宮崎駿氏の長男である宮崎吾朗氏の処女作。
監督業はおろか、アニメ作品ですら初めてという彼に、不安の声が多数上がったのは言うまでも無く、しかも父・駿氏に大反対され、一時期は絶縁状態までになったとか。さしずめ、宮崎駿氏は海原雄山、宮崎吾朗氏は山岡士郎という感じですか。
勿論、僕もある意味不安を抱いていました。世界三大ファンタジーの一つとも言われている『ゲド戦記』を、何もかもが初めての人に任せてもいいのだろうか。また、某掲示板では、試写会で鑑賞したこの映画を酷評していました。「ジブリの名を汚した」とか、「父親の足元にも及ばない」とか。
確かに、今までのジブリ作品とは一線を画しています。全体的に暗いし、ドキドキやワクワクもあまりない。冒険スペクタクルのような要素はほとんど見られないし、格別目を引くキャラクターもいない。
観方によっては、ジブリブランドを壊された、とも言えなくも無いでしょう。
けれど、この映画には、単に現代社会の影の部分を反映しているだけでなく、『宮崎吾朗氏そのもの』を出しているのだと思います。乱暴な言い方をすると、『自己顕示欲』という言葉になってしまいますが、決してネガティブな方向ではなく、自身を社会に対するアピール、むしろ、『叫び』とも受け取れます。
「僕は『宮崎駿の息子』じゃない! 僕は『宮崎吾朗』なんだ!」というふうに。
他人の口から言えたことではありませんが、今まで彼は、本当に苦しんでいたのではないのでしょうか。
どこに言っても、誰に会っても、『宮崎駿の息子さん』。
偉大な父親を持ってしまったが故の苦痛。正に、登場人物である『アレン』は、ご自身をそのまま反映しているのではないかと思いました。
「父親を殺してしまった
いつも不安で、自身がないんだ」
悪夢にうなされるアレン。いつも自身の影に怯えているアレン。
自分がどんなふうに監督として指揮しても、自分がどんなアニメを作り上げようとしても、結局皆、父親と比較する。『比較される』という『悪夢』は、形は違えど、アレンの見る悪夢にも重なります。
宮崎吾朗氏がこの作品を選んだのは、アレンの境遇が自分に似ていたからだけではなく、アレンを通して、「自分を知って欲しい」と考えたから、だと思います。
彼も、きっと自分自身の持つインスピレーションをフルに活かした映画を作りたかったのかもしれません。でも、そのためには、まず、『宮崎吾朗』という人となりを知ってもらう事。そして、何かに、誰かにコンプレックスを持ち続けて自分を投げ遣りにするより、もう一度自分自身で『自分自身』を確かめる事。そういうことを、観客に伝えたかったのかもしれません。
そういう意味では、題材は別に『ゲド戦記』でなくても良かったのですが、今の自分の心情をストレートに伝えるためには、この映画が最適だったんだと思います。
この映画から、宮崎吾朗氏の宮崎吾朗氏たる『心意気』が感じられます。
純然たるエンターテインメントとはいえず、荒削りではありますが、純粋で、素直な魂を注いでいる映画です。彼の今後の足がかりとなる作品になるのは間違いないと思います。
次は、もっと翼を広げて、のびのびと、彼のインスピレーションを思う存分活かした作品が生まれることでしょう。
監督業はおろか、アニメ作品ですら初めてという彼に、不安の声が多数上がったのは言うまでも無く、しかも父・駿氏に大反対され、一時期は絶縁状態までになったとか。さしずめ、宮崎駿氏は海原雄山、宮崎吾朗氏は山岡士郎という感じですか。
勿論、僕もある意味不安を抱いていました。世界三大ファンタジーの一つとも言われている『ゲド戦記』を、何もかもが初めての人に任せてもいいのだろうか。また、某掲示板では、試写会で鑑賞したこの映画を酷評していました。「ジブリの名を汚した」とか、「父親の足元にも及ばない」とか。
確かに、今までのジブリ作品とは一線を画しています。全体的に暗いし、ドキドキやワクワクもあまりない。冒険スペクタクルのような要素はほとんど見られないし、格別目を引くキャラクターもいない。
観方によっては、ジブリブランドを壊された、とも言えなくも無いでしょう。
けれど、この映画には、単に現代社会の影の部分を反映しているだけでなく、『宮崎吾朗氏そのもの』を出しているのだと思います。乱暴な言い方をすると、『自己顕示欲』という言葉になってしまいますが、決してネガティブな方向ではなく、自身を社会に対するアピール、むしろ、『叫び』とも受け取れます。
「僕は『宮崎駿の息子』じゃない! 僕は『宮崎吾朗』なんだ!」というふうに。
他人の口から言えたことではありませんが、今まで彼は、本当に苦しんでいたのではないのでしょうか。
どこに言っても、誰に会っても、『宮崎駿の息子さん』。
偉大な父親を持ってしまったが故の苦痛。正に、登場人物である『アレン』は、ご自身をそのまま反映しているのではないかと思いました。
「父親を殺してしまった
いつも不安で、自身がないんだ」
悪夢にうなされるアレン。いつも自身の影に怯えているアレン。
自分がどんなふうに監督として指揮しても、自分がどんなアニメを作り上げようとしても、結局皆、父親と比較する。『比較される』という『悪夢』は、形は違えど、アレンの見る悪夢にも重なります。
宮崎吾朗氏がこの作品を選んだのは、アレンの境遇が自分に似ていたからだけではなく、アレンを通して、「自分を知って欲しい」と考えたから、だと思います。
彼も、きっと自分自身の持つインスピレーションをフルに活かした映画を作りたかったのかもしれません。でも、そのためには、まず、『宮崎吾朗』という人となりを知ってもらう事。そして、何かに、誰かにコンプレックスを持ち続けて自分を投げ遣りにするより、もう一度自分自身で『自分自身』を確かめる事。そういうことを、観客に伝えたかったのかもしれません。
そういう意味では、題材は別に『ゲド戦記』でなくても良かったのですが、今の自分の心情をストレートに伝えるためには、この映画が最適だったんだと思います。
この映画から、宮崎吾朗氏の宮崎吾朗氏たる『心意気』が感じられます。
純然たるエンターテインメントとはいえず、荒削りではありますが、純粋で、素直な魂を注いでいる映画です。彼の今後の足がかりとなる作品になるのは間違いないと思います。
次は、もっと翼を広げて、のびのびと、彼のインスピレーションを思う存分活かした作品が生まれることでしょう。
確かに、映画は『エンターテインメント』の媒体ですから、エンターテインメントの作品として仕上がっていないこの作品を酷評するのは、まぁ、分からないでもありません。
そのへんは、宮崎吾朗氏がどのように考えていたのかは分かりません。「エンターテインメントを出す」のが先か、「自分の本当の姿を出す」のが先か。
しかも、世間の目は皆、『宮崎駿の息子』として見ているのであり、『ジブリ作品』として見ているのであり、尚且つ『ゲド戦記』として見ている。ほとんど一発勝負と言えなくもないプレッシャー。
それでも、彼は逃げなかった。こんな重圧に圧殺されてしまいそうな環境下で。
それだけでも、この映画の持つ『力』は十分です。
海原雄山に対抗できるのは、山岡士郎だけであるのと同じように、宮崎駿氏に対抗できるのは、宮崎吾朗氏だけなのかもしれません。
まあ、「映画はあくまでエンターテインメントだ! 監督の想いを強いるなんてけしからん!」と言ってしまえばそれまでなんですがね……
難しいところです。
そのへんは、宮崎吾朗氏がどのように考えていたのかは分かりません。「エンターテインメントを出す」のが先か、「自分の本当の姿を出す」のが先か。
しかも、世間の目は皆、『宮崎駿の息子』として見ているのであり、『ジブリ作品』として見ているのであり、尚且つ『ゲド戦記』として見ている。ほとんど一発勝負と言えなくもないプレッシャー。
それでも、彼は逃げなかった。こんな重圧に圧殺されてしまいそうな環境下で。
それだけでも、この映画の持つ『力』は十分です。
海原雄山に対抗できるのは、山岡士郎だけであるのと同じように、宮崎駿氏に対抗できるのは、宮崎吾朗氏だけなのかもしれません。
まあ、「映画はあくまでエンターテインメントだ! 監督の想いを強いるなんてけしからん!」と言ってしまえばそれまでなんですがね……
難しいところです。
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