「歌えなくなったら?」
生きていないわ。
この言葉が、まさに『エディット・ピアフ』を語る全て。
『シャンソン界の誇る大スター』。不勉強ながら、僕の中での彼女のイメージはそれしかありませんでした。しかし、そんな彼女の人生は、正に壮絶の一言。たくさんの親友や男性に取り囲まれた、華やかに彩られた時期もある一方、大事故や殺人事件の共犯疑惑、ドラッグ漬け、果ては最愛の恋人の無残なまでの喪失。そんな絶頂とどん底を繰り返しながらも、歌に表れるように決して後悔しない彼女の生き様は、まるで『炎』。『炎のように生きた女性』とは、正に彼女を指しているのではないのでしょうか。
『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』と同じように、音楽の世界に身を投じ、生き抜いてきた人物の物語。音楽の、とりわけシャンソンの世界で燦然と輝く『炎の花』。
そして、成功の裏に潜む闇の部分。でも、これは『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』とは大きく違う。レイ・チャールズやジョニー・キャッシュが歩んできた闇の部分、とりわけ過ちの部分は、とりわけ人間が人間であるが故の過ちが表に出たのが大きかった。歴史に『もし』とか『~たら、~れば』というのはありませんが、彼らの場合は、少しの譲歩があったなら、最悪な道は避けられたかもしれない。過ちを犯さなくてもよかったのかもしれない。でも、エディット・ピアフには、悲しいかな選ぶ余地もなく運命が巡る。たとえ証拠不十分で釈放されたとはいえ、一度殺人容疑がかかってしまえば、その汚名はいつまでも続く。自分で望んだことでも、自分で犯したことでもないのに、最愛の男性を飛行機事故で亡くす。まるで神が理不尽に奪い取ってしまうかのごとく。
そんな絶望の淵を幾度となく彷徨った彼女が、何度も不死鳥のように甦ったのは、類稀なる歌声を持っていたから。彼女にとって、『歌』は『生命』と同じ価値。彼女が彼女であるが故の『存在』と同じ価値。『歌』がなければ、彼女は存在しないことと同じになってしまう。
選択の余地を与えられずに壮絶な運命を投げつけられた彼女にとって、人生最大の選択は、「歌手としての人生を歩むかどうか」ではないのでしょうか。
歌うことも、恋をすることも、エディット・ピアフという人生の炎を燃やし続けるために、絶対に必要なこと。だから、身も心もボロボロになり、まだ50歳にも満たないのにまるで80歳や90歳のような老婆の姿は、まるで、全て燃やし尽くした、灰のような印象を受けました。それでも、「まだ何か燃え足りない」と突き詰めるほどの情熱は、一体どこから出てくるのでしょうか。
頂点に上り詰めたアーティストによくある、傍若無人で、我侭で、自分勝手で、多分普通の人付き合いの中で、お近づきになりたいとは遠く及ばない女性。だけど、それでも多くの人がエディット・ピアフを慕ってきたのは、暗い世の中でも決して後悔せずに生きようとする、『エディット・ピアフ』という『炎』に当てられ、世の暗さに冷え切ったその身を火照らせることができるから、なのではないのでしょうか。
それにしても。
主演を演じたマリオン・コティヤール、超美人なんですね! ビックリしました。あんな美人が、まるで老婆のような姿形を成して、本当に老婆であるかのように歩き、振舞うなんて!
そうと思えば、舞台に立って美声を披露する歌姫。本当に同一人物なの? と思ってしまうくらいの凄まじさを感じました。特にラストの、ボロボロになった身体を引きずってまで舞台に立ち、内側から魂を込めるかのように歌う姿は、その迫力のあまり筋がゾクッときました。
彼女もまた、エディット・ピアフの炎のような情熱に当てられた人の一人なのかもしれません。
冷えきった社会。そしてどこか冷え込む社会の中での色々な人間関係。
でも、本当は、火照るような熱を、人は欲しているような気がします。
エディット・ピアフのような、壮絶ではあるけれど決して後悔しない、燃えるよな人生は、そんな冷めて乾いた人間関係に満ちつつある今の社会に、本来人が持つ燃えるような情熱を運んでくるのかも知れません。
この言葉が、まさに『エディット・ピアフ』を語る全て。
『シャンソン界の誇る大スター』。不勉強ながら、僕の中での彼女のイメージはそれしかありませんでした。しかし、そんな彼女の人生は、正に壮絶の一言。たくさんの親友や男性に取り囲まれた、華やかに彩られた時期もある一方、大事故や殺人事件の共犯疑惑、ドラッグ漬け、果ては最愛の恋人の無残なまでの喪失。そんな絶頂とどん底を繰り返しながらも、歌に表れるように決して後悔しない彼女の生き様は、まるで『炎』。『炎のように生きた女性』とは、正に彼女を指しているのではないのでしょうか。
『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』と同じように、音楽の世界に身を投じ、生き抜いてきた人物の物語。音楽の、とりわけシャンソンの世界で燦然と輝く『炎の花』。
そして、成功の裏に潜む闇の部分。でも、これは『Ray』や『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』とは大きく違う。レイ・チャールズやジョニー・キャッシュが歩んできた闇の部分、とりわけ過ちの部分は、とりわけ人間が人間であるが故の過ちが表に出たのが大きかった。歴史に『もし』とか『~たら、~れば』というのはありませんが、彼らの場合は、少しの譲歩があったなら、最悪な道は避けられたかもしれない。過ちを犯さなくてもよかったのかもしれない。でも、エディット・ピアフには、悲しいかな選ぶ余地もなく運命が巡る。たとえ証拠不十分で釈放されたとはいえ、一度殺人容疑がかかってしまえば、その汚名はいつまでも続く。自分で望んだことでも、自分で犯したことでもないのに、最愛の男性を飛行機事故で亡くす。まるで神が理不尽に奪い取ってしまうかのごとく。
そんな絶望の淵を幾度となく彷徨った彼女が、何度も不死鳥のように甦ったのは、類稀なる歌声を持っていたから。彼女にとって、『歌』は『生命』と同じ価値。彼女が彼女であるが故の『存在』と同じ価値。『歌』がなければ、彼女は存在しないことと同じになってしまう。
選択の余地を与えられずに壮絶な運命を投げつけられた彼女にとって、人生最大の選択は、「歌手としての人生を歩むかどうか」ではないのでしょうか。
歌うことも、恋をすることも、エディット・ピアフという人生の炎を燃やし続けるために、絶対に必要なこと。だから、身も心もボロボロになり、まだ50歳にも満たないのにまるで80歳や90歳のような老婆の姿は、まるで、全て燃やし尽くした、灰のような印象を受けました。それでも、「まだ何か燃え足りない」と突き詰めるほどの情熱は、一体どこから出てくるのでしょうか。
頂点に上り詰めたアーティストによくある、傍若無人で、我侭で、自分勝手で、多分普通の人付き合いの中で、お近づきになりたいとは遠く及ばない女性。だけど、それでも多くの人がエディット・ピアフを慕ってきたのは、暗い世の中でも決して後悔せずに生きようとする、『エディット・ピアフ』という『炎』に当てられ、世の暗さに冷え切ったその身を火照らせることができるから、なのではないのでしょうか。
それにしても。
主演を演じたマリオン・コティヤール、超美人なんですね! ビックリしました。あんな美人が、まるで老婆のような姿形を成して、本当に老婆であるかのように歩き、振舞うなんて!
そうと思えば、舞台に立って美声を披露する歌姫。本当に同一人物なの? と思ってしまうくらいの凄まじさを感じました。特にラストの、ボロボロになった身体を引きずってまで舞台に立ち、内側から魂を込めるかのように歌う姿は、その迫力のあまり筋がゾクッときました。
彼女もまた、エディット・ピアフの炎のような情熱に当てられた人の一人なのかもしれません。
冷えきった社会。そしてどこか冷え込む社会の中での色々な人間関係。
でも、本当は、火照るような熱を、人は欲しているような気がします。
エディット・ピアフのような、壮絶ではあるけれど決して後悔しない、燃えるよな人生は、そんな冷めて乾いた人間関係に満ちつつある今の社会に、本来人が持つ燃えるような情熱を運んでくるのかも知れません。
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TBどうもありがとうございました。
おっしゃるように、ピアフの人生も、歌も、
「炎」のごとく壮絶な迫力がありました。
はかないところも、「炎」だったといえるかもしれません。
マリオン・コティヤールは、大熱演でしたね。
とてもよかったです。
すごく壮絶な人生でしたね。とても真似が出来る生き方ではありませんが
しかし、彼女のように、歌を奪われれば残るものは何もない、という境遇だからこそ、歌に全てを賭けるような生き方しかできなかったんでしょう。
傍から見れば不器用な生き方に見えますけれど、むしろそういう燃える生き方の方が、多くに人をひきつけるのかもしれません。
> こんにちは♪
> TBどうもありがとうございました。
>
> おっしゃるように、ピアフの人生も、歌も、
> 「炎」のごとく壮絶な迫力がありました。
> はかないところも、「炎」だったといえるかもしれません。
>
> マリオン・コティヤールは、大熱演でしたね。
> とてもよかったです。