だからと言って、蚊取り線香はしばらく手放すことはできませんが。
加えて、携帯ムヒも手放せません。奴等は決まってO型の血を好むのです。
浜離宮恩賜公園の黄花秋桜の区画は、思ったより狭いものの、一面に広がるオレンジの花々は、まるで『風の谷のナウシカ』を彷彿させるくらいの黄金色の絨毯。残暑が続くけれど、朝だからなのか、蒸し暑さはあまりなくカラッとした陽気。正に、虫たちの蜜取りの絶好の気候ではないのでしょうか。
空は青く、雲も殆ど無く、風も爽やか。そんな陽気が手伝ってか、大都会のど真ん中なのに、浜離宮恩賜公園の周辺に聳え立つ高層ビルとのコントラストが、違和感無く鮮やかに映えておりました。
厳しい残暑と東京砂漠に疲れ果てた人に設えた、ほっと一息つけるような休憩処。
大都会のど真ん中のオアシスは、丁度夢と現実の狭間のように思えます。
美しい自然と、歴史と風流の趣がありながら、ふと顔を上げれば、大都市東京の象徴がズラリ。
今の浜離宮恩賜公園は、あまり長く夢に浸らずとも、ちょっとだけ夢見心地にさせてくれる。そんな空間なのかもしれません。
黄花秋桜のすぐ脇の花壇には、赤の濃淡が美しい秋桜が。
秋桜の見頃としてはまだ早く、初秋の季節では、ほんの数輪咲いている程度でした。
夏の暑さに、ちょっと急かされて咲いてしまったのでしょうか。
深い赤に彩られる秋は、これからが本番です。
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この夏も靖国神社は、劈くような蝉の鳴き声が、至る所で鳴り響いていました。まるで、戦地に没した英霊が、蝉に姿を変えて、かつての戦友に会いに来たかのように。
戦争は、言うまでもなく人殺し。
多かれ少なかれ、誰かが誰かを傷つけ、誰かが誰かを殺しました。
たとえ命令を下す、指揮を執る立場にいた者でも、直接武器を手にしていなくても、戦陣に赴いた者は、何らかの形で、人を殺しました。
戦争が罪だと言うのであれば、あの時、あの戦いに馳せ参じた者は、全員が罪人。いかなる民族や人種関係なく、全員が裁かれるべきでした。いや、裁く側ですら戦争の加担者、つまり罪人なのですから、誰も、誰かを裁く権利なんて無かった。
なのに 。
「歴史は常に勝者によって書き換えられる」
過去、人間が何回も何回も犯してきた過ちは、結局ここでも繰り返されてしまいました。真実は白。虚偽は黒。けれども『勝者』の言であれば、たとえ黒でも真実になる。
人間の、人間としての誇りや尊厳は、『敗北』と共に略奪され、踏みにじられる。
時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を
剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。
『パール判決書』より抜粋
広島平和記念公園の炎は、世界から核が廃絶されるまで、決して消えることはありません。同じように、世界からこの言葉が現実のものとなるまで、この言葉は、決して過去の産物にはらなず、今も尚、人々の心に宿ります。
戦争は罪。起こってしまった罪。決して変えることのできない罪。
でも、真実を虚偽の中に封印することも、また罪。
英霊達の御霊が、本当の意味で安らかに眠れる日は、真実と、そして、失われた誇りや尊厳を取り戻した日なのではないか。その時こそ、先人達が残したかった『日本という国』を、次の世代に譲り受けられるのではないか。そう思います。
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花期が7月~8月の蓮は、まだ梅雨の明けきれていない季節には早いですが、それでも、夏の暑さに誘われたのか、上野恩賜公園の不忍池でも、ポツリポツリと咲き始めています。
蓮はその花の美しさは勿論の事、何といっても一番目につくのは、その葉の大きさ。直径1mをゆうに超えていそうな葉が、所狭しと、まるで競い合うかのかのように生えています。
そんな生い茂る葉の中で、密やかに、まるで恥らうかのようにひっそりと咲く蓮の花。ある花はポツポツと降る雨から身を守るように。ある花は決してその姿を悟られないように。中には、まるで「見つけてみろ」と言わんばかりに隠れている蓮の花も。
仏教では、釈尊が蓮華の上で瞑想する絵が描かれていたり、蓮華をかたどった台座に仏像を乗せたりする彫像があったりと、蓮は仏教と非常に密接な関係にあります。密やかで、どこか人を寄せ付けない空気を醸し出しているのも、この花の魅力なのかもしれません。
また、花は咲いていなくても、すらりと伸びた茎に大きく膨らんだ蓮の花の蕾は、ただそれだけでも芸術になれる高貴さに満ち溢れているように感じます。
『高嶺の花』とは、まさに、こういった花を指すんでしょうねぇ。。。
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爛漫とした空気は過ぎ去り、東京の下町は、どこもお祭りのように活気付いています。
毎日蒸すような湿気が蔓延し、茹だるような暑さが続いても、夏を彩る色とりどりの花や祭事を目にすると、自然と、体の内側から活気が湧いてくるものですね。
小学生の頃、理科の授業や自由研究で欠かせない朝顔。
昔のイメージですと、紫をベースに赤や青の品種が多かったような気がするのですが、入谷鬼子母神の朝顔市では、物凄い沢山の品種が、まるで競い合うかのような咲き誇っていました。
スタンダードな、赤紫、青紫の品種から、白、ピンク、オーシャンブルー。スプライト模様やまだら模様まで。一本の蔓から、四色の花が咲くものもや、海外品種のものまでズラリ。
若干小ぶりの花だったものの、雨露にさらされた花に光が反射する様が美しく、正に花の名のごとく、夏の朝の代名詞にピッタリの花を咲かせていました。
一方で、販売されている朝顔は、どれも小鉢程度の大きさ。
まるでこれ以上成長しないヒヨコのように、行灯作りの背丈もいまいち小さめ。僕の記憶によると、サンサンと照りつける太陽の下で育った朝顔は、無尽蔵といっても過言ではないくらい恐ろしい速さで成長します。蔓の長さは、成人男性の背丈を軽ーく超えます。
小ぶりの成長に止めておくのが、行灯作りの為せる業なのでしょうか? それとも、そこまでしか成長しないように、朝顔を品種改良している、とか…?
科学好きの僕には想像に絶えませんが、何となく寂しい気もします。
まぁ、下町の繁華街を埋め尽くすほどの朝顔の蔓を伸ばされても、迷惑極まりないのは分かっていますがね…。
機会があったら、実家の庭とかで、また小学生の時のように朝顔を育ててみようかと。それこそ限界に挑戦するように。
梅雨の合間の昼下がりを艶やかに彩るように、紫、赤紫、青紫、白などの花菖蒲が敷地いっぱいに咲き誇っておりました。
湿地に咲く花菖蒲は、連日の雨でどれも活き活きと咲いていて、花弁についた雨露が瑞々しく、時折雲の合間からのぞく太陽の光を浴びて、静かに輝いていました。
もちろん、湿地の主人公でもある蛙の鳴く声もちらほら。ただでさえ日本の初夏~夏はジメジメと鬱陶しいものなのですが、だからこそこういう楽しみもアリなのではないかと。幸いにも、雨が上がった後だったので、湿り気がありながらも幾分か涼しい、心地よい風が吹いていたので、花菖蒲観賞には最適でした。
桜のような豪華絢爛さはありませんが、花菖蒲独特のたおやかな空気が、敷地全体に流れているような、そんな気にもなります。
話は変わって。
花菖蒲を写真に収めるのは、結構難しかったです。
僕の腕が無いというのも勿論ですが、人間の目線の高さから見下ろすように写真を撮ると、花菖蒲の美しさが欠け、花菖蒲と同じ高さで撮ろうとすると、微妙に繊細さに欠け、という感じで。
意外と葉が多く生い茂っているので、なかなかベストポジションを見つけられませんでした。
人間が見る目の感覚と、写真とのギャップも若干ありましたし。
まぁこれだけ美しい花を、簡単に撮れてしまうというのも、何だか花菖蒲にとっては失礼な話になってしまうかもしれませんね。
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