日本国憲法第21条 『結社及び表現の自由と通信秘密の保護』
1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、
これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを
侵してはならない。
今でこそ日本でも『戦争反対』等を声高に主張できますが、これが戦前だったらどうでしょうか。日本史を学んだ方ならご存知のように、『非国民』というレッテルを貼られ、社会的な迫害を受けてきました。
『全ての国民は同じ方向に向く』ことが、むしろ『向かせる』て『統制する』ことが本来の目的。それに逸脱するものは、誰であっても罪を与える。それが、皆が羨む自由な発想であったとしても。
メディアやコミュニケーションツールの一つとして、インターネットが台頭し、今や携帯電話のような小型端末でも、簡単に大量の情報が入手できる時代。同時に、目に見えない、耳に聞こえない関係の確立が、『本音』のコミュニケーションが容易になりました。いい意味でも悪い意味でもですが。
それでも、多かれ少なかれ情報の多くは『統制』されています。国の思惑としてあるべき方向に国民が向かうように。それに反する情報は、たとえ正論を主張したものであっても、時には徹底して排除したり。社会主義国家はもとより、自由主義国家でも見られる現象。
それでも、人の心を動かす自由な発想を止めることは出来ません。
それはやがて、大きな力となり、『自由な発想』の抑制に動いていた者でさえも、心を動かすことになる。
時代背景や場所は全く違いますが、『麦の穂をゆらす風』と同じような印象を受ける作品です。『麦の穂をゆらす風』は、世界大戦後の『自由なアイルランド』を獲得するための人々の奮闘、『善き人のためのソナタ』は、かつて社会主義国家であった1980年代の東ドイツ内の、自由な発想を持つ芸術家達の奮闘を描いています。
そして、どちらの作品も、真の『自由』を得るために、真の『自由』と引き換えに、掛け替えの無い大切なものを失っていく。誰もが喜びに満ちるはずなのに、その代償はあまりにも大きく、身も心も大きな穴を残す。
そう考えると、きっと、僕達が今享受している『自由』も、誰かの大切なものが引き換えになって得られたものかもしれません。そう思うと、連日報道される、その『自由』を『利己主義』に穿き違える人たちを見ると、あまりにも悲しく思えてきます。『自由の礎』のなって朽ちていった彼らがもし今の時代を見ていたら、こう思うでしょう。「私達があまりにも大きい対価を支払って得た『自由』は、こんな社会を作るためじゃない」と。
これらの映画が真に訴えたいことは、ありのままの史実だったり、フィクションであれば当時の抑圧された社会情勢下に置かれた人がどんな気持ちだったか、ということもあると思いますが、それと同じくらい、いやそれ以上に、「今享受できる『自由』が、如何に犠牲を伴ってきたか」ではないかと思います。
身も心も大きく羽ばたかせる『自由』。でも、その言葉の裏に潜むものは、あまりにも重く圧し掛かる。それを、今一度かみ締めていこうと考える作品です。
1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、
これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを
侵してはならない。
今でこそ日本でも『戦争反対』等を声高に主張できますが、これが戦前だったらどうでしょうか。日本史を学んだ方ならご存知のように、『非国民』というレッテルを貼られ、社会的な迫害を受けてきました。
『全ての国民は同じ方向に向く』ことが、むしろ『向かせる』て『統制する』ことが本来の目的。それに逸脱するものは、誰であっても罪を与える。それが、皆が羨む自由な発想であったとしても。
メディアやコミュニケーションツールの一つとして、インターネットが台頭し、今や携帯電話のような小型端末でも、簡単に大量の情報が入手できる時代。同時に、目に見えない、耳に聞こえない関係の確立が、『本音』のコミュニケーションが容易になりました。いい意味でも悪い意味でもですが。
それでも、多かれ少なかれ情報の多くは『統制』されています。国の思惑としてあるべき方向に国民が向かうように。それに反する情報は、たとえ正論を主張したものであっても、時には徹底して排除したり。社会主義国家はもとより、自由主義国家でも見られる現象。
それでも、人の心を動かす自由な発想を止めることは出来ません。
それはやがて、大きな力となり、『自由な発想』の抑制に動いていた者でさえも、心を動かすことになる。
時代背景や場所は全く違いますが、『麦の穂をゆらす風』と同じような印象を受ける作品です。『麦の穂をゆらす風』は、世界大戦後の『自由なアイルランド』を獲得するための人々の奮闘、『善き人のためのソナタ』は、かつて社会主義国家であった1980年代の東ドイツ内の、自由な発想を持つ芸術家達の奮闘を描いています。
そして、どちらの作品も、真の『自由』を得るために、真の『自由』と引き換えに、掛け替えの無い大切なものを失っていく。誰もが喜びに満ちるはずなのに、その代償はあまりにも大きく、身も心も大きな穴を残す。
そう考えると、きっと、僕達が今享受している『自由』も、誰かの大切なものが引き換えになって得られたものかもしれません。そう思うと、連日報道される、その『自由』を『利己主義』に穿き違える人たちを見ると、あまりにも悲しく思えてきます。『自由の礎』のなって朽ちていった彼らがもし今の時代を見ていたら、こう思うでしょう。「私達があまりにも大きい対価を支払って得た『自由』は、こんな社会を作るためじゃない」と。
これらの映画が真に訴えたいことは、ありのままの史実だったり、フィクションであれば当時の抑圧された社会情勢下に置かれた人がどんな気持ちだったか、ということもあると思いますが、それと同じくらい、いやそれ以上に、「今享受できる『自由』が、如何に犠牲を伴ってきたか」ではないかと思います。
身も心も大きく羽ばたかせる『自由』。でも、その言葉の裏に潜むものは、あまりにも重く圧し掛かる。それを、今一度かみ締めていこうと考える作品です。
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