますので、自分が計画する旅行とかのプランは、よほどのことが無い限り自分一人だけ。人を巻き込みたくないなんて対面上では取り繕っても、本心は自分の行動を制限したくない。結局のところ、自分の『一人好き』の性格も、自分の我侭や自分勝手が生じさせてしまった欠点でもあります。
誰かを巻き込んでいないだけ良しとしよう、と一方的に納得してしまいますが。
そんな僕も、最近になって『一人ではできない、もしくはやりきれない』と思うことが顕著に多くなりました。遅い目覚めです。

(それ以前にもありましたが、瞬間的、もしくは一過性の出来事で、一人でやりきることができましたが……)
かつては、歳を取るにつれて、今まで人の手を借りながらこなしていたことが一人で出来るようになり、大いに喜んでいましたが、今は歳を取るにつれて、やることなすこと複雑になり、量も多く質も一定以上を求められる。それらを何とか自分でこなしても、振り返ると、出来ていなかった部分、抜け落ちていた部分と、徐々に綻びが露呈されてきまして。
また、他の人が普通にできていることが、自分ではできていない。単純にそれを行うだけの時間も手間隙も無い、というのも勿論ですが(言い訳がましくてスミマセン

要は、片づけがヘタクソだから、それを見守るもしくは指摘してくれる人が必要ということになります。
別に↑のように、ギャグっぽくフォントをいじるまでもないことなのですけれどね。誰かと一緒に行動していると不便に感じるものでも、一人で行動する分では、割と不便とは感じなくなる。そんな考えがズルズルと引きずっていくと、いつの間にか他の人から後れを取ってしまい、結果として、欠点となり他者に対する劣等感になってしまう。
常日頃から最悪だと思っている自分の性格ですが、やはりそれでも自分で動こうとはしない。自分だけの世界にどっぷり浸かっちゃっているから。そんな時、僕の行動を、僕の考えを窘めてくれる、戒めてくれる『誰か』の存在というのは、凄く助かったりします。
一人が好きで、一人での行動が好きで、そんな僕が、「一人では生きられない」と思うようになる瞬間。これからは考えだけではなく、一層行動に移して、人とのかかわりを大切にしようと思った秋の夜長でございました。
むしろ、『バイオハザード』というゲームを引きずった状態で観賞する、という考え方が間違いだったのです。あくまでゲームの世界観は、一作目の『バイオハザード』で十分なくらい語りつくされたもの。それを二番煎じのように続編を作ったくらいでは、すぐに飽きられてしまう。「世界観をそのままに続編を作る」というより、「世界観のコアとなる『アンデッド』ものの続編を作るとしたら、どうすればいいのか」という思考の元での集大成が、この作品だと思うのです。僕が『バイオハザード II -アポカリプス-』で期待はずれだと思ってしまったのは、変に『バイオハザード』の延長線を持ってこようとしたから。それ自体が間違いだったのです。『映画』として進化した、『ゲーム』とは全く違う『バイオハザード』。そういう視点で観賞した結果からか、割と楽しく観賞することができました。
単にアクション・バトルを繰り広げるだけでなく、色々なところで、これまでのアクション・バトルを覆す仕掛けも面白かったです。ヒーロー(ヒロイン)が正体不明で、最後のシーンにその正体が暴かれたり、善悪が入り違えたり、または入り混じったり、割とこれまでのアクション・バトルは、そういったことが常套手段として使用されてきましたが、『バイオハザード III』は、それらとはまた違う路線を進んでいます。
そういった勢力に対抗する、または利用していくことで、自分とその周囲と、ひいては現状を生み出してしまった諸悪の根源の核心を突き止めるために、一つ一つコマを進めていく、またその勢力も、主人公アリスに組み込んだプログラムを利用し、恐るべき計画を遂行しようとする。頭脳戦というより、己の五感をフルに活用した戦い、とでも言うべきでしょうか。
かなり濃密で見ごたえがありますが、それを90分程度でまとめあげてしまうのもさすがです。もうちょっと長くても面白かったかな、と思いますが、あまりダラけるのはアクション・バトルとしてがNGですからよしとしましょう
さて、これで『バイオハザード』シリーズは終了、とのことですが、どう観てもラストのシーンは続編がありそうな気配……
まぁ、そもそもの根本的な解決には至っていないわけですから、どのようにして映画『バイオハザード』が幕切れになるのか、結構観てみたいと思うのです。なんてったって、アリスには無数とも言うべき味方がいるのですから……
その無数とは……!!
開始数分で結末が読めてしまう、というのはどうなのよ。
こんなに簡単にも結末が予想できて、尚且つ不幸な要素が殆どと言っていいほど無い、というのも、小学生以下を対象としたファンタジー映画と受け取らざるを得ません。その分安心して観賞できるから、お子様連れにはピッタリですけれど。
個人的に唯一この映画で楽しめたのは、何と言ってもロバート・デ・ニーロの女装シーンでしょうな(これ以上は物語のネタバレに繋がりますのでここまで)。
そういえば、『スターダスト』の予告編で、Harry Knowles氏が、「この物語の感動は、まさしき宮崎映画の実写版を見ているようだ」とあります。でも、『見ているよう』、ではなくて、『見ている』のでは?
だって……
■ 空から女の子が降ってくる
■ その女の子の胸元には、曰く付の石が
■ 女の子の第一発見者は、主人公の青年
■ 虎視眈々と石を狙う魔の手の存在
■ 空飛ぶ海賊
■ 隠された王族の血統
ここまでお膳立てをされると、嫌でも「『天空の城ラピュタ』……??」と思わずにはいられないのです。設定が似すぎてて。だから、『見ているよう』ではなく、『見ている』のではないかと思うのです。
そんなこんなで、『ハリー・ポッター』の同じような視覚効果と、僅かながらですかところどころに散りばめられた笑いのツボを除いて、特筆すべき項目はありません。『ナルニア国物語』と似たような感じの作品ですが、『ナルニア国物語』は、まぁ『ライオンと魔女』こそ最初の作品だったので、その壮大な世界観を出すのが印象的でした。まさに、観客を『ナルニア国』に引き込んでしまいそうな。
『スターダスト』は、ファンタジー映画の王道を描いているけれど、『ナルニア国物語』から『壮大な世界観』を差し引いた、少し物足りない作品であるように感じました。
幸せだった。つい昨日まで。
『全て』が変わってしまうまで。
戻りたい。『幸せ』を実感していた、あの時に。
でも、もう戻れない。
自らの手を血で染めてしまった瞬間から 。
作中で、主人公が「ニューヨークは『世界で最も安全な都市』」と言います。あの忌まわしい世界同時多発テロが発生し、ニューヨークの光景が一変したときから。本来あるべき建物がなくなったから、というだけではなく、街の様相自体も一変した、ということ。警察官がどこにでも配備されているように、「もう二度と、私達の平穏な生活をテロに脅かされない」という空気。ニューヨークという街を変えた空気。でも、街を離れた闇に包まれた世界まで、人の監視は届かない。
そしてそれは、東京でもありうる話。光が照らされる、人の目がいきわたる場所は、見た目にも『安全』。でも、一歩道を逸れれば、闇の中で目を凝らせば、劇中のような暴力事件が、そこかしこに存在します。そういえば、『バベル』のプレミアム試写会で、海外の報道陣が東京のうぶれた顔にビックリされたそうで。でもそれは本当。東京でも、いつ襲い来るか分からない恐怖があります。幸せだった生活が、一瞬にして奪われてしまうくらいの。
幸せが奪われた後、人はどうなるか。ほとんどの人は、ジョディ・フォルターが演じるエリカ・ベインのように、PTSDのように心を病に蝕まれ、外を出ることすら叶わず、生きている心地すらしない。
そんな彼女が、これから生きるために手に取ったのは、一丁の拳銃。最初は、単に自分のみを守るためのものだった。でも、突如予期しない自分に降りかかる脅威を振り払うために引いた引き金が、彼女を別人にしてしまった。人を撃っても、震えない『もう一人の自分』に。
復讐のために引き金を引くにしても、彼女は決して殺人鬼ではないし、人を殺すことに使命を感じることもありません。この世の悪を抹消するなんてことも考えていないし、ましてやそんなことができるはずもない。では彼女は何故、目に映る悪人を撃っていくのか。単に目の前の悪人が許せないから、ではないと思うのですが、そこまではこの映画では表現されていません。きっと、彼女自身ももしかしたら分かっていないのでは。それほど、彼女にとって忌々しい事件は、彼女の心を変えてしまいました。
でも、それを何も分からない人に対し、面と向かったり話をする方がもっと辛い。全くの他人は彼女のバックボーンを知らないわけですから、「悪を殺すのは正義の試みだ」「悪でも殺すのは決して赦されない」など呟く。他人なんだから、決して分かり合えないんだろうけれど、それでも、その一言一言が、一層彼女の心を抉り取る。
この映画を観て一番思うのは、もし、自分が彼女と同じ立場だったら、どうなのか。
きっと、『Yes』でも『No』でもない。復讐によって誰かを傷つけることは、法による正当な行為ではない一方で、この手で傷つけ者を裁いてやるという部分があるから。かつて、大切な友人が暴漢に襲われ、入院するくらいの傷を負ったから。
その暴漢が目の前にいたら、きっと僕も、越えてはならない一線を越えてしまうのでしょう。戻れない道に。幸せを奪った者を許せるほど、僕は人間ができていないし、きっとこれからもそうでしょう。けれど、そんな僕も、誰かの幸せを奪う権利など、ありはしないのです。
喜びも怒りも、哀しみも楽しみも無くなったら、どうなるのか。
きっと誰に対しても、関心を寄せない。愛情を以って接することも、憎しみの念を抱くことも無い。
関心が無いから、誰も誰かを傷付けない。諍いが無くなるから、犯罪も無くなる。そして、戦争も無くなる。でも、誰かが傷ついても、きっと誰も助けない。だって関心が無いから。
誰かに対して愛を向けることが無いから、勿論子孫も残せない。人間から感情が無くなる、それは、ゆくゆくは死滅の道を歩くことと同義なのかもしれない。
SF小説の古典、ジャック・フィニイの『盗まれた街』の4度目の映画化。過去の3作は存じ上げませんが、これまでとはまた違うつくりになっているそうです。且つ、単なるアクション・スリラーに仕上げるだけではなく、現在の人間性を問うような作品になっています。
確かにこの作品を観ていると、今の身の回りに起きていることとどこかリンクしているように思えます。錯覚であってほしけれど、決して錯覚ではありません。それこそが、この作品で描いている『人間性』。誰しもが持つ、他者への感情。この作品では、地球外生命体がウィルスとして人体に進入することで、意図的に『感情の無い、関心の無い人間』に仕立てていっていますが、今の社会は、別にウィルスの効力でも何でも無いのに、感情の持ち方、他者への関心の持ち方が、昔に比べて薄れてきているような気がします。これは、何も他人事ではなく、これまでの僕自身を振り返ってみても、そう思えてしまうことがちらほら……
『感情』と『他者への関心』の基本は、人との接触。しかし、今の時代はわざわざ人と接触しなくても、家から一歩たりとも出ること無くても、モノを買うことが出来るし、色々なサービスも受けることが出来る。繋がれたネットワークの先、コミュニケーションをとっていても、表示されるものはあくまでデータのみ。目の前に人がいるわけではなく、顔も見えず、声も聞けず、ましてや温もりを感じることも無い。
『便利になった』。色んな面で。
でも、それは必ずしも『豊かになった』わけじゃない。
人との接触から、人へ関心を抱き、そこから感情が生まれ、その積み重ねで『人間』が出来上がる。これまで培ってきた人間性が、『便利さ』の前には蔑ろにされていることの警鐘でもあるこの作品ですが、ややスリラーの面が強かったせいか、作品の持つ哲学は少し弱かったように思えます。
勿論、スリラーとしてとてもハラハラした展開で面白かったですけれど。
便利さの全てが間違いではありませんし、一度覚えてしまった便利さを捨てることは容易ではないけれど、その便利さの裏に沈められた、本来人間が持つ『大切なもの』に対して、もう一度考え直すきっかけとなる、そんな映画なのかもしれません。