ニューヨークを駆け巡る超人ヒーロー『スパイダーマン』の誕生は、同時に有り余る力のあまり自分自身に不運が襲い掛かります。どれだけ『正義』のために戦っても、皆が皆救われるとは限らない。どこかで、誰かが不幸な目に合い、それを垣間見て自分が傷つく。
VFXを駆使した壮大で派手な演出ながらも、手に汗を握り、片時も眼が離せない『ヒーロー物』の映画は、観る人全てを魅了し、ワクワクさせますが、この映画は他の映画とは一線を画しています。
それは、ヒーローの心が『子供だから』ということ。
もちろん、『ガキっぽい』という意味ではありません。『青臭い』とでもいいましょうか。
「自分が強盗を助けたことが原因で、ここまで育ててくれた叔父が殺されてしまった。
もう叔父のような、普通に暮らす人を不幸な目に合わせたくない。
自分が得た力は、正義のために、正しいことに使わなくては」
そう考えた当初は、まだ、その力がどれだけ『危険』を伴うか分からなかったのでしょう。純粋な気持ちだけが先走って、どのような『反動』が待ち受けているのか、ということに。
勿論、得た『力』は、それに溺れ、驕り昂ぶることなく、世のため人のために使うことに間違いはありません。が、『力』には必ずその『反動』がくる。その『力』を行使した『責任』という形で。
自分の正体がバレた時、大切な人が迷惑を被るのではないか。
たとえ悪を滅ぼしたとしても、それが純然たる悪でなかったら?
それを滅ぼしたことで、悲しむ人もいるのでは?
この映画は、単純な正義対悪という構図の映画だけではなく、『力』を得た青年が、その『力』を行使することによって、だんだんと『大人』になっていく映画です。
自分が得た『力』で、皆が幸せになるとは限らない。
でも、それでも少しでも不幸な人を減らすことが出来れば。
まだまだ自身に『青臭さ』が残るものの、割り切れるような考え方ができないものの、一つ一つ『大人』の階段を上る。そうして、『力』に対する『責任』を理解していく。これは、そんなメッセージを投げかける物語です。
普段通りの、真夜中のロサンゼルス。客を乗せては降ろし、乗せては降ろしの繰り返し。退屈だと思いながらも、同時に「これでいい」と妥協している自分がいる。変わらない日常を、敢えて変える必要は無い。自分の夢を、自分の目標を、上っ面の口上のように垂れながら。まるで自分への言い訳だ。
そんな運命が突然変わることを、一体誰が信じる? もう夢を叶えるような年じゃあ無い。ましてや、夢を見るような年なんて。そもそも自分の運命なんて、こんなもんだと思っていた矢先だ。しかもそれが、殺し屋によるものだなんて。そしてその殺し屋に、『運命が変わる』ことについて講釈垂れられたなんて、誰が信じる? 誰も信じやしない。
だがそれでも、俺は変わった。上っ面なんてほとんど変わっちゃいないが、自分の手に染まる血が、否応無くそう感じさせる。ほんの数時間前の俺から見れば、全くもって予想だにしないことだ。
今までの俺は、所詮『逃げ』だ。口上だけ饒舌になって、一度たりとも行動に移したりしやしない。一日数回の南国の写真の癒しだって、所詮それは逃避行に過ぎない。だってそうだろう? 所詮癒しは5分間。その後は反吐を吐くぐらいの現実の数々だ。特に誰にも無関心のこの街じゃ、もう吐き捨てる場所なんて、どこにも無いがな。
逃げて逃げて、逃げ遂せて。最終的にどこにたどり着く。どこにもたどり着けやしない。だったら何で自分はこっちに逃げる? 楽だからだ。何も考えなくていいから。ローリスク・ローリターン。所詮は変化なしという麻薬付けの毎日さ。
俺は奴のようになりたかったのかもしれない。決して殺し屋になりたい、だなんて思っちゃいないが。
だがそれでも、奴がいなければ、俺は次の日も、その次の日も、単に客に自分の口上を垂れて、無駄な逃避行に時間を潰していたんだろうな。奴が殺した人間なんて、俺にとっては所詮新聞の一面を飾る記事に過ぎない。次の日になっていれば、頭の片隅にすら残っていないだろう。
所詮、それは奴も同じだ。奴にとって、殺しはビジネスだ。人を殺せば金が貰える。奴にとって人の命なんて、その程度の価値しかない。
言うなれば、方向性は違えど、奴も俺と同じ穴の狢。
奴はイカれた野郎という以外、自分というものに麻痺している上では俺と同じだ。
そんな奴が、俺に説教を垂れる。そこで何故俺を選んだんだろう?
俺以上に金に貪欲で、人殺しだろうが何だろうが、他人のことに口出しなんてしない奴だっている。そいつに頼めば、スムーズに行けただろうに。
よりにもよって、俺とはな。
まあ、だからこそ、俺も『自分から運命を変える』ということを、身に沁みて知ることが出来たわけだが。
所詮、世界に生きる人間は皆、One of Themだ。誰も彼も主役になんてなりえない。
思うのは勝手だ
そう。思うのは勝手だが、思うだけと、行動に移す奴とは、やっぱり違う。
奴は自分には鈍感だが、他人には敏感だった。
何も行動しない俺を、ただの哀れみの眼でしか観なかった。「所詮こいつも、One of Themか」と。
他人にかまけてる殺し屋なんて、殺し屋失格じゃないのか?
まあ、今となっちゃどうでもいいことだ。
俺は奴が嫌いだったが、それでも感謝はしているんだぜ?
こんな俺に対してでも、「口上垂れる暇があったら行動に移せ!」と背中を押してくれたのは、奴だったんだからな。
発行元が●同通信ということで、
「共●通信もやるなぁ、こんなキワドイ内容のアンケートやるなんて」と思ってたら、
1位:携帯電話
2位:化粧品
3位:鍵 etc...
という、僕の予想を大きく裏切る超健全な内容でした。
ちなみに僕の予想はというと…
1位:拘束具セット
2位:イメクラ用コスプレ製品
3位:盗撮用監視カメラ etc...
……というのでは(45%くらいの確率で)ないですのでご安心を。
※ちなみに回答者は保護者1308人だって。 ちっ、つまんねー。
CGのロボットとはいえ、映像はすごく綺麗で臨場感溢れているし、人間に従うべきロボットが、超越した人工知能で逆に支配する。その過程もお決まりなものではなく、あくまで「人間を守る」という立場での人間の支配という、予想にもしなかった物語。
ハリウッドが好む近未来映画として、見飽きるくらいの最新テクノロジーをバンバン使っているのに、それでも回数を重ねて観てしまうのは、この映画ならではの魅力が他にもいくつかあるからだと思います。
一つは、言うまでも無くサスペンスフルな物語だと考えます。
諸悪の根源の鍵を握る人物が、諸悪の根源に24時間監視される中で、如何にして手がかりを残すか。その手がかりを探り、解決に導くための『道筋』を、どう伝えてやるか。
世の中の全員が、「ロボット万歳」「ロボットが反乱を起こすなんて考えられない」という、ある意味真っ当な考えが麻痺された社会の中で、それでも、事件を解決するために『疑ってかかれ』というは、映画の中での登場人物から観れば、相当ハズレたアウトローにしか見えないでしょう。でも、それくらいの思考でないと、本当の『道筋』は見えてこない。
人間が生み出した人工知能の進化は、いずれ人間を滅ぼす仇になる。その危険網を掻い潜って一つ一つ謎を解き明かすところに、単純なアクション映画には見られないエッセンスがあったのだと考えます。
もう一つは、一番興味深い『人工知能』。
ただ単に、人間よりも高い知能と強い力を手に入れ、人間をねじ伏せる形て支配する、というところではなく、理論的に、人類の繁栄を考えた形で、人間を支配する。その目的を果たすために、多少の犠牲も厭わない。
前にも申し上げましたが、人間が追い求めた『人工知能の進化』が、大きな牙となって人間に襲い掛かる。
「自分で考える事が出来る」ロボットは、果たして、人類の味方となるか、それとも敵となるか。
はたまた、映画に出てくる三原則
1.人間を傷つけたり殺してはならない
2.1.に反しない限り、人間に従わなければならない
3.1.2.に反しない限り、ロボットは自身を守らなければならない
だけを愚直に守るようなロボットで終わらせるのか。
ロボット技術は、日々進化しています。既に鉄腕アトムの誕生日を過ぎても、鉄腕アトムに匹敵するロボットは生まれていませんが、ゆくゆくは、そんな高性能高知能のロボットが大量に開発されてもおかしくないと思います。
ロボットは、本来、人間社会を豊にしてくれる存在であるはず。
探究心が、やがて悪意になり、その悪意がロボットに伝染し、ロボットが世界を蹂躙することになったって、おかしくないと思ってしまいます。
テクノロジーの進化は、『人間の進化』そのものも問われているのですから。
そりゃプレゼントを運んでくるサンタさんがガイコツだったら、誰だって悪夢だって思いますがな。
僕だったら、その時点でサンタさんの存在を全否定するかもしれません。ナイトメアで済まされる問題ではなくなるかもね。
ティム・バートン監督が送る、ストップモーション・アニメ映画の代表作。キモかわいい個性的なキャラクターが、闇の世界でありながらも陽気に楽しく暮らしている、というだけでも面白い映画です。しかし、それにも関わらず、「人は必ず何らかの役目や使命がある」という、アイデンティティや役割といったメッセージを織り込んでいる、というのも、この映画の魅力ではないかと。
ハロウィンとクリスマス。どちらも子供たちにとっては大人気の行事。でも、ハロウィンに出てくるカボチャのオバケとかが、クリスマスに出没したら怖いでしょう? それぞれの行事の登場人物には、それぞれの役割があるのだよ、と、子供たちに説く上でもいい材料なのかもしれません。
クリスマスに「Trick or Treat !」と叫びながら、プレゼント代わりにお菓子を強奪というのも、オツなのかもしれませんが(違う)
そもそも宗教が違いますしね。ハロウィンは古代ケルト族のドゥルイド教、クリスマスは紛れも無くキリスト教ですから。
この時代、コンピュータ・グラフィックスという概念が生まれ、使われ始めようとする時期でありつつも、積極的に映画に使おうとするにはまだまだコストも高く技術者も非常に少ない時期。そんな中でのストップモーション・アニメ制作は、正に熾烈を極める作業だったに違いありません。
それでも、登場するキャラクター一人一人の質感を見ると、滑らかさこそ当時の『人形の動きの限界』を思わせつつも、人間に操られているのではなく、人形そのものが意思を持って動いているような、そんな感覚を覚えます。
今までのアニメといえば、専ら2次元で表現されるものでしたが、こういう人形劇が織り成すアニメーションというのも、また一つのアニメーション映画の楽しみなのかもしれません。
