真の邪悪というのは、そんな欲望すらもそぎ落とした存在なのだろう。だから迷いが無く手元が狂わない。目的を見落とさない。自分が思い描いたとおりに世界が動く。自分が思い描いたとおりのルールが、世界に蔓延る。
そんな邪悪な存在だから、人心を操るのもうまい。スピリチュアルな部分ではなく、詐欺師的な手法で。選択を課された側は、それが誰かの生命を奪いかねないとは知らずに。「他人を押しのけても、踏み台にいても、生き残りたい」という欲望。古来より人間誰しもが持っている、そしてそれによって幾度と無く争いの元となってきた欲望。『二つのうち一つ』という限られた選択を巧みにちらつかせ、人の奥底に眠る醜い悪の部分を引きずり出す
今作が、アメリカで歴代新記録となるほどのオープニング興行収入を得ていた、ということですが、確かにそうだと頷ける作品です。
これまでにも、予想できない、先が読めない作品というのは数多く公開されていますが、この作品以上に、「次に何が起こるか皆目検討がつかない」という作品は無いのでは、と思うくらいの展開。
また、犯行を計画しているのは、確かに今作の黒幕である『ジョーカー』。でも、実際に犯行に及んでいるのは、ほとんど彼本人ではない。彼の手駒であり、そして彼の犯行計画によって嵌められた一般市民。「自分だけは生き残りたい」という欲望を巧みに利用した、極めて狡猾な犯行計画。そこには、『勧善懲悪』という言葉は存在しない、一歩間違えれば、これらの悪と奮闘するバットマンですら悪に染まってしまうかもしれないという危うさを醸し出しています。
考えさせる、というより、エンターテインメント作品でありながら人の心の中の深い闇に入り込み、人心そのものを問う社会派作品的な側面も持つ、最高傑作の作品であると思います。
この作品では、これとは別に感じた側面があります。それは『ヒーローに頼りすぎたツケ』。
どんなに常人の力を誇ったとはいえ、バットマンはこの世に一人。それも、実は宇宙人というわけでもなく、突如超人的な能力を得たわけでもなく、自らの自助努力によって力を得た、『人間』。だから、全ての悪事を解決できるわけでもなく、見通せるわけでもない。それなのに、人は都合のいいところでバットマンに頼り、都合が悪くなるとバットマンを罵る。だから、いざ自分達だけの力で選択しなければならない直面に立ち会った時、社会ではどんなに偉ぶったご大層な人物でも、醜い一面を見せる。まるで、ジョーカーが「待ってました」と言わんばかりの醜い一面を。
それこそが、これまでヒーローに頼りすぎていた人間の脆弱な一部分であり、それが増長すれば、誰しも自分が助かりたいと、醜い争いを始める。
それでも、人間の心の奥底は完全なる悪ではなく、ほんの少しでも良心が存在する。そう思うのがバットマンだけ、というのも、まだまだ哀しい話ではありますが……
全てが恐怖と闇色に渦巻く世界を、フィクションでありながらも限りなくリアルに近づけて描いた『ダークナイト』。完全に予測不可能な世界を、どうぞ最後までご覧になってください。
その国の未来を担うはずの子供たちに、微笑みは、無い。
子供たちの微笑を奪っているのは、欲にまみれた罪深い大人達。性奴隷として踏み躙るその目と身体は、もはや人間ではなく、化け物。化け物がいなくならない限り、子供たちに微笑みは取り戻せないのだろうか
原作の小説があまりにも残酷な描写が多く、そんな作品が映像としてどのように描写されるのか、心配でもあり、且つ恐ろしくもありました。
写真は勿論挿絵も無い文字だけの小説でさえ、文面に広がる光景はあまりにもおぞましく、読むたびに目をそらしてしまいました。それが映像としてスクリーンに広がる。見てはいられなかった。まだ10にも満たない少年、少女。痩せ細り、頬はこけ、抱き上げたらまるで羽根でも抱えているんじゃないかと思えてしまうような軽さ、小ささ。そして、その瞳には、光は全く射していない。顔には笑みが無い、生気が無い。そんな彼らを覆うかのような、欲望と穢れの象徴。性処理道具として、愛玩具として扱われる彼等の表情は、苦痛と、仕込まれ歪んだ愛想笑顔。いつ終わるか分からない、恐怖と諦観。
こんなことを書くと非常識と思われるかもしれませんが、誤解を恐れずに書けば、この作品は原作に比べゆるめです。だからと言って過激に表現していい、というわけではなく、あくまで、分別をわきまえ、原作を既に読んだ『大人』が鑑賞する上では、という意味。グロテスクな描写も、おぞましい描写もあまり多くありません。
そう、むしろこの作品は、どちらかというと『子供』に見て欲しい作品ではないかと思いました。流石に原作そのままでは、いくら何でも気を狂わせてしまいそうですから。それでも、日本という比較的安定して、教育も十分に受けられる環境である子供たちが、同い年で同じ立場であるにも関わらず、方や異国ではこんな仕打ちに合っている、ということを知って欲しい、と願うために作られたと思います。ですので、原作とはかなりアレンジを含めた、小説とは別の『オリジナル作品』として捉えても差し支えない作品であると思います。
しかし、本来であればこの作品を通じて、世界の児童虐待や売春、児童売買など、いかに大人のエゴによって残虐なことが繰り広げられているか、というのを知るきっかけになるべきなのに、僕個人としては、あまりにも中途半端なように感じました。やはりこれは、原作の残虐さを知っているからなのでしょうか?
小説を忠実に、というより、「正に今現実に起こっている出来事」というドキュメンタリー映画の位置づけで描くべき作品であると思います。しかし、原作が小説であること、ターゲットが「同い年の子供たち」であることが、焦点を絞りきれず、あやふやな状態にしてしまったのではないのでしょうか。現に、現実味と感じた箇所がほとんど無く、強いて言えば、宮崎あおいがゴミのように捨てられた少女を救うためにゴミ収集車を必死になって追いかけたところでしょう。それだけに少々残念に思います。
それでも、この残酷な現実は、より多くの人が知るべき事。できることは少なく、一つ芽をつぶしても他の芽が増える一方。僕達に出来ることは一体何なのか、子供たちにとって、考え、行動にうつすきっかけとなればと思う作品です。
『カンフー・パンダ』も、例に漏れずそんな作品。なので、話の流れは非常に分かりやすく、とんとん拍子で先が読めてしまいます。しかしそんなことは製作のドリームワークス・アニメーションは既知のことなんでしょう。だからこの作品は、内容や物語に秘められているメッセージ以上に、その過程に勝負を仕掛けたと思います。カンフーならではの目にも留まらぬ早業を繰り広げているのに、テンポもよく、内容も奇想天外なので面白かったです。
その一つが、主人公ポーがカンフーの達人として目覚め、鍛えられていく過程。
人の中に眠る煩悩を刺激されると、人はとんでもない力を発揮するという、正にそのまんま。そう、彼をカンフーの達人に導いたシーフー老師の作戦は、『食べ物で釣ろう作戦』。まるで曲芸を仕込まれるアシカやイルカの如く、食べ物を得よう(=煩悩を満たそう)とするポーの涙ぐましい努力の数々! しかし簡単に食べ物と与えては修行にならぬと、シーフー老師はあの手この手で妨害工作を繰り返す。負けじと食べ物を狙い続けるポー。そんな生活が続けば、否応無くカンフーに必要な力・素早さ・無駄の無い動きが身につく、というもの。
まぁ、それ以前に彼には幾許かの潜在能力があったようです。でも食べ物関連。いち早くそこに目をつけ、ポーを鍛えようとするシーフー老師の先見の明あってのことでしょうか。
もう一つが、宿敵タイ・ランとの戦闘。
いくらカンフーに目覚め、その達人になったからといって、マスター・ファイブの面々と同じようなシリアスな戦闘では面白くない。ポーならではこそのあり得そうであり得ない、「もはやこれは戦闘なのか?」と疑いをかけてしまうようなアクション・シーンの数々! けれど、タイ・ランが脱獄したときのシーンよりタイ・ランの凄さが微妙にダウンしているように見えてしまうのは否めず…(汗)
そういった意味では、タイ・ラン自身にも尾漏れの煩悩を満たす動きが非常に強かったのでは? と勘ぐってみたり。秘伝の巻物を得、自分を陥れた者達に復讐しよう、何が何でも脱獄しようとする姿は、超人(人じゃないけど…)以上の力を発揮。しかし、復讐を終え、今一歩で巻物を得ることが出来ると分かると(あと相手がグータラのポー)、余裕からか油断してしまったのではないかと。しかしそこをついたのかつかなかったのかはさておき、ポーの凄いところ。巻物を渡すまいと、まるで巻物を食べ物と思い、必死になって死守する。それも正統派のカンフーではなく、あの手この手を使って。
CGアニメーションの技術も日進月歩で進歩し、今や今作のように細かい動きでも高速且つ定年に表現できるようになりました。内容はまぁベッタベタですので、あくまで技術面勝負、というところがまだまだ前面に出ている気もしますけれど。
しかしCGアニメならではの面白さというのも、映画の一つのジャンルとして確立していくのは間違いないでしょう。今後の展開に期待していきたいと思います。
人間になりたい魚の女の子ポニョと、人間の男の子宗介との出会い。ポニョを守ると誓ったものの、魚の子だからか人間と異なる行動や理念に、宗介は少しずつ戸惑いを隠せなくなっていく。一緒にいるのに、何故か心は少しずつ離れていく。
果たして二人は、これからもずっと一緒に生きていけるのか? ポニョは無事、人間になることができるのか
作品の途中までを鑑賞して、その後の物語の流れを↑のように考えてしまいましたが、やはり大人の穿った考え方でした。鑑賞者が小学生高学年とか中学生以上を対象としているのなら、アリかもしれませんが。
この作品は、紛れも無く子供のための作品。子供『だけ』のための、といっても差し支えはないかもしれません。テイストにしても様々な小ネタにしても、『となりのトトロ』を鑑賞した時の高揚感を思い出させました。
その一つが、何と言ってもリアリティ(=大人目線)を排除したところ。物語に出てくる海や海の生き物は、まるで子供の夏休みの絵日記がそのまま飛び出してきたかのよう。昨今のリアリティを求める作品ではあり得ない、でも「子供だったらあり得る」世界。リアルな世界観や作品にドップリ浸かってしまった大人たちにすればただの大波でも、まだまだ世界が小さく乏しい子供たちからすれば、その大波は恐怖でもあり、ドキドキワクワクさせる出来事でもあります。
もう一つは、どんなに小さな子供でも、まだまだ形成されている世界が限られていても、自分の未来は自分で選択する、ということ。大人によって上から目線でただ単に押し付けられるだけじゃなく。宮崎駿監督が、如何に子供の感性とまだ何色にも染められていない未来を大切にしているかを感じさせる瞬間です。
勿論、5歳の宗介とポニョには、その選択によって背負わなければならない責任や覚悟なんて持っていないし、ましてや想像もつかないでしょう。本来『選択』とは、それほど重いもの。けれどその『選択』を陰から応援しているのが、毎日子供たちに元気とパワーを貰っている、福祉施設のおばあちゃん達。以前、「割り切った考えを持つほとんどの大人は、老人の言葉に耳を傾けない。子供も自分の管理化だから、同じく子供の声に耳を傾けない。老人の言葉に耳を傾けるのは子供だけ。同じく子供の声に耳を傾けるのは老人だけ。だから子供は老人に一番近い」といった内容の本を読んだことがあり、それを思い出しました。もしこの作品に登場するのが大人だけだったら、人間と魚は相容れることは無いと教えられ、そのまま引き裂かれていたと思います。子供と近い間柄、ひいては(割り切った大人に比べれば)子供の心が分かるからこそ、宗介とポニョのこれからについて心から応援したのではと思います。
100分程の作品ですが、僕的には30分と感じるくらいに、すぐ終わってしまいました。でも裏返せば、退屈な瞬間は全くと言っていいほどないワクワクする作品です。夏休みは残念ながら遠出ができない子供たちでも、夏休みの思い出として鑑賞できる作品ではないのでしょうか。
日本発のアニメ『マッハGoGoGo』を原作とする作品。アメリカでは題名と同じ『SPEED RACER』として大人気を博したとか。
しかし、何となく主題歌の曲調は耳に覚えがあるものの、どんな内容のアニメだったかは全く憶えていません(というより知りません)。なので、今作を鑑賞した時の感想といえば、初期のスーパーファミコンのソフトで一時期流行っていたゲーム『F-ZERO』の実写化、という感じでしょうか。プラスして様々な仕掛けや対戦相手の車にも攻撃を繰り出しているので、『マリオカート』の要素も少々(勿論、『マリオカート』のようにバナナの皮や甲羅が出てくるわけではありません)。
とりあえず、息もつかせぬほどの猛スピードで車が走り去る爽快感と、普通のレースでは見られない未来的な映像技術がこれでもかというくらいに画面全体に広がっていました。が、物語の部分はほとんどと言っていいほどスッカラカン。
潤沢な資金を持つ大企業が、レーサーの熱意を全く無視してレースの行方を勝手に決めたりするような裏事情や、それでも一致団結して家族総出で至高のマシンを作り上げる、というところにはっきりとした勧善懲悪の構図が見られます。が、「それならもっとシンプルな人間構図でも良くないか? 何のためにこの人は登場したの?」と思うところもしばしば。
また妨害行為として忍者を取り入れたり何故かカンフーの格闘シーンがあったり、物語が進むにつれて「一体この作品は何がしたいの?」と思わんばかり。レースを通じて、スポーツそのものや家族・友情の絆を深める、というスタンスでなく、全く一つのギャグ映画として割り切って鑑賞した方がよさそうです。
ですので、レース映画によくありそうな、一分一秒を争う、全神経を集中させ汗を握りながら食い入りながら、というのは、見所としてはありません。むしろ、誰だ誰に対し、どのような卑劣な仕掛けを施し、それを如何に巧みにかわすか。レースそのものの展開ではなく、もはや華麗な域に達している妨害工作や防御術に目がいってしまいました。まぁ、予てからレースとか物語とではなく、映像技術に対する宣伝文句の方が強く出ていたところがありましたからね。
あまりにも速すぎるレース展開が目の前で繰り出されるため、置いてけぼりにされる観客もいらっしゃるでしょう。最新テクノロジーをふんだんに使った作品にしては、『帯に短し襷に長し』的な何ともいえない作品でした。