決してエンターテインメントを追求したものではない。でも、多くの人に鑑賞してもらい、この時と、そして今の、社会の光と闇の狭間に生きる人達に観てもらいたいために、敢えて『高い視点』を繰り下げて作成したんだと思います。そういった意味で言えば、人と人との駆け引きやそれに惑わされ、転げまわる人々の喜怒哀楽に、若干の平淡さを感じるところがありますが。。。
今作の主人公は、渡辺謙さんが演じる、国民航空という巨大で世界中にネットワーク網を敷いている航空会社の社員。しかも、経営陣の天敵ともいうべき労働組合委員長・恩地元。
「会社を愛する社員のため」という彼の精神は、株式会社とはいえ半官半民体質(というかほとんど官)の役員にとっては目障りであり、左遷目的で海外の事務所を転々とさせられる。小説でも映画でも、始まりは、ほぼジャンボ機が墜落し500名以上の犠牲者を出した時から。それまでの海外勤務のシーン、彼の回想で進められる。日本に帰っても、彼は事故の究明や救援、遺族に対する支援等で転々とする。
そんな燦々たる事件を受け、旧態依然の態勢を立て直すべく、外部から会長に座する者が登場し、彼もその人の下で会社の建て直しに奔走する。そこで暴かれる様々な会社の闇の部分。でも、彼の必死さとは裏腹に、会社に蔓延る闇や腐敗は、止まることを知らない。
そんな主人公の、巨大組織の波にあがき、もがき、それでも懸命に奔走する、言わば『男の生き方』といえばカッチョイイ感じになると思いますが、僕は、この作品、主人公は二人いるのでは、と考えました。
一人は、前述の恩地元。ブレが無く、正義感が強く、自分の信じる道はとことん信じぬく。それが、どんなに茨の道であろうとも。それによって、傷ついたり、苦しんだりする人もいて、彼はその存在をよく知っていて、なるべく傷付けないようにしたいんだけれども… それも己のプライド故か、でも決して見て見ぬふりはしない。
もう一人は、彼と同じく労働組合で同じように「会社のために、社員のために」の意志を共にし闘ってきた、三浦友和さんが演じる行天四郎。ふとしたきっかけが、彼を変えてしまう。それは、夢にも見なかった栄転の人生。役員にまで出世。そのために彼が行った、数々の行動。根回し。時には他者の人生の歯車までをも狂わせる、汚れた手腕。
袂を分かった二人が歩んだそれぞれを道を、噛みしめるように観賞して思う。
彼らは、幸せだったのか。
彼らの選んだ道は、幸せへと続いたのだろうか。
彼らの演技なのか、それとも特殊効果なのか、それは分かりませんが、この両者が最も目を輝かせていたのは、労働組合で共に手を携えあって、会社という巨大な怪物を戦っていた時。でも、袂を分かち、それぞれの道を生きて、色んなものや金銭、経験を得たのでしょう。その代り、両者とも、目の輝きを失ってしまったように思うのです。
恩地元は、その意地からか、行天四郎は、その虚栄心からか。強大な流れに、しがみつくのも、成すがままに流れるのも、何としても逆らうのも、どれをとっても物凄いエネルギーが要る。彼らは、そのエネルギーの使用する。
たら、れば、なんてどこにも存在しないけれど、この作品を観賞してさらに思うこと。
どんな道であれ、方向性であれ、彼らが取った行動には殊更エネルギーが必要なこと。ならば、労働組合の時のように、彼らが、互いに手を取り合って、企業の改革に乗り出したら、どうなっていただろうか。
そして、恩地と行天、それぞれがそれぞれの道を『真逆』に、言わば、生き方を交換するような形で人生を送っていたら、一体どうなっていただろうか。
もっと欲を申し上げましたら、渡辺謙さんと三浦友和さん、逆の立場で演じていたら、どんな作品になっていたのだろうか、とか。
でも、最後の方のシーン、恩地元が、ジャンボ機墜落事故で、息子夫婦と孫を失った、宇津井健さんが演じた遺族・阪口清一郎に宛てた手紙の中の一節(ざっくり目の覚えで申し訳ない)。
「私がこれまで感じた理不尽を100倍にしても、貴方の苦しみや悲しみには遠く及ばない」
恩地も、行天も、それぞれの結末は、彼らが「選んだ」が故。
遺族の方々は、何故大切な人が死んだのか、その選択肢すら与えられなかった。突然突き付けられた、身をも引き裂くような苦痛。何か犯罪を犯したわけでもない。それまで犯した大なり小なりの罰則にも値しない痛烈な想い。それを「選んだ」わけでもないのに、それは突然やってくる。
「人生は長い」とよく言われる。でも、その人の人生が長いって誰が決めた? 誰が分かる? 明日、突然打ち切られるのかもしれないのに。
理不尽だらけの社会。戦うのもいい。流されるのもいい。どちらにもメリットはあり、どちらにもデメリットがある。たとえその後に来るものが理不尽だとしても、それがその『選んだ結果』なのですから。世の中には、選ぶことさえ叶わず、歯車を狂わされた者だっているのだから。
この人間社会で最も不幸なことは、『選ぶことさえ出来ない』、そんなことを感じさせる一作のように思いました。
PR
「『風の谷のナウシカ』などで知られるアニメ監督、宮崎駿さんが、今日、搬送先の病院で心不全のため亡くなりました」
という、NHKばりの無機質なニュース番組の夢を見て、速攻で跳び起き、Yahoo!ニュースを確認してしまいました。
はい、大丈夫です。監督は御存命でいらっしゃいます。
それにしても、夢オチにしては生々しすぎる。。。
宮崎アニメの一ファンであるだけに、夢とはいえ本気でビビりました。
という、NHKばりの無機質なニュース番組の夢を見て、速攻で跳び起き、Yahoo!ニュースを確認してしまいました。
はい、大丈夫です。監督は御存命でいらっしゃいます。
それにしても、夢オチにしては生々しすぎる。。。
宮崎アニメの一ファンであるだけに、夢とはいえ本気でビビりました。
と、尊敬している人から言われたのが1か月前。
他者に対する評価や見方が、贔屓無く且つシビアな彼からの辛辣な一言だからこそ、単なる感情による一言ではなく、何らかの原因があったこその一言。
基本的に僕は、一晩グッスリ寝ればスッキリ忘れられるタイプではなく、悶々と考え込んでしまう人間。よく図太いって言われるけど、1か月も引きずる人間のどこら辺が図太いんだろう、と思ってしまう。
でも、一つだけ確実な事実があるとすれば、それは「何くそ、見返してやりたい」が、本質的に、根本的に欠けていること。むしろ「無い」と言っても過言ではないくらい。基本的に負けず嫌いなので、『見返してギャフンと言わせる』ことに、快感を超えて恍惚まで感じる僕なのに。
多分、『見返す』ということで解決するとか、少なくとも自分の中で決着がつくとか、そういう領域すらも遠く離れてしまっているのだ。
その、『主体性のない自分』というもののために。
僕の中で占められている思考は、「大丈夫、何とかなる」ではなく、「大丈夫、誰かが何とかしてくれる」なのだ。
世の中、自分独りで全て出来るわけがない。それぞれに役割があり、それぞれに能力があり、それが一つとなって、大きな力となって、組織となって、社会となって成立する。生きている。
恐らく僕は、世界で一番、このことの本質を理解していない人間だと思う。表層的なところだけ理解している、超がつくくらいの頭でっかち。
自分のことなのに、自分で理解してない。理解しようとしない。今がこういう状況だから、こうしたい、という意志がない。
他人に決めてもらったことの尻馬に乗っかっているだけ。その方が楽だから。だからといって、他の人を見ようとしていないわけじゃない。むしろ、鬱陶しいと思われるくらい、どちらかというと過保護に人を見ている。「自分のことより、他の人をことを!」っていうと、いかにも献身的で利他主義に思われるが、結局のところ、嫌われるのが怖いだけ。自分の居場所がなくなるのが怖いだけ。必要でないと言われるのが怖いだけなのだ。
このBlogで、色んなことを挙げ連ねてきたけれど、結局は変わっていない。ただ逃げて逃げて、自分に降りかかる色んな難関から背をそむけて、そのくせ他者に対して人一倍臆病で、他者が敷いてくれたレールに乗っかって実績出して、「これは●●さんが最初に発案したものですから、功績は●●さんに」なんて偽善にもほどがある言葉を押し並べて。
一体、何をやっているんだろう。僕は。
そんな時、このムック本に出会った。
この本は、表紙を飾る押切もえさんが、今をときめく様々な著名人に、30歳もしくは30代のことをインタビューしたもの。もしくは、今が脂ののっている30歳(もしくは30代前半)の、今について語っているのも。
それぞれが、それぞれの中でもがき苦しみながら、今を強く生き抜こうとしていることがある。そんな人たちには、『自分探し』だの、『自分らしさ』だのはほとんど無用。ものすごいマイナスファクターの中で生きてきた30代であったとしても、それも『自分』なのだから。
「色んなもの、色んな事にチャレンジを!」
っていうけど、ここでもまた一つ思うこと。多分僕は、世界で最も『チャレンジの仕方を知らない』人間なのかもしれない。いや、絶対そうだと思う。失敗することよりも、その見返りが「見放された」り「居場所が無くなった」りが怖いから、なのだ。
世の中、そんな甘いことだらけで済まされるわけがない、ってことを知りながら。
誰かを不幸にしても、誰かに苦痛を与えても、誰かに苦労をかけても、成し遂げたいこと、本当にあるのだろうか?
もしそれを見つけることが出来ても、逃げずに向き合って、前を向いて走ることができるだろうか?
でも、そんな甘い戯言でも、『無理だ』と言った瞬間に不可能になってしまう気がする。戯言でも青臭いことでも、やればそれは現実となり、可能となり、事例となるのだから。
暗中模索の日々は、今尚まだ続いている。取り敢えず、「30にもなってまだ自分のことが決められないの?」と言われても無視するようにする。「そうですが、それが何か?」と言い返せるくらいの度胸と度量が必要だなぁ、と。
人間の都合で追われた獣の住処など、人間に用意できるのか。
人間の都合で壊された自然の摂理など、人間に戻せるのか。
一度壊れたものは、例えそれが何であれ、有形無形のものであれ、元に戻すことは出来ない。もしくは困難を極める。人間が人間の手によって作り出されたものでさえそうなのに、自然が、大地が、地球が、宇宙が作り出したものを、人間が? 人知を超えた『自然』という大いなる力を持つ存在が、何万年、何億年かけてようやく作り上げた摂理を、たかだか数万年程度の歴史しか持たない人類が?
大人になって観直す第二作は、『もののけ姫』。
村を守る目的とはいえ、タタリ神に刃を向けた少年アシタカは、タタリ神の呪いを受ける。呪いを解く方法、そしてその後の運命を見定めるために西の方へ旅立ち、そこで出会ったのは、森を開拓し鉄を以て武器や生活道具を作るタタラの民と、森の山犬に育てられた人間の少女サン。そして、さらなる豊かさを求めるために森の開拓を推し進め、さらにはその神まで手に掛けんとする人間と、自分たちに生と死の摂理の厳しさと優しさを教えた、大切な住処である獣たちの、血で血を洗う戦い。
自然と人工。
神と人間。
有史以来、延々と繰り広げられた戦いは、絶えることなく続いている。エデンの楽園で知恵の実を口にしたその時から、人間の『神気取り』は止むことがない。
その『神気取り』のおかげで、人間はこれまでにどれだけの報いを被った? バベルの塔を建て、神の御座に近づこうとしたから、神の雷に打たれ、塔は破壊され、共通の言葉を失った。事実・伝説如何を問わず、その報いは枚挙に暇がないはず。
どんなに打ちひしがれても、挫折に見舞われても、立ち上がり、這い上がる力と知恵を持っているのに何故
そして、人間の『神気取り』は、今もなお続いている。自然と大地の畏敬の前に、人間の手で自然と大地を守ろうとしている。しかしその実は、結局は人間の欲と利権の取引の材料とでしか見ていない。それは、彼らに人間ほどの力や知恵がないから? ならば、人間以上の力や知恵がある存在が登場すれば、人間は、彼らに自分たちが「取引される」ことを、容認するのだろうか?
この作品は、自然や動物の擬人化である。本当にこんなことが実際に起こるのはあり得ない。でも、これまで人間が壊してきた『存在』や、破壊の『歴史』を凝縮すると、こうなるのだろう。
この作品も、『風の谷のナウシカ』と同じように、人間による支配欲が大いなる代価に飲み込まれる(シシ神による森と自然の破壊(=死))を表している。しかし、大きく違うところは、この作品の人間も、生きることにどこか必死さを感じる。勧善懲悪の悪側に立つ存在ではない。ただ、その人間の生き行く道標や矛先を見誤ってしまっただけなのかもしれない。
大きく見れば自然、地球、宇宙、小さく見れば獣、微生物、これらは人間と違い、ものを言わない。どこが苦しいのか、どこが痛いのか、それを言葉にする手立てはない。それはきっと、宇宙の摂理に組み込まれた者たちの運命なのかもしれない。幸か不幸か、『知恵』を付けたがゆえに、人間は宇宙の摂理から少し離れた存在にいる。宇宙の摂理を僅かながら俯瞰視する能力を持っている。
その代価、という意味であれば、もう、宇宙の摂理の一部に組み込まれる、元に戻ることが出来ない、というところか。
だからなのだろう、結局のところ、『神気取り』とはいえ、それらの存在の未来の選択権は、人間が握っている。
但し、それに対する報いは、ものすごく無機質で、ものすごく荒っぽく、容赦しない。それが恩恵であれ、神罰であれ。
そして壊されたものを元に戻すことは、ほぼ不可能に近いけれど、それがゆえに、新たな方向に立て直すことができる。これもやっぱり人間が持つ選択権の行方に委ねられ、その報いも同様だ。アシタカとサンの絆と同じように。
未来はまだ、決まっていない。
私たちは、これから先、どんな未来を選ぶのだろうか。そして、選んだ先に見える世界、そのために支払うべき代償は何だろうか。
全ての存在が幸せになれる未来は決してあり得ないけれど、一つでも多くの存在が幸せになれる未来の選択肢を見出していかなければ、と思う。
しかし、たとえ王者になっても、気が止むことがない。その王者の座を虎視眈々と狙うために、さらなる抗争が繰り広げられる。力づくでねじ伏せる者、狡猾に巧みに奪う者。じっと機会を待ち続けて掻っ攫う者。
止むことのない抗争の果てに遺されたのは、そのために支払われた代価。無残な残骸。「何のための支配なのか」。その目的をも忘れた者につきつけられる現実。それでも、生命ある存在は、誰かに対する何かに対する支配の欲を消すことが出来ない。
それは、脈々と続いた本能なのか。それによって失う代価が如何に大切かを知りながら、何故繰り返してしまうのか。憎悪を復讐の念に駆られた少女の手に持つ剣には、まるでそれを示すかのように、切りつけてしまった大切な人の鮮血が滴り落ちる。
もし、人の身に負い切れぬ程の代価を支払わなければならないほどの支配欲に駆られた時、人はどうするのだろうか。どのような選択を迫られるのだろうか。
大人になって観直す第一作は、『風の谷のナウシカ』。
人間が生み出す科学の力は、やがて人間が背負いきれぬ代価を支払う羽目になろうとも、その『支配欲』がために見失った戦争が引き起こされた。『炎の七日間』。そしてその代償が、瘴気ガスの蔓延する腐海の森林。準備をせずに入れば、たちまち有毒の菌やガスに肺を侵され、死に至る。それでもなお、人はその代価に背を向けるように、腐海を焼き払うための活動や、そのための支配勢力拡大を目論む。どんな犠牲を支払っても。トルメキアとペジテのように。
風の谷に住む民は、もはや人間と腐海が交わることがない、と知っている。だから、必要以上に近づこうとしないし、畏敬というより畏怖をもって腐海と接している。それでも、交わる道がないか、必死で手繰る者もいる。それが、どんな危険を孕んでいようとも。何せ相手は、人間が人間として背負いきれない代価なのだから。
僕は、この作品を子供のころ観た時は、よく分からなかった。人間は恐ろしい力を使って、他をねじ伏せてしまおうとすること、それが「=悪」という、ざっくりとした感想で、そこに生きる者たちの関係性や想いといったものが、うまく見つけられなかった。
でも、今見るとわかる。支配欲に駆られた者たちは、誰一人とっても、切迫していない。たとえそれが、トルメキアによって滅ぼされたペジテの人達も。怯えた表情でありながらも、切迫した空気が伝わらない。まるで、その支配欲はある意味人間行動の『余暇』のようにも思える。
そう言えば、『華氏911』で強烈に覚えているシーンとして、イラク戦争に赴くアメリカ兵士の一言。音楽を聴きながら人を殺す。
なるほど、結局のところ、文明を極めた人間の『支配』とは、動植物界のそれとは異なり、道楽の一つになっているのかもしれない。生きながらえるための、子孫を残すための『支配』じゃない。快楽の手段としての『支配』。快楽のために、今日もまたどこかで、人の生命が消えている。
そのために背負わされる代価に、目を向けたことはあるの? それがどれだけの重みがあるかが分かるの?
自然との共生、宇宙の摂理の大切さ、戦争の虚しさ。様々な想いがこの作品に込められている。
僕はその中で観たのは、人間の持つ強欲の果てと、その代償の重さだ。たとえそれが人間の余暇にすぎない欲求だとしても、それによって生じる代価が背負いきれるものなのだろうか。巨神兵を復活させるのに、どれだけの代価が必要か。巨神兵による破壊を復活させるために、どれだけの代価が必要か。それは、人間の『余暇』による強欲で収まりきるのだろうか。
宮崎駿監督は、この作品を結ぶにあたり影響を受けた事件として、ユーゴスラビア内戦を挙げたという。人と人との争いに、血と死肉の腐臭が漂う場所と化してしまった行為に、飽きると思ったら飽きていない。どんな正義や大義名分があろうとも、戦争は繰り返されると、長期化されると、腐っていく、と。
腐った正義。腐った大義名分。
それもそのはず。だって、快楽のための『支配』だから。その快楽そのものが腐っているに違いない。
知恵を付けたその果てが、腐っていくこととは。結局は何の進化なのだろうか。
進化の行く先は、腐っていくことなのだろうか。私たちは、腐るために進化するのだろうか。
『支配』は全ての生物における欲求であり、衝動である。そして全ての生物は、その『支配欲』に対する代価を支払って生きている。
人間社会を含め、この世界に、絶対たる平等など存在しない。誰かが、誰かに、何かに対し、支配していること、優位であることを求めずにはいられない。そして、それを成した時に生ずる代価や報いに、責任を取らなければならない。それが、人間が『人間』として生きるに必要なものを欲しているのであれば。
最後に。
ナウシカが最後の場面で取った行動は、正しくもあり、間違っているとも思う。
生命の代価は、生命で償う。しかし、たとえ生命で償っても、死んだ人間は、遺された人たちの悲しみや苦しみまでを補うことは出来ない(結局は死ななかったけれど)。
独りで戦わないで。独りで背負わないで。払うべき代価を支払うのは、もはや、貴方だけではないのだから。