『支配したい』。それは、人間だけでなく、生きる存在する全ての存在に共通する欲望。ただ生きるだけでは物足りず、常に誰かより何かより上の存在になりたい。傷付け、傷付けられ、数多の血と死肉の上に君臨する王者。
しかし、たとえ王者になっても、気が止むことがない。その王者の座を虎視眈々と狙うために、さらなる抗争が繰り広げられる。力づくでねじ伏せる者、狡猾に巧みに奪う者。じっと機会を待ち続けて掻っ攫う者。
止むことのない抗争の果てに遺されたのは、そのために支払われた代価。無残な残骸。「何のための支配なのか」。その目的をも忘れた者につきつけられる現実。それでも、生命ある存在は、誰かに対する何かに対する支配の欲を消すことが出来ない。
それは、脈々と続いた本能なのか。それによって失う代価が如何に大切かを知りながら、何故繰り返してしまうのか。憎悪を復讐の念に駆られた少女の手に持つ剣には、まるでそれを示すかのように、切りつけてしまった大切な人の鮮血が滴り落ちる。
もし、人の身に負い切れぬ程の代価を支払わなければならないほどの支配欲に駆られた時、人はどうするのだろうか。どのような選択を迫られるのだろうか。
大人になって観直す第一作は、『風の谷のナウシカ』。
人間が生み出す科学の力は、やがて人間が背負いきれぬ代価を支払う羽目になろうとも、その『支配欲』がために見失った戦争が引き起こされた。『炎の七日間』。そしてその代償が、瘴気ガスの蔓延する腐海の森林。準備をせずに入れば、たちまち有毒の菌やガスに肺を侵され、死に至る。それでもなお、人はその代価に背を向けるように、腐海を焼き払うための活動や、そのための支配勢力拡大を目論む。どんな犠牲を支払っても。トルメキアとペジテのように。
風の谷に住む民は、もはや人間と腐海が交わることがない、と知っている。だから、必要以上に近づこうとしないし、畏敬というより畏怖をもって腐海と接している。それでも、交わる道がないか、必死で手繰る者もいる。それが、どんな危険を孕んでいようとも。何せ相手は、人間が人間として背負いきれない代価なのだから。
僕は、この作品を子供のころ観た時は、よく分からなかった。人間は恐ろしい力を使って、他をねじ伏せてしまおうとすること、それが「=悪」という、ざっくりとした感想で、そこに生きる者たちの関係性や想いといったものが、うまく見つけられなかった。
でも、今見るとわかる。支配欲に駆られた者たちは、誰一人とっても、切迫していない。たとえそれが、トルメキアによって滅ぼされたペジテの人達も。怯えた表情でありながらも、切迫した空気が伝わらない。まるで、その支配欲はある意味人間行動の『余暇』のようにも思える。
そう言えば、『華氏911』で強烈に覚えているシーンとして、イラク戦争に赴くアメリカ兵士の一言。音楽を聴きながら人を殺す。
なるほど、結局のところ、文明を極めた人間の『支配』とは、動植物界のそれとは異なり、道楽の一つになっているのかもしれない。生きながらえるための、子孫を残すための『支配』じゃない。快楽の手段としての『支配』。快楽のために、今日もまたどこかで、人の生命が消えている。
そのために背負わされる代価に、目を向けたことはあるの? それがどれだけの重みがあるかが分かるの?
自然との共生、宇宙の摂理の大切さ、戦争の虚しさ。様々な想いがこの作品に込められている。
僕はその中で観たのは、人間の持つ強欲の果てと、その代償の重さだ。たとえそれが人間の余暇にすぎない欲求だとしても、それによって生じる代価が背負いきれるものなのだろうか。巨神兵を復活させるのに、どれだけの代価が必要か。巨神兵による破壊を復活させるために、どれだけの代価が必要か。それは、人間の『余暇』による強欲で収まりきるのだろうか。
宮崎駿監督は、この作品を結ぶにあたり影響を受けた事件として、ユーゴスラビア内戦を挙げたという。人と人との争いに、血と死肉の腐臭が漂う場所と化してしまった行為に、飽きると思ったら飽きていない。どんな正義や大義名分があろうとも、戦争は繰り返されると、長期化されると、腐っていく、と。
腐った正義。腐った大義名分。
それもそのはず。だって、快楽のための『支配』だから。その快楽そのものが腐っているに違いない。
知恵を付けたその果てが、腐っていくこととは。結局は何の進化なのだろうか。
進化の行く先は、腐っていくことなのだろうか。私たちは、腐るために進化するのだろうか。
『支配』は全ての生物における欲求であり、衝動である。そして全ての生物は、その『支配欲』に対する代価を支払って生きている。
人間社会を含め、この世界に、絶対たる平等など存在しない。誰かが、誰かに、何かに対し、支配していること、優位であることを求めずにはいられない。そして、それを成した時に生ずる代価や報いに、責任を取らなければならない。それが、人間が『人間』として生きるに必要なものを欲しているのであれば。
最後に。
ナウシカが最後の場面で取った行動は、正しくもあり、間違っているとも思う。
生命の代価は、生命で償う。しかし、たとえ生命で償っても、死んだ人間は、遺された人たちの悲しみや苦しみまでを補うことは出来ない(結局は死ななかったけれど)。
独りで戦わないで。独りで背負わないで。払うべき代価を支払うのは、もはや、貴方だけではないのだから。
しかし、たとえ王者になっても、気が止むことがない。その王者の座を虎視眈々と狙うために、さらなる抗争が繰り広げられる。力づくでねじ伏せる者、狡猾に巧みに奪う者。じっと機会を待ち続けて掻っ攫う者。
止むことのない抗争の果てに遺されたのは、そのために支払われた代価。無残な残骸。「何のための支配なのか」。その目的をも忘れた者につきつけられる現実。それでも、生命ある存在は、誰かに対する何かに対する支配の欲を消すことが出来ない。
それは、脈々と続いた本能なのか。それによって失う代価が如何に大切かを知りながら、何故繰り返してしまうのか。憎悪を復讐の念に駆られた少女の手に持つ剣には、まるでそれを示すかのように、切りつけてしまった大切な人の鮮血が滴り落ちる。
もし、人の身に負い切れぬ程の代価を支払わなければならないほどの支配欲に駆られた時、人はどうするのだろうか。どのような選択を迫られるのだろうか。
大人になって観直す第一作は、『風の谷のナウシカ』。
人間が生み出す科学の力は、やがて人間が背負いきれぬ代価を支払う羽目になろうとも、その『支配欲』がために見失った戦争が引き起こされた。『炎の七日間』。そしてその代償が、瘴気ガスの蔓延する腐海の森林。準備をせずに入れば、たちまち有毒の菌やガスに肺を侵され、死に至る。それでもなお、人はその代価に背を向けるように、腐海を焼き払うための活動や、そのための支配勢力拡大を目論む。どんな犠牲を支払っても。トルメキアとペジテのように。
風の谷に住む民は、もはや人間と腐海が交わることがない、と知っている。だから、必要以上に近づこうとしないし、畏敬というより畏怖をもって腐海と接している。それでも、交わる道がないか、必死で手繰る者もいる。それが、どんな危険を孕んでいようとも。何せ相手は、人間が人間として背負いきれない代価なのだから。
僕は、この作品を子供のころ観た時は、よく分からなかった。人間は恐ろしい力を使って、他をねじ伏せてしまおうとすること、それが「=悪」という、ざっくりとした感想で、そこに生きる者たちの関係性や想いといったものが、うまく見つけられなかった。
でも、今見るとわかる。支配欲に駆られた者たちは、誰一人とっても、切迫していない。たとえそれが、トルメキアによって滅ぼされたペジテの人達も。怯えた表情でありながらも、切迫した空気が伝わらない。まるで、その支配欲はある意味人間行動の『余暇』のようにも思える。
そう言えば、『華氏911』で強烈に覚えているシーンとして、イラク戦争に赴くアメリカ兵士の一言。音楽を聴きながら人を殺す。
なるほど、結局のところ、文明を極めた人間の『支配』とは、動植物界のそれとは異なり、道楽の一つになっているのかもしれない。生きながらえるための、子孫を残すための『支配』じゃない。快楽の手段としての『支配』。快楽のために、今日もまたどこかで、人の生命が消えている。
そのために背負わされる代価に、目を向けたことはあるの? それがどれだけの重みがあるかが分かるの?
自然との共生、宇宙の摂理の大切さ、戦争の虚しさ。様々な想いがこの作品に込められている。
僕はその中で観たのは、人間の持つ強欲の果てと、その代償の重さだ。たとえそれが人間の余暇にすぎない欲求だとしても、それによって生じる代価が背負いきれるものなのだろうか。巨神兵を復活させるのに、どれだけの代価が必要か。巨神兵による破壊を復活させるために、どれだけの代価が必要か。それは、人間の『余暇』による強欲で収まりきるのだろうか。
宮崎駿監督は、この作品を結ぶにあたり影響を受けた事件として、ユーゴスラビア内戦を挙げたという。人と人との争いに、血と死肉の腐臭が漂う場所と化してしまった行為に、飽きると思ったら飽きていない。どんな正義や大義名分があろうとも、戦争は繰り返されると、長期化されると、腐っていく、と。
腐った正義。腐った大義名分。
それもそのはず。だって、快楽のための『支配』だから。その快楽そのものが腐っているに違いない。
知恵を付けたその果てが、腐っていくこととは。結局は何の進化なのだろうか。
進化の行く先は、腐っていくことなのだろうか。私たちは、腐るために進化するのだろうか。
『支配』は全ての生物における欲求であり、衝動である。そして全ての生物は、その『支配欲』に対する代価を支払って生きている。
人間社会を含め、この世界に、絶対たる平等など存在しない。誰かが、誰かに、何かに対し、支配していること、優位であることを求めずにはいられない。そして、それを成した時に生ずる代価や報いに、責任を取らなければならない。それが、人間が『人間』として生きるに必要なものを欲しているのであれば。
最後に。
ナウシカが最後の場面で取った行動は、正しくもあり、間違っているとも思う。
生命の代価は、生命で償う。しかし、たとえ生命で償っても、死んだ人間は、遺された人たちの悲しみや苦しみまでを補うことは出来ない(結局は死ななかったけれど)。
独りで戦わないで。独りで背負わないで。払うべき代価を支払うのは、もはや、貴方だけではないのだから。
PR
トラックバック
トラックバックURL: