目撃していないから、警察や探し主に通報できない。時々捜索の警察官に呼び止められて聴取されるも「いや、見てないですねー。」がほとんど。だってそうでしょう。『他人事』なのですから。
自分の身に何らかの被害も被っていないから、人のことなんてどうでもいいんです。
でも、どんなに他人にとっては「どうでもいいこと」でも、被害にあった当事者にしてみれば、恐るべき事態なのかもしれません。
でも、結局『他人事』である限り、当事者の苦しみは結局当事者にしか分からないのです。
こういう社会現象は別につい最近発生したことではありませんが、9.11事件で、更に拍車がかかったのかもしれません。自分の安全すらまともに守れるかどうか分からない、常に『何か』に怯えなければならない世の中で、「誰かを気遣う、構う」暇なんてないのかもしれません。
けれどそれが『当たり前』になってしまうことこそが最も深刻だと思います。大した被害や苦痛を体験したわけではないのに、まだ自分以外に意識を発信する余裕があるのに、「今がこんな世の中だから、他人のことに構わないのは当たり前」なんて平気で思っている方が性質が悪い。
「自分のことは自分で」。確かにそうかもしれません。でも、人は本来弱いから、自分のできることには限りがあるから、自分に置かれている立場があまりにも苦しく辛い時にこそ、誰かに手を差し伸べてもらいたい、と、ほんの少しでも思うはずです。
その仕打ちが、罵声だったり、白い目で見られることだったりすることほど、酷く打ちのめされることはないでしょう。
また、僕は心理学者でもカウンセラーでもありませんので、人の「本当の嘘」を見抜くことはほぼ不可能に近いと思います。それも、切迫した状況で被害にあった当事者の深刻な言葉に、嘘を見抜くことはまず出来ないと思います。
嘘かもしれない。でも本当かもしれない。
少なくとも、当事者から「嘘」と言うまで、信じるしかないかもしれない。
「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい」ではありませんけど、極地に立たされた人間が出来上がったように嘘を述べるとは思えません。
また、目に見えることだけが、真実とも限りませんから。
この映画は、姿を消した娘を助けるために、母親が孤軍奮闘ながらも大胆な行動に出るサスペンス・アクションですが、同時に、今の社会に問題視される「他者とのコミュニケーション」についても考えさせられる映画だと思います。
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