恵まれた資産の家庭、優秀な成績、順風満帆な学生生活。特に注目するような波乱な人生を持つわけではないけれど、一見、誰もが羨む何不自由ない生活を送ってきた、ごく普通の青年。何が不満だろうと、皆がいぶかしむかもしれない。
唯一つ、両親の事あるごとに勃発する不仲を除いては 。
俗世のあらゆる事象に辟易した彼は、荷物を抱え、一人アラスカへと向かった。これまでの地位も、貯めたお金も全て捨てて。人間が本来の姿として回帰するためには、自然に戻るのが一番だというのは彼の持論。そうかもしれない。でも、僕としては彼は逃げているとしか見えない。本来の彼は、「大切なものは捨てられない」、そんな弱くも優しい心根を持った青年なのではないかと思う。
だって、アラスカに向かうまでの道のりは、決して彼一人ではなかったから。
「捨てられないもの」ができる瞬間は、彼がアラスカへ向かう決意をし、到着するまでの間に何度もあった。どうしてそれが芽生えなかったのか。そこに、彼の『弱さ』というものが垣間見えているように思う。
この作品を振り返るたびに思うのは、「人間は決して一人では生きられない」ということ。「これまで先人達が築き上げてきた知識と経験は、一人で成しえたものではない」ということ。集団で生きる人間ならではこそ、共に生きる人が傍らにいる時が強い。人間は、一人で生きるにはあまりにも弱いんだ。そう思わせてくれる瞬間は、これまでに何度もあったのに。
多分、これまでの彼の目には、周囲は「自分が得た力は、全て自分で築き上げてきたものである」というふうに見えたのだろう。とりわけ、両親の不仲を垣間見て。恵まれた環境であるからこそ、周囲もそう捉えて疑わない人が多かったのかもしれない。
でも、旅の途中で出会った人々は、多かれ少なかれ一人で生きることに対する『限界』と『弱さ』を曝け出しているように思える。人は依存するものだ、依存しあうものなんだ。独立して生きるのは確かにかっこいいけど、時には甘えてもいいんじゃない? 何となく情けなく聞こえても、それが人間として生きる上での真実。
でも、彼がその真実に気づくのは、事切れる直前だった。死ぬ間際に、初めて気づいたのかもしれない。自分も、弱い存在である人間の一部だということに。
自分の身体も、自分の命も、自分の人生も、自分のものに見えて自分だけのものではない。コントロールするのは自分だけど、そのコントロール次第で、自分以外の存在にも大きな影響を与えることもある。自分は、誰かと共有すること築き上げられている。苦しくなるくらいそう思わずにはいられない作品だと思う。
唯一つ、両親の事あるごとに勃発する不仲を除いては
俗世のあらゆる事象に辟易した彼は、荷物を抱え、一人アラスカへと向かった。これまでの地位も、貯めたお金も全て捨てて。人間が本来の姿として回帰するためには、自然に戻るのが一番だというのは彼の持論。そうかもしれない。でも、僕としては彼は逃げているとしか見えない。本来の彼は、「大切なものは捨てられない」、そんな弱くも優しい心根を持った青年なのではないかと思う。
だって、アラスカに向かうまでの道のりは、決して彼一人ではなかったから。
「捨てられないもの」ができる瞬間は、彼がアラスカへ向かう決意をし、到着するまでの間に何度もあった。どうしてそれが芽生えなかったのか。そこに、彼の『弱さ』というものが垣間見えているように思う。
この作品を振り返るたびに思うのは、「人間は決して一人では生きられない」ということ。「これまで先人達が築き上げてきた知識と経験は、一人で成しえたものではない」ということ。集団で生きる人間ならではこそ、共に生きる人が傍らにいる時が強い。人間は、一人で生きるにはあまりにも弱いんだ。そう思わせてくれる瞬間は、これまでに何度もあったのに。
多分、これまでの彼の目には、周囲は「自分が得た力は、全て自分で築き上げてきたものである」というふうに見えたのだろう。とりわけ、両親の不仲を垣間見て。恵まれた環境であるからこそ、周囲もそう捉えて疑わない人が多かったのかもしれない。
でも、旅の途中で出会った人々は、多かれ少なかれ一人で生きることに対する『限界』と『弱さ』を曝け出しているように思える。人は依存するものだ、依存しあうものなんだ。独立して生きるのは確かにかっこいいけど、時には甘えてもいいんじゃない? 何となく情けなく聞こえても、それが人間として生きる上での真実。
でも、彼がその真実に気づくのは、事切れる直前だった。死ぬ間際に、初めて気づいたのかもしれない。自分も、弱い存在である人間の一部だということに。
自分の身体も、自分の命も、自分の人生も、自分のものに見えて自分だけのものではない。コントロールするのは自分だけど、そのコントロール次第で、自分以外の存在にも大きな影響を与えることもある。自分は、誰かと共有すること築き上げられている。苦しくなるくらいそう思わずにはいられない作品だと思う。
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納棺師。遺体を棺に納める人。またその職業。
人の世には様々な出会いと別れがある。どんなに親しい人と出会っても、ずっと傍にいたいと思う人でも、必ず別れる時は来る。たとえ連絡が取りづらくなっても、会いたいと思ってもなかなか会えなくても、この地球上に生きて元気にしているのが分かれば、それだけでも、掛け替えの無い繋がりがあると感じることがある。
でも、人の『死』だけは、どうしようもない。あがらうことも出来ない。会いたいと思っても、もう二度と会うことが出来ない。その声を聞くことも、その温もりに触れることさえも。
だからこそ、綺麗にして送りたい。『死』は確かに永遠の別れであるけれど、新たな旅立ちの始まりでもある。生前、よく笑みをこぼしていた人なら尚更だ。笑って送り出したい 。
そんな、日本人の死生観が詰まった、優しくも穏やかな音楽と共に流れる、本年度最高傑作と言っても過言ではない作品。『ラストゲーム 最後の早慶戦』のように、これから死地に向かう学生達の想いを強くストレートに描くのではなく、まるで母親の胎内のように、優しく包み込むような雰囲気を醸し出している作品。
女性の身体を模したチェロ、まるで母親の胎内にいるような雰囲気、雪が溶け春が芽吹く。そして、様々な人生を送り、酸いも甘いも経験し、時には苦しい人生を歩んできた様々な人達の死。この作品には、至るところに『生』と『死』が存在し、交じり合っている。
納棺師という仕事は、派手でもなく目立つものでもなく、静謐だけど地味な職業。また、非常に失礼な言い方になってしまうが、「遺体に触れる」という職業柄、敬遠されがちな職業と思われるのだろう。実際、ほんの数十年前まで、食肉用の牛や豚等の肉類の解体作業は、敬遠されている部落民で行っていたというくらいだ。「汚らわしい仕事は汚らわしい人間に」という歪んだ風潮があったのだろう。その汚らわしい人が捌いた肉を、ほくほくと口にしているくせに。
しかし、そういった仕事が無ければ、私たちは新鮮で安全な肉を口にすることは出来ない。街中の清掃員だってそう。彼らがいなければ、今頃街中はゴミ溜めだ。悪臭と害虫でウヨウヨの世界になってしまう。
そして、納棺師にも同じことが言える。作中の納棺師は、自宅で大往生した方だけが対象ではない。アパートの一室で、寂しく孤独死する人を弔うこともする。初めて納棺の仕事をする人にとってはシュールで且つ強烈な体験だろう。本木雅弘氏のちょっとコミカルめいた演技とBGMで、周囲の鑑賞者はクスクス笑っていた。でも、僕は笑えず、こう思った。「辛くて寂しい時に、一緒にいてあげられなくてごめんなさい。貴方の最期をしっかりと見届けてあげられなくてごめんなさい」と。勿論、フィクションと分かっていても。
誰の目にも留まることの無かった人にも、安らかに眠れるようにお手伝いをする。僕も納棺師のことを理解しているとは程遠い人間だが、少なくとも、穢れた仕事ではない、贖罪の為の仕事ではないことは分かる。
月日は流れ、庄内平野は冬から春へ、大雪で積もりに積もった雪は溶け、花が咲き、新緑が芽吹く。ここにも、時間の流れの尊さと同時に残酷さを表現している。たとえ今わの際でも、もう少し、その人の傍にいたい。時が止まってくれたら、という想いも虚しく、時間は移ろい過ぎていく。
幸せだった時は、もう元に戻れない。その時、この先どう生きていけばいいのか、そんなことを試す意味でも、時間は静かに淡々と流れていく。
確かに、一生のうちで人の死に目に会うのは少ないだろう。だからこそ特別なことと思われがちだ。でも、人は生きている限り、必ず死ぬ。誰一人変えることの出来ない運命の道筋。特別なことではないからこそ、せめて、笑顔で送りたい。綺麗にして送りたい。それは故人のためでもあり、残された僕達がこれから先生きるためにも必要なことだと思う。
生と死、仕事人としての誇り、時間の流れと無常。日頃忘れがちで、でも掛け替えの無いほど大切な要素が詰まった作品だと思う。
人の世には様々な出会いと別れがある。どんなに親しい人と出会っても、ずっと傍にいたいと思う人でも、必ず別れる時は来る。たとえ連絡が取りづらくなっても、会いたいと思ってもなかなか会えなくても、この地球上に生きて元気にしているのが分かれば、それだけでも、掛け替えの無い繋がりがあると感じることがある。
でも、人の『死』だけは、どうしようもない。あがらうことも出来ない。会いたいと思っても、もう二度と会うことが出来ない。その声を聞くことも、その温もりに触れることさえも。
だからこそ、綺麗にして送りたい。『死』は確かに永遠の別れであるけれど、新たな旅立ちの始まりでもある。生前、よく笑みをこぼしていた人なら尚更だ。笑って送り出したい
そんな、日本人の死生観が詰まった、優しくも穏やかな音楽と共に流れる、本年度最高傑作と言っても過言ではない作品。『ラストゲーム 最後の早慶戦』のように、これから死地に向かう学生達の想いを強くストレートに描くのではなく、まるで母親の胎内のように、優しく包み込むような雰囲気を醸し出している作品。
女性の身体を模したチェロ、まるで母親の胎内にいるような雰囲気、雪が溶け春が芽吹く。そして、様々な人生を送り、酸いも甘いも経験し、時には苦しい人生を歩んできた様々な人達の死。この作品には、至るところに『生』と『死』が存在し、交じり合っている。
納棺師という仕事は、派手でもなく目立つものでもなく、静謐だけど地味な職業。また、非常に失礼な言い方になってしまうが、「遺体に触れる」という職業柄、敬遠されがちな職業と思われるのだろう。実際、ほんの数十年前まで、食肉用の牛や豚等の肉類の解体作業は、敬遠されている部落民で行っていたというくらいだ。「汚らわしい仕事は汚らわしい人間に」という歪んだ風潮があったのだろう。その汚らわしい人が捌いた肉を、ほくほくと口にしているくせに。
しかし、そういった仕事が無ければ、私たちは新鮮で安全な肉を口にすることは出来ない。街中の清掃員だってそう。彼らがいなければ、今頃街中はゴミ溜めだ。悪臭と害虫でウヨウヨの世界になってしまう。
そして、納棺師にも同じことが言える。作中の納棺師は、自宅で大往生した方だけが対象ではない。アパートの一室で、寂しく孤独死する人を弔うこともする。初めて納棺の仕事をする人にとってはシュールで且つ強烈な体験だろう。本木雅弘氏のちょっとコミカルめいた演技とBGMで、周囲の鑑賞者はクスクス笑っていた。でも、僕は笑えず、こう思った。「辛くて寂しい時に、一緒にいてあげられなくてごめんなさい。貴方の最期をしっかりと見届けてあげられなくてごめんなさい」と。勿論、フィクションと分かっていても。
誰の目にも留まることの無かった人にも、安らかに眠れるようにお手伝いをする。僕も納棺師のことを理解しているとは程遠い人間だが、少なくとも、穢れた仕事ではない、贖罪の為の仕事ではないことは分かる。
月日は流れ、庄内平野は冬から春へ、大雪で積もりに積もった雪は溶け、花が咲き、新緑が芽吹く。ここにも、時間の流れの尊さと同時に残酷さを表現している。たとえ今わの際でも、もう少し、その人の傍にいたい。時が止まってくれたら、という想いも虚しく、時間は移ろい過ぎていく。
幸せだった時は、もう元に戻れない。その時、この先どう生きていけばいいのか、そんなことを試す意味でも、時間は静かに淡々と流れていく。
確かに、一生のうちで人の死に目に会うのは少ないだろう。だからこそ特別なことと思われがちだ。でも、人は生きている限り、必ず死ぬ。誰一人変えることの出来ない運命の道筋。特別なことではないからこそ、せめて、笑顔で送りたい。綺麗にして送りたい。それは故人のためでもあり、残された僕達がこれから先生きるためにも必要なことだと思う。
生と死、仕事人としての誇り、時間の流れと無常。日頃忘れがちで、でも掛け替えの無いほど大切な要素が詰まった作品だと思う。
これはまた観る人を選びそうな作品でした。『ラッキーナンバー7』や『ディパーテッド』を、映像技術を駆使してスタイリッシュに仕上げた作品とでもいうのでしょうか。ですので、血がドバドバ死体ウジャウジャ(ゾンビではない)に抵抗感が無い(もいくは少ない方)は鑑賞可能でしょう。
加えて、この作品の監督は『ナイト・ウォッチ』や『デイ・ウォッチ』のティムール・ベクマンベトフ氏ですか。納得。最初の方のシーンで、そんな監督ならではの色がかなり出ているように思います。
一応R-15指定の作品なんですけど、ここまで「暗殺者ってスタイリッシュでカッコいい」を前面に出されると、少々心配になってしまいますね……。まぁ、実際作品のようなことができる暗殺者っていないんですけど。本当はもっと顔を隠しながら暗躍して『仕事』をこなすから『暗殺者』なわけですし。市街地で顔を隠さずに銃を撃ち合うなんてチンピラですぜ。というわけで、きちんとそういう良識(?)をお持ちの方にご鑑賞いただきたいと思います。その後、かつての無差別殺人や通り魔のような事件が発生しても、製作者サイドでは責任を負いかねますからねぇ……。
肉体の動きと革新的映像技術をふんだんに駆使できるのは暗殺や殺戮シーンだけ、ということは無いように、今後の映画製作の技術革新に注目していきたいと思います。
今作の主演のジェームズ・マカヴォイ。僕が初めて彼を見たのは、『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』のタムナスさん役でした。優顔という顔立ちからしても何となくノホホン役が似合ってそう、というイメージを持っていました。
その後も何作か彼が出演している作品を鑑賞しましたが、やはり一番違和感があるのは今作。すごく無理している、という感じがスクリーンからひしひしと伝わります。勿論、そういう役どころなのでしょうけれど。
平凡な一サラリーマンに過ぎなかった彼が自分の隠された能力と『自分自身』というものを見出そうとして選んだ道が『暗殺者』。途中途中はまだまだかなり危うく、感情的なところが見え隠れして暗殺者に成り切れていないところがありましたが、一番最後は、『007/カジノ・ロワイヤル』で演じたダニエル・クレイグのように、一切の感情を伴わない暗殺者に仕上がっているように見えました。結構意識したりしていたのでしょうか?
そんな彼以上に注目だったのが、彼を暗殺者に指導するアンジェリーナ・ジョリーお姉様。その美しい美貌は、暗殺者となればまるで女豹、しなやかな肢体を惜しみなく披露する様は、正にファン垂涎の演技! きっと真性のマゾヒストだったら、一度は貴方に殴られたいと思うわけです。勿論僕はマゾの気は若干ありますが真性ではありませんので悪しからず(汗)。
しかし、肉体の動きと革新的映像技術といったら、真っ先に思い浮かべるとしたら『300』。大軍を用いて戦争するというより、まるで一人の戦士が戦場に乗り込み、敵を薙ぎ倒していく様は正に演舞というべきか。しかも、手に持っているのは銃ではなく剣と盾、槍なので、否応無く己の肉体を用いた白兵戦になります。その動きが、たとえ殺戮の場面であっても美しいと感じてしまうのです。
一方今作の主役は、どうしても弾丸。拳銃やマシンガンで敵を撃ち殺していっても、肉体を思う存分に動かす『300』にはまだ及ばないと感じました。そこで、この作品の一番の見せ所になったのは、長距離ライフル、ほんの数センチ、いや数ミリの隙間ですら、標的を狙い仕留める映像技術。どんなに熟練したハンターですら不可能だと分かっていても、目を奪われずにはいられませんでした。
あまり大きな期待をせず、B級映画として鑑賞すれば、面白い作品だと思います。
加えて、この作品の監督は『ナイト・ウォッチ』や『デイ・ウォッチ』のティムール・ベクマンベトフ氏ですか。納得。最初の方のシーンで、そんな監督ならではの色がかなり出ているように思います。
一応R-15指定の作品なんですけど、ここまで「暗殺者ってスタイリッシュでカッコいい」を前面に出されると、少々心配になってしまいますね……。まぁ、実際作品のようなことができる暗殺者っていないんですけど。本当はもっと顔を隠しながら暗躍して『仕事』をこなすから『暗殺者』なわけですし。市街地で顔を隠さずに銃を撃ち合うなんてチンピラですぜ。というわけで、きちんとそういう良識(?)をお持ちの方にご鑑賞いただきたいと思います。その後、かつての無差別殺人や通り魔のような事件が発生しても、製作者サイドでは責任を負いかねますからねぇ……。
肉体の動きと革新的映像技術をふんだんに駆使できるのは暗殺や殺戮シーンだけ、ということは無いように、今後の映画製作の技術革新に注目していきたいと思います。
今作の主演のジェームズ・マカヴォイ。僕が初めて彼を見たのは、『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』のタムナスさん役でした。優顔という顔立ちからしても何となくノホホン役が似合ってそう、というイメージを持っていました。
その後も何作か彼が出演している作品を鑑賞しましたが、やはり一番違和感があるのは今作。すごく無理している、という感じがスクリーンからひしひしと伝わります。勿論、そういう役どころなのでしょうけれど。
平凡な一サラリーマンに過ぎなかった彼が自分の隠された能力と『自分自身』というものを見出そうとして選んだ道が『暗殺者』。途中途中はまだまだかなり危うく、感情的なところが見え隠れして暗殺者に成り切れていないところがありましたが、一番最後は、『007/カジノ・ロワイヤル』で演じたダニエル・クレイグのように、一切の感情を伴わない暗殺者に仕上がっているように見えました。結構意識したりしていたのでしょうか?
そんな彼以上に注目だったのが、彼を暗殺者に指導するアンジェリーナ・ジョリーお姉様。その美しい美貌は、暗殺者となればまるで女豹、しなやかな肢体を惜しみなく披露する様は、正にファン垂涎の演技! きっと真性のマゾヒストだったら、一度は貴方に殴られたいと思うわけです。勿論僕はマゾの気は若干ありますが真性ではありませんので悪しからず(汗)。
しかし、肉体の動きと革新的映像技術といったら、真っ先に思い浮かべるとしたら『300』。大軍を用いて戦争するというより、まるで一人の戦士が戦場に乗り込み、敵を薙ぎ倒していく様は正に演舞というべきか。しかも、手に持っているのは銃ではなく剣と盾、槍なので、否応無く己の肉体を用いた白兵戦になります。その動きが、たとえ殺戮の場面であっても美しいと感じてしまうのです。
一方今作の主役は、どうしても弾丸。拳銃やマシンガンで敵を撃ち殺していっても、肉体を思う存分に動かす『300』にはまだ及ばないと感じました。そこで、この作品の一番の見せ所になったのは、長距離ライフル、ほんの数センチ、いや数ミリの隙間ですら、標的を狙い仕留める映像技術。どんなに熟練したハンターですら不可能だと分かっていても、目を奪われずにはいられませんでした。
あまり大きな期待をせず、B級映画として鑑賞すれば、面白い作品だと思います。
他人との関わり合いが怖くて、いつも一人で蹲っていた。でも、心のどこかで、変わりたいと願っていた。その思いを、自由に動かすことのできる小説の主人公に託していた。
でも、動くのは主人公であり、自分じゃない。でも、変わりたいってどうやって? 案外そのきっかけは、ほんの些細なところから始まったりして 。
というのを狙った作品だと思うのですが、ほとんど伝わってまいりませんでいた。不自然な作り物が散りばめられているという印象が強いし、何よりこの作品は、誰を視点に観たらいいの? という感じです。
勿論、正式な主人公を設定せず、半ばオムニバスのように進む作品は他にもあります。が、シーンシーンで、そのシーンを動かす主人公はいるし、たとえあるシーンでは特に絡みは無くても、そのキャラクターの視点で楽しもうという観方が出来る作品もあります。ですがこの作品はそれが無い。何だかコロコロシーンが変わるだけで、誰を主体として観ようかという暇すら与えてくれない。
折角、ジョディ・フォスター、ジェラルド・バトラー等、先端を行く俳優・女優が揃っているのに、台無し感が否めません。特に何も出来ないに等しいジョディ・フォスター演じるアレクサンドラ・ローバーが、交通の便も無い島にたった一人で来た後で、たとえ微力ながらも何らかの行動を期待してしまうのですが、結局は何もしなかったに等しいとなると、少々というかかなり拍子抜けなのです。一体ジョディ・フォスターは、この役のどこに惹かれたのか、首を傾げてしまいました。
終始そんな感じの作品ですので、稀に見るジョディ・フォスターのコメディ・タッチな演技も、どこかちぐはぐな感じがしますし……
残念ながら、物語としても、視覚効果にしても、結末に関しても、特筆すべきところが見られない作品のように思いました。ハートフルな作品であるはずなのにちっともハートフルに感じないし。結末部分に、もう少し勇気溢れるような行動が少しでも垣間見ることが出来たら、良かったのかもしれませんが。
まぁでも、今まで何年も家の外に一歩でも出るのを怖がっていた人物が、たった数日で自分一人で飛行機に乗ったりボートに乗ったりするというのも、驚くべき、というか恐るべき進歩ですよね… 「ほんの少しでも変わりたい」という範疇をゆうに超えているような気が…(汗)
でも、動くのは主人公であり、自分じゃない。でも、変わりたいってどうやって? 案外そのきっかけは、ほんの些細なところから始まったりして
というのを狙った作品だと思うのですが、ほとんど伝わってまいりませんでいた。不自然な作り物が散りばめられているという印象が強いし、何よりこの作品は、誰を視点に観たらいいの? という感じです。
勿論、正式な主人公を設定せず、半ばオムニバスのように進む作品は他にもあります。が、シーンシーンで、そのシーンを動かす主人公はいるし、たとえあるシーンでは特に絡みは無くても、そのキャラクターの視点で楽しもうという観方が出来る作品もあります。ですがこの作品はそれが無い。何だかコロコロシーンが変わるだけで、誰を主体として観ようかという暇すら与えてくれない。
折角、ジョディ・フォスター、ジェラルド・バトラー等、先端を行く俳優・女優が揃っているのに、台無し感が否めません。特に何も出来ないに等しいジョディ・フォスター演じるアレクサンドラ・ローバーが、交通の便も無い島にたった一人で来た後で、たとえ微力ながらも何らかの行動を期待してしまうのですが、結局は何もしなかったに等しいとなると、少々というかかなり拍子抜けなのです。一体ジョディ・フォスターは、この役のどこに惹かれたのか、首を傾げてしまいました。
終始そんな感じの作品ですので、稀に見るジョディ・フォスターのコメディ・タッチな演技も、どこかちぐはぐな感じがしますし……
残念ながら、物語としても、視覚効果にしても、結末に関しても、特筆すべきところが見られない作品のように思いました。ハートフルな作品であるはずなのにちっともハートフルに感じないし。結末部分に、もう少し勇気溢れるような行動が少しでも垣間見ることが出来たら、良かったのかもしれませんが。
まぁでも、今まで何年も家の外に一歩でも出るのを怖がっていた人物が、たった数日で自分一人で飛行機に乗ったりボートに乗ったりするというのも、驚くべき、というか恐るべき進歩ですよね… 「ほんの少しでも変わりたい」という範疇をゆうに超えているような気が…(汗)
東京 。
伝統とポップカルチャーが入り乱れるように軒を連ねる不思議な街。昼と夜との人口が100万人単位で異なる一方、夜でもネオンの光が煌々と輝く不夜城都市。
海外の方から見た『東京』は、かつては『exotic』なイメージだった。どんな国にも存在しない独特の文化と雰囲気を醸し出す異国情緒の街。でも、今は『eccentric』というイメージが相応しい。それも、どこの国のどんな街よりも。そんな『東京』を、個性的な3人、ミシェル・ゴンドリー監督、レオス・カラックス監督、ポン・ジュノ監督がそれぞれの視点で表現する。今作は、有り得ないのに、どこか有り得そうな、オムニバス形式の作品。
『INTERIOR DESIGN』は、自分の居場所を探し求める普通の人の物語。
よく東京の人たちは、みんな個性的と言われるけれど、街中を歩いていると、個性的に見えても際立っているわけでもなく、割りと東京の街に溶け込んでいる。『東京』の街そのものが個性的だから、その個性の一部になってしまっている。そうなると、いくら個性的に着飾っても、『目立たない』のと大して変わらない。
では、『個性』って何だ? 自分らしさって?
『東京』は何でも揃う。だから何でも埋没する。新しいものが出ても、数年も経たずに。
『東京』の人たちが個性を表すには、もはや『人間』でいることですらも叶わないのかもしれない。
自分を見てもらう為なら、自分を知ってもらう為なら、そんな風にもがき苦しむ普通の人を、シニカルに描いている作品。
『MERDE』は、マンホールから突如現れては、道行く人に危害(ほとんどは悪戯に近い)を及ぼし、そしてマンホールに消えていく一人の男の物語。人呼んで『下水道の怪人』。ついには捕まって法廷に出廷するのだが、もはや法廷侮辱をゆうに超えている罵詈雑言の嵐。ムカチンッとくる傍らで、言い得て妙な複雑な気分にさらされる。
彼は、都市に生きる人間が生み落としたものらしい。そこで僕が思ったのは、彼の正体は下水道に生きるネズミとかゴキブリとか。本来なら彼らだって、自然の中で悠々自適に生きたいと思っているのに、人間の身勝手な都市開発で地下の汚れた惨めな生活を余儀なくされ、人前に姿を現したら殺されるまで追い掛け回される。結局のところ、人間は自分たちが生んだ副産物も、都合が悪いものは見て見ぬ振りをする。
彼が捕まった後、彼を追放する団体と、彼を擁護する団体がデモを引き起こしてお互いに対立する。でも、それすらも人間たちの一時凌ぎの策みたいで、根本的解決には至っていない。まるで、今の刹那的で短絡的な人間の行動を見ているかのようだ。
『Shaking TOKYO』は、画一プログラムと無関心がテーマ。ポン・ジュノ監督の、恐ろしいまでの観察力が凝縮しているように感じる。
朝のラッシュの道行く通勤客。同じ方向に同じ速さで通り過ぎる。特に会話も無く、表情すらロクに出さず、まるで囚人の行進のように職場へ向かう。きっと明日も、明後日も、何ヵ月後も何年後も、同じような光景なんだろう。
街中で軒を連ねるコンビニエンス・ストアー。接客業であるはずが、店員は客の目を見ていない。機械的にものをレジに通し、金を勘定し、袋に詰めればそれで終わり。「ありがとうございました」って言えばまだマシな方。そんなコミュニケーションレスは当たり前のように闊歩し、プライバシーの侵害が曲解され、隣近所で何か由々しき事件が起こっても、みんな無関心で押し通す。
だからこそ、人と人との出会いは、触れ合いは、ただの出来事に及ばず、全てを巻き込むほどの化学反応にもなり得る。割と『クラッシュ』に近いところがあるように思う。干渉したくない、されたくないって思いながらも、心のどこかでは人との触れ合いを求めている。
3つの作品における共通事項といったら、『不安定』だと思う。
いつ崩れるか分からない、かなり危うい領域なのに、ギリギリのところで均衡を保っているのか、それともかなり頑丈な『不安定』なのか。危ない局面を幾度と無く迎えつつも、何だかそのまま突っ切ってしまいそうなパワーも感じるのも事実。恐ろしいようで、そこが楽しい。進化しているようにも見えるし、逆に退化しているようにも見える。『あやふや』こそが、『東京』の最大の特徴ではないかと思う。頼りないように見えるけど、色んな見方が出来るから。
『不安定』の恐ろしさの中にも、『楽しさ』を見出せるから、東京はいつまで経っても面白い街なのだろう。
伝統とポップカルチャーが入り乱れるように軒を連ねる不思議な街。昼と夜との人口が100万人単位で異なる一方、夜でもネオンの光が煌々と輝く不夜城都市。
海外の方から見た『東京』は、かつては『exotic』なイメージだった。どんな国にも存在しない独特の文化と雰囲気を醸し出す異国情緒の街。でも、今は『eccentric』というイメージが相応しい。それも、どこの国のどんな街よりも。そんな『東京』を、個性的な3人、ミシェル・ゴンドリー監督、レオス・カラックス監督、ポン・ジュノ監督がそれぞれの視点で表現する。今作は、有り得ないのに、どこか有り得そうな、オムニバス形式の作品。
『INTERIOR DESIGN』は、自分の居場所を探し求める普通の人の物語。
よく東京の人たちは、みんな個性的と言われるけれど、街中を歩いていると、個性的に見えても際立っているわけでもなく、割りと東京の街に溶け込んでいる。『東京』の街そのものが個性的だから、その個性の一部になってしまっている。そうなると、いくら個性的に着飾っても、『目立たない』のと大して変わらない。
では、『個性』って何だ? 自分らしさって?
『東京』は何でも揃う。だから何でも埋没する。新しいものが出ても、数年も経たずに。
『東京』の人たちが個性を表すには、もはや『人間』でいることですらも叶わないのかもしれない。
自分を見てもらう為なら、自分を知ってもらう為なら、そんな風にもがき苦しむ普通の人を、シニカルに描いている作品。
『MERDE』は、マンホールから突如現れては、道行く人に危害(ほとんどは悪戯に近い)を及ぼし、そしてマンホールに消えていく一人の男の物語。人呼んで『下水道の怪人』。ついには捕まって法廷に出廷するのだが、もはや法廷侮辱をゆうに超えている罵詈雑言の嵐。ムカチンッとくる傍らで、言い得て妙な複雑な気分にさらされる。
彼は、都市に生きる人間が生み落としたものらしい。そこで僕が思ったのは、彼の正体は下水道に生きるネズミとかゴキブリとか。本来なら彼らだって、自然の中で悠々自適に生きたいと思っているのに、人間の身勝手な都市開発で地下の汚れた惨めな生活を余儀なくされ、人前に姿を現したら殺されるまで追い掛け回される。結局のところ、人間は自分たちが生んだ副産物も、都合が悪いものは見て見ぬ振りをする。
彼が捕まった後、彼を追放する団体と、彼を擁護する団体がデモを引き起こしてお互いに対立する。でも、それすらも人間たちの一時凌ぎの策みたいで、根本的解決には至っていない。まるで、今の刹那的で短絡的な人間の行動を見ているかのようだ。
『Shaking TOKYO』は、画一プログラムと無関心がテーマ。ポン・ジュノ監督の、恐ろしいまでの観察力が凝縮しているように感じる。
朝のラッシュの道行く通勤客。同じ方向に同じ速さで通り過ぎる。特に会話も無く、表情すらロクに出さず、まるで囚人の行進のように職場へ向かう。きっと明日も、明後日も、何ヵ月後も何年後も、同じような光景なんだろう。
街中で軒を連ねるコンビニエンス・ストアー。接客業であるはずが、店員は客の目を見ていない。機械的にものをレジに通し、金を勘定し、袋に詰めればそれで終わり。「ありがとうございました」って言えばまだマシな方。そんなコミュニケーションレスは当たり前のように闊歩し、プライバシーの侵害が曲解され、隣近所で何か由々しき事件が起こっても、みんな無関心で押し通す。
だからこそ、人と人との出会いは、触れ合いは、ただの出来事に及ばず、全てを巻き込むほどの化学反応にもなり得る。割と『クラッシュ』に近いところがあるように思う。干渉したくない、されたくないって思いながらも、心のどこかでは人との触れ合いを求めている。
3つの作品における共通事項といったら、『不安定』だと思う。
いつ崩れるか分からない、かなり危うい領域なのに、ギリギリのところで均衡を保っているのか、それともかなり頑丈な『不安定』なのか。危ない局面を幾度と無く迎えつつも、何だかそのまま突っ切ってしまいそうなパワーも感じるのも事実。恐ろしいようで、そこが楽しい。進化しているようにも見えるし、逆に退化しているようにも見える。『あやふや』こそが、『東京』の最大の特徴ではないかと思う。頼りないように見えるけど、色んな見方が出来るから。
『不安定』の恐ろしさの中にも、『楽しさ』を見出せるから、東京はいつまで経っても面白い街なのだろう。