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2025/02/03 07:08 |
[Review] レイン・フォール/雨の牙
レイン・フォール/雨の牙『ミッドナイト・イーグル』でも同じような感想を抱きましたが、日本映画は、国を巻き込むようなサスペンス・アクションやフィルム・ノワールというのは苦手なのでしょうか? あまりお金をかけれるような作品ではないのか、日本人が『東京』という見慣れた舞台で繰り広げられるのを見ているからなのか、はたまた『東京』が、フィルム・ノワールを描くのにあまり適さない作品だからなのか。
いずれにしても、楽しみにしていた作品であっただけに、そこまで作品にのめり込めなかったのは残念に思えます。


バリー・アイスラー原作のハードボイルド小説『雨の牙』の映画化作品。
とはいえ、ほとんどがマックス・マニックス監督のオリジナルとして撮影された、とのこと。原作を読んでいる人にも、「どうせ同様の結末なんでしょ」と思わせないための工夫なんだと思うんですが、どうしても原作と見比べてしまうのは人の性。
やはり、東京という世界最大の都市で、昼夜問わず大勢の人が行き交う不夜城都市が舞台というのは、いささか無理があったようです。だって、殺す側・殺される側が誰であれ、監視する側、監視される側が誰であれ、必ず人目につくから。逆に、そんな状況下でどのような攻防が繰り広げられるのか、というのが見物かと思っていましたが、仮にもプロ集団であるはずのCIAがこんなお粗末な展開の連続じゃ、ゲイリー・オールドマンでなくても怒鳴り散らしてしまいますヨ。

加えて、原作は今の東京を具に観察し、東京の良さや悪さ、照らす光や潜む闇、酸いも甘いもほろ苦いも点在する『東京』を、時には冷淡に、時には芸術的に表現されていたのに。今作は、「『東京』を舞台にした」という感じがいまいち伝わってこない。
また、今作のあおりとして用いられたのが、『逃げる二人に、東京が牙をむく』でしたが、どちらかというと牙を向けられているのは、逃げる二人(ジョン・レインと川村みどり)じゃなくて、追う方に見受けられるのですが……。
フィルム・ノワールにしては官能的なシーンも全くなし。R指定が無いことでうすうす感づいてはいたんですが。

とまぁ、色々と感じたことを並べてみて、「本当にこんな作品を作りたかったのか?」と思ってしまうのです。いや、皆さんやはりプロですし、もっといい作品を、面白い作品を、という意気込みがあったのでしょう。あくまで想像ですけれど。


これまでも、『東京』を舞台にした作品はいくつかありましたが、撮影するのに時間がかかったり、特別な許可が必要だったり、すぐそこに魅力的な材料があるにもかかわらず、うまく入手できないことにヤキモキしている映画制作者サイドが多いと聞きます。
もう少し、東京とは映画作成に寛容になるべきではないかと。国内だけでなく、海外も含めて。折角、東京の魅力を作品に込めて発信しようとする人たちがいるのですから。何だか勿体無い気がします。

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2009/04/26 12:12 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] グラン・トリノ
グラン・トリノ人の身体には、傷や皺だけでなく、時と共にその時代が刻まれる。それは身体の記憶。たとえ心が忘れても、身体が憶えている時がある。時にそれは自らの救いの手となり、時にそれは悪夢のような残酷さを帯びる。
彼の身体に刻まれた時代の記憶は、永く閉ざされてしまった彼の頑なな心情を物語っていた。
戦争に借り出され、火薬と硝煙にまみれた戦場の中で、今でも鮮明に蘇る、人を殺した瞬間。彼の身体に刻まれたのは、今の子供達が夢中になるようなテレビゲームや、ストレス発散のサバイバルゲームのような『ごっこ』ではない。殺されたらそこで生命が終わり、殺したらその時点で自分の身体は永久に消えない血と罪で埋め尽くされる。それ以降の時代を身体に刻み込むことなど、彼にとってはまるで無意味と思えてしまうくらいに。

  「時代は絶え間なく変わっていく。その時代に合わせて、自分も変えていくべきだ

その考え方は間違ってはいない。だがお前らに何が分かる? 人を殺したことも無い、殺されるような切迫した状況に置かれたことも無い、無数の血と死体で埋め尽くされた大地の上でのうのうと生きているだけの、知ったふうに未来と理想を語るお前らに、一体俺の何が分かる?

彼の肉親でさえ、今では彼から最も遠い人間となってしまっている。

そんな時、彼は一人の少年に出会う。無口で、不器用で、変わりたい、脱皮したいという渇望をその目に僅かながらに宿らせながらも、その一歩を踏み出せないでいる少年。でもその少年は、「今を懸命に生きたい」という気骨がある。不器用ながらもその一歩一歩を確実に踏み出している少年。今の若者のように、生き急ぐかのように足早に歩くことでも、足を踏み外すことをまるで「かっこいい」と勘違いしているわけでもない。でもその臆病さは、間違えればその道に足を向けてしまいうかもしれない。
人と関わることを忌み嫌った、いや恐れた男は、恐らくこう思ったのかもしれない。彼のような人間は、今の時代にはそぐわないかもしれない。時代遅れと貶されてしまうかもしれない。でも、彼のような気骨は、今の時代に必要なのかもしれない。不器用だし、臆病だし、無垢で頼りないけれど、「アウトローで生きることはかっこいい」と思っている連中よりはいい。
だからこそ、彼は死なせたくないし、その手を血に染めさせたくない。彼の手は、彼の身体は、その後の時代を克明に刻むのに必要だから。もう俺の身体は、これからの時代を刻むには老い過ぎている。


主演のクリント・イーストウッド氏の口が、への字になり、銃を片手に身体から覇気を撒き散らそうとしている時、BGMには何やら勇ましい音楽が。その勇ましさをジョークっぽく表現しているのは如何にもクリント・イーストウッドっぽいと思ってしまう一方で、それを自分自身に当てているのは何かのネタか? と思ってしまいました。でも結局のところ、それはこの作品を彩る要素の一つに過ぎなかったのですが。
彼の作品を鑑賞するといつも思う。いたってシンプル。ドキドキワクワク感もほとんど無い。今を象徴するかのようなVFXも。彼とて、別に大ヒットすることを狙って作ったわけではないかもしれない。『クリント・イーストウッド』というネームバリューを駆使しているわけではないかもしれない。
それでも、何故彼の作品にこれまで心を強く打たれるのでしょう。多分、彼ほど人間の本質を深く抉り出した作品はないかと思います。大抵の人間は、抉り出された人間の爛れた本質を照らし出されると逃げ出してしまう。なのに、それでも人が見入ってしまうのは、彼の「爛れた人間の本質」の照らし方なのではないかと思うのです。冷酷に淡々としているだけでなく、それは人間誰しもが持っている、貴方だけではない、だから爛れた本質を持つのは恥ずかしいことじゃないと、暖かく光を当てるかのように。但し、それと真剣に向き合わなければ、人は変われない。主人公は、そのままずっと人との交わりを拒み続けながら孤独のままに死ぬし、少年は臆病でいつまでも一歩を踏み出せず惨めな大人になる。それを嘲笑うアウトローたちも、アウトローから抜け出せずに一生を終える。

こんなこと、彼の人生のまだ数分の一しか生きていない僕が言うのはおこがましいくらいです。だって、僕は彼と対峙できるような人生を送っているわけではないし(やはり現代の生ぬるい環境で生きる人間の一人に過ぎません)、やはり同じように爛れた部分があるけれど、それを隠さずに受け止めて、面と向き合って生きているとは言えないから。


そんな迷える人たちを、冷たくも暖かく見つめているグラン・トリノ。物言わぬ『彼』だけど、そんな『彼』もまた、彼らと同じように、過ぎ行く時代を刻み続けた、ボロボロだけど直向に生きる姿を象徴しているのかもしれません。

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2009/04/25 23:40 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-
レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-赤壁の戦いも、いよいよ架橋へ。様々な将校、様々な参謀、様々な豪傑、それを支える様々な人物が、それぞれの思惑、それぞれの覚悟を背負い、赤壁の地に集う。

圧倒的な軍勢を率いる曹操軍と、英知と策略に長けた周瑜と諸葛亮。赤壁の戦いを制することは、武力や人数だけでは成しえない。誰が誰を欺き、利用し、そして『赤壁』という地の特長を熟知しそれを活かすか。三国志の中で最も過酷と言われた戦いの火蓋が、切って落とされる!


その『過酷』な戦いという伝説の通り、赤壁の戦いは、もはや凄惨の一言。武侠映画にあるような、しなやかに身体と武器を駆使した、鋭くも美しいアクションがやはり少ないのは前作同様。しかし今作の最も恐ろしいところは、スクリーンに広がる全てを炎で焼き尽くすかのような火力。「今夜の火力はちょっと凄いぞ」なんてウィスキー片手にベタな口説き文句のようなものじゃない、一面が焦土と化すぐらいの炎。そして、夥しい数の骸。赤壁の地は、文字通り血と炎で紅蓮に染め上げられた、もはや誰の手もつけられない悪夢のような場所となってしまったのです。
そんな凄惨の極みとも言うべき周瑜の一言。

  「勝者はいない

たとえ目的を果たせたとしても、あまりにも多すぎる犠牲者の骸を目の前にすれば、そう口にせざるを得ないでしょう。
しかし、覚悟を持つ者は何も戦っているものだけにあらず。女達も、ただ待つだけではなく男達と同じように生命を賭けようとします。それが、もしかしたら自軍の不利になるかもしれない展開になるかもしれないと知ろうとも。

また、中国歴史を題材にしたスペクタクル作品でありながら、笑いを誘うようなネタもちらほら。それは、Part Iにもいくつかありましたが、Part IIでも勿論健在。むしろPart IIの方が面白いかもしれません。


今作も『三国志演義』を題材に作成された作品ですが、パンフレットを見ると、ところどころジョン・ウー監督独自の解釈を盛り込んだそうです。
例えば、赤壁の戦いの出陣前に冬至の団子を食べる、というシーンは、『三国志演義』にもその奇術は無いそうです。つまり、ジョン・ウー監督の完全オリジナル。でもそこには、たとえ誰かがそこにいなくても、離れ離れになっても、皆が『家族』として繋がっているということを、たとえ台詞が無くても暗に示している、ということ。そんな、友人や家族の深く立ち切れ難い絆の数々が、この作品に散りばめられています。

さすが、二部作として作成された作品だけに、後編となる今作は色々な意味で凄まじい。でも、だからこそ必見だと思います。

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2009/04/12 15:59 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] ワルキューレ
ワルキューレワルキューレ作戦

アドルフ・ヒトラーの政権奪取後に企てられた、ヒトラー暗殺計画の一つ。
「大戦勃発後、ドイツ軍は占領地から数百万人の捕虜や奴隷的労働者をドイツ国内へ連れて来たが、彼らが叛乱を起こした際の対策を取る必要が有る」とカナリス国防軍情報部長がヒトラーに進言。ヒトラーはそれに同意し、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将に対策案を作るよう命令。フロム司令官は部下の国内予備軍司令部参謀長フリードリヒ・オルブリヒト少将(当時)にそれを一任し、オルブリヒトは1942年10月13日、反乱鎮圧計画とその隠語名『ワルキューレ』を立案した。

国内で叛乱が起こった際、国防軍・武装親衛隊を含め、全ての武装集団を予備軍の指揮下に置き、戒厳令を布告して政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する、という計画であった。 発動権限は予備軍参謀長にあり、その参謀長オルブリヒト少将ら陰謀派は、ヒトラー暗殺後に『ワルキューレ』を発動し、それをクーデターに利用して国内を一気に掌握する計画を立てた。



ヒトラーに対する暗殺計画は、単独犯・組織犯、小規模・大規模に至るまで、なんと43回も企てられていたとか。大戦勃発後はヒトラーが民衆の前に姿を表す回数が減り、さらに戦局が悪化し総統大本営に引き篭もる事が多くなると、民衆による暗殺はほぼ不可能(秘密警察ゲシュタポが国民を監視し、反政府運動を容赦無く暴力的に弾圧したため)となり、実行可能なのは現役の軍人、しかもヒトラーに直接近づける少数の者に限られていったそうです。
それでも、全てことごとく失敗した、ということは、失礼な言い方かもしれませんが、ヒトラーには元々死すべき時と場所が用意されていた、と、何か神々の意思のようなものを感じざるを得ません。

しかし、何と言っても政権の全てをヒトラーが掌握している時代。敗色が色濃くなってきたドイツの国内において、どのように転がるか分からない情勢。軍隊の中は、さながら魑魅魍魎。民草のことは考えない、いや、考える余裕すらない。これからの自分の一挙一投足が、自分をより躍進させるかもしれないし、自分の生命を脅かす結果になるかもしれない。
そんな魑魅魍魎の中でも、自分の成すべきことをぶれずに遂行できる意思を持つシュタウフェンベルク大佐の生き様は、不景気に見舞われ、我先にその牙から脱しようとする現代社会にも通じるものがあると思います。かなり頑固すぎるところ、融通の利かないところもありますが、自分のすべきことは頑として成し遂げる強い意志の持ち主は、今後の苦行の突破力として惹きつけられるものがあります。


そういえばこの作品、サイエントロジーの信者であるトム・クルーズ氏が、敬虔なカトリック信者であるシュタウフェンベルク大佐の役を演じることには強い反発があったんですよね。一時はドイツ国防省が事件の舞台であるシュタウフェンベルク街等の国防軍関連施設での撮影を許可されなかったようですが、結局のところは、国防省が「制作者側が『ナチス支配から解放され、完全なる民主主義国家となった統一ドイツの姿』を作品内に盛り込むことに同意した」と発表し、撮影を許可したそうです。
たかが宗教、されど宗教。その考え方如何で、撮影の許可不許可まで左右する。宗教に対する人の考え方の方向性は、当分まだ歪な形で続きそうですね……(←超他人事)

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2009/03/21 21:32 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie
[Review] DRAGONBALL EVOLUTION
DRAGONBALL EVOLUTIONあの『ドラゴンボール』が、ハリウッドで実写として映画化される。そんな話は、かなり前から耳にしておりまして、その瞬間から、「過度の期待は禁物の作品だな」と思っていました。公開に至るまでの間、いくつかのカットがCMとかニュースの芸能情報とかで取り上げられ、その思いはさらに強く募ったものです。鑑賞する機会があっても、決して原作と同じ目線で観てはいけない、これは、オリジナルの作品なんだと自分に言い聞かせ、そしていざ鑑賞。

全くのオリジナルの作品としてでも、どうにもならない作品と感じてしまいました。

本当に、原作にインスパイアされて作ったのかなぁ、と首を傾げてしまうところがてんこ盛りなのです。というより、パロディに近いところも感じてしまいます。
だって、主人公の悟空ですが、どちらかというと『GS美神 極楽大作戦』の横島忠夫だろ! と思ってしまうのです。『普通の高校生』、『いじられキャラ』、『だんだんと強くなる』。こんなに共通のキーワードが揃っていて、違うとは言わせないくらい。
また、今作の悟空が『気』を習得するのにも、原作のような純粋に強くなりたいという気持ちもあることにはあるのですが、どちらかというと煩悩に近いのです。ますます横島忠夫とそっくりになってきましたね~。

先ほど、「本当に原作にインスパイアされたのか」というふうに申し上げましたが、だからといって変に原作の部分を取り入れなくてもいいようなところもちらほら。その最たる例が、日本語読み。例えば、先ほどの『気』についても、普通に"energy"とか"power"とか"aura"でいいと思うのに、ご丁寧にキャストの皆さん"ki"と発音していらっしゃって、ものすごくマヌケに聞こえてしまうのです。

そして最後の、ピッコロ大魔王との対戦。
短すぎでしょう。折角のクライマックスなのに
えっ、もうこれで終わり!? という尻切れトンボ感は否めない終わり方です。その他にも、様々な戦闘シーンがありましたが、中国の武侠映画の観すぎでしょうか、どうにも遅く感じてしまい、肉弾戦のスピードや歯切れのよさがあまり感じられなかったのです。
エンドロールが終わり、映画館が明るくなってさあ帰ろうかとした時の、観客の皆様のビミョーな渋い顔は忘れられません。期待を寄せてはいないにせよ、全くの別作品としてもちょっとこれは…… という感じです。

それとも、この作品自体が続編モノですから、最初の一作目は、簡単なジャブ的な位置づけなのでしょうか? だとしても、オリジナルのドラゴンボールならではの作品として、丁寧に作ってほしかったなと思う次第です。
いずれにしても、過度の期待は禁物。一種のB~C級アクションムービーとして、気楽にお楽しみください。

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2009/03/14 23:18 | Comments(0) | TrackBack() | Review - Movie

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