アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。
27年。南アフリカ共和国の第9代大統領、ネルソン・マンデラ氏が投獄されていた年数。
アパルトヘイトによる『安全なる隔離』の下に差別を受けてきた非白人種の一人として、彼は武力という『力』を以て対抗しようとし、逮捕・収監された。普通の人間ならば、27年間も収監されていれば、釈放後は復讐に燃え、これまでの差別に対する報復とも捉えかねない振舞いをしたかもしれない。
しかし彼はそうはしなかった。非白人種に対して侮蔑や差別を奨励することも無く、白人種に対しても、ただ非白人種と同様の扱いをするだけで格別卑下するようなことはしなかった。
それは恐らく、彼が何よりもまして、『南アフリカ』という国を愛していたからかもしれない。
そして、良かれ悪しかれ、どんな歴史が刻まれたとしても、『南アフリカ』は、『南アフリカ』という国を愛する全ての人たち(人種も、肌の色も、宗教も、理念も関係なく)で築きあげなければならない、と思ったからかもしれない。
1993年、前大統領であるフレデリック・デクラーク氏と共に、アパルトヘイトを平和的に廃止したとしてノーベル平和賞を受賞。しかし、彼の本当の目的は、アパルトヘイトを廃止することだけではない。『南アフリカ』を、世界に誇れる国にすること。そのために、『南アフリカ』に住まう全ての人々が、一丸となれること。
その先駆となったのが、1995年のラグビーワールドカップ・南アフリカ大会。
南アフリカの代表チーム『スプリングボクス』は、当時低迷期だったのに加え、アパルトヘイト時代の象徴として解体寸前まで追いやられていた。しかし、マンデラ氏はチームの名前とユニフォームの色を、自らの説得によって存続させる。多分彼にとっては、チーム名とユニフォームを一新させることは、『南アフリカのチームの革新』ではなく、『白人種に対する報復』であると目に映ったのかもしれない。そんなことで、長年を経て深みに深めてしまった、白人種と非白人種との溝が埋まるわけがない、と思ったから。
しかし、彼が学生時代にラグビーをやっていたこともあり、世界に誇ることが出来、且つ『南アフリカ』という一枚岩を作るためには、『スプリングボクス』がワールドカップで優勝することは、どうしても必要だった。
アパルトヘイトが廃止されたとはいえ、難題だらけの南アフリカ情勢。
実力が低迷し、更にはファンまで遠のきつつある『スプリングボクス』。
『世界に誇れ』、且つ『一丸となる』という、突き付けられた課題。当時にすればそれは、限りなく可能性が0%に近い物事を達成させることに近いことだったのかもしれない。
しかし、マンデラ氏と、『スプリングボクス』のメンバー(とりわけ主将であるフランソワ・ビナール氏)は、それを可能にした。類稀なる努力と、『変わっていこう』という自身の意志の力によって。
『スプリングボクス』が、PR活動ながらも非白人種の子供たちにラグビーを教えているシーンで、子供たちが横一列に並び、ボールをパスしているところ。そして、南アフリカ大会で着実に勝ち上がり、皆が食い入るようにテレビ観戦、ラジオ中継を聴き、優勝が決定した瞬間に皆が一斉に喜びを分かち合う。
『武力』によるクーデターや報復処置では決して得ることの出来ない高揚感、達成感。これこそが正に、マンデラ氏が望んでいた瞬間。世界に名だたる『南アフリカ』を、一緒に作り上げることが出来た瞬間。
本作のリリースにおいて、マンデラ氏より、下記のような言葉が添えられていたそうだ。
「スポーツには世界を変える力がある。人々にインスピレーションを与え、団結させる力があるのだ。ほかの何かには、まずできない方法で」
この作品、単に人種差別や隔離政策によって、非白人種がどれだけ不利益で差別的な扱いを受けてきたか、ということを伝えるためでもなければ、人種差別はいけないことです、ということを訴えるものでもない。
それはもはや前提条件で、更にそれを越えた、人種・宗教・肌の色・習慣・文化など一切関係なく、『一丸となって誇れるものを持つ、もしくは目指す』という願いを込めた作品だと思う。
2010年のサッカーワールドカップ南アフリカ大会も、開催前の日本代表は散々な顛末だった。しかしそれがワールドカップ開催と同時に、一気に花開く。そして、それまで諦めモードだったサポーターを呼び戻し、一丸となった応援が日本各地で鳴り響く。結果は、『スプリングボクス』のような優勝ではないにせよ、『日本』が一丸となって誇れるものを持てた喜びは、同様のものだったのかもしれない。
最後に。
彼が収監中にもかかわらず、自分の『本当の信念』に目覚め、そして持ち続けることが出来、フランソワ・ビナール氏にも送った詩は、19世紀の詩人、ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(William Ernest Henley)の作品である。
Invictus |
インビクタス(不屈) |
決してエンターテインメントを追求したものではない。でも、多くの人に鑑賞してもらい、この時と、そして今の、社会の光と闇の狭間に生きる人達に観てもらいたいために、敢えて『高い視点』を繰り下げて作成したんだと思います。そういった意味で言えば、人と人との駆け引きやそれに惑わされ、転げまわる人々の喜怒哀楽に、若干の平淡さを感じるところがありますが。。。
今作の主人公は、渡辺謙さんが演じる、国民航空という巨大で世界中にネットワーク網を敷いている航空会社の社員。しかも、経営陣の天敵ともいうべき労働組合委員長・恩地元。
「会社を愛する社員のため」という彼の精神は、株式会社とはいえ半官半民体質(というかほとんど官)の役員にとっては目障りであり、左遷目的で海外の事務所を転々とさせられる。小説でも映画でも、始まりは、ほぼジャンボ機が墜落し500名以上の犠牲者を出した時から。それまでの海外勤務のシーン、彼の回想で進められる。日本に帰っても、彼は事故の究明や救援、遺族に対する支援等で転々とする。
そんな燦々たる事件を受け、旧態依然の態勢を立て直すべく、外部から会長に座する者が登場し、彼もその人の下で会社の建て直しに奔走する。そこで暴かれる様々な会社の闇の部分。でも、彼の必死さとは裏腹に、会社に蔓延る闇や腐敗は、止まることを知らない。
そんな主人公の、巨大組織の波にあがき、もがき、それでも懸命に奔走する、言わば『男の生き方』といえばカッチョイイ感じになると思いますが、僕は、この作品、主人公は二人いるのでは、と考えました。
一人は、前述の恩地元。ブレが無く、正義感が強く、自分の信じる道はとことん信じぬく。それが、どんなに茨の道であろうとも。それによって、傷ついたり、苦しんだりする人もいて、彼はその存在をよく知っていて、なるべく傷付けないようにしたいんだけれども… それも己のプライド故か、でも決して見て見ぬふりはしない。
もう一人は、彼と同じく労働組合で同じように「会社のために、社員のために」の意志を共にし闘ってきた、三浦友和さんが演じる行天四郎。ふとしたきっかけが、彼を変えてしまう。それは、夢にも見なかった栄転の人生。役員にまで出世。そのために彼が行った、数々の行動。根回し。時には他者の人生の歯車までをも狂わせる、汚れた手腕。
袂を分かった二人が歩んだそれぞれを道を、噛みしめるように観賞して思う。
彼らは、幸せだったのか。
彼らの選んだ道は、幸せへと続いたのだろうか。
彼らの演技なのか、それとも特殊効果なのか、それは分かりませんが、この両者が最も目を輝かせていたのは、労働組合で共に手を携えあって、会社という巨大な怪物を戦っていた時。でも、袂を分かち、それぞれの道を生きて、色んなものや金銭、経験を得たのでしょう。その代り、両者とも、目の輝きを失ってしまったように思うのです。
恩地元は、その意地からか、行天四郎は、その虚栄心からか。強大な流れに、しがみつくのも、成すがままに流れるのも、何としても逆らうのも、どれをとっても物凄いエネルギーが要る。彼らは、そのエネルギーの使用する。
たら、れば、なんてどこにも存在しないけれど、この作品を観賞してさらに思うこと。
どんな道であれ、方向性であれ、彼らが取った行動には殊更エネルギーが必要なこと。ならば、労働組合の時のように、彼らが、互いに手を取り合って、企業の改革に乗り出したら、どうなっていただろうか。
そして、恩地と行天、それぞれがそれぞれの道を『真逆』に、言わば、生き方を交換するような形で人生を送っていたら、一体どうなっていただろうか。
もっと欲を申し上げましたら、渡辺謙さんと三浦友和さん、逆の立場で演じていたら、どんな作品になっていたのだろうか、とか。
でも、最後の方のシーン、恩地元が、ジャンボ機墜落事故で、息子夫婦と孫を失った、宇津井健さんが演じた遺族・阪口清一郎に宛てた手紙の中の一節(ざっくり目の覚えで申し訳ない)。
「私がこれまで感じた理不尽を100倍にしても、貴方の苦しみや悲しみには遠く及ばない」
恩地も、行天も、それぞれの結末は、彼らが「選んだ」が故。
遺族の方々は、何故大切な人が死んだのか、その選択肢すら与えられなかった。突然突き付けられた、身をも引き裂くような苦痛。何か犯罪を犯したわけでもない。それまで犯した大なり小なりの罰則にも値しない痛烈な想い。それを「選んだ」わけでもないのに、それは突然やってくる。
「人生は長い」とよく言われる。でも、その人の人生が長いって誰が決めた? 誰が分かる? 明日、突然打ち切られるのかもしれないのに。
理不尽だらけの社会。戦うのもいい。流されるのもいい。どちらにもメリットはあり、どちらにもデメリットがある。たとえその後に来るものが理不尽だとしても、それがその『選んだ結果』なのですから。世の中には、選ぶことさえ叶わず、歯車を狂わされた者だっているのだから。
この人間社会で最も不幸なことは、『選ぶことさえ出来ない』、そんなことを感じさせる一作のように思いました。
人間の都合で追われた獣の住処など、人間に用意できるのか。
人間の都合で壊された自然の摂理など、人間に戻せるのか。
一度壊れたものは、例えそれが何であれ、有形無形のものであれ、元に戻すことは出来ない。もしくは困難を極める。人間が人間の手によって作り出されたものでさえそうなのに、自然が、大地が、地球が、宇宙が作り出したものを、人間が? 人知を超えた『自然』という大いなる力を持つ存在が、何万年、何億年かけてようやく作り上げた摂理を、たかだか数万年程度の歴史しか持たない人類が?
大人になって観直す第二作は、『もののけ姫』。
村を守る目的とはいえ、タタリ神に刃を向けた少年アシタカは、タタリ神の呪いを受ける。呪いを解く方法、そしてその後の運命を見定めるために西の方へ旅立ち、そこで出会ったのは、森を開拓し鉄を以て武器や生活道具を作るタタラの民と、森の山犬に育てられた人間の少女サン。そして、さらなる豊かさを求めるために森の開拓を推し進め、さらにはその神まで手に掛けんとする人間と、自分たちに生と死の摂理の厳しさと優しさを教えた、大切な住処である獣たちの、血で血を洗う戦い。
自然と人工。
神と人間。
有史以来、延々と繰り広げられた戦いは、絶えることなく続いている。エデンの楽園で知恵の実を口にしたその時から、人間の『神気取り』は止むことがない。
その『神気取り』のおかげで、人間はこれまでにどれだけの報いを被った? バベルの塔を建て、神の御座に近づこうとしたから、神の雷に打たれ、塔は破壊され、共通の言葉を失った。事実・伝説如何を問わず、その報いは枚挙に暇がないはず。
どんなに打ちひしがれても、挫折に見舞われても、立ち上がり、這い上がる力と知恵を持っているのに何故
そして、人間の『神気取り』は、今もなお続いている。自然と大地の畏敬の前に、人間の手で自然と大地を守ろうとしている。しかしその実は、結局は人間の欲と利権の取引の材料とでしか見ていない。それは、彼らに人間ほどの力や知恵がないから? ならば、人間以上の力や知恵がある存在が登場すれば、人間は、彼らに自分たちが「取引される」ことを、容認するのだろうか?
この作品は、自然や動物の擬人化である。本当にこんなことが実際に起こるのはあり得ない。でも、これまで人間が壊してきた『存在』や、破壊の『歴史』を凝縮すると、こうなるのだろう。
この作品も、『風の谷のナウシカ』と同じように、人間による支配欲が大いなる代価に飲み込まれる(シシ神による森と自然の破壊(=死))を表している。しかし、大きく違うところは、この作品の人間も、生きることにどこか必死さを感じる。勧善懲悪の悪側に立つ存在ではない。ただ、その人間の生き行く道標や矛先を見誤ってしまっただけなのかもしれない。
大きく見れば自然、地球、宇宙、小さく見れば獣、微生物、これらは人間と違い、ものを言わない。どこが苦しいのか、どこが痛いのか、それを言葉にする手立てはない。それはきっと、宇宙の摂理に組み込まれた者たちの運命なのかもしれない。幸か不幸か、『知恵』を付けたがゆえに、人間は宇宙の摂理から少し離れた存在にいる。宇宙の摂理を僅かながら俯瞰視する能力を持っている。
その代価、という意味であれば、もう、宇宙の摂理の一部に組み込まれる、元に戻ることが出来ない、というところか。
だからなのだろう、結局のところ、『神気取り』とはいえ、それらの存在の未来の選択権は、人間が握っている。
但し、それに対する報いは、ものすごく無機質で、ものすごく荒っぽく、容赦しない。それが恩恵であれ、神罰であれ。
そして壊されたものを元に戻すことは、ほぼ不可能に近いけれど、それがゆえに、新たな方向に立て直すことができる。これもやっぱり人間が持つ選択権の行方に委ねられ、その報いも同様だ。アシタカとサンの絆と同じように。
未来はまだ、決まっていない。
私たちは、これから先、どんな未来を選ぶのだろうか。そして、選んだ先に見える世界、そのために支払うべき代償は何だろうか。
全ての存在が幸せになれる未来は決してあり得ないけれど、一つでも多くの存在が幸せになれる未来の選択肢を見出していかなければ、と思う。
しかし、たとえ王者になっても、気が止むことがない。その王者の座を虎視眈々と狙うために、さらなる抗争が繰り広げられる。力づくでねじ伏せる者、狡猾に巧みに奪う者。じっと機会を待ち続けて掻っ攫う者。
止むことのない抗争の果てに遺されたのは、そのために支払われた代価。無残な残骸。「何のための支配なのか」。その目的をも忘れた者につきつけられる現実。それでも、生命ある存在は、誰かに対する何かに対する支配の欲を消すことが出来ない。
それは、脈々と続いた本能なのか。それによって失う代価が如何に大切かを知りながら、何故繰り返してしまうのか。憎悪を復讐の念に駆られた少女の手に持つ剣には、まるでそれを示すかのように、切りつけてしまった大切な人の鮮血が滴り落ちる。
もし、人の身に負い切れぬ程の代価を支払わなければならないほどの支配欲に駆られた時、人はどうするのだろうか。どのような選択を迫られるのだろうか。
大人になって観直す第一作は、『風の谷のナウシカ』。
人間が生み出す科学の力は、やがて人間が背負いきれぬ代価を支払う羽目になろうとも、その『支配欲』がために見失った戦争が引き起こされた。『炎の七日間』。そしてその代償が、瘴気ガスの蔓延する腐海の森林。準備をせずに入れば、たちまち有毒の菌やガスに肺を侵され、死に至る。それでもなお、人はその代価に背を向けるように、腐海を焼き払うための活動や、そのための支配勢力拡大を目論む。どんな犠牲を支払っても。トルメキアとペジテのように。
風の谷に住む民は、もはや人間と腐海が交わることがない、と知っている。だから、必要以上に近づこうとしないし、畏敬というより畏怖をもって腐海と接している。それでも、交わる道がないか、必死で手繰る者もいる。それが、どんな危険を孕んでいようとも。何せ相手は、人間が人間として背負いきれない代価なのだから。
僕は、この作品を子供のころ観た時は、よく分からなかった。人間は恐ろしい力を使って、他をねじ伏せてしまおうとすること、それが「=悪」という、ざっくりとした感想で、そこに生きる者たちの関係性や想いといったものが、うまく見つけられなかった。
でも、今見るとわかる。支配欲に駆られた者たちは、誰一人とっても、切迫していない。たとえそれが、トルメキアによって滅ぼされたペジテの人達も。怯えた表情でありながらも、切迫した空気が伝わらない。まるで、その支配欲はある意味人間行動の『余暇』のようにも思える。
そう言えば、『華氏911』で強烈に覚えているシーンとして、イラク戦争に赴くアメリカ兵士の一言。音楽を聴きながら人を殺す。
なるほど、結局のところ、文明を極めた人間の『支配』とは、動植物界のそれとは異なり、道楽の一つになっているのかもしれない。生きながらえるための、子孫を残すための『支配』じゃない。快楽の手段としての『支配』。快楽のために、今日もまたどこかで、人の生命が消えている。
そのために背負わされる代価に、目を向けたことはあるの? それがどれだけの重みがあるかが分かるの?
自然との共生、宇宙の摂理の大切さ、戦争の虚しさ。様々な想いがこの作品に込められている。
僕はその中で観たのは、人間の持つ強欲の果てと、その代償の重さだ。たとえそれが人間の余暇にすぎない欲求だとしても、それによって生じる代価が背負いきれるものなのだろうか。巨神兵を復活させるのに、どれだけの代価が必要か。巨神兵による破壊を復活させるために、どれだけの代価が必要か。それは、人間の『余暇』による強欲で収まりきるのだろうか。
宮崎駿監督は、この作品を結ぶにあたり影響を受けた事件として、ユーゴスラビア内戦を挙げたという。人と人との争いに、血と死肉の腐臭が漂う場所と化してしまった行為に、飽きると思ったら飽きていない。どんな正義や大義名分があろうとも、戦争は繰り返されると、長期化されると、腐っていく、と。
腐った正義。腐った大義名分。
それもそのはず。だって、快楽のための『支配』だから。その快楽そのものが腐っているに違いない。
知恵を付けたその果てが、腐っていくこととは。結局は何の進化なのだろうか。
進化の行く先は、腐っていくことなのだろうか。私たちは、腐るために進化するのだろうか。
『支配』は全ての生物における欲求であり、衝動である。そして全ての生物は、その『支配欲』に対する代価を支払って生きている。
人間社会を含め、この世界に、絶対たる平等など存在しない。誰かが、誰かに、何かに対し、支配していること、優位であることを求めずにはいられない。そして、それを成した時に生ずる代価や報いに、責任を取らなければならない。それが、人間が『人間』として生きるに必要なものを欲しているのであれば。
最後に。
ナウシカが最後の場面で取った行動は、正しくもあり、間違っているとも思う。
生命の代価は、生命で償う。しかし、たとえ生命で償っても、死んだ人間は、遺された人たちの悲しみや苦しみまでを補うことは出来ない(結局は死ななかったけれど)。
独りで戦わないで。独りで背負わないで。払うべき代価を支払うのは、もはや、貴方だけではないのだから。
そして今作から、エンターテイメント・ムービーもしくはアクション・ムービーの潮流に乗るかのごとく、3Dバージョンが登場しました。そして早速3Dバージョンで観てしまう私もまた、映画界の思惑にすっかりはまってしまった人間になってしまい…… トホホ。
アクション自体は、これまでの作品とは違い、特筆すべきものはなく、また、ゲームの『バイオハザード』ならではの恐怖感、というのも従来通り(バイオハザードIIとIII)で、単純に『つなぎ』のために作成した作品のように思えます。
というわけで、若干のネタばれですが、バイオハザードシリーズは今作で終了ではないようです。しかし、今作のある布石が、次回以降にどう影響するかによると思われます。そのため、この作品は、そのためのターニングポイントではないかと。
最近のアクションエンターテインメントは、よりそのアクションの臨場感を醸し出すために、アクション部分をスローモーションにする手法が多く見られます。それはそれでいいのですが、どうしても『300』の重厚感が頭の中によぎってしまい、何となしに二番煎じに感じてしまうような…。
その代わり、Yahoo!の解説欄にもありましたが、これまで横展開で繰り広げられていたアクションを、縦展開にも広げ、アクションの映像の立体感により幅を利かせているところは、改めて思い起こすとそう思います。映画版の『バイオハザード』も、ホラーのエッセンスが回を追うごとに薄まり、アクション・エンターテインメントの要素がより一層濃くなった以上、単に3Dの潮流に乗るだけでなく、見せ方にも一趣向を凝らしてみるのもいいかもしれません。
……って、素人感覚の考えですが。
しかし、こういった続きものの作品というのは、その前段階にどのような話の展開があったかを復習がてらに鑑賞しないと、ついていけないような気がするのです。
たとえば、『インディ・ジョーンズ』シリーズの場合だと、主人公が考古学者で、危険極まりない冒険を経て秘宝を手にする、というバックボーンさえ押さえておけば、それぞれの作品を鑑賞しなくても、個別の作品として楽しむことができる、といったように。
今作も、前作を知らなければ、「何でアリスがこんなにウジャウジャと出てくるの?」というふうになってしまいますから。。。
まぁもしかしたら、そういうミッシング・リンクを埋めるためを狙って、DVDの販売や貸し出しを推し進めたりするのでしょうけれど(汗)。