『硫黄島からの手紙』では、栗林忠道中将を中心とした、硫黄島の戦いが、『俺は、君のためにこそ死ににゆく』では、鳥濱トメさんと彼女が甲斐甲斐しく世話をした特攻隊隊員が、『男たちのYAMATO』では、戦艦大和に搭乗する若き船員達が、今にも死ぬかもしれない状況の中での彼らの生き様と、そんな身であろうとも尽き果てることのない願い・望みが描かれている。本作は、サイパンの戦いで己の使命と向き合いながら戦ってきた、大場栄大尉の物語だ。
昨今の、太平洋戦争を描いた作品で、主だったものと言えば上記の作品になるが、これまで公開された作品を紐解けば、その数は更に多くなり、人々の心の中に、当時の彼らの心意気・恐怖・信念を語り継ぐ作品となれば、枚挙に暇が無いであろう。そして、そんな作品を鑑賞するたびに、僕は思う。
「ああ、僕は、彼らの生き様、覚悟、信念、恐怖、そして祖国に対する思いといったものを、全然知らない」
と。
上辺だけの知識では絶対に知ることが出来ない、当時の人々の生き様や覚悟。後世まで戦争の意味と、それを引き起こすことによって支払われる残酷な対価は、歴史教科書上の知識だけでは決してまかないきれるものではない。
だからこそ、事実を元にした作品に出会えたことは、僕にとってはこの上なく嬉しく思う。けれど、この作品を知るまで、『大場栄大尉』の存在と、彼の功罪、それによる苦悩は、一体どれだけの人が知っているのだろう。
ましてや、本作の元となった原作は、敵国の兵士でも会ったドン・ジョーンズ氏の著書『Oba, The Last Samurai Saipan 1944-1945』(訳書:『タッポーチョ「敵ながら天晴」 大場隊の勇戦512日』)なのである。同じ時代を生きてきたからかもしれない。それでも、アメリカ人の方が、当時の日本兵を知ろうとし、それを記録に残そうとしているのだから、日本人としては何とも情けなく、恥ずかしい思いもしてしまう。
当時の彼らの生き様や覚悟を、知ろうが知るまいがは、今を生きる私たちの選択だから、それはそれでいいと思う。でも、知る場を絞り込まれたり、限定されてしまうのは、個人的には好ましくない。また、今私たちが普通に生きていける社会にいるのは、彼らの望みでもあるからだ。それは、これからも私たちが生きていく上で、かみ締めなくてはならないと思う。
さて、今作は、主人公は大場栄大尉であるけれども、終始彼を中心とした作品にはなっていない。結果として、『大場栄』という人物が、サイパンの戦いで神出鬼没のようにアメリカ軍を翻弄する戦い方をし、アメリカ軍から『FOX』と呼ばれている、ということであるだけ。
『父親達の星条旗』や『硫黄島からの手紙』のように、日本とアメリカ、双方の視点から描かれており、双方の映像としての登場も、必ずしもどちらかに偏っている、というものではない(正確に分数を測ったわけではないが、そのように感じた)。
また、題名に『奇跡』という単語が使用されているけれど、特別神格化された何らかの現象が起こったわけではない。それぞれの登場人物が、それぞれの思いを馳せ、やるべきことをやった結果が目の前にある、という感じといえよう。
そして、この作品にも、惨たらしく人を殺す兵士もいる。しかし、日本軍とアメリカ軍が、完全であれ不完全であれ、『善』と『悪』に分かれた描き方をしていない。第一次世界大戦の、スコットランド軍とフランス軍、ドイツ軍が陣営する場所でのクリスマスの出来事を描いた『戦場のアリア』のように、単に殺し合いをするだけでなく、お互いの何らかの交流もあったに違いない。多くの『死』がサイパンを覆う中で、血と死肉の硝煙の匂いが充満する中で、『生』の象徴である一人の日本の赤ん坊。アメリカ兵は、その赤ん坊を無慈悲に殺すことなく、手厚く保護した。収容所に収容された日本人についても、必要以上に傷付けるようなことはしなかった。
本当の意味で、戦争は、『善』と『悪』には割り切れない。そんなメッセージが、この作品には込められている。
それでも。
戦争を体験した人間にしか、当時の辛さ・苦しさというものは、きっと分からないかもしれない。
本作の主人公・大場栄大尉を演じたのは、竹野内豊さんだ。ただ、それ以上に目を見張ってしまったのは、野営地で怪我人を看護する井上真央さんだ。
看護士は、怪我や病気を治す役割の人。いわば戦争の中でも『生』の役割を持つ人物だと思う。そんな人物でも、自分の名前を呼んでくれる、大切な家族が惨たらしく殺されてしまえば、その目は暗く澱む。「あいつらを殺したい」という台詞にも代表されるように、まるで人殺しの表情になる。数々のドラマで、明るく振りまく役が多かった彼女だけに、ほぼ終始ネガティブの表情には驚くばかりだった。でも、それだけ、戦争が人につける傷は、深く、その後のどんな人生を歩んで行こうとも、簡単には拭いきれない、と思った。
数々の大戦の中には、きっと、日本史には載らない、でも、日本という祖国のために必死で戦い抜いてきた名も無き人達がたくさんいると思う。そういった人達を知る機会は、そんなに多くないかもしれない。でも、たとえそれが『映画』であろうとも、そういった生き様を持った人達と触れ合える機会があれば、是非、触れていきたいと思う。
昨今の、太平洋戦争を描いた作品で、主だったものと言えば上記の作品になるが、これまで公開された作品を紐解けば、その数は更に多くなり、人々の心の中に、当時の彼らの心意気・恐怖・信念を語り継ぐ作品となれば、枚挙に暇が無いであろう。そして、そんな作品を鑑賞するたびに、僕は思う。
「ああ、僕は、彼らの生き様、覚悟、信念、恐怖、そして祖国に対する思いといったものを、全然知らない」
と。
上辺だけの知識では絶対に知ることが出来ない、当時の人々の生き様や覚悟。後世まで戦争の意味と、それを引き起こすことによって支払われる残酷な対価は、歴史教科書上の知識だけでは決してまかないきれるものではない。
だからこそ、事実を元にした作品に出会えたことは、僕にとってはこの上なく嬉しく思う。けれど、この作品を知るまで、『大場栄大尉』の存在と、彼の功罪、それによる苦悩は、一体どれだけの人が知っているのだろう。
ましてや、本作の元となった原作は、敵国の兵士でも会ったドン・ジョーンズ氏の著書『Oba, The Last Samurai Saipan 1944-1945』(訳書:『タッポーチョ「敵ながら天晴」 大場隊の勇戦512日』)なのである。同じ時代を生きてきたからかもしれない。それでも、アメリカ人の方が、当時の日本兵を知ろうとし、それを記録に残そうとしているのだから、日本人としては何とも情けなく、恥ずかしい思いもしてしまう。
当時の彼らの生き様や覚悟を、知ろうが知るまいがは、今を生きる私たちの選択だから、それはそれでいいと思う。でも、知る場を絞り込まれたり、限定されてしまうのは、個人的には好ましくない。また、今私たちが普通に生きていける社会にいるのは、彼らの望みでもあるからだ。それは、これからも私たちが生きていく上で、かみ締めなくてはならないと思う。
さて、今作は、主人公は大場栄大尉であるけれども、終始彼を中心とした作品にはなっていない。結果として、『大場栄』という人物が、サイパンの戦いで神出鬼没のようにアメリカ軍を翻弄する戦い方をし、アメリカ軍から『FOX』と呼ばれている、ということであるだけ。
『父親達の星条旗』や『硫黄島からの手紙』のように、日本とアメリカ、双方の視点から描かれており、双方の映像としての登場も、必ずしもどちらかに偏っている、というものではない(正確に分数を測ったわけではないが、そのように感じた)。
また、題名に『奇跡』という単語が使用されているけれど、特別神格化された何らかの現象が起こったわけではない。それぞれの登場人物が、それぞれの思いを馳せ、やるべきことをやった結果が目の前にある、という感じといえよう。
そして、この作品にも、惨たらしく人を殺す兵士もいる。しかし、日本軍とアメリカ軍が、完全であれ不完全であれ、『善』と『悪』に分かれた描き方をしていない。第一次世界大戦の、スコットランド軍とフランス軍、ドイツ軍が陣営する場所でのクリスマスの出来事を描いた『戦場のアリア』のように、単に殺し合いをするだけでなく、お互いの何らかの交流もあったに違いない。多くの『死』がサイパンを覆う中で、血と死肉の硝煙の匂いが充満する中で、『生』の象徴である一人の日本の赤ん坊。アメリカ兵は、その赤ん坊を無慈悲に殺すことなく、手厚く保護した。収容所に収容された日本人についても、必要以上に傷付けるようなことはしなかった。
本当の意味で、戦争は、『善』と『悪』には割り切れない。そんなメッセージが、この作品には込められている。
それでも。
戦争を体験した人間にしか、当時の辛さ・苦しさというものは、きっと分からないかもしれない。
本作の主人公・大場栄大尉を演じたのは、竹野内豊さんだ。ただ、それ以上に目を見張ってしまったのは、野営地で怪我人を看護する井上真央さんだ。
看護士は、怪我や病気を治す役割の人。いわば戦争の中でも『生』の役割を持つ人物だと思う。そんな人物でも、自分の名前を呼んでくれる、大切な家族が惨たらしく殺されてしまえば、その目は暗く澱む。「あいつらを殺したい」という台詞にも代表されるように、まるで人殺しの表情になる。数々のドラマで、明るく振りまく役が多かった彼女だけに、ほぼ終始ネガティブの表情には驚くばかりだった。でも、それだけ、戦争が人につける傷は、深く、その後のどんな人生を歩んで行こうとも、簡単には拭いきれない、と思った。
数々の大戦の中には、きっと、日本史には載らない、でも、日本という祖国のために必死で戦い抜いてきた名も無き人達がたくさんいると思う。そういった人達を知る機会は、そんなに多くないかもしれない。でも、たとえそれが『映画』であろうとも、そういった生き様を持った人達と触れ合える機会があれば、是非、触れていきたいと思う。
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