とりあえず本作の主人公は、ドロンジョ様とボヤッキーに決定致しました。
というか、明らかに本来の主人公であるヤッターマン1号・2号の登場シーン及び活動範囲が少ないと思うのですが。何かずーっと、高田玩具店の地下に引きこもってメカの作製や微調整に追われているって感じ。
しかも本作は、かつてのアニメではちょっと有り得ないんじゃないか、というくらいに下ネタが炸裂しており(『全国の女子高生の皆さん』を筆頭に)、三角関係・四角関係といった昼メロ要素もあり(昔のアニメでもあったことにはありましたけど、いざ実写となると、その関係が妙にシュール……)。
かつてヤッターマンの視聴対象者(多分今は30代)にも鑑賞できるような構成を狙ったのかもしれませんが、穿った見方をすれば、少々やりすぎなのではないかと。色々な年代に楽しんでもらえるように、色々なネタを仕込んでみたものの、混合に終わってしまい、うまく化合できていないのがこの作品の敗因であるように思えます。
面白いを通り越して「ナニこの微妙すぎる作品は」というのが僕の本音。歯切れが良くないのです。コメディならではのテンポの良さがあまり感じられませんでした。
とはいえ、昔懐かしの数々の名台詞には感動を覚えたのもありますけれど。
「お仕置きだべ~」とか。
「今週の、ビックリドッキリメカ~」とか。
「ポチッとな」とか。
「ブタもおだてりゃ木に登る」とか。
まぁ、こういったギャグ要素満載の正義と悪の戦いは、得てして悪の方の全力投球→力みすぎて失敗に結構視線が行ってしまいそう。でも、やはりこの作品の主人公は、ヤッターマン1号と2号なので、次回からはもちょっと彼らにも焦点を当てた作品にしてもらえればな、と思います。
というわけで、最後までご覧ください。次回作の予告が流れますので。というか、本当に次回作をやるのかどうかはまだワカリマセン。。。
というか、明らかに本来の主人公であるヤッターマン1号・2号の登場シーン及び活動範囲が少ないと思うのですが。何かずーっと、高田玩具店の地下に引きこもってメカの作製や微調整に追われているって感じ。
しかも本作は、かつてのアニメではちょっと有り得ないんじゃないか、というくらいに下ネタが炸裂しており(『全国の女子高生の皆さん』を筆頭に)、三角関係・四角関係といった昼メロ要素もあり(昔のアニメでもあったことにはありましたけど、いざ実写となると、その関係が妙にシュール……)。
かつてヤッターマンの視聴対象者(多分今は30代)にも鑑賞できるような構成を狙ったのかもしれませんが、穿った見方をすれば、少々やりすぎなのではないかと。色々な年代に楽しんでもらえるように、色々なネタを仕込んでみたものの、混合に終わってしまい、うまく化合できていないのがこの作品の敗因であるように思えます。
面白いを通り越して「ナニこの微妙すぎる作品は」というのが僕の本音。歯切れが良くないのです。コメディならではのテンポの良さがあまり感じられませんでした。
とはいえ、昔懐かしの数々の名台詞には感動を覚えたのもありますけれど。
「お仕置きだべ~」とか。
「今週の、ビックリドッキリメカ~」とか。
「ポチッとな」とか。
「ブタもおだてりゃ木に登る」とか。
まぁ、こういったギャグ要素満載の正義と悪の戦いは、得てして悪の方の全力投球→力みすぎて失敗に結構視線が行ってしまいそう。でも、やはりこの作品の主人公は、ヤッターマン1号と2号なので、次回からはもちょっと彼らにも焦点を当てた作品にしてもらえればな、と思います。
というわけで、最後までご覧ください。次回作の予告が流れますので。というか、本当に次回作をやるのかどうかはまだワカリマセン。。。
PR
この作品、最初から後半のしかもクライマックスに至るまで、どういう内容なのかほとんど分からない作品でした。
何となく訳ありの主人公、基本的にはウィル・スミス氏が演じる主人公と、ロザリオ・ドーソン氏が演じるヒロインとの関係が中心なのですが、それ以外にも何人かの登場人物がいて、主人公の関わりを持って。でもその関わりが、一体何のことやら、という感じです。だって、方や「貴方の助けになりたい」というものもあれば、方や登場人物をひどく罵倒するものもあったり。深く関わった人もあれば、ただ見守るだけの人もいたり。
彼らの共通点を敢えていえば、何らかの障害を持っている、ということ。でも、全員が肉体的な障害を持っているわけではなく、経済的な、もしくは人間関係的な障害を持っていたり。逆に、全員が共通の障害を持っていたら、話の内容や展開は容易に想像できたかもしれません。でも、敢えて共通点を見出せないようにすることで、その後の話の内容や展開が分からないようにしているかもしれません。
ただ、単純明快なストーリー展開を好む方にしてみれば、少々、いや、かなりヤキモキする作品なのではないのでしょうか。
そして、「貴方の助けになりたい」という主人公の想い。それは単なる慈善事業ではなく、主人公の人生を賭けた行動。過去に犯した過ちの大きさが故に、文字通り自分の全てを犠牲にして、障害を抱えている7人の助けになります。
確かに、助けを求めている人の障害を取り除くには、あまりにも大きな対価が必要になる。たった一人でもその対価を支払うには大きいのに、それを7人分も支払うなんて。それだけ、主人公が犯した罪は、一生かけても拭いきれないくらい残酷なものだったのでしょう。
しかし、個人的には、主人公が背負った十字架の大きさは、あまりにも大きすぎるのではないかと思います。ひどい言い方になってしまうと、主人公が独善的に勝手に背負った、とも思えてしまうくらい。なぜなら、この作品を観る限りでは、主人公が犯した罪は、故意ではなく過失だから。自分が望んで犯した罪ではないから。それに、たとえ自分の人生を賭けてその罪を償おうとしても、残されたはたまらなく辛い。その人が、大切であればあるほど。
今の世の中、主人公のように自らの身の全てを擲って行動を起こす人はそういないと思います。それはそれで素晴らしいことだと思います。でも、その真摯な行動が、かえって周囲を悲しませることだってある。
この作品を鑑賞して改めて思ったことは、自分の人生も、自分の肉体も、決して自分一人だけのものではない、ということ。決して他の人の顔色を伺いながら、というわけではないし、最終的に自分の人生をコントロールするのは自分である。でも、その影響力は自分一人だけではない。必ずどこかで、誰かと繋がっている。そういうことを深く思うことが出来る作品だと思いました。
何となく訳ありの主人公、基本的にはウィル・スミス氏が演じる主人公と、ロザリオ・ドーソン氏が演じるヒロインとの関係が中心なのですが、それ以外にも何人かの登場人物がいて、主人公の関わりを持って。でもその関わりが、一体何のことやら、という感じです。だって、方や「貴方の助けになりたい」というものもあれば、方や登場人物をひどく罵倒するものもあったり。深く関わった人もあれば、ただ見守るだけの人もいたり。
彼らの共通点を敢えていえば、何らかの障害を持っている、ということ。でも、全員が肉体的な障害を持っているわけではなく、経済的な、もしくは人間関係的な障害を持っていたり。逆に、全員が共通の障害を持っていたら、話の内容や展開は容易に想像できたかもしれません。でも、敢えて共通点を見出せないようにすることで、その後の話の内容や展開が分からないようにしているかもしれません。
ただ、単純明快なストーリー展開を好む方にしてみれば、少々、いや、かなりヤキモキする作品なのではないのでしょうか。
そして、「貴方の助けになりたい」という主人公の想い。それは単なる慈善事業ではなく、主人公の人生を賭けた行動。過去に犯した過ちの大きさが故に、文字通り自分の全てを犠牲にして、障害を抱えている7人の助けになります。
確かに、助けを求めている人の障害を取り除くには、あまりにも大きな対価が必要になる。たった一人でもその対価を支払うには大きいのに、それを7人分も支払うなんて。それだけ、主人公が犯した罪は、一生かけても拭いきれないくらい残酷なものだったのでしょう。
しかし、個人的には、主人公が背負った十字架の大きさは、あまりにも大きすぎるのではないかと思います。ひどい言い方になってしまうと、主人公が独善的に勝手に背負った、とも思えてしまうくらい。なぜなら、この作品を観る限りでは、主人公が犯した罪は、故意ではなく過失だから。自分が望んで犯した罪ではないから。それに、たとえ自分の人生を賭けてその罪を償おうとしても、残されたはたまらなく辛い。その人が、大切であればあるほど。
今の世の中、主人公のように自らの身の全てを擲って行動を起こす人はそういないと思います。それはそれで素晴らしいことだと思います。でも、その真摯な行動が、かえって周囲を悲しませることだってある。
この作品を鑑賞して改めて思ったことは、自分の人生も、自分の肉体も、決して自分一人だけのものではない、ということ。決して他の人の顔色を伺いながら、というわけではないし、最終的に自分の人生をコントロールするのは自分である。でも、その影響力は自分一人だけではない。必ずどこかで、誰かと繋がっている。そういうことを深く思うことが出来る作品だと思いました。
changeling
-【名】
1.取り替え子 《さらった子の代わりに妖精たちが残すとされた醜い子》
【CHANGE+-LING】
ある日突然、愛する我が子がいなくなった。それまでたった二人、手を取り合って生きてきたのに。いなくなって5ヶ月が経ち、仕事をしようにもうまく身を置けない。彼女にとって息子は、彼女の心を支える唯一無二の存在だったから。
いなくなった期間、毎日のように探し求め、毎日のように祈ったに違いない。ほんの少しでも希望があるのなら、それに頼りたい。でも、彼女に襲い掛かる悲劇は、『息子がいなくなる』だけでは終わらなかった。
息子が見つかったと警察から連絡が入った時は、何物にも増して嬉しかったに違いない。息子を乗せた汽車が駅に到着する。待ちわびた瞬間。でも、降りてきたのは見知らぬ子供。その子供は、自分の息子と同じ名前を名乗り、自分を母と慕う。そしてその子供を保護した警察は、強制的に刷り込ませるようにその子供を「息子だ」といい続ける。
誰よりも息子を知っている母親の意見は全く聞き入れられない。「母親であるがゆえに冷静な判断ができない」と封じ込められる。そうかもしれない。でも、長い間(といっても数ヶ月)離れたとはいえ、自分の子供を見分けられない親がどこにいる? その後も、息子と明らかに違う証拠が数々と出てきているのに、警察は取り合うどころか、精神異常者に仕立て上げる。更なる悲劇の幕開け。そんな中でも平然と行われている、情報操作と真相の隠蔽。腐食した警察の実情。暴き立てれば謀反者として社会的に抹殺される社会。
しかし、やがて真相解明の動きが活発し、同時に警察の数々の隠蔽工作も白日の下にさらされる。警察の捜査はあまりにもお粗末だったこと、ちゃんと操作していれば、救える生命もあったということ。彼女も、そんな警察に対する被害者として訴えを起こし、結果として勝訴することになる。勝訴したことでほんの少し笑みを浮かべるものの、別に彼女にとっては、訴訟で警察に勝つことが望みではない。彼女の望みはだた一つ。息子と、これまでと同じように共に暮らし、生きていくこと。
しかし、彼女の願いは終ぞ叶うことなく、その生涯を閉じることとなる。
1920年代後半に発生した連続少年誘拐殺人事件『ゴードン・ノースコット事件』の被害者の一人である、クリスティン・コリンズの視点から描いた作品。この作品に登場する人物は、全て実名であり、この作品を通じて、初めてこんなおぞましく辛辣な事件が過去に起こっていたことを知った。
そして、かつてのロサンゼルス市警が、あまりにもお粗末でいい加減で、市民を踏みにじるようなことしか行っていないことも。作品の中での彼らに対する感情は、もはや怒りを通り越して呆れ果てていた。
しかし、そんな中でも彼女は諦めなかった。ただ、息子に会いたい、取り戻したいという一心で。たとえ、どんな残酷な結果が待ち受けていようとも、ほんの少しの希望があれば、それだけでも息子を探す希望と活力になる。帽子を目深にかぶるのはシャイな女性の象徴とあるけれど、そんな感じは微塵も見せない。
ただ、映画作品としては、本来ならば『子供を捜す親の直向な愛』を前面に捉えたかったと思うのだろうけれど、いつの間にか作品の主点が『警察の杜撰な捜査と汚職の暴露』にシフトしてしまった感じは否めない。本当は、この2つが作品の要なんだろうと思うけれど。
決してハッピーエンドではないけれど、悲しい結末ではない。ほんの一握りでも希望を持つことが出来れば、人はまた、前に進んで歩くことが出来る。やがてその歩みは他の人を動かし、大きな流れとなる。人の想いの何よりの強さを描いた作品だと思った。
-【名】
1.取り替え子 《さらった子の代わりに妖精たちが残すとされた醜い子》
【CHANGE+-LING】
ある日突然、愛する我が子がいなくなった。それまでたった二人、手を取り合って生きてきたのに。いなくなって5ヶ月が経ち、仕事をしようにもうまく身を置けない。彼女にとって息子は、彼女の心を支える唯一無二の存在だったから。
いなくなった期間、毎日のように探し求め、毎日のように祈ったに違いない。ほんの少しでも希望があるのなら、それに頼りたい。でも、彼女に襲い掛かる悲劇は、『息子がいなくなる』だけでは終わらなかった。
息子が見つかったと警察から連絡が入った時は、何物にも増して嬉しかったに違いない。息子を乗せた汽車が駅に到着する。待ちわびた瞬間。でも、降りてきたのは見知らぬ子供。その子供は、自分の息子と同じ名前を名乗り、自分を母と慕う。そしてその子供を保護した警察は、強制的に刷り込ませるようにその子供を「息子だ」といい続ける。
誰よりも息子を知っている母親の意見は全く聞き入れられない。「母親であるがゆえに冷静な判断ができない」と封じ込められる。そうかもしれない。でも、長い間(といっても数ヶ月)離れたとはいえ、自分の子供を見分けられない親がどこにいる? その後も、息子と明らかに違う証拠が数々と出てきているのに、警察は取り合うどころか、精神異常者に仕立て上げる。更なる悲劇の幕開け。そんな中でも平然と行われている、情報操作と真相の隠蔽。腐食した警察の実情。暴き立てれば謀反者として社会的に抹殺される社会。
しかし、やがて真相解明の動きが活発し、同時に警察の数々の隠蔽工作も白日の下にさらされる。警察の捜査はあまりにもお粗末だったこと、ちゃんと操作していれば、救える生命もあったということ。彼女も、そんな警察に対する被害者として訴えを起こし、結果として勝訴することになる。勝訴したことでほんの少し笑みを浮かべるものの、別に彼女にとっては、訴訟で警察に勝つことが望みではない。彼女の望みはだた一つ。息子と、これまでと同じように共に暮らし、生きていくこと。
しかし、彼女の願いは終ぞ叶うことなく、その生涯を閉じることとなる。
1920年代後半に発生した連続少年誘拐殺人事件『ゴードン・ノースコット事件』の被害者の一人である、クリスティン・コリンズの視点から描いた作品。この作品に登場する人物は、全て実名であり、この作品を通じて、初めてこんなおぞましく辛辣な事件が過去に起こっていたことを知った。
そして、かつてのロサンゼルス市警が、あまりにもお粗末でいい加減で、市民を踏みにじるようなことしか行っていないことも。作品の中での彼らに対する感情は、もはや怒りを通り越して呆れ果てていた。
しかし、そんな中でも彼女は諦めなかった。ただ、息子に会いたい、取り戻したいという一心で。たとえ、どんな残酷な結果が待ち受けていようとも、ほんの少しの希望があれば、それだけでも息子を探す希望と活力になる。帽子を目深にかぶるのはシャイな女性の象徴とあるけれど、そんな感じは微塵も見せない。
ただ、映画作品としては、本来ならば『子供を捜す親の直向な愛』を前面に捉えたかったと思うのだろうけれど、いつの間にか作品の主点が『警察の杜撰な捜査と汚職の暴露』にシフトしてしまった感じは否めない。本当は、この2つが作品の要なんだろうと思うけれど。
決してハッピーエンドではないけれど、悲しい結末ではない。ほんの一握りでも希望を持つことが出来れば、人はまた、前に進んで歩くことが出来る。やがてその歩みは他の人を動かし、大きな流れとなる。人の想いの何よりの強さを描いた作品だと思った。
もし、生まれた時が老人のようで、歳を取るごとに若返っていく。もしそれが自分自身だったら、一体どうしていたか。
皆が年をとり、皺が増え、身体も自由に動かなくなる傍らで、自分は少しずつ身体が動かせるようになり、皺も無くなり、視力も聴力も改善され、肉体も生き生きとしていく。最初のうちは大変かもしれないが、結局同じことなのかもしれない。最初は動けないし人の世話を借りてばっかり。そのうち経済的にも精神的にも自立し、最後にはやっぱり人の世話になる。
しかし、「若返っても歳を取っても、行き着く先が同じ」という考えは、物語の最後の方であっさりと無くなっていました。それは、「誰かと同じように年を重ねるということが絶対に出来ない」ということ。急に恐ろしくなりました。「他人とは違う人生を送りたい」と思う傍らで、「誰かと同じように歳を取りたい」と思っていることもまた事実。というより、「歳を重ねることの苦労を共に分かち合いたい」という感情でしょうか。
自分は特別だと思っていても、結局はそれも束の間の出来事。同じように歳を重ねることが出来ないと分かった瞬間、あがらうことのできない孤独感が身体中を駆け巡る。そして、歳を取ることに逆らえないことと同じように、若返ることもまた、逆らうことの出来ない運命。
歳を取ることが神が与えた呪いなのなら、若返ることもまた、神が与えた呪いなのかもしれません。
そんな、数奇な運命を辿った一人の男の物語。小説やマンガとかではあり得そうな設定。でもそれが、実写として目の前に映し出される。勿論、CGや特殊メイク等の技術を駆使しているとはいえ、そのあまりにもリアルな表現には、正直息を飲んでしまいました。
多分、「生まれた時は80歳代で、歳を取るごとに若返る」という人物だけの物語なのなら、あまり実感が伴わない作品かもしれません。ですが、主人公であるベンジャミン・バトンをさらに際立たせているのは、いや、ベンジャミン・バトンが際立たせている、と言い換えてもいいかもしれません、そんな主人公と対を成すもう一人の人物、それが、僕達と同じように歳を取っていくデイジーの存在。
デイジーがまだ無垢な少女であった時、ベンジャミンは歩くのもままならない老人だった。それが、デイジーが少女から女性へと美しさを増すにつれ、ベンジャミンの毛髪は増え、筋肉も増し、杖も無く歩けるようになる。人生の中間地点。二人はようやく歳相応になる。
しかし、喜びも束の間。燦然とした輝きを放っていた彼女も、やがて皺がふえ、肌にはしみができるようになります。でも、ベンジャミンはどう見ても高校生か大学生と見まがうような青年の姿。恐らくこの時が、ベンジャミンにしてもデイジーにしても、最も呪いたくなる時期なのかもしれません。
「人生は何が起こるかわからない」。もしあの時こうしていれば、もしあの時こうだったら、こんなことは起こらなかったという連続が、後悔の念として今でも人々の心の中に植えつけられる。凶悪な事件の渦中にいたのなら、尚更でしょう。それでももし、ひと時の幸せをかみ締めることが出来るのは、傍らに共に人生を歩んでくれる人がいるから。
時を止めることが出来たら、時を巻き戻すことが出来たら。後悔と挫折を一度でも味わった人なら、誰でもそう思う。でも、時間は待ってはくれない。冷酷で残忍なほどに確実に時を刻んでいく。ただ、どんなに頭の中で分かっていても、同じ時間の中に生きていると知っていても、「同じように時を感じる生き方が出来ない」というのは、残酷以上に辛辣。
この物語の終わりは、たとえ短かったとはいえ、やはり観てて切ない部分がありました。すっかり年老いておばあちゃんになっているデイジー。でもベンジャミンは、見た目は4~5歳くらいなのに、既に認知症が発症して、もはやデイジーですら分からない状態に。最期は、肌も張りがあり、目もぱっちりとした赤ちゃん。それが、まるで未練を全く残さないかのように、静かに息を引き取っていきます。
老いるということの恐ろしさもそうですが、人生を普通に、誰かと共に歩んでいくことの素晴らしさを教えてくれる物語。自分が今、どんな境遇であれ、どんな人生であれ、どれだけの価値のものや金銭に囲まれていようと、行き着く先は皆老いであり、死である。
誰かと共に時を過ごせる、たったそれだけでも、どれほど素晴らしいことかが描かれている作品と思います。
皆が年をとり、皺が増え、身体も自由に動かなくなる傍らで、自分は少しずつ身体が動かせるようになり、皺も無くなり、視力も聴力も改善され、肉体も生き生きとしていく。最初のうちは大変かもしれないが、結局同じことなのかもしれない。最初は動けないし人の世話を借りてばっかり。そのうち経済的にも精神的にも自立し、最後にはやっぱり人の世話になる。
しかし、「若返っても歳を取っても、行き着く先が同じ」という考えは、物語の最後の方であっさりと無くなっていました。それは、「誰かと同じように年を重ねるということが絶対に出来ない」ということ。急に恐ろしくなりました。「他人とは違う人生を送りたい」と思う傍らで、「誰かと同じように歳を取りたい」と思っていることもまた事実。というより、「歳を重ねることの苦労を共に分かち合いたい」という感情でしょうか。
自分は特別だと思っていても、結局はそれも束の間の出来事。同じように歳を重ねることが出来ないと分かった瞬間、あがらうことのできない孤独感が身体中を駆け巡る。そして、歳を取ることに逆らえないことと同じように、若返ることもまた、逆らうことの出来ない運命。
歳を取ることが神が与えた呪いなのなら、若返ることもまた、神が与えた呪いなのかもしれません。
そんな、数奇な運命を辿った一人の男の物語。小説やマンガとかではあり得そうな設定。でもそれが、実写として目の前に映し出される。勿論、CGや特殊メイク等の技術を駆使しているとはいえ、そのあまりにもリアルな表現には、正直息を飲んでしまいました。
多分、「生まれた時は80歳代で、歳を取るごとに若返る」という人物だけの物語なのなら、あまり実感が伴わない作品かもしれません。ですが、主人公であるベンジャミン・バトンをさらに際立たせているのは、いや、ベンジャミン・バトンが際立たせている、と言い換えてもいいかもしれません、そんな主人公と対を成すもう一人の人物、それが、僕達と同じように歳を取っていくデイジーの存在。
デイジーがまだ無垢な少女であった時、ベンジャミンは歩くのもままならない老人だった。それが、デイジーが少女から女性へと美しさを増すにつれ、ベンジャミンの毛髪は増え、筋肉も増し、杖も無く歩けるようになる。人生の中間地点。二人はようやく歳相応になる。
しかし、喜びも束の間。燦然とした輝きを放っていた彼女も、やがて皺がふえ、肌にはしみができるようになります。でも、ベンジャミンはどう見ても高校生か大学生と見まがうような青年の姿。恐らくこの時が、ベンジャミンにしてもデイジーにしても、最も呪いたくなる時期なのかもしれません。
「人生は何が起こるかわからない」。もしあの時こうしていれば、もしあの時こうだったら、こんなことは起こらなかったという連続が、後悔の念として今でも人々の心の中に植えつけられる。凶悪な事件の渦中にいたのなら、尚更でしょう。それでももし、ひと時の幸せをかみ締めることが出来るのは、傍らに共に人生を歩んでくれる人がいるから。
時を止めることが出来たら、時を巻き戻すことが出来たら。後悔と挫折を一度でも味わった人なら、誰でもそう思う。でも、時間は待ってはくれない。冷酷で残忍なほどに確実に時を刻んでいく。ただ、どんなに頭の中で分かっていても、同じ時間の中に生きていると知っていても、「同じように時を感じる生き方が出来ない」というのは、残酷以上に辛辣。
この物語の終わりは、たとえ短かったとはいえ、やはり観てて切ない部分がありました。すっかり年老いておばあちゃんになっているデイジー。でもベンジャミンは、見た目は4~5歳くらいなのに、既に認知症が発症して、もはやデイジーですら分からない状態に。最期は、肌も張りがあり、目もぱっちりとした赤ちゃん。それが、まるで未練を全く残さないかのように、静かに息を引き取っていきます。
老いるということの恐ろしさもそうですが、人生を普通に、誰かと共に歩んでいくことの素晴らしさを教えてくれる物語。自分が今、どんな境遇であれ、どんな人生であれ、どれだけの価値のものや金銭に囲まれていようと、行き着く先は皆老いであり、死である。
誰かと共に時を過ごせる、たったそれだけでも、どれほど素晴らしいことかが描かれている作品と思います。
血の大晦日から15年が経過した2015年。『ともだち』をはじめとする首謀者達によって嘘の歴史で塗り固められ、本当の事実は闇の底に埋没してしまった未来。それまでにも数多くの『ともだち』による偽りの奇跡が世界を席巻し、国の指導者はおろか、宗教界の指導者でさえ『ともだち』の掌中の中に収められてしまっている。誰一人疑うことは無い。いや、誰一人疑うことは出来ないのだ。疑えば最後、異端として抹殺される。それも秘密裏に。その傍らで、人々は疑うことを知らなくなる。まるで『ともだち』が世界の中で唯一絶対の存在であるかの如く。
そこは言論の自由も、宗教の自由も、思想の自由も無い世界。現代の日本の法律ではあり得ない世界。但し、血の大晦日の本当の事実を知る者以外は。
『取るに足らない平凡な中年男女が世界を救う』という、如何にも荒唐無稽のように見えるけれど、子供の頃思い描いた理想には程遠いけれど、それでも懸命に地面を這い蹲るように生きる人達の物語。世界中が本当の事実を知らなくても、せめて自分達が知っていれば。全てを変えることはできなくても、たとえ世界中に罵られても、自分達だけはちゃんと本当の事実を覚えておこう。
でも、それは変に悟ってしまい、変に諦めを憶えてしまった大人の理論。自分の肉親が、これからも先未来永劫侮辱され続ける、辛酸を舐め続けることを強いられる、10歳代の青臭い若者からすれば、もはや耐えられないことかもしれない。
「警察なんか大っ嫌い!」
あの時、まだ自分は何の力も持たない子供だった。誰かに頼らなければ生きていけない子供だった。もし自分に力があれば、肉親を助けることが出来たのに、悔しさを滲まずにはいられない。誰か、助けて。心の底からそう叫んでも、誰も助けてくれなかった。誰一人。そして、誰よりも大切な肉親は、偽りのテロリストに仕立て上げられた。
「どうして戦うことをやめちゃったの!?」
戦うことをやめたいと思ったことはない。けど、今のこの状態で、一体何ができる? 相手は世界の国家や宗教界の指導者までも巻き込んだカリスマ。国家や宗教が味方になれば、自然とそれに従事する人達も味方になる。たとえそれらが盲目の羊達ばかりとはいえ、何十億という人間の力が合わされば、どんなに理想を掲げても、どんなに本当の事実をぶちまけても、大海原に小石を投げるが如く、ほんの僅かに波紋ができるだけ。波紋はすぐに消えて無くなる。
もどかしい。自分に何も出来ないことが、できたとしても、すぐに掻き消されてしまう今の世の中が。
「どんなに最悪な状況でも、あいつは逃げなかった」
まるで子供の遊びなのに。あのころの情熱も青臭さも、とうに無くなっていたと思ったのに。大人になって、現実を知って、それにどっぷり浸かりすぎてしまったのがいけなかったのだろうか。
大人ぶってかっこつけて、そのまま諦めて世情に流されるという選択肢もある。でも、その選択肢を選んだら、きっとこの先後悔する。未来永劫、死ぬまで。きっと笑うかもしれない。バカなネタに使われるかもしれない。それでも、それまで共に戦う抜いた友人を、肉親を侮辱されるのは許さない。ほんの僅かな波紋でも、繰り返し繰り返し石を投げ続ければ、やがてその波は大きくなり、大きく広がり、大海原を覆い尽くす。それを信じて、今でも、石は投げ続けている。その大海原が、自分達を遥かに超える怪物だったとしても。
しかしながらこの作品、サスペンスドラマにしても、ヒューマンドラマにしても、か・な・り中途半端。血の大晦日の事件が発生して15年後、そこから『しんよげんの書』に書かれている人類滅亡の薬液散布に至るまでの間を描いた物語。なのですが、その物語を無理矢理2時間30分に押し込んだという形で端折りすぎ、展開があまりにも急すぎるため、観客は置いてけぼりされてしまうような結果に。『ハリー・ポッター』シリーズでも結構端折りすぎの部分は多く見られましたが、さすがにやりすぎではないかと思ってしまいました。
これまでのマンガ作品発の映画作品は、たとえマンガを読んでいなくても展開が分かるように作り上げるのが多かったと思います。『デスノート』は、オリジナルを若干含んでいるとはいえ、第一部の7巻までの流れを2章立てにしているので、サスペンスのハラハラ感と物語の重厚さを見事に両立していたと思います。ですが、今作はさすがに原作を読んでいないと、もはやついていけないという状態。いや、多分マンガを読んでもついていけなかったのでは、と思ってしまいました。
劇場では小学生~中学生も多かったのですが、かなり辛そうでしたよ。
仕事帰りに軽く映画鑑賞でも、という意味ではちょっとお勧めできません。多分鑑賞するだけで余計に疲れてしまうでしょう。製作者サイドも、この物語の詰め込み方は相当悩まれたのかもしれませんが、エンターテインメントからえらく懸け離れてしまった作品と感じてしまいました。
あ、でも小泉響子役の子は良かったですよ。
そこは言論の自由も、宗教の自由も、思想の自由も無い世界。現代の日本の法律ではあり得ない世界。但し、血の大晦日の本当の事実を知る者以外は。
『取るに足らない平凡な中年男女が世界を救う』という、如何にも荒唐無稽のように見えるけれど、子供の頃思い描いた理想には程遠いけれど、それでも懸命に地面を這い蹲るように生きる人達の物語。世界中が本当の事実を知らなくても、せめて自分達が知っていれば。全てを変えることはできなくても、たとえ世界中に罵られても、自分達だけはちゃんと本当の事実を覚えておこう。
でも、それは変に悟ってしまい、変に諦めを憶えてしまった大人の理論。自分の肉親が、これからも先未来永劫侮辱され続ける、辛酸を舐め続けることを強いられる、10歳代の青臭い若者からすれば、もはや耐えられないことかもしれない。
「警察なんか大っ嫌い!」
あの時、まだ自分は何の力も持たない子供だった。誰かに頼らなければ生きていけない子供だった。もし自分に力があれば、肉親を助けることが出来たのに、悔しさを滲まずにはいられない。誰か、助けて。心の底からそう叫んでも、誰も助けてくれなかった。誰一人。そして、誰よりも大切な肉親は、偽りのテロリストに仕立て上げられた。
「どうして戦うことをやめちゃったの!?」
戦うことをやめたいと思ったことはない。けど、今のこの状態で、一体何ができる? 相手は世界の国家や宗教界の指導者までも巻き込んだカリスマ。国家や宗教が味方になれば、自然とそれに従事する人達も味方になる。たとえそれらが盲目の羊達ばかりとはいえ、何十億という人間の力が合わされば、どんなに理想を掲げても、どんなに本当の事実をぶちまけても、大海原に小石を投げるが如く、ほんの僅かに波紋ができるだけ。波紋はすぐに消えて無くなる。
もどかしい。自分に何も出来ないことが、できたとしても、すぐに掻き消されてしまう今の世の中が。
「どんなに最悪な状況でも、あいつは逃げなかった」
まるで子供の遊びなのに。あのころの情熱も青臭さも、とうに無くなっていたと思ったのに。大人になって、現実を知って、それにどっぷり浸かりすぎてしまったのがいけなかったのだろうか。
大人ぶってかっこつけて、そのまま諦めて世情に流されるという選択肢もある。でも、その選択肢を選んだら、きっとこの先後悔する。未来永劫、死ぬまで。きっと笑うかもしれない。バカなネタに使われるかもしれない。それでも、それまで共に戦う抜いた友人を、肉親を侮辱されるのは許さない。ほんの僅かな波紋でも、繰り返し繰り返し石を投げ続ければ、やがてその波は大きくなり、大きく広がり、大海原を覆い尽くす。それを信じて、今でも、石は投げ続けている。その大海原が、自分達を遥かに超える怪物だったとしても。
しかしながらこの作品、サスペンスドラマにしても、ヒューマンドラマにしても、か・な・り中途半端。血の大晦日の事件が発生して15年後、そこから『しんよげんの書』に書かれている人類滅亡の薬液散布に至るまでの間を描いた物語。なのですが、その物語を無理矢理2時間30分に押し込んだという形で端折りすぎ、展開があまりにも急すぎるため、観客は置いてけぼりされてしまうような結果に。『ハリー・ポッター』シリーズでも結構端折りすぎの部分は多く見られましたが、さすがにやりすぎではないかと思ってしまいました。
これまでのマンガ作品発の映画作品は、たとえマンガを読んでいなくても展開が分かるように作り上げるのが多かったと思います。『デスノート』は、オリジナルを若干含んでいるとはいえ、第一部の7巻までの流れを2章立てにしているので、サスペンスのハラハラ感と物語の重厚さを見事に両立していたと思います。ですが、今作はさすがに原作を読んでいないと、もはやついていけないという状態。いや、多分マンガを読んでもついていけなかったのでは、と思ってしまいました。
劇場では小学生~中学生も多かったのですが、かなり辛そうでしたよ。
仕事帰りに軽く映画鑑賞でも、という意味ではちょっとお勧めできません。多分鑑賞するだけで余計に疲れてしまうでしょう。製作者サイドも、この物語の詰め込み方は相当悩まれたのかもしれませんが、エンターテインメントからえらく懸け離れてしまった作品と感じてしまいました。
あ、でも小泉響子役の子は良かったですよ。